製粉
「ヘルムヴィーゲさん。昼に食べたパンはどうでした?」
わからない事は聞けばいい、という事で、ヘルムヴィーゲに率直に質問をしてみた。
「中々おいしかったと思います。凄い密度で噛み応えがあって、ちょっと酸っぱくて」
「成る程」
(『中々おいしかった』くらいの評価、か。まあ俺も、そんなに印象には残ってないしな)
大坂での昼食は、肉料理の方に関心が行ってしまったので、あまりライ麦パンの印象は残っていない。
ヘルムヴィーゲの言う通り、噛み応えがあって少し酸っぱかったという程度だが、その酸っぱさはパンをふくらませるのに酵母では無く、サワー種を使っているからだろう。
「あ、そうか。明日のパンは今日の昼に食べた物とは、味も食感も変わっちゃうなぁ」
「そうなのですか?」
「うん。明日までには今日のパンみたいな種を用意出来ないから」
「「「種?」」」
「うん。パンをふくらませる種だよ」
頼華ちゃんはパンを焼く時に酵母が必要だというのは教えてあるが、種と聞いてピンとこないようだ。
黒ちゃんはパンに関しての知識は無いし、ヘルムヴィーゲも無発酵パンしか知らないから、当然ながら酵母と種と聞いてもなんの事だかわかっていない。
「そこにある酵母を粉に混ぜ込んで焼くと、ふんわりとふくらむんだけど、ライ麦パンには同じ様な効果があるサワー種っていうのを使う事が多いんだよ」
「それなら、使えば良いのではないですか?」
「そうなんだけど、ライ麦の粉を水に溶いて数日経たないと種が出来ないんだよ」
一般的なパンは粉末状のドライイーストを使ったり、天然の種酵母に野菜の皮や糖類などを加えて培養した物を用いる。
サワー種はパンの材料にもなるライ麦の粉と水があれば作れるので手軽なのだが、発酵して種になるまでに数日の時間が必要なのだ。
「今回挽いた粉でサワー種を作って、それが出来たら試してみようね」
遅くとも次の週末までにはサワー種も出来ているだろうから、焼いて食べ比べるのも面白そうだ。
「そうだ。足りなくなる事は無いと思うけど、念の為に」
「「「?」」」
厨房の流しの近くに纏められていた、今夜のカレーを作る時に出た人参やじゃが芋の剥かれた皮を、俺が洗って刻み始めたのを、三人が何事かと見ている。
「兄上、それは?」
「これはパンを焼くのに使う酵母に食べさせるんだよ」
厨房の隅に置かれている、天然酵母の入った瓶の上に掛けられている布を取り去って、少量を別の瓶に移し替えて、そこへ刻んだ人参とじゃが芋の皮と、匙で二杯分くらいの砂糖を振り込んだ。
「こうしておくと、野菜の皮や砂糖を食べて酵母が増えるんだ。今ある分だけで明日は足りると思うんだけど、念の為にね」
万が一にもスターター分の酵母まで使い切ってしまうと、サワー種と同じく最初から仕込んで培養しなければならないので、本当に念の為の用意だ。
「さて、喉の乾きも癒えたし、そろそろ寝ようか」
「そうですね!」
「おう!」
寝るだけなのに、頼華ちゃんと黒ちゃんが妙に気合が入っている。
「良太様、頼華様、今日は色々とお歌や踊りを教えて頂いて、素晴らしい一日でした♪ 黒様も一緒に歌って踊って下さって、有難うございます♪」
「こちらこそ、大坂までお付き合い下さって有難うございます」
帰りの道中で何曲も歌わされたのには参ったが、決して楽しくなかった訳では無いし、ヘルムヴィーゲは屈託という物が皆無なので、一緒に居て凄く気が楽なのだ。
「へるむゔぃーげよ。まだ教えていない歌も踊りも山程あるからな!」
「まあ! それはなんて素晴らしいのでしょう! 頼華様、是非とも私に全てを伝授して下さい!」
「うむ! その心意気やよし!」
「あはは……」
ヘルムヴィーゲはすっかり頼華ちゃんに心酔してしまっている。
「あたいは、また一緒に歌ったり踊ったりするかはわかんないけど」
「まあ! 黒様はあれだけ素晴らしく歌って踊れますのに、なんて勿体無い!」
「そ、そう?」
「そうです! 踊りというのは武術と通じる物があります。黒様はその高い身体能力が踊りの上手さに反映しているのです! お歌の方は天性の物なのでしょう!」
「天性かー」
(黒ちゃんは、すっかり乗せられちゃってるな)
変な誘導をしようという意図がヘルムヴィーゲにあるとは思えないが、褒められている黒ちゃんはすっかりその気になって口元が緩んでいる。
「兄上。踊りと武術というのが通じるというのは本当なのですか?」
「本当だと思うよ。踊りで重要な律動と拍子は、武術でも大事だし」
自分の持つリズムとテンポに持ち込んで、相手の方を崩すというのは戦いの基本だ。
「それと、踊りの種類にもよるけど、柔軟性と瞬発力を要求される物が多いから、身体の動きの方も通じていると思うね。実際に武術の達人が踊りが上手だっていう実例もあるらしいし」
日本で空手の神様と呼ばれた人物は、修行時代にダンスやバレエを研究していて、社交ダンスの名手だったとも言われている。
夭折した香港映画のカンフースターだった人物も、ダンス大会に参加して優勝をしたという実績が残っている。
「なんと! では余も、もっと踊りに磨きを……」
「いやいや。頼華ちゃんの場合は既に剣術も体術も身に付いてるんだから。その鍛錬の結果として、踊りが上手いんだと思うよ?」
「そ、そんなに余の踊りは上手いですか?」
「今更!?」
(向こうで魔女っ子アニメのオープニングを再現してくれたの、忘れてるのかな?)
向こうの世界に滞在中に頼華ちゃんが俺とおりょうさんの前で、魔女っ子アニメのオープニングを歌って踊って再現してくれたのだが、それは見事な物だった。
俺とおりょうさんが頼華ちゃんの身内だからと評価が甘い訳では無く、スマフォによる撮影のお粗末な動画をネットにアップしたら、物凄い勢いで閲覧数と評価数が上がったのだから、純粋に出来が良かったと思って間違い無いだろう。
「そうです! 頼華様の歌も踊りも、神に奉納しても問題無いくらいだと思います!」
「いや、それはどうなんでしょう……」
(芸能の神様とかに奉納するのならいいんだろうけど、他の神様だとどうなのかな?)
八百万の神様の中には、当然だが芸事に関する神様とその社があると思うので、そういう場で上達の報告とお礼を兼ねて歌や踊りを奉納する事はあるのだろう。
しかし、全く関連の無い神様に歌や踊りを奉納したとしても、失礼には当たらないかもしれないが、神様の方も困ってしまうのでは無いかと思う。
「頼華様に鍛えて頂いて、私はフレイヤ様に歌と踊りを奉納します!」
「それは……いいのかな?」
(歌と踊りも愛情表現の一種と考えると、フレイヤ様の領分……か?)
(間違ってはいませんが、困りますねぇ……)
(あー……)
やはりと言うか、フレイヤ様から心の声が届いた。
(私が欲しいのは、好き合っている同士の発する波動……とでも言えば良いのでしょうか。私じゃ無くても、深くお互いの事を想う同士が発する物を、お感じになれる事はございますでしょう?)
(それは……はい)
フレイヤ様が好む波動というのは、神ならぬ人間である俺にはイマイチわからないが、それでも頭にバカが付くようなカップルが、自分達と周囲を隔離するような領域を生み出す事が出来るというのは理解出来る。
(私的には頼華殿には、歌って踊ってる暇があるのなら、一秒でも多く良太さんといちゃつけと言いたいのですが)
(いちゃつけって……)
愛の女神様の言い分としてはわかるし、俺としても頼華ちゃんと仲良くしたいとは思うのだが、一秒でも多くとか強制されるのは勘弁して欲しい。
(ヘルムヴィーゲは良太さんの側室にでもして頂いて、頼華殿のお世話係にでもなれば良いのです)
(良くないですからね!?)
ヘルムヴィーゲの話をしていた筈なのに、なんでか俺の方に矛先が向いてしまった。
(と、とりあえず明日パンを焼きましたら、フレイヤ様の祠に奉納させて頂きますので)
妙な方向に話が逸れ始めたので、半ば無理矢理話題を切り替えた。
(ええ、楽しみにしています。あの子達も良太さんのお陰で料理の腕前まで上がって、本当に良かったです)
(あ、料理の話が出たついでに伺ってしまいますけど、猪のセーフリームニルを調理しているアンドフリームニルって人? は、ちょっと問題がある気がするんですけど)
人なのか神様なのかは不明だが、ヴァルハラで猪のセーフリームニルを調理してアインヘリヤル達に出しているアンドフリームニルは、ワルキューレ達の話を聞く限りでは料理の基本も知らないフシがある。
(……それに関しては私も心が痛むのですが、アンドフリームニルも数多いアインヘリヤルの食事作りを請け負っているので、あまり細かな事まで指示は出せないのです)
(うーん……細かい事と仰っしゃいますけど、食事って全ての基本ですから、ただ口に入って血肉になれば良いというだけでは無く、おいしくないといけないと思うんです。神様であるフレイヤ様には、食事は不要かもしれませんけど)
食事というのは栄養補給の意味が大きいのだが、だからと言って見た目などを無視して良い事にはならないし、何よりも味が良くなければ話にならず、そこは調理の腕前に掛かっている。
(それにお話を伺った限りでは、食事は毎回同じような物ばかりが出ているようですが?)
(そ、それは……でもでも、偶に供えられた物とかで変化はあるのですよ!)
(もしかしてそれが、凍った肉や物凄く硬いパンでしょうか?)
(う……)
フレイヤ様が言葉に詰まった事から察するに、俺の指摘は図星だったようだ。
(神々が住まう場所なのですから、食材や調理法なんかはどうにでもなりそうに思う気がするんですが、違うのですか?)
(……確かにそうですね。他の神々やアンドフリームニルとも、少し話し合ってみます)
(それが宜しいかと。俺が作った少し材料が多い程度の料理を食べて、ワルキューレさん達が涙を流すような状況は、健全では無いと思います)
神様に対して随分と偉そうな事を言ってしまっているが、一番疎かにしてはいけないのが食事だと俺は思っているので、ここは強く主張しておいた。
「兄上?」
「御主人?」
「良太様?」
「ん? 何?」
頼華ちゃん、黒ちゃん、ヘルムヴィーゲの三人が、揃って俺の顔を覗き込んでいる。
「何と仰られても。急に黙り込んでしまわれたので、お具合でも悪くなったのかと」
「ああ、なんでも無いんだ。心配掛けて悪かったね」
(俺はフレイヤ様と話してたんだけど、それは頼華ちゃん達には聞こえないんだよな)
頭の中でフレイヤ様と話していたので、周囲に聞こえないのは当たり前なのだが、それが頼華ちゃん達には俺が急に黙って、何かを考え始めたようにでも見えてしまったのだろう。
「いえ。兄上に何も無いのなら良いのです。ではそろそろ休みましょうか」
「そうだね」
「おう!」
「……えっと?」
頼華ちゃんと黒ちゃんに、両脇をガッチリと固められてしまった。
「……今日は姉上は良い気分になられていますので、宜しいですよね?」
「まあ、いいけど。今日は雫様は?」
「今日は父上もお見えになっていますし」
「それもそうか」
頼永様が来ているからと言って、雫様の身の回りの世話をするという訳では無いと思うが、何か必要があれば夕霧さんや頼華ちゃんを呼ぶだろう。
「反対側は頼華に譲るから、あたいも一緒でいいよね?」
「ああ、うん」
俺が拒否する事も考えてか、黒ちゃんが多少の怯えを含んだ表情で見てきたので可哀想になってしまい、受け入れるしか出来なかった。
「それでは良太様、頼華様、黒様。お休みなさいませ♪」
「おやすみなさい、ヘルムヴィーゲさん」
「うむ! しっかりと休養をするのだぞ!」
「おう! また明日な!」
「はい♪」
最後までにこやかにしながら、ヘルムヴィーゲがワルキューレ達の寮に歩いて行った。
(フレイヤ様も、お休みなさい)
(はい。良い夢を)
会話が尻切れ気味になっていたので、フレイヤ様に就寝の挨拶をすると、柔らかく頭に響く声で返してくれた。
「こう、この臼に入れて砕くだけですよぉ。簡単でしょう?」
「確かに。そうしたら篩って殻や粗い部分を取り除いて、製粉すれば宜しいのですね?」
「そうですねぇ」
一夜明けて、俺は風車を設置する前に水車小屋で、ワルキューレ達に製粉の仕方を教えているおりょうさんの姿を見守っていた。
ここでの作業がパンや酒を造る基礎になるので、ブリュンヒルドを筆頭にワルキューレ達は真剣に説明に聞き入っている。
「何回くらい砕きゃ具合が良いのかは麦の種類や量にもよるから、その辺は様子を見ながら行って下さいねぇ」
「畏まりました。りょう様、大麦を発芽させる作業も開始して宜しいでしょうか?」
「ああ、それもありましたね。ええ、始めて下さい。置いておく場所はここで構わないでしょう」
おりょうさんに変わって、俺がブリュンヒルドの問いに答えた。
酒や水飴を造る際に使用する大麦麦芽の作り方は、手間は掛かるがそれ程難しくは無い。
洗ってから一日に一回程度を目安に水を替えてながら三日間程浸漬させ、その後は湿る程度の水分を含ませた布で上下を包んで、二十度前後の環境で一週間くらい掛けて発芽させるだけだ。
「目安としては麦芽が出来るまでに十日くらい掛かるんですけど……ここの場合はもやしとかも凄い勢いで成長するので、浸漬を終えたら一日に一度くらいは様子を見て下さい」
「畏まりました」
里の作物の異常な生育具合を知っているので、ブリュンヒルドも苦笑しながら受け答えしている。
「それじゃ俺は風車の設置に行きますけど、終わったら厨房でパン作りに参加しますから」
「ああ、そういやそうだったねぇ」
「では良太様がお見えになるまでに、粉の方を用意しておきますので」
「お願いします」
おりょうさんが監督をしてくれているし、製粉の方は万全と言っていいだろう。
「うん。行っといで」
「「「行ってらっしゃいませ」」」
(……里の中を移動するだけなんだけどなぁ)
おりょうさんと水車小屋に集っているワルキューレ達が、揃って俺を送り出してくれた。
有り難い気遣いではあるが、やはり俺には分不相応な扱いな気がして、正直居心地が良くない。
「ああ、はい」
それでもおりょうさんとワルキューレ達の気持ちを無碍にする事も出来ないので、俺は曖昧に微笑みながら返事をして水車小屋を後にした。
「そよ風程度なのに、良く回ってますね」
「そうだろ?」
男湯と女湯の仕切りになっている部分の脱衣所に近い場所の上部に台を作り、そこに正恒さん謹製のストレートダリウス風車を設置した。
設置をして実際に風を受けての回転を見たり、不具合が無いかを確かめているが、現時点では全く問題は感じられず、妙な摩擦音などもしない。
「良さんが教えてくれた、根本の受ける部分が良かったんだろうな」
「ベアリングですね」
「ああ」
風車で尤も負荷の掛かる回転を受ける部分には、金属球、所謂ベアリングを使ったのだが、摩擦に強く長く使えるようにと考えて、正恒さんには苦心して同じサイズの鉄の真球を造って貰ったのだった。
設計通りのサイズの鉄のベアリングが出来上がったところで、俺が気を込めて焼入れをした。
出来上がったベアリングは荷重や摩擦などにもかなりの強度があるので、安全度が高く交換頻度が少なくて済む。
「ぴすとんってのも滑らかに動いてるから、こいつに繋いで湯を汲み上げる管を、良さんに作って欲しいんだよ」
「詰まったりしないように、少し硬めにするのがいいですよね?」
「そうだな。湯が通ってるんだから潰れるこたぁ無いと思うが、温泉の成分がくっついて通りが悪くなったりはするかもしれねえからなぁ」
「ああ、そうですよね」
里の温泉はほぼ無色透明で、湯船の底に成分が堆積したりはしていないが、風車に関しては俺と正恒さんが居ない時に不具合が起きると対処が出来ないだろうから、安全面を確保しておくのは重要だ。
「それじゃ硬めだけど、ある程度は曲がったりする感じに……」
俺は元の世界のワイヤーで周囲を補強してあるホースを意識しながら、蜘蛛の糸で防水の導湯管を作った。
出来上がった導湯管は弾力があり、大人が踏んづけても軽くへこむだけで潰れたりはしないが、ある程度はフレキシブルに曲げたり出来る。
「っと。繋げる前にこれを取り付けないと」
「良さん、そいつは?」
「蜘蛛の糸で作った、シャワーって言います」
俺が蜘蛛の糸で作ったシャワーは女湯と男湯に振り分けるような形にそれぞれ三箇所、使う時に邪魔にならないように少しずつ間隔を開けて固定の湯の出口が設けられている。
「なんか随分と延びてるのもあるな?」
「これは手元でも使えるようにしてあるんです。洗い終わった身体を流すのとかが楽になりますよ」
「成る程な」
固定式のシャワーとは別に細い導湯管を引っ張って、洗い場に座ったままでも使えるシャワーを二つ用意した。
届く範囲は限られるが身体を流すだけでは無く、浴場を洗う時などにも役に立つだろう。
「それじゃ、湯を汲み上げてみようぜ」
「そうですね」
風車からシャワー側のセッティングが済んだので、いよいよ湯の汲み上げを開始した。




