ブランダード
「良太。これでいいのかい?」
「潰し終わりました? そしたら次に生地を切り分けます。その量だと、六等分ですね」
おりょうさんとブリュンヒルドが受け持っているパン生地は、それぞれが焼く時に使う型二つ分くらいにになるように軽量してある。
なので、一つの型に三等分にした生地を入れて焼くというわけだ。
「これでいいのかい?」
「ええ。上出来です」
パン作り用のスケッパーという道具は無いので、おりょうさんは包丁で生地を切り分けた。
「良太の方は、随分と小さく切り分けるんだねぇ」
「俺の方は薄い生地で中身を包みますし、作る予定の物がそれ程大きく無いというのもありますね」
おりょうさんが作っている生地は握りこぶしくらいの大きさで六等分だが、俺の方はテニスボールくらいの大きさなので八等分だ。
「おりょうさんとブリュンヒルドさんは、また一休みです」
「このまんま、二次発酵って奴かい?」
「いえ。その前の段階ですね」
成形して二次発酵をさせる前の段階の、生地を休ませるベンチタイムという奴だ。
「良太様。我々の生地はどうすれば良いのでしょうか?」
「ロスヴァイセさん達の方は……うん。綺麗に膨らみましたね」
ロスヴァイセ達のパン生地も、酵母の機嫌を損ねる事無く大きく膨らんでいた。
「そちらも一度潰してから、焼く時の大きさに切り分けて休ませて下さい」
「畏まりました。我々の方はその後で成形して、直ぐに焼いてしまうという事ですね」
「そうです。そろそろ石窯を温めましょうか」
型に入れて焼かないロスヴァイセ達の方は、生地のガス抜きを終えてベンチタイムを挟んで形を整えれば準備完了だ。
今の内に石窯を予熱しておけば、ベンチタイムを終えるくらいには丁度良く焼けるようになるだろう。
俺は石窯の前でしゃがみ込んで、パンを焼くのに必要な分の熱量と時間に相当する気を送り込んだ。
「ん? 良太は何を?」
「俺はこの出来上がった生地にで、咖喱を包み込みます」
切り分けた生地を手で作業台に押し付けて延ばし、中の具になるカレーを乗せたら包み込み、はみ出さないように念入りに閉じる。
「そいつを、他のぱんと一緒に窯で焼くのかい?」
「いいえ。これは揚げます」
「「「揚げる?」」」
(やっぱりパンは、多少の生地の作り方の違いはあっても、焼く物っていうイメージなのかな?)
作っている物を俺が焼かずに揚げるという宣言をすると、この場に居る全員が以外そうに声を出した。
「これで終わり、っと」
数が少ないから具を包み込んで閉じる作業は直ぐに終わったので、再び濡らして絞った布巾を被せて放置する。
後はベンチタイムを終えて、準備している溶き卵にくぐらせてパン粉をまぶせば、カレーパンの準備は完了だ。
「おりょうさんは、向こうで咖喱パンは食べて無いんですか?」
向こうの世界では専門店では無くても、スーパーでもコンビニでも手軽に変える惣菜パンなので、おりょうさんも滞在中に食べているのかと思っていた。
「なんか頼華ちゃんは色々と買って喰ってたけど、あたしはあんまりねぇ」
「成る程」
苦笑気味におりょうさんが言うが、確かに酒のツマミ以外には決まった食事だけをする傾向があるので、頼華ちゃんのように間食で色々と試したりはしなかったのだろう。
「それにしても、生地を作って具を包んで、それを卵をくぐらせて揚げるなんざ、手間が掛かるんだねぇ」
「そうなんですよね」
(こんなに手間が掛かるのに、向こうの世界では手軽に買えるんだから、生産者の人達には頭が下がるよな)
スーパーやコンビニで売っている大量に工場生産されている物だけでは無く、一部の例外を除けばパンの専門店でも惣菜パンは決して高くは無いので、こうして作って手間を実感すると、生産して販売している人達の努力の凄さを感じてしまう。
「ん? 良太。他にも何か作るのかい?」
「野菜を切ったついでに、汁物を」
パンが主体の昼食に何も、汁物が無いと喉を通り難いと思ったのでスープの用意をする。
パン作りに手間が掛かっているので、スープは細切れにした燻製肉を煮立てて出汁を取り、具はもやしだけというシンプルな物にした。
「そろそろ、生地を休ませるのを終わっても良さそうですね」
出汁からアクを取ってもやしを入れて煮込み、塩と胡椒で味を整えて胡麻油を垂らして仕上げたところで、丁度ベンチタイム終了くらいになった。
「おりょうさんとブリュンヒルドさんは、もう一度生地を潰して延ばして下さい」
「わかったよ」
「わかりました」
一度潰した経験からか、今度はおりょうさんもブリュンヒルドも、特に表情を変えたりしないでパン生地を潰して延ばして行く。
「ロスヴァイセさん達は、そのまま成形をして下さい」
「畏まりました……ですが良太様。どのような形に致しましょう?」
「どんな形でも自由にして下さって、結構ですよ」
「と、申されましても……」
「「「……」」」
明確な指定をしない自由にという俺の指定が、ロスヴァイセ以外のワルキューレ達も困らせているようだ。
ワルキューレ達はどうすれば良いのかと、俺とブリュンヒルドの方をチラチラと見てくる。
「えーっと……じゃあ小麦もライ麦も、鉢の二つずつは四分割にして楕円形に。残る一つは……十六分割して丸めましょう」
「「「畏まりました」」」
(式神の天后さん程じゃ無さそうだけど、ワルキューレさん達も少し曖昧な指定だと駄目みたいだな)
ワルキューレ達は独自の判断での行動が出来ない訳では無さそうなのだが、パン作りなどの未経験の事を目の前にすると、上からの指示を待つというのが普通の反応のようだ。
(神様の下で戦う騎士とか兵士とかって事を考えると、これでいいのかな? でも、長期に渡っての単独行動とかもあるって言ってよな?)
指揮官からの命令に従わなければ軍事行動は成り立たないので、そういう方向で考えるとワルキューレ達は忠実で優秀と言えるのかもしれない。
しかし死せる勇士、アインヘリヤルとなって戦う魂の持ち主の元に赴いて、長期に渡って見守ってから回収するという任務もあると聞いた事があるのだが、その場合には相当に柔軟な対応が求められると思われる。
さっきのロスヴァイセ達の反応を見ていると、そういう柔軟さは無さそうに見えるのだが……もしかしたら、かなりのパターンが想定されているマニュアルでもあるのかもしれない。
(でも指定をすると、そこからは凄い手際の良さだな……ちょっと大雑把だけど)
全く指定をしないと動けなかったワルキューレ達なのだが、俺からするとそれでも少し曖昧なのではと思うような指定をした途端に、大きさや形を整え始めた。
だが、そこは信仰されている北欧という地域のおおらかさと言うか、生地の分割の仕方も形の整え方も、大体こんなもんだろうと言わんばかりである。
鎌倉でブリュンヒルドやロスヴァイセに料理を教えた時には、目の前で手本を見せたからか非常に仕上がりも丁寧だったのだが、今回は口頭での指示だけだったのでこうなったのだと思える。
(まあ、店に並べる商品を作ってる訳じゃ無いしな)
酵母の働き具合や粉の状況とかでもパン生地の膨らみ方は変わってくるし、焼く前と焼いた後でも大きさや形は変化するので、あまり細かい事を考えたり指定したりしてもそれ程意味は無いのだ。
今回はワルキューレ達に要領を覚えて貰うのが目的だし、今後は俺が不在の時にパンを焼く事もあるのだから、逆にこれくらいのゆるさがあった方が良いだろう。
「良太。この後はどうするんだい?」
「折り畳んで縦長にしてそれを丸めて型の中に並べて、二次発酵をさせます」
通常のパン作りでは二次発酵は温度調節をしたオーブンなどで行うのだが、のんびり働く天然酵母を用いる場合には室温で膨らむのを待つ。
今の季節の室温程度だと酵母は活発に働かないのだが、里という環境は例外なのか、一次発酵は短い時間で済んだし膨らみ方も見事だったので、それ程は心配していない。
「ロスヴァイセさん達のは、焼き始めましょうね」
ロスヴァイセ達の手によって成形されたパン生地を、広めに間隔を取って天板に並べ、予熱しておいた石窯の蓋を開けて中に入れた。
「ブリュンヒルドさん。大麦の方も仕込んだんですか?」
生地を型に並べ終わったタイミングで、ブリュンヒルドに声を掛けた。
「はい。洗って大麦を浸漬をしている桶を、水車小屋の方に置いてあります」
「発芽の状況は、毎日見て下さいね。俺が言うのもなんですが、ここの環境は普通と違うので」
「畏まりました」
畑の作物の生育状況や巨大化している蜜蜂など、里の環境の異常さを実感しているからか、ブリュンヒルドは苦笑しながら返事をした。
「ああ、っと。もう一つ作る予定の料理があったのを忘れてたな」
「汁物もあるし、おかずの方はもう十分だと思うけど。そんなに作るのに手間が掛かるのかい?」
「それ程でも無いですよ。一番の手間は、昨日の内に済ませましたから」
俺は鍋の蓋を開けて、昨日の内に準備しておいた物を取り出した。
「そいつは……あ、昨日おまけに貰った棒鱈かい?」
「そうです」
棒鱈の半身を水に漬けて戻しておいたのだが、カラッカラの干物だった時と比べると、かなり元の魚に近い状態になっているので、おりょうさんはパッと見ではわからなかったようだ。
「戻って随分とでかくなってるけど、こいつを全部使うのかい?」
「里の全員で食べるなら、これくらいはあった方が良いかと」
俺が作る予定の料理の材料の半分程度を棒鱈が占めるのだが、パンの添え物ではあるが里の住人全員で食べるとなると、これでも少ないかもしれない。
「そいじゃあたしは二次発酵ってのを待たないといけないから、良太を手伝おうかねぇ」
「生地作りで疲れたでしょう? 休んでいてくれて良いんですよ?」
ハンドミキサーとかの補助する機械が間に入らないので、パン作りはかなりの重労働と言える。
蕎麦打ちの経験が豊富なおりょうさんは、似たような作業に慣れているとは言っても、かなりの力が必要な事には変わらない。
「心配してくれて有り難いけど、蕎麦と比べりゃ柔らかいから、身体に堪えるってこたぁ無いねぇ」
おりょうさんは両手を挙げてガッツポーズをして、疲れていないアピールをする。
「私も二次発酵待ちですから、お手伝い致します」
(こうなるとは予想出来たけど……)
当然のように、ブリュンヒルドも手伝いを申し出てきた。
「じゃあ、おりょうさんとブリュンヒルドさんはじゃが芋を皮ごと茹でて、串が通るくらいになったら湯を捨てて潰して下さい」
「わかったよ」
「わかりました」
手伝いはいらないと言ったが、人数を考えると鱈だけでは無くじゃが芋も大量になるので、おりょうさんとブリュンヒルドがサポートしてくれるのは有り難い。
「……魚を牛の乳で煮るのかい?」
「こういう料理なんですよ」
戻した棒鱈を牛乳で煮始めると、これまでのおりょうさんの料理の常識とは掛け離れているからか、眉間に皺を寄せている。
「前に牛の乳で、貝類を煮た料理を作りましたよね?」
「う……」
魚では無いが、同じ海の物を煮込んだクラムチャウダーっぽいスープを、おりょうさんは食べた事があったのを思い出したらしく、言葉を詰まらせた。
「牛の乳で口当たりはまろやかになりますけど、味的にはそんなに主張しませんから」
「りょう様。良太様がお作りになるのですから、きっと……」
「そうは思うんですけどねぇ……」
(信用無いなぁ……)
材料の組み合わせと調理法が余程突拍子も無く映るのか、おりょうさんだけでは無くブリュンヒルドまでが、俺の作っている物の味を疑っているようだ。
(まあ、食べて貰えれば、おいしいって言ってくれると思うけど)
おいしくないという先入観を持っている相手に、実際に食べておいしいと言って貰えると、凄い爽快感と達成感があるので、俺は内心で気合を入れ直した。
いま作っている料理は素朴ではあるがパンには凄く合うし、おりょうさんが苦手そうな食材を使っていないので、おいしいと言って貰えるという確信もある。
「良太。芋はどんくらい潰せば良いんだい?」
牛乳で煮込んだ棒鱈の骨を外して身を解している間に、じゃが芋の方にも火が通ったようだ。
「擂り粉木で粒が無くなるまでお願いします」
本当なら裏漉しまでした方が舌触りが滑らかなのだが、後で混ぜ合わせる時に念入りに練れば大丈夫だろう。
「潰れたよぉ」
「有難うございます。それじゃこっちに下さい」
「はいよ」
バターを溶かして微塵切りにしたにんにくを炒めた鍋で、おりょうさんとブリュンヒルドの二人掛かりで潰した、まだ湯気の上がるじゃが芋を入れて練り混ぜる。
そこに解しておいた棒鱈と生クリームを入れて更に混ぜ、塩と胡椒で味を整えれば出来上がりだ。
「確かに棒鱈を戻してあれば、そんなに手間は掛からないんだねぇ」
「そうでしょう?」
棒鱈は一晩水に漬けておくだけで戻るので、
じゃが芋を潰したり、戻した棒鱈を解したりという作業はそれなりに大変だが、他の料理と比べて特に手間が掛かるという事は無い。
「良太様。そろそろ窯から出しても大丈夫でしょうか?」
厨房内に窯から溢れ出て来るパンの焼けるいい香りが満たされると、ロスヴァイセが待ちきれないと言わんばかりに俺に訊いてきた。
「どれどれ……うん。出しましょう」
「はい!」
石窯の扉を開けて中の様子を伺うと、予想を遥かに超えて良い焼色が付いたパンが見事に膨らんでいた。
天板ごと取り出したパンを、作業台の上に用意しておいた網の上に載せ替えた。
「小麦のパンはそのままで、ライ麦の方はこれで包んで下さい」
「畏まりました。ですが、何故ですか?」
俺が発酵の際やベンチタイムに使っていたのと同じように、濡らして絞った布巾を用意しているのを見て、ロスヴァイセが首を傾げる。
ロスヴァイセは純粋に疑問に思っているだけのようで、布巾でパンを包む手は停めない。
「ライ麦は水分を留めておく性質が低いので、このまま冷ましておくと中も外も、どんどん固くなって行くんですよ」
「そうなるのを防ぐ為に、こうするのですか?」
「そうです」
表面がパリパリのパンというのを俺は嫌いでは無いが、ライ麦の含有量が多いと時間の経過と共に中まで固くなってしまうので、大人はともかく子供には食べ難くなってしまう。
ドラウプニールに仕舞えば乾燥とかの問題は万事解決なのだが、濡らした布巾で包み込んでの保湿という手段を、ワルキューレ達に知っておいて貰おうと思ってやって見せたのだ。
全てのライ麦パンを包み終わったので、完成したブランダードを皿に盛り付けた。
「……ふんわりとにんにくの香りがして、意外に旨そうだねぇ」
「そうでしょう?」
棒鱈を使ったプロヴァンスの伝統料理であるブランダードを見て匂いを嗅いで、おりょうさんが本当に意外そうな表情をする。
「こいつを、ぱんにつけて食うのかい?」
「そうです。このまま表面を少し焼いても旨いですよ」
材料的にはマッシュポテトを使ったグラタンの具と言っても間違いないので、チーズを掛けて焼いたりしてもブランダードは旨い。
「我々的には、パンと言えばお腹を膨らませる為の食べ物くらいの認識だったのですが……」
「あー……まあそれが最大の目的なのは間違い無いんですけどね」
パンという食品のこれまでの自分達の認識との乖離が大き過ぎるのか、ブリュンヒルドだけでは無く、この場に居るワルキューレ全員が微妙な表情をしている。
「ブリュンヒルドさん達は、パンをどういう風に食べてたんですか?」
「固いパンなので汁物に浸すか、油を掛けたり塗ったりして食べていました」
「な、成る程……」
(この場合の油って言うのは、オリーブオイルとラード辺りかな?)
現在でもパンにオリーブオイルや、肉の加工の際に出たラードを塗ったりして食べるというのは行われている。
日本ではあまりやらない食べ方なので、ラードと聞くとクドそうなイメージだが、バターなどとそれ程変わる訳では無いので、実際に口にすると意外に抵抗は感じ無かったりする。
(そのままは厳しそうだけど、リエットなんかもラードを使ってるから、今度作ってみようかな)
解した豚肉を溶かしたラードで和えて冷やし固めたリエットは、フランスではポピュラーな料理で肉屋で売られている。
リエットは一見するとコンビーフに似ていて、使っているのが牛と豚の肉という違いはあるが、食感はそっくりだ。




