ネルドリップ
「それと、お名前を呼んだ四人の戦乙女さん達には、大坂のお土産があります。この場で渡しますか? それともこの後でお酒を振る舞いますけど、その時に?」
この後、買ってきたビールとコルンなどを振る舞う予定なのだが、来客用の館の応接スペースではちょっと手狭な人数になるので、今日はこのまま厨房を利用する予定だ。
「そのお酒というのを我等も頂けるのでしたら、その時にお出し下さい」
「「……」」
グリムゲルデが代表して言うと、他の三人のワルキューレも頷いた。
「了解しました。それじゃ俺は片付けと用意をしちゃうので、その間に入浴とか用事を済ませようって方は、どうぞ行って来て下さい。と言うか、何人かは子供達の入浴の面倒を見て頂けると」
里の子供達も、短期間の内に大分しっかりしてきているのだが、まだ目の届かないところで全てをやらせるには不安が残る。
「それでは私が」
「あたしも」
「あたしもぉ、雫様のお供で行って参りますぅ」
天と志乃ちゃん、そして夕霧さんが申し出てくれた。
「俺も飲む前に行ってくるかな」
男湯の方は、正恒さんが面倒を見てくれるようだ。
「良太。洗い物はあたしが引き受けるよ」
「そうですか? 別に俺がやりますけど」
里の流しは使い勝手がいいので、洗う食器の量が多くてもそれ程苦にならない。
「余も姉上をお手伝いしますので、兄上は心置き無く珈琲の方の準備をお願いします!」
「ああ、そっちの方の用意もあるんだったね。それじゃお言葉に甘えようかな」
酒とつまみにコーヒーまでとなると少し時間が掛かりそうなので、ここはおりょうさんと頼華ちゃんの好意に甘える方が良さそうだ。
「御主人! あたいもお手伝いするよ!」
「俺も何か手伝おう」
「有難う。とりあえず厨房に行こうか」
特に申し合わせた訳では無いのだが、偶然にも浦賀から一緒に旅に出たメンバーが厨房に集う形になった。
「それじゃ洗い物は、頼華ちゃんと黒ちゃんに任せるね」
「わかりました!」
「おう!」
皿も食器も大量にあるが、二人に任せれば問題は無いだろう。
「おりょうさんには茹でてある蛸の足を切って貰って、白ちゃんには枝豆を茹でて貰おうかな」
「ちっと歯応えがあるから、少し薄めに引こうかねぇ」
「承知した」
特に細かい指示を出さなくても、おりょうさんも白ちゃんも作業に取り掛かった。
「さて、俺も始めるか」
ドラウプニールからコーヒー豆の入った大きな麻袋を取り出し、とりあえず両手でひと掬い分くらいの量を笊に出した。
目に入る範囲で粒の形が悪かったり色がおかしかったりする豆を取り除き、現代のように輸送や管理の状況が良いとは思えないので、先ずはコーヒー豆を水洗いする。
米を研ぐ様に少し強めに豆を洗うと、汚れなどと一緒に表面の薄皮も取れていく。
洗い終わった豆を布の上に並べ、上からも布を被せて水分を取り、そのまま放置して焙煎とその後の準備に入る。
「今回はこれでいいな」
元の世界から買ってきたフライパンをドラウプニールから取り出して竈の上に置き、これもドラウプニールから取り出した少量の純鉄に気を送り込んで針金状にして、更に金魚すくいに使うポイのような形状に加工する。
ポイのような形の輪の部分に蜘蛛の糸で袋状の布を編み込んで、取っ手代わりの木の端材に固定して、ネルのコーヒードリッパーの完成だ。
「お次は、と」
フライパンに水気を取ったコーヒー豆を広げ、気を送り込んで熱を加えていくと、豆の表面の皮がパチパチと音を立てながら弾け始めた。
一ハゼと呼ばれる皮の弾ける状態が過ぎると豆からのコーヒーの香りが目立ち始め、暫くすると今度は鈍い音が出てくる二ハゼという状態になる。
二ハゼが始まってからどれくらい火を入れるかによって焙煎度合いが違ってくるので、ここからは色と香りを気にしながら慎重に作業をする。
「こんなもんかな」
豆自体の性質がわからないので、今回は無難にミディアムローストくらいの焙煎度合いにしておく。
もしも苦味が強い種類のコーヒー豆をフレンチローストとかの深煎りにしてしまうと、俺やおりょうさんは良くても、頼華ちゃんや飲み慣れない人間には厳しいからだ。
「熱を奪って……焙煎すると、また変な豆が出てくるんだな」
火を入れたコーヒー豆は放っておくと、予熱でどんどん焙煎度合いが進んでいってしまうので、炎の能力で余計な熱を奪い去り、変な色になっていたりする豆を取り除く。
(ここからは力技だな)
ミルが無いので、擂り鉢と擂り粉木でコーヒー豆を粉にしていく。
しかし手間は掛かるが粉の細かさを手で調整出来るので、決して悪い事ばかりでは無い。
「ああ、焙煎してる時もだったけど、粉になると珈琲はいい香りがするねぇ」
「品種はわかりませんけど、いい香りがしますね」
向こうの世界に滞在中に、すっかりコーヒー好きになったおりょうさんが、包丁を持つ手を止めて香りを嗅いで、目を細めている。
「凄く甘い香りだけど、これが苦いの?」
「このくらいだとほろ苦いくらいかな? もう少し焙煎するとかなり苦くなるけど」
飲み慣れると深煎の豆を使ったエスプレッソにも、苦さの中に甘さを感じたりするのだが、初心者の黒ちゃんに無理に飲ませたりはする気は無い。
「……これで良し、と」
焙煎の方をミドルローストにしたので、ネルドリップという事もあって粉にする方も中挽きくらいにしておいた。
ドリッパーに粉にしたコーヒーを木の匙で入れ、竈に水を入れた鉄瓶を置いて気を込めて湯を沸かす。
(注ぎ口が細いケトルとかも欲しいなぁ)
元の世界の自宅で使っていたケトルを思い浮かべてそんな事を考えるが、それでもヤカンよりは鉄瓶の方が、注ぐ湯の量を調整し易い。
(コーヒーサーバーは無いから……鍋でいいか)
サーバーの代わりは急須にしようかと思ったのだが、食後の現在は使用中という事もあり、熱して保温も出来るので手鍋で抽出したコーヒーを受ける。
「……」
沸かした湯を、先ずはコーヒーの粉全体を湿らせるように掛け回す。
粉が膨らんだような状態になったら、中心に糸を引くような感じに湯を少しずつ注いでいく。
この湯の注ぎ方は色んな流儀があるのだが、正直言えば豆の種類と焙煎度合い、粉の細かさの差の方が風味への影響は大きいと思う。
「……よし」
かなり精神を集中をしての、一回目のコーヒーを淹れ終わった。
別の鍋を用意して二度目のコーヒーを淹れたが、これはいつでも飲めるようにする為の作りおきだ。
焙煎もミル無しで豆を挽くのも手間だが、こうしてドラウプニールに保存しておけば、風味が抜けてしまう事も冷める事も無いので非常に便利だ。
「こういう時に、カップがあればって思っちゃうなぁ」
仕方無く湯呑に注ぐが、コーヒーが手に入ったのでカップの方も早期に入手したいところだ。
「良太。こっちは用意出来たよ」
「これは綺麗に盛り付けましたね」
「うふふ、そうだろぉ」
おりょうさんは茹でた蛸の足を刺し身に引いただけでは無く、花が咲いたような形に皿に盛り付けて、見た目も考えてくれてある。
「俺の方も茹で上がったぞ」
「これは、鮮やかな緑色に茹で上がったね」
白ちゃんの方も、色良く茹で上がった枝豆の鞘を、ちゃんと外して笊に盛ってある。
「兄上! 洗い物完了です!」
「御主人。湯呑と箸と小皿があればいい?」
「二人共お疲れ様。そうだね、後は枝豆の鞘を入れる皿があればいいかな」
「わかりました!」
「おう!」
頼華ちゃんと黒ちゃんが、手早く湯呑と箸と小皿を揃え、盆に纏めて置いてからドラウプニールに収納して、これで準備は完了だ。
「それでは、お疲れさまです」
「「「お疲れ様です」」」
乾杯するような名目が何も無いので、一週間と今日のお疲れ様を兼ねて、各自がコーヒーやビールなどの注がれた湯呑を掲げた。
「……ガーリンさん、良い豆を売ってくれたんですね」
「本当だねぇ。良太の焙煎と淹れ方も良かったんだろうけど、この旨さは豆のお陰だろうねぇ」
おりょうさんに焙煎と淹れ方へのお褒めの言葉を頂いたが、コーヒーの味の良さの半分以上はガーリンさんが売ってくれた豆の手柄だろう。
「むぅ……焙煎が弱めなので控えめとは言っても、これは苦味の多い豆の品種のようですね」
キリマンジャロと同じ系統に思えるコーヒーは、俺とおりょうさんには心地良く切れのある苦味に感じるのだが、頼華ちゃんのお好みでは無かったらしい。
「無理しないで、砂糖と牛の乳をいれるといいよ。黒ちゃんもいる?」
「……」
一口コーヒーを飲んで眉をしかめ、何も言わない黒ちゃんに訊いてみた。
「……御主人と姐さんが旨そうに飲んでたから、あたいの舌が変なのかと思ってた」
「いや、苦いって言ってくれても良かったんだよ?」
「うん。頼華も苦いと思ってたみたいだから、安心した」
どうやら俺とおりょうさんが平然とどころか、おいしそうにコーヒーを飲んでいたので、黒ちゃんは自分の味覚に自身を持てずに苦いと言い出せなかったらしい。
「黒ちゃんも、砂糖と牛の乳……っと、これも出そうか」
俺は小さな瓶に入れておいた物を取り出した。
「御主人、これって?」
「牛の乳を撹拌して、出来た奴だよ」
瓶の中身は牛乳を撹拌して出来た、生クリームだ。
「ああ、今日の汁にも入ってたあれだね!」
「そうそう」
牛乳の湯煎から撹拌の作業は、黒ちゃんにはもう何度もやって貰っているし、生クリームという名称は知らなくても、今日のヴィシソワーズのような料理やお菓子の材料として何度も使っているので、覚えていたのだろう。
「では余も牛の乳では無く、くりーむの方を。ん……なんとも上品で、豊かな味に生まれ変わりました!」
「ら、頼華、ほんと!? そいじゃあたいも」
「それは入れ過ぎだと思うけど……」
頼華ちゃんもコーヒーの表面が隠れるくらいの量を入れていたが、黒ちゃんは湯呑の縁ぎりぎりくらいまでクリームを入れた。
「うん! なんか苦味が穏やかになって、香ばしい風味になったよ!」
「そ、そう……」
「まあ、いいんじゃないのかい……」
俺もおりょうさんもカフェオレとかは好きなので、別にブラック至上主義という訳では無いのだが、さすがに黒ちゃんの飲み方はコーヒーの持ち味を殺しているような気がする。
「頼永様。麦酒のお味はどうですか?」
とりあえず頼華ちゃんも黒ちゃんも満足そうなので、ビール初体験の頼永様に感想を訊いてみた。
「この口の中で弾ける感じは心地良いですが、苦味が少し気になりますね」
頼永様は、正に苦い物を口にしたという感じの表情をしている。
「おりょうさんが言うには、食べ物を合わせると悪くないって事なんですけど」
「食べ物と? それでは合わせて見ましょうか……む。確かのこの茹でた豆を食べてからだと、不思議と合いますね」
俺の父親が好きだったビールに枝豆という組み合わせは、どうやらこっちの世界でも鉄板らしい。
「でも頭領様。多分ですが蛸は合わないと思いますねぇ」
「ああ、そうかもしれませんね」
ビール好きの俺の父親でも、種類にもよるが『刺し身には清酒だな』と良く言っていたので、おりょうさんが先手を打ったように蛸には合わないかもしれない。
「……いや、私はこれはこれで嫌いではありませんよ」
「おやそうですか?」
おりょうさんが少し驚いているが、頼永様が嘘を言うとは思えない。
「ん……確かに、以外に麦酒の味が邪魔をしませんけど、清酒のようにお互い引き立て合うって感じじゃありませんねぇ」
「ああ、それは確かに、りょう殿の仰る通りですね」
(要するに、マリアージュをしているとは言い難いけど、ミスマッチでは無いって事か?)
酒と合う食品というのは、原料になっている作物が何かによると言われている。
米が原料の清酒は御飯のおかずになるような食品が合い、ビールやウィスキーにはパンと一緒に食べるような食品が合うという考え方だ。
この考え方は概ね間違っていないと思うが、さっきの頼永様とおりょうさんのように、最終的には個人の嗜好によるという結論になると個人的には考えている。
それに、主食になるような米や麦はともかく、葡萄から醸造されているワインはどうなんだという話になってくる。
外国では葡萄やフルーツと肉を一緒に煮込んだり、ローストした肉にジャムを塗ってフルーツのソースを掛けて食べたりするが、あまり一般的とは言えないだろう。
「頭領様。麦酒も良いですが、こっちも如何ですか?」
「そうですぞ。先ずは一献」
ドランさんとブルムさんが、コルンの注がれた小さな酒盃を掲げた。
「酒精はきついが後口はさっぱりしてるから、ある意味なんにでも合うかもしれませんな」
「ほう? それでは一つ頂きましょうか」
正恒さんからも言われて、湯呑を置いた頼永様はコルンの注がれた酒盃を手に取った。
「む? これは……」
頼永様はコルンの強いアルコールの風味に眉をひそめると、一度は口元に近づけた酒盃を卓上に戻した。
「清酒と比べるとかなり強いですから、無理はされない方が」
元の世界のコルンとこっちの物が同じ製法だとすると、アルコール度数は清酒の三倍近くある。
「良太殿の言う通りですよ、あなた」
「うむ。そうなのだが……」
珍しい酒であるコルンに未練があるのか、頼永様は置かれた酒盃をちらちらと見ている。
「……あ、そうだ。頼永様、ちょっと待ってて下さい」
「良太殿?」
俺は断りを入れると、席を立った。
「少しつまみの追加も用意するか」
俺は用を済ますついでに鍋で湯を沸かし、ドラウプニールから数本取り出した猪と鹿のソーセージを茹でてから、食べやすい大きさにスライスした。
大きな塊のチーズも取り出し、こちらも一口サイズに切って皿に盛り付けた。
「お待たせしました」
「これは酒のつまみと、氷ですか?」
「そうです。こう、湯呑に氷を入れて、そこにこれを」
俺は酒盃に注がれていたコルンを、氷が入っている湯呑に移した。
要するにウィスキーなどでもやられている、オン・ザ・ロックという奴だ。
「こうすると味と香りが抑えられて口当たりが柔らかくなるのと、少しずつ氷が溶けての味の変化が楽しめます」
この辺は俺自身は勿論試した事は無く、全て父親からの受け売りとネットの知識だ。
「ほほぅ。む、確かに、鼻を近づけただけでもきつかった風味は、それ程感じなくなっていますね。それでは……」
むせ返るようなアルコールを感じなくなったからか、今度は穏やかな笑みを浮かべたまま、頼永様はコルンの注がれた湯呑に口を付けた。
「ふむ。喉を通る時にはカッと熱くなるが、微かに麦が香る後口は悪くないですな。良太殿、有難う」
「どう致しまして」
度数の強い酒に関しても、氷や水を入れて味を薄めるのは邪道とかいう人もいるらしいが、言いたい事はわからなくも無いけど、それだとカクテルとかは成り立たなくなってしまう。
本当の味を知る為に一度はストレートで飲めとかいう意見ならば、一応は納得出来る。
「良太殿、こちらは腸詰と?」
「それは乾酪と言いまして、牛の乳を加工して固めた物です。少し塩気が強くて癖がありますが、俺の父親は良く酒のつまみにしていました」
「まあ、乾酪! 良太様。私も頂いて宜しいですか?」
「勿論ですよ」
チーズが好物なのか、ブリュンヒルドが欲しがったので小皿に分けた。
「ゲルヒルデ。ブロートを一つ貰ってもいい?」
「どうぞ」
留守番と迎えを請け負ってくれた四人のワルキューレ達の前には、俺とおりょうさんが昼食の時に入った店で、歌ったのを聴いた客からの奢りという事で貰ったソーセージやアイスヴァイン、ライ麦パンやザワークラウトなどが並んでいる。
ブリュンヒルドに問い掛けられたゲルヒルデは、ライ麦パンの乗った皿を手で持って差し出した。
「ああ、おいしい……良太様の国は、どうして何を食べてもおいしいのでしょう」
ブリュンヒルドはライ麦パンにチーズとソーセージを挟んで一口食べると、湯呑に残っていたビールを煽って、満足の溜め息を漏らしながら呟いた。
「あの、乾酪もパンも、俺の国の料理って訳じゃ……」
腸詰めは肉も加工も自分達の手で行った物だが、こっちの世界の日本の料理と言えるかは微妙だ。
チーズに関しては那古野に行った時にブルムさんから買った物で、産地がどこの国なのかは全く知らないが、少なくともメードインジャパンでは無いだろう。
(それにしても、ワルキューレ達の地元の悪口は言いたくないけど、食事情は相当に悪いみたいだな……)
以前から断片的に情報として聞いているが、こっちの世界の北欧は色んな意味で生きるのに厳しい地域らしい。
「本当に。ブロートにも腸詰にも合うわぁ」
「ふむ。彼女達の様子を見ていると、乾酪も腸詰めも酒に合いそうですな。それでは……」
意を決したような表情になった頼永様は、箸で摘んだチーズを控えめに一口食べた。
「む。牛の乳が原料だと言うのに、この風味はまるで塩辛のような。ここで酒を……おお、舌の上に残る風味と塩気が酒の味と溶け合って豊かに感じ、その後でさっぱりと洗い流してくれるのですね!」
「頼永様。その酒でそういう風に感じるなら、ビールも大丈夫だと思いますよ」
「そうですね。試してみましょう」
「どうぞ」
コルンとは別の湯呑にビールを注いで、頼永様に手渡した。
「では今度は腸詰めを食べて。ん……成る程。このびーるも、こるんもそうですが、どうやら油が多かったりする食べ物との相性が良いみたいですね」
「そういえば、鮎の天ぷらとビールは相性がいいって聞いた事がありますね」
「ほうほう。丁度試すには良い時期ですね」
「あなた……」
「む……」
飲み過ぎを諭すように雫様が呼びかけると、頼永様がバツの悪そうな表情になった。




