致さない宣言
「これだけ人数が増えると……葡萄酒だけじゃ足りそうにありませんね」
「そ、そうだねぇ……」
「他の酒と、あとはちょっとしたツマミも用意しましょうか」
元々、おりょうさんもワインは味見程度のつもりだっただろうから、各自に軽く一杯ずつ行き渡れば良いのだとは思うが、集まったのはそれなりに飲める人達なので、一杯だけで終わりという事にはならないだろう。
「あたしも手伝うよ。って事で皆さんには、ちょいとお待ち頂きますよ」
「姐さん。あんまり待たせないでくれよ」
「正恒の旦那は、せっかちだねぇ」
おりょうさんは正恒さんの軽口を、悠然と微笑みながらあしらった。
「姐さん。俺も手伝おう」
「私もお手伝い致します」
おりょうさんと、手伝いを申し出てくれた白ちゃんと天后と一緒に厨房に向かった。
「買い置きの清酒と蜂蜜酒でいいか。ツマミは葡萄酒なら、乾酪かな?」
「酒の方はあたしが用意するから、ツマミは良太に任せるよ。白と天后さんは、食器と酒器を運んで貰おうかねぇ」
「承知した」
「畏まりました」
テキパキとしたおりょうさんの指示に従って、白ちゃんと天后が動き回っている。
「ん? なんか随分と、手の掛かりそうな料理を作ってるねぇ」
「切って軽く炒めて煮るだけですから、そうでも無いですよ」
俺が玉ねぎ、茄子、トマト、燻製肉をダイスカットにしているのを見て、おりょうさんが呆れたように言ってきた。
「そいつはもしかして、向こうで良太が作ってくれた野菜の煮込みかい?」
フライパンでオリーブオイルを熱し、摺り下ろしたにんにくを炒めて香りが出たら野菜類を入れて更に炒め、水分が出始めたところで燻製肉を入れたのを見て、おりょうさんが訊いてきた。
「似てるんですけど、こっちには酢は使わないんですよ」
おりょうさんの言う向こうで作った野菜の煮込みというのは、酢の入ったイタリアンのカポナータの事で、いま俺が作っているのは、フレンチのラタトゥイユだ。
とは言っても、ズッキーニは入ってないし、スパイス類も有り物しか使えないので、いつもの俺の料理のなんちゃってラタトゥイユだが。
「煮込み時間は足りないけど、これでいいでしょう」
本当なら三十分程煮込みたいところなのだが、全体にトマトが馴染んでラタトゥイユっぽくはなったので、待たせるのも悪いので今日はこれで良しとする。
他のツマミとして、チーズとソーセージとライ麦パンのスライスを用意した。
「お待たせしました」
「おいおい、良さん。飯の後だってのに、随分と凝った料理を作ってくれたんだな」
「正恒さんが思っている程は、凝ってないんですけどね」
ラタトゥイユのような料理を見慣れていないというのもあるのだと思うが、正恒さんはおりょうさんと似たような事を言う。
「酒盃は行き渡りましたかねぇ?」
「姐さん、大丈夫だ」
白ちゃんが配膳を行ってくれたらしく、見回すと全員が酒盃を手にしていた。
「そいじゃ、少なくて申し訳ないんですけどねぇ」
「む。これはなんとも見事な紅い色ですな」
「お褒めに預かって光栄なんですけど、そんなに高くは無い酒なんですよぉ」
頼永様に注いだ酒を褒められておりょうさんが恐縮しているが、それもその筈で日中に天と夕霧さんに試飲して貰った、チリの安い赤ワインだからだ。
「外国の酒だけあって、清酒とは香りが違うんだな」
「何せ清酒とは違って原料が米じゃ無くて、葡萄なんでねぇ」
「そういや鎌倉で、葡萄の酒を蒸留したってのを飲ませて貰ったな」
「ああ。そいつは、ぶらんでーって奴ですねぇ」
頼華ちゃんが頼永様へのお土産に出したブランデーの事を、正恒さんは言っているのだろう。
「これでお終い、っと」
日中に三人で試飲しているので、少し量が足りないかなとか思ったが、ワイングラスよりは小さな酒盃に注がれたので、俺以外の全員に余裕で行き渡ったようだ。
「では皆様、今日も一日お疲れ様です」
「「「お疲れ様です」」」
おりょうさんが酒盃を掲げながら言うと、皆も声を揃えて酒盃を掲げた。
「おお、香りは甘いが実際には甘さは無く、きりりと締まった味わいですね」
「こういう味は初めてだが、悪くねえな」
頼永様は以前に赤ワインを飲んだ時には、とても渋かったと言っていたので少し心配だったが、今日は大丈夫な様子だ。
正恒さんはワイン初体験の筈だが、いつもの物怖じの無さを発揮して、おいしそうに飲んでいる。
「このお酒には、貴方様の作って下さったこの野菜の煮込みが合いますわねぇ」
「そう言ってくれると嬉しいですよ。パンに載せてもおいしいですよ」
「それは良い事を教えて下さいました」
ラタトゥイユをワインと合わせていた天は、俺のアドバイスを聞くとスライスしたライ麦パンを手に取った。
「むぅ。紅い葡萄酒は荒々しい味だと決めつけておりましたが、これを飲んだら意識が変わりそうですなぁ」
「ドランよ。これは鈴白さんの世界の高い技術で醸されているのだから、比べるのが間違っているぞ」
「それもそうか」
旅をしながら赤ワインを口にする機会があったと思われるドランさんとブルムさんだが、どうやら道中で飲んだ物は葡萄栽培や醸造技術が未熟なのか、リースリングから造られる白のワインと比べるとかなり劣っているらしい。
「ううむ、これは旨いな。全く、良い主様に恵まれたものだ」
「こうして主様に巡り会えたのですから、数百年も橋に封じられていたのも、そういう運命だったと思えますね」
「ええ。そんな主様には、誠心誠意お仕えしなくてはなりませんね」
三人の式神達は飲みながら、何やら俺の事を話しているようだが、特に悪口を言われたりはしないみたいなので、そっとしておく。
「姐さん。お代わりはあんのかい?」
「ついでですから、こいつも出しちまいましょうかねぇ」
「え? おりょうさん、いいんですか?」
正恒さんが空になった酒盃を見せると、おりょうさんがドラウプニールから日中に試飲したもう一つのボトルを取り出したので、驚いて声を掛けてしまった。
「良さん。姐さんが出したそいつは、そんなにいいもんなのか?」
「値段的には決して高い訳じゃ無いんですけど、質はかなり良いです」
(問題は、飲み切ったらそれで終わりってところなんだよな……)
飲みきったら終わりなのは先に出したチリのワインも同じなのだが、俺はてっきりアメリカのピノ・ノワールの方は、おりょうさんが一人で楽しむと思っていたので驚いたのだった。
「いいんだよ、良太。だって酒は飲んでこそだろ?」
「おりょうさんがそれでいいいなら」
「あったりまえじゃないか。いいに決まってるさ」
不敵に笑いながら、おりょうさんが言い放った。
(おりょうさん、惚れ直させてくれるなぁ)
おりょうさんは自分だけで楽しむような事はせずに、皆でワインの美味しさを分かち合うという機会をセレクトした。
中々出来る事では無いこの行動を見て、俺はおりょうさんに惚れ直したのだった。
「さあさあ。良いのを注ぎますから、杯を干しちゃって下さいねぇ」
「おっと。りょう殿、少しお待ちを」
チリの赤ワインを少しずつ味わっていた頼永様が、次を注ごうとするおりょうさんに待ったを掛けた。
「りょう様。先にわたくしの方に下さいますか」
「あいあい。女の天さんの方が、男連中よりも飲みっぷりがいいねぇ」
「りょ、りょう様。よして下さいまし」
どうやら天は、酒が強いと思われるのは不本意なようだ。
「先程の葡萄酒も素晴らしかったですが、こちらもまた素晴らしい香りでございますね……」
新たに注がれたピノ・ノワールのワインの香りを嗅いで、天がうっとりとした表情になっている。
「む……以前に飲ませて貰った清酒の香りも、水菓子のような香りがしたが、これもなんとも例えようの無い良い香りがするな」
「今度栽培を始める苺っていう果実に似た香りなんだけど、白ちゃんは知らない?」
先に試飲したブリュンヒルドは、ピノ・ノワールのテイスティングの特徴であるベリー系の香りに言及していたのだが、白ちゃんは香りに例える食べ物が思い浮かばなかったらしい。
「山の中に野苺とかいうのが生えているのは知っているが、喰った事は無い」
「そ、そうなんだ……」
(そういえば白ちゃんも黒ちゃんも、基本的には肉食だったな)
エーテル生命体とでも呼ぶべき白ちゃんと黒ちゃんは本来は食事は必要としないのだが、野生動物を捕まえて食べる事によって、気の補充をして存在を維持していた。
無論だが植物も気を持っているのだが、動物に比べると摂取する量辺りの気が少ないので、おそらくは鵺として行動していた時期の白ちゃんも黒ちゃんも、野苺などには見向きもしなかったのだろう。
「ううむ。苺とかいう果実の味も香りはわからんが、この酒が凄いのだけは良く分かる」
「里でも葡萄の栽培を始めるけど、いつかはこのくらいの味の物が出来るといいね」
「里で葡萄の栽培まで始めるのか?」
「ブリュンヒルドさんから頼まれてね」
白ちゃんが酒盃から口を離しながら、呆れたように言った。
「鈴白さん。ブリュンヒルド殿から頼まれたという事は、品種は?」
「以前にドランさんが鎌倉で開けてくれた物と、同じだと思いますよ」
「おお! それは素晴らしい!」
飲み慣れたワイン用の葡萄品種だとわかったので、ドランさんは嬉しそうに微笑んだ。
「しかし、この紅い葡萄酒も素晴らしいですね」
「その葡萄酒に使っている品種の樹も植えたんですよ」
「なんと!? で、では?」
「経験のある生産者じゃ無いので、あまり大きな期待はしないで下さい」
ブルムさんが期待に大きく瞳を見開いているが、まだ樽も搾汁機なども無い状態なので、ワインの出来に期待されても苦笑いで応じるしか無い。
「鈴白さん。このような旨い酒を味わった後で、原料になる葡萄の栽培を始めたと聞いては、期待をせざるを得ませんよ」
「葡萄の生育に関しての不安は無いんですけど、こればっかりはなんとも……」
(やっぱり凄いワインなんだなぁ。父さんには感謝だな)
この場に居る人間の中で俺だけがワインを飲んでいないので、味に関して何も言う事が出来ないのだが、飲んだ人間は例外無く味や香りだけでは無い感動までもを味わっている。
我が父親ながら、コーヒーと酒のセレクトに関しては間違いが無かったようだ。
「ああ。確かに凄ぇ酒だったけど、あんまり飲んだ気はしねえな」
空になった酒盃を見て、正恒さんが残念そうに呟いている。
「凄いのに飲んだ気がしないんですか?」
「良さんよ。酒ってなあ色々と楽しみ方があるもんだが、俺の場合は作業の合間に一息つく時なんかに飲むんだよ」
「成る程」
鍛冶師である正恒さんは新月の深夜に焼入れを行ったりもするので、通常の生活リズムからは外れたりする事もある。
重労働であり、神経を擦り減らす鍛冶師の仕事を終えた開放感を味わう為の、酒は重要なアイテムなのだろう。
「飲ませて貰った葡萄酒みたいな、目の醒めるような味の酒も悪く無いんだが、気持ち良く酔う為の酒とは違うなぁ」
「そういう物なんですね」
(正恒さんの気持ちは、わからなくも無いな)
偶の御馳走というのは良い物なのだが、気持ちをリラックスさせるには、あまり特別感の無い物の方が適しているのだろう。
「良さん。清酒を貰えるかい?」
「どうぞ」
予め用意してあった清酒の樽から柄杓で酒を汲み、正恒さんの酒盃に注いだ。
「良太殿。私には蜂蜜酒を頂けますか?」
「あたしも次は、蜂蜜酒にしようかねぇ」
「わかりました」
瓶に入っている蜂蜜酒を、これも柄杓で頼永様とおりょうさんの酒盃に注いだ。
「……」
「ドランさんにもどちらかを注ぎますか?」
「え? あ、ああ。では蜂蜜酒をお願いしますかな」
「はい」
(……なんかドランさんの様子が変だな?)
ドランさんは酒盃に注がれた蜂蜜酒に視線を落としたと思ったら、何故か次にはおりょうさんと俺を交互に見てくる。
「ドランさん、何か?」
普段こういう不審な態度を取る人では無いので、気になるから思い切って訊いてみた。
「ああ、いや。何ね、今夜の夕食に、この蜂蜜酒でしょう?」
「今夜の夕食ってすっぽんですよね? それと蜂蜜酒が何か?」
蜂蜜酒に関しては俺は飲んでいないが、無論だが夕食のすっぽん鍋は食べている。
だが特に夕食に関しておかしな点は無いと思うので、ドランさんが何を言いたいのかは未だにわからない。
「ほら、すっぽんというのは精がつくと言われているでしょう?」
「まあ、そうですね」
すっぽんには必須アミノ酸やビタミン類などが含まれていて、含有する成分的に疲労回復効果があると言われている。
他にもコラーゲンを豊富に含んでいて美肌効果があり、噛み付いたら離さない生命力が身体を元気にするとか言われているが、どちらも科学的な根拠は無い。
「蜂蜜酒にも何かあるんですか?」
「おや、御存知無いと仰るか? ふむ。では私の勘違いでしたか……」
「あの、勘違いとは?」
「ドランの旦那にしちゃ、歯切れの悪い物言いですねぇ」
ここまで話しても、ドランさんの言い方は何かを誤魔化しているので、真意は不明のままだ。
おりょうさんも首を傾げながら、自分の酒盃に蜂蜜酒を注いでいる。
「ドランよ。だから貴様の勘違いだと言っただろう?」
「そのようだが……」
「あの、ドランさん、ブルムさん、結局なんなんですか?」
勘違いという事で納得してしまっているドランさんとブルムさんは、二人で顔を見合わせて頷きあっている。
「ドランよ。鈴白さんが焦れているから、早く説明して差し上げろ」
「おっと。これは失礼しました。いえね、この国では無い風習なのですが、鈴白さんなら知っていて実践されているのかと思いまして」
「風習ですか?」
「ええ。我等の故郷よその周辺では根強い風習でして。新婚の夫婦がとても滋養のある蜂蜜酒を飲んで、その……励むのですよ」
「……は?」
「っ!? ど、ドランの旦那、一体何をっ!?」
ドランさんの思わぬ言葉を聞いた俺は顎がカクンと落ちて、空いた口が塞がらなくなった。
おりょうさんはドランさんの話す内容を理解した瞬間的に、顔を真っ赤にしている。
(あー……なんか聞いた事があるなぁ)
新婚旅行の事をハネムーンというが、あれは正確にはHONEY MOONであって、新婚一ヶ月くらいの時期は滋養のある蜂蜜酒を飲んで、子作りに励むというのが語源だと言われていると聞いた事がある。
「なんと。良太殿、りょう殿。遂になのですか?」
「遂にってなんですか!?」
何故か頼永様は娘の頼華ちゃんを蔑ろにしてとかでは無く、この時を待っていたみたいな言い方をする。
「良太殿とりょう殿程の仲睦まじさならば、既に結ばれていてもなんの不思議もありませんからな」
「えーっと……有難うございます?」
「……」
頼永様の言葉になんと受け答えするのが正しいのかを悩んだ末に、俺達の仲の良さを褒めてくれたのだから、とりあえず御礼の言葉を述べておいた。
おりょうさんは無言で俯きながら、俺の作務衣の裾を掴んでいる。
「あ、主殿。そうなのか!?」
「なんで白ちゃんは、そんなに動揺してるのかな?」
普段はクールな白ちゃんが、酒盃をテーブルに叩き付けながら立ち上がった。
「お、俺は冷静だぞ? そ、それよりも、主殿が姐さんと結ばれるのであれば、余計な事をしそうな連中を排除しなければならんからな!」
「排除って……」
覗きとかをしそうなオルトリンデは江戸に行っていて不在なので、おそらく白ちゃんが言っているのは乱入してきそうな黒ちゃんや、密かにおりょうさんに憧れている玄とかの事だろう。
「良さん。あの三階建ての一室じゃ落ち着かないだろうから、今夜は鍛冶小屋を使うかい?」
「正恒さん……茶化さないで下さいよ」
他人事だからと、酒盃を掲げながら言う正恒さんは実に楽しそうだ。
「あ、貴方様。頼華様と黒様と白様と夕霧様の後くらいで結構ですので、わたくしにも是非お情けを!」
「お情けって……」
巨大な胸を揺らしながら立ち上がった天が、自分を猛アピールしてくる。
「主様とりょう様の子となれば、丈夫で聡明であろうなぁ」
「お世話のし甲斐がありそうですね」
「私にも、天様のお次くらいにお情けを頂けるでしょうか……」
式神の三人組は、好き勝手な事を言っている。
「えっと。皆さんに勘違いが無いように言っておきますけど、将来的には俺はおりょうさんと結ばれる予定ですけど」
「っ!」
俺の皆への説明を聞いて、俯いたままのおりょうさんはビクッと反応したと思ったら、掴んでいた裾を握る力を強めた。
「一緒に娶ると約束をした頼華ちゃんが元服を迎えるまでは、その……そういう事はしませんから」
(なんでこうなった……)
どうして皆の前で『致さない宣言』をするなんて恥ずかしい事をする羽目になったのか、誰かに説明して欲しい。
「良太殿。頼華に遠慮などなさらないでも構わないのですよ?」
「遠慮じゃ無くて、俺達の間でそう決めたんです」
頼永様には俺が頼華ちゃんに遠慮をしているように見えているらしいが、これはおりょうさんとも話し合った末での結論だ。
ただ、いざその時になったらどうなるのだろうというのは想像も出来ない……というか、俺自身が無意識に考えないようにしているのだろう。




