スペシャルソース
「あまり量を多く入れると温度が下がってしまうので、五、六個ずつくらいを目安に油に入れて下さい」
「はい」
ブリュンヒルドに手本を見せる為と味見の為なので、現在は油の中には、パン粉の衣をつけた鱪の身は二個しか入れていない。
「衣の色が変わったら裏返して、出てくる泡が少なく小さくなったら出来上がりです」
「わかりました」
菜箸で摘んで軽く油を切ってから、網を置いてある純鉄のバットの上に、揚げたての鱪のフライを置いた。
「黒ちゃん、出来上がったのをくれる?」
「おう!」
油の切れた鱪のフライを俎板に移動して一口サイズに切り分け、それを小皿に盛り付けてから黒ちゃんの労作であるタルタルソースを掛けた。
「さあ、味見をどうぞ」
野菜を切っていた頼華ちゃんと、じゃが芋に火を通し終わったお糸ちゃんにも、一度手を止めて貰った。
「切り口は綺麗だねぇ」
捌く前の見た目の悪さが気になっているのか、おりょうさんは箸で摘んだ鱪のフライの断面を、しげしげと眺めている。
「姉上! 兄上があれだけおいしいと仰っていたのですから、なにはともあれ頂いてみましょう!」
おりょうさんは少し躊躇気味だが、頼華ちゃんはタルタルソースが好きなのもあって、早く食べたいようだ。
「そうだねぇ。そいじゃ、頂きます」
「「「頂きます」」」
おりょうさんが口火を切ると、皆も一斉に手を伸ばした。
「……え、ええー。良太これ、凄く旨いじゃないか!」
「そう言いましたよね? うん。久しぶりだけど旨いな」
この口ぶりと驚きぶりを見ると、おりょうさんは食べる直前まで鱪の味を疑っていたらしい。
「ふわぁ……サクサクの歯応えの後で、ふわふわの身の旨味が口の中で広がって、これはおいしいですね!」
「でしょう?」
「はい! 魚の揚げ物はこれまでにも色々と頂きましたが、これはその中でも一、二位を争う程の味です! 失礼ながら以前に食べた時の印象が強かったので、余は少しですが兄上を疑っていたのです!」
「そうなんだ」
「ですが、今日でシビトクライへの印象が変わりました! どうか愚かな考えをしていた余をお許し下さい!」
「そりゃ許すけど、シビトクライじゃ無くて鱪ね?」
シビトクライという印象の良くない名前を、鱪を知らない人間に覚えられると困るので、頼華ちゃんに念を押した。
(調理の仕方で全く印象の変わる食材って、あるからなぁ)
例えば銀宝という魚は、刺し身でも食べられるが身は蛋白で弾力があり過ぎて、必ずしもおいしいとは言えない。
ところが銀宝は天ぷらにすると、調理法との相性の良さなのか非常に上品で豊かな味わいに変化をして、食通に『銀宝を食べずに天ぷらを語るな』とまで言わせるおいしさになるのだ。
「うまーい! 御主人、この揚げ物もたるたるも凄く旨いよ!」
「熱いけどおいしいです!」
黒ちゃんとお糸ちゃんにも、鱪のフライは好評だ。
「「……」」
「あの、ブリュンヒルドさん、ヘルムヴィーゲさん?」
「「はっ!?」」
何故か二人共、鱪のフライをひと口食べた状態でボーッとしていたので声を掛けたら、ビクッと跳ね起きるような激しい反応をした。
「「も、申し訳ございません!」」
「別に申し訳ないって事も無いですけど」
二人は揃ってペコペコと頭を下げた。
「今までの良太様のお料理も凄かったですが、これはおいし過ぎて呆然としておりました」
「そんなにですか?」
久々に食べる鱪のフライトタルタルソースの組み合わせは、俺も旨いと思ったが、流石に我を忘れる程では無い。
「私もですぅ。これ、後でもっと食べられるのですよね?」
「ええ」
「素敵♪」
鱪のフライの残りを口にして、ヘルムヴィーゲは御満悦だ。
(こりゃ、もっと用意しておいた方が良さそうかな?)
「黒ちゃん。悪いんだけどタルタルを、もう一回分作ってくれる」
「おう! でも、多過ぎない?」
「そうなんだけどね」
黒ちゃんが作ってくれたタルタルソースも、里の住人の数に合わせて今の時点でも大量なのだが、鱪のフライが予想以上に好評だった。
実はタルタルソースは少しアレンジする予定なのだが、それは黒ちゃんが作った分から分ける予定だった。
しかし、フライを多く上げる分だけタルタルソースも必要になるので、それならば別に作ってしまおうと考えたのだった。
「いっぱい作れば、いっぱい乗っけて食べられるんだよね?」
「ま、まあね」
「なら、あたいに任せといて!」
「う、うん……」
(黒ちゃんが、何時に無くやる気になってるな……まあ材料はあるからいいか)
元々、黒ちゃんはお手伝いは積極的にやってくれる方だが、自分が食べておいしい物となると、やる気が増量するようだ。
幸いな事に里の鶏が生んでくれた卵はまだあるので、マヨネーズと茹で卵を追加で作れる。
「ブリュンヒルドさん。揚げる量が多くなりそうなんですけど大丈夫ですか?」
「このおいしさの為でしたら、何も苦にはなりません! 私にお任せ下さい!」
「は、はぁ……」
どうやら鱪のフライを食べてやる気になったのは、黒ちゃんだけでは無かったようだ。
「……おりょうさん」
「切り身の追加だね? 任しときな」
「あ、はい」
鱪のフライのおいしさは、おりょうさんのやる気にも火を点けた。
「主人。お芋が潰し終わりました!」
「どれどれ。ん……うん。良く出来たね。そしたらここに鶏から取った出汁と、牛の乳を少しずつ入れて伸ばして、これを笊で濾して、っと」
ミキサーやブレンダーでもあれば楽なのだが、笊で濾すのは非常に手間が掛かる。
しかし笊で濾す手間の分だけ、仕上がりの滑らかさは段違いだ。
「後は味を見ながら塩で調整……」
「主人、どうかされましたか? はっ! あ、あたしが何か失敗を!?」
「いやいやいや。そうじゃ無くてね」
俺が味見をしたまま動きを停めてしまったので、お糸ちゃんは自分が何かを失敗したと勘違いしたらしい。
「お糸ちゃんが作ってくれたからかな? なんか異様においしいんだよね」
「えっ!? えぇー……」
(凄く可愛く照れてるな)
やはり幼くても女性なので、お糸ちゃんも料理を褒められると嬉しいようだ。
お糸ちゃんのが両頬に手を添えて照れる仕草は、凄く可愛らしく見える。
「そんなに旨いのかい?」
「そうなんですよ。おりょうさんも味見をどうぞ」
「そうかい? そいじゃ……こ、これは芋の味が凄いのかい? 凄く豊かで上品な甘さと味がするよ」
「やっぱりそうですよね。里で育った野菜だからかなぁ?」
お糸ちゃんが焦げないように丁寧にじゃが芋を調理してくれたというのも、間違い無くおいしさの要因だと思うのだが、それだけでは説明出来ない程の味わいを、おりょうさんも感じ取ったみたいだ。
「お糸ちゃんも、味見して御覧」
「は、はい! ん……ん!? こ、これ、凄くおいしいです!」
「そうだよね」
(でも、なんで他の里の産物では……あ、量というか割合の多さか)
さっきもタルタルソースの材料に、里で収穫した玉ねぎを使ったのだが、いま味見をしたじゃが芋程の異様なおいしさは感じなかった。
そこで考えたのだが、玉ねぎがどれだけおいしくてもタルタルソースの構成要素のほんの一部でしか無く、ほぼじゃが芋で出来ている料理とは使われている割合が違うという結論に達した。
「あ、兄上。余にも是非とも味見を」
「いいよ」
じゃが芋好きな頼華ちゃんは、俺達の反応を見ていて我慢出来なくなったらしい。
「はい」
「有難うございます! ん……お、おお! これはなんという滑らかさに、豊かな甘さ!」
「これでまだ、仕上げの前なんだよね」
「なんと! これ以上旨くなると仰りますか!?」
「うん。でもそれは、後でのお楽しみにね」
「わかりました!」
期待感に顔を輝かせながら、頼華ちゃんは作業に戻った。
「さて、それじゃ俺は次に……」
俺はおりょうさんが下ろしてくれた伊勢海老の、鉢に山盛りなった殻と頭を手に取った。
「主人。あたしは次に何をしましょう?」
「お糸ちゃんは、そうだな……あ、赤茄子をこの間教えたみたいに、皮を剥いて角切りにしてくれるかな。二個くらい」
「わかりました!」
お糸ちゃんは俺の指示に従って、トマトの皮を剥く準備にヘタの方にフォークを突き刺した。
(お糸ちゃんの準備が出来る前に……)
大きなフライパンを取り出し、オリーブオイルを入れて熱して玉ねぎの微塵切りを入れて炒め、色が変わったら伊勢海老の殻と頭を入れる。
「ふんっ!」
バキバキッ!
木杓子で伊勢海老の殻と頭を、音を立てて砕きながら混ぜていく。
「主人。出来ました!」
「有難う」
お糸ちゃんが用意してくれた、皮を剥いた角切りのトマトを入れて更に潰しながら混ぜて、塩と酒を振り入れて煮込む。
「こんなもんかな。そしたら……」
伊勢海老のエキスとミソ、トマトが溶け合って味が良くでたところで、布を敷いた笊に煮汁を流し込んで濾す。
「なんか凄い音が出てたねぇ」
「こればっかりは、力技でして」
元の世界の外国製のハイパワーなミキサーでもあれば、お任せで出来る作業なのだが、硬い伊勢海老の殻と頭は、力で強引に潰さなければならないのだった。
おりょうさんが指摘するように料理とは思えない音が厨房に鳴り響いたので、俺は苦笑しながら言い訳するしか無かった。
「主人。それはなんのお料理になるのですか?」
「これは単独では料理にはならないんだよ」
「そうなのですか?」
「うん」
お糸ちゃんが気になる煮汁は、後で仕上げをする為に冷ます必要がある。
「さて、咖喱の仕上げをしようか」
「はいっ!」
お糸ちゃんの元気の良い返事を受けながら、俺は下拵えが終わっている肉と、魚介類の盛られた鉢を手に取った。
「今晩は、良太殿。これは良い香りですね」
「今晩は、頼永様」
「父上、ようこそ!」
無事に鎌倉から到着した頼永様が、厨房に顔を出して挨拶をしてくれた。
父親である頼永様の顔を見た頼華ちゃんは、ぱあっと表情を明るくした。
「頼永様。大坂に行って外国の酒を買ってきましたので、後で味見をして下さい」
「それはそれは。咖喱以外にも楽しみがあるとは嬉しいですね」
「支度にはもう少し掛かりますから、宜しければ食事の前に入浴をなさっては?」
「お言葉に甘えて、そうさせて頂きます」
「それでは、また後程」
「ええ」
頼永様は微笑みながら、厨房を後にした。
「今晩は、鈴白さん」
「今晩は、ドランさん」
頼永様と入れ替わりに、江戸からドランさんも到着して顔を出してくれた。
「頼永様にも言ったんですけど、大坂でドランさんの故郷でも飲まれている酒を買ってきましたよ」
「ここに来るまでに、ブルムの奴に聞きました。後程ゆっくり頂きますよ」
「そうして下さい。ドランさんも、良ければお先に風呂をどうぞ」
「そうしますか」
飲み慣れた酒に風呂と聞いて、ドランさんは御機嫌だ。
「良太。湯が沸いたよ」
「有難うございます。それじゃ少し冷めたら、これを」
ガーリンさんの商会から買ってきたカモミールを、蜘蛛の糸製の簡易ティーバッグに入れて、大鍋で沸かして少し冷ました湯の中に放り込んだ。
中には口に合わない者も居ると思うが、とりあえずは里の全員が飲んでも大丈夫くらいな量のカモミールティーを作った。
「良太。良けりゃ食後に珈琲が飲みたいな、なんて」
「構いませんけど、試飲はしていませんよ?」
運良く手に入ったコーヒーを、おりょうさんが飲みたいという気持ちは良く分かるのだが、まだ生豆の状態で焙煎もしていないし、おいしいかどうかもわからない。
「勿論、そんなに大きな期待はしちゃいないけどねぇ。でも、せっかくだから」
「わかりました。なら食後に淹れましょう」
「うん!」
「兄上! 無論ですが余も飲みたいです!」
「了解」
「御主人。その、こーひーとか言うの、そんなに旨いの?」
「俺は好きだけどね」
おりょうさんの飲むのが待ち遠しいという表情や、頼華ちゃんが積極的に飲みたいと言ってきているのを見て、黒ちゃんも興味を持ったようだ。
「良太様。宜しければ私にも飲ませて頂ければと」
「ん? ブリュンヒルドさんは、珈琲を飲んだ事があるんですか?」
コーヒーは元の世界で焙煎されて飲まれるようになったのは十三世紀頃だと言われていて、ブリュンヒルド達ワルキューレを含む北欧の神々が信仰される地域に伝わったのは、早くても十六世紀頃だと思われる。
「オルトリンデと一緒にあちらに滞在しました時に、宿の食事にありましたので」
「ああ。そう言えばそうなんでしたっけ」
ブリュンヒルドとオルトリンデは、向こうの世界に行った時におりょうさんと頼華ちゃんと同じホテルに宿泊して、そこの朝食がビュッフェスタイルだったのだ。
ビュッフェには和洋の様々な料理と、飲み物も日本のお茶だけでは無く、コーヒーや紅茶などもあったのだろう。
「黒ちゃんも飲みたいのなら、用意はするけど……」
「な、なんかあるの?」
「必ずしも見た目が良くないのと、苦いよ」
「そ、そうなの!?」
黒ちゃんは初めて食べたり飲んだりする物には意外に慎重なので、俺の言う見た目の良くないという点と、苦さが気になっているみたいだ。
「黒よ。余も慣れるまでは、砂糖と牛の乳をたっぷり入れなければ飲めなかった代物だぞ」
「ああ、そういえばそうだったよね」
(とは言っても、頼華ちゃんは今でも、甘い物との組み合わせの時だけブラックなんだけどね)
向こうの世界の滞在中に、頼華ちゃんはコーヒーをブラックで楽しめるようになったのだが、その方が甘い物の味を損ねないと気がついたからだった。
俺やおりょうさんは休憩や食後にもコーヒーをブラックで飲んでいたが、頼華ちゃんはそういう時にはノンシュガーだと中国茶、他はジュースなどの甘い飲み物を好んだ。
「最初だから黒ちゃんにも、砂糖と牛の乳を用意しようか?」
「う、うん」
(こりゃ他の飲み物も、用意しておいた方が良さそうだな)
予想では黒ちゃんは見た目と苦さで怖気づいて、砂糖と牛乳を入れてもギブアップしそうな気がする。
逆にこの場に居ない白ちゃんとかが飲みたいと言い出しそうなので、少し多めにコーヒーを用意しておこう。
「頂きます」
「「「頂きます」」」
俺の号令で夕食を開始しになった。
(さて、みんなの反応は、っと)
調理中の試食で呆然とするおいしさを味わったので、完成品の料理を食べた時のみんなの反応が気になるので、俺はスプーンを手にしたまま様子を伺う。
「「「……」」」
(予想通りか)
大人数での食事時特有の賑やかさが満たしていた食堂から、カレーとスープと口にした瞬間に音と声が消え去った。
「りょ、良太殿っ!? なんなのですかこれは!?」
「おいしくってボーッとしてしまう事って、あるのですね……」
最初に現実に復帰したのは頼永様、そして雫様だった。
その頼永様もいつもの冷静さを失って席から立ち上がっているし、雫様も大好きなカレーを食べているのの、嬉しさが表に出ずに呆然としている。
「里で栽培された野菜のお陰みたいなんですけど、俺にも詳しくは……」
「し、しかし、この旨さは……」
「あなた。良太殿に失礼ですよ」
「む……失礼。あまりの旨さに我を忘れました」
「いえ。俺達も味見をした時に驚きましたから、お気持ちは良くわかります」
予想通りと言うよりは予想以上の里の野菜の効果で、それは大人だけでは無く子供達もであり、いつもなら料理がおいしいと賑やかに食べるのに、言葉だけでは無く動きまでが停まってしまっている。
「ううむ。咖喱という味と香りの強い料理に、野菜の味と香りが全く劣っておりませんな。これは肉よりも野菜の方が、具材の主役と言っても良いかもしれない」
「その通りですね」
改めて一口食べて頼永様が今日のカレーを評してくれたが、確かに特別に味や香りの強い種類の野菜を入れていないのに、下味をつけた猪の肉の味に負けていない。
「頼永様。口直しにはそのじゃが芋の汁をどうぞ」
「ほう。これはじゃが芋の汁ですか。む? これもまた、豊かな甘さで、しかし食事の邪魔するような菓子のような甘さとは違いますね」
「この冷たさと甘さが、咖喱で火照った口には心地良いですね」
最初のカレーの衝撃が大きかったからか、続くじゃが芋の冷製スープ、ヴィシソワーズを口にしても、頼永様と雫様の動きが停まってしまう事は無かった。
「うわぁ……良太。この桃色のたるたる、凄く旨いね!」
おりょうさんが鱪のフライに、
「潰した海老の殻と頭に赤茄子を入れて煮込んだ物を、タルタルに混ぜたんですよ」
「言われてみりゃ、海の物の風味がするねぇ。このコクは……」
「それは海老のミソだと思います」
「なぁるほどねぇ」
海老の殻と頭を潰して煮込んでアメリケーヌソースっぽいベースを作り、そこにトマトとを加えてタルタルソースに混ぜた。
世界的なファーストフードチェーンの、ビッグなハンバーガーに使われているスペシャルソースに近いレシピだが、使っているのが伊勢海老なので味の深さとコクは比べ物にならない程だ。




