狼だった
「はぁい。みんなぁ」
俺が少し考え込んでいると、パンパンと手を打ち鳴らしながらおりょうさんがやってきた。
「世話焼くのはそんくらいにしといて、お勉強とか畑の世話とかしに行きなぁ」
「「「はい! おりょう姐さん!」」」
男の子も女の子も背筋を伸ばしておりょうさんに返事をすると、文字通り蜘蛛の子を散らすように里のあちこちに駆けていった。
(見事に統率が執れてるな)
特に強い口調で命令をするような感じでは無かったのだが、おりょうさんの号令一下、子供達はそれが当然と言わんばかりに行動を開始したのだった。
「おかえり、良太。黒も」
「ただいま戻りました」
「姐さん、ただいまー!」
自然に距離を詰めて傍に来たおりょうさんは、微笑みを浮かべながら俺と黒ちゃんを迎えてくれた。
(天さんとワルキューレ達はどっかで仕事中かな? 夕霧さんは雫様のところだろうけど)
この場に姿を現していない村の住人や滞在中の人達は、目に見える範囲には居ないようだ。
「そいで白。良太をわざわざ呼び戻したのは、そこの犬になんかあるからなのかい?」
「わざわざって程でも無いですけどね」
今回は時間の短縮に界渡りを使ったが、京から里まで徒歩での移動でも、気分的には散歩と変わらない。
「そうは言ってもねぇ。笹蟹屋に居る子達は、良太と過ごせるのを楽しみにしてるんだし」
「む……確かにそうだな。あいつらには悪い事をしてしまったな」
おりょうさんの言う事が尤もだと思ったらしく、白ちゃんが考え込んでしまった。
「白よ。そう思うなら要件を早く済ませたらどうなのだ?」
「確かに頼華の言う通りだな。おい、いつまでとぼけて飯を食っているつもりだ?」
そう呟きながら、白ちゃんはまだ骨を齧っている犬に近づくと、首根っこを押さえて睨みを効かせた。
「ひぅ! は、腹が減ってたんだよぉ!」
「「「喋った!?」」」
白ちゃん以外のこの場に居る全員が、人の言葉を喋った犬に驚いて声を上げた。
「みんなも驚いてるって事は、白ちゃん以外はこの事は知らなかったんですか?」
「そ、そうだねぇ。白、なんで黙ってたんだい?」
「こいつが里の代表以外とは、口を利かんと強情でな」
「それで、俺を呼んだって訳なんだね」
「そうだ。ほら、貴様の願いを叶えてやったんだ。主殿に言いたい事があるなら、とっとと喋れ」
白い子犬は地面に打ち込んである杭から伸びる、白ちゃん作らしい蜘蛛の糸で作ってある綱で首を繋いであるのだが、その輪になっている部分を持って強引に俺の方を向かせた。
「……ふっ」
「……どういう事?」
俺の方をチラッと見た子犬は鼻で笑うと、途端に興味を失くしたのか顔を逸した。
「こいつがこの場所の代表でお前の主? どう見たってなんの力も無い、普通の人間じゃないか!」
――ザワッ
子犬がそう言った途端に刃のように鋭利な、それでいて極低温の気配が周囲を満たした。
「へぇ……」
「こいつ、兄上を……」
「犬っころ、貴様……」
「御主人、こいつやっちゃってもいいよね?」
「ひぃいっ!?」
「ちょ、ちょっとみんな、落ち着いて!?」
子犬が俺を馬鹿にしたと思った途端に、おりょうさん、頼華ちゃん、白ちゃん、黒ちゃんから、常人が浴びせられたら気絶するんじゃないかというレベルの、尋常では無い殺気が噴出した。
少し前まで強気だった子犬は尻尾を丸め込んで、身体を震わせながらすっかり萎縮してしまっている。
「で、でも、良太ぁ」
「子供達が危ないですから!」
少しだけ視線を俺に向け、甘えるようにおりょうさんが言ってくるが、子供達だけでは無く猪のセーフリームニルや鶏、蜜蜂にも悪影響が出る可能性があるので、とにかくやめさせなければならない。
「……ふぅ。みんな、やめな」
「「「……」」」
おりょうさんが殺気を出すのをやめると、残りのみんなも最後に子犬をひと睨みしてから、凄く不満そうに殺気を引っ込めた。
「貴方様! 何事でございますかっ!」
「良太様! 戦乙女総員、戦闘準備整いましてございます!」
「あちゃー……」
おりょうさん達の発した殺気を感じ取って、九尾の狐モードの天と、白銀の鎧と武器を装備したワルキューレ達が駆け寄ってきた。
里の非常事態だと察して即座に行動に移す、天とワルキューレ達の姿勢は凄く良いと思うのだが、特に何が起きた訳では無いので、俺はなんと言い訳しようかと考えて頭を抱えた。
「し、雫様ぁ! 身重なのですから無理はなさらないで下さいぃ!」
「お黙りなさい夕霧。大恩のあるこの場所の一大事なのですよ?」
「ああ、雫様まで……」
来客用の館で寛いでいたと思われる雫様だが、たすき掛けをして薙刀を帯びた戦闘モードでこちらに近づいており、それを夕霧さんが必死になって宥めている。
「良太様。どうやら敵はそこの動物のようですね」
「えーっと……」
この場には身内以外には、今も白ちゃんに押さえつけられて震えている子犬しか居ないので、ブリュンヒルドが即座に敵と断定した。
「子供達の安全を確保する為に少し出遅れましたが、後は我らにお任せを。総員、投擲用意!」
「「「はっ!」」」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
リーダーのブリュンヒルドの号令の下、訓練された者の動きで扇状に展開したワルキューレ達が、一斉に投槍を構えて狙いを子犬に定めたのだが、俺は惨劇が実行される前に間に立ち塞がった。
「良太様、御安心を。こういう場合には各自がどこを狙うか申し合わせてありますので、万が一にも討ち漏らしや逃走を許す事はございませんので」
「そういう心配をしてる訳じゃありませんから」
ブリュンヒルドの説明だと、ワルキューレ達は頭や心臓などの所謂バイタルエリア狙う者と、逃走防止に四肢を狙う者など、確実に仕留める為の役割分担がされているようだ。
なんて事を、現実逃避に頭の片隅で考えてしまったが、今は子犬の命が掛かっているのでそれどころでは無い。
「と、とにかく、まだ話も訊いていないから、荒事になるにしてもその後で。白ちゃん、とりあえず掴んでる手を放して」
「主殿がそう言うのなら……命拾いしたな。主殿に感謝しろ」
「うぅ……」
押さえつけていた手を白ちゃんが乱暴に放すが、子犬は弱々しく唸るだけで文句の言葉も出てこなかった。
「……あら。何が騒ぎの原因かと思いましたら、山犬ではありませんか」
「山犬?」
「犬って言うな、狐風情が! あたしは狼だ!」
「ああ、そういう事か」
(子犬かと思ったら、狼だった)
狸と貉が同じ種なのかというのと同じような関係で、昔は狼を山犬と呼んでいたとか別の種だとかいう、決着のつかない論争がある。
この俺の目には子犬にしか見えない生き物が本当に狼なのかはわからないが、山犬と呼ばれるのは我慢ならないらしい。
「……あ」
「良太、どうかしたのかい?」
「ちょっと思い出した事があっただけです。気にしないで下さい」
「そうかい?」
俺がポロッと漏らした声を気に留めて、おりょうさんが顔を覗き込んできた。
(そうか。上野の博物館で見た、あの剥製と同じなんだ)
上野にある博物館が好きで何度か訪れているのだが、常設されている日本の歴史関係の展示に、ニホンオオカミの剥製がある。
そのニホンオオカミの剥製と目の前の子犬だと思っていた動物とが、白い毛色以外の体型や頭の形などの特徴が同じな事に気がついたのだ。
ニホンオオカミの剥製を初めて目にした時の個人的な感想は、犬にそっくり、である。
ニホンオオカミはシベリアやアラスカに棲む種とは違って小柄な体躯であり、剥製になった個体が偶々そうだったのかはわからないが、野生の肉食獣とは思えない程に穏やかな顔つきをしているのでそう感じたのだ。
「ふん。偉そうな事を言っていても、その姿では締まりませんわねぇ」
「くっ……」
天が失笑を漏らすと、杭に繋がれ、しかも俺以外のほぼ周囲の全員が自分を狙っているという絶体絶命の状況なので、子犬……では無く狼は、悔しそうに歯噛みするしか出来ないでいる。
「里の一大事と駆けつけましたが、この姿の必要はありませんわね」
「て、天さん!?」
全身が淡い光に包まれたと思ったら、天は九尾の狐の姿から、いつものセクシーダイナマイトな人型に变化したのだが、当然ながら全裸である。
思わず、天の魅惑の肢体に視線が釘付けになりそうになるが、あまりジロジロ見るのも失礼だし、他の女性の裸に注目し続けるとおりょうさんや頼華ちゃんが癇癪を起こしそうな気がするので、意志の力を奮い立たせて顔を背けた。
「きゃっ♪ わたくしったら貴方様の前で、なんてはしたない姿を」
「いいか、早く服を着て下さい……」
身体を捩りながら申し訳程度に手で隠そうとする天は、何故か嬉しそうな笑顔だった。
「……天さん。今はそういうおふざけをするのは、感心しないねぇ」
「ひぅ! りょ、りょう様。お見苦しい物を……」
おりょうさんに凍りつくような冷たい一瞥を受けた天は、顔を引き攣らせながらドラウプニールを使って、一瞬で作務衣姿になった。
「とりあえず大きな危険は無さそうだから、おりょうさんと頼華ちゃん、それと白ちゃんと天さん以外の皆さんは、この場から離れてくれませんか?」
本当は俺一人で狼の話を訊きたいところなのだが、それは静かに怒りを湛えているおりょうさんと頼華ちゃんが許してくれそうに無いので、このくらいが妥協点だろう。
白ちゃんはこの狼を連れてきた当事者だし、天も多少は知っていそうな口ぶりだったので、この場に残って貰う事にした。
「婿殿に姑の私がお役に立つところをお見せしたかったのですが……夕霧、戻りますよ」
「はぁい」
少し残念そうに言いながら雫様は、ドラウプニールに薙刀を仕舞って夕霧さんと一緒にこの場から立ち去った。
「良太様。私達もでございますか?」
「戦乙女の代表として、ブリュンヒルドさんだけ残って下さい」
「「「畏まりました」」」
ブリュンヒルド以外のワルキューレ達は、一礼すると踵を返した。
(防災訓練とかも考えてたけど、偶発的な状況でもみんな冷静に行動してたな)
里は霧の結界のお陰で、ほぼ難攻不落といって良いくらいにセキュリティ体制は整っているのだが、住民の数も随分と増えたので、万が一の防災についての備えとして訓練は行おうかと思っていたのだ。
しかし、今回のような突然の事態が発生した場合に、誰がどの様に動くというのを実際に目にする事が出来たので、そういう意味では狼に感謝するべきかもしれない。
「御主人、あたいも?」
「うん。子供達が不安にしてるかもしれないから、悪いんだけど黒ちゃんの口から、もう大丈夫って伝えて欲しいんだ」
この場に居ない大裳と太陰、それに正恒さんが子供達の傍で面倒を見てくれているのだと思うが、誰かが騒動は終わったと告げる必要がある。
ブリュンヒルドに頼んでも良いのだが、子供達や正恒さんを相手に話すのならば、気心が知れている黒ちゃんの方が適任だろう。
「あ。黒ちゃん。子供達のところに行ったら、紬にこっちに来るように言ってくれるかな」
「おう! でも、なんで?」
「紬は古くからこの辺に棲んでたんだから、もしかしたら知り合いかなと思ってね」
紬とその眷属達は、源頼光とその四天王によって傷つけられ、この里に逃げ込んで長い時を耐え忍んでいた。
目の前で震えている狼と紬達に直接の面識があるかはわからないが、同じ山の中で暮らしていた一族同士、多少の交流はあったかもしれないので、黒ちゃんに連れてきて貰おうと考えたのだった。
「おう! ちょっと待っててね!」
「あ……」
(なんか嫌な予感が……)
「くっ、黒様っ? いったい何事ですの!?」
「御主人! 連れてきたよ!」
「あー……」
(……やっぱりこうなったか)
昨日、笹蟹屋で焔君にしたようにダッシュで走り去った黒ちゃんは、紬を小脇に抱えてダッシュで戻ってきた。
「来るように言ってくれるだけで良かったんだけど……」
「こっちの方が早いでしょ?」
「それはそうかもしれないけどね」
それ程広くは無い里の事なので、皆が集まっていたらしい食堂とはそれ程離れていない。
小柄な紬でもここに来るのに時間が掛かるとは思えないのだが、確かに黒ちゃんが抱えてダッシュする方が早いだろう。
「そ、それで主人、私に何か……って、あら。犬神様の遣いではありませんか?」
「犬神様?」
「え、ええ」
俺がオウム返しに犬神様という単語を口にすると、紬が表情に困惑を浮かべた。
「紬の知り合いなのかい?」
「知り合いと申しますか……我らと同じ様に山に棲み、護っている一族ですね」
「そうなのか」
紬の話し方からすると、蜘蛛と狼は特に交流などは行われていなかったっぽい。
「ええ。尤も我らとは違って、行動範囲は平地にも及んでいたみたいですが」
「成る程」
ニホンオオカミのメインのテリトリーは山地なのだが、時には平地に降りて家畜などを襲うので、元の世界の日本では過去に害獣という扱いを受けていた。
害獣としての駆除と恐らくは病気なども原因で、不確かな目撃例を別にすればニホンオオカミは、元の世界の昭和の初期に絶滅したとされている。
「紬はこの狼が居るのには、気がついていなかったの?」
「子供達が何やら騒いでいるのを知ってはおりましたが、主人のお役に立てるようにと鍛錬と勉学の方に集中していましたもので」
「そ、そうか」
紬の真の姿は数百年を生きている蜘蛛の妖だし、鍛錬や勉強に対して真面目なのは良い事なのだが、考え方や話し方と幼い見た目のギャップで違和感が凄い。
「む? この気配は……お前、人の姿なんかしてるけど、土蜘蛛だな!」
交流は無かったみたいがだ、多少なりとも知っている存在である土蜘蛛、紬の気配を感じ取った狼は、少しだが活力を取り戻したようだ。
「確かにこの子は土蜘蛛の末裔だけど、さっきまで居た子供達もなんだけどなぁ」
何故、狼は紬の気配には反応して、周囲を取り囲んでいた子供達には無反応だったのかが謎である。
「言われてみれば、そこの土蜘蛛程は強そうじゃ無かったが、人とは少し違っていた気もするな……」
どうやら同じ土蜘蛛の末裔とは言っても気配というか、気の総量や質の違いで、狼にとって子供達は警戒する程の相手ではなかった、という事らしい。
「土蜘蛛の親玉が出てきたのならば話は早い。そこの人間がこの場所の代表というのは、こいつの嘘なんだろう?」
狼が視線と鼻先を向けるので、そこの人間というのは俺の事で、こいつというのが白ちゃんの事だというのは紬にもわかった筈だ。
「はぁ? あなたいったい、何を仰っているんですの?」
狼が心底何を言っているのかわからないと、不快感を顕にした表情を隠そうともしないで紬が語っているが、俺には子供が精一杯背伸びをして、大人っぽく振る舞っているようにしか見えない。
「そちらの白様も強大な御方なのは間違いありませんけど、我らが主人にしてこの場所の支配者は、こちらの良太様に決まっているではありませんか」
「いや、支配者っていうのとは……」
「「「……」」」
里を支配している自覚は無いので訂正して貰おうかと思ったのだが、この場に居る俺と狼以外の全員が『良く言った』という感じの満足そうな表情で、うんうんと頷いている。
「ちょ、ちょっと待てっ! あたしを捕まえたそいつは、気配からすると京で暴れまわった鵺だろう? それに権力者を誑かした九尾の狐まで居るのに、普通の人間の方が上だって言うのかよ!?」
流石に京を荒らし回った鵺と白面金毛九尾に関しては、山の中が主なテリトリーである狼も知っていたらしい。
「当たり前だろう」
「当たり前でございますわねぇ」
「な……」
狼の表情の変化というのは良くわからないのだが、白ちゃんと天の言葉を受けて口をポカンと開いて絶句しているので、驚いているのだろうというのはわかる。
「やれやれ。弱者と力を秘している強者との違いがわからんとは……主殿。面倒を掛けるが、こいつに少しだけ思い知らせてやれ」
「ええ……でも、必要も無いのに暴力は」
脳筋ならば、殴り合って実力を知らしめるというコミュニケーションもありなのかもしれないが、出来れば俺はそういうのは勘弁して欲しい。
「殴る方が手っ取り早い気もするのだが。なぁに、主殿が普段は抑えている気をだな、少しだけ開放してやれば良い」
「……殺気は危ないよ?」
江戸の鰻屋の大前で、頼華ちゃんが源家の息女だという身分を隠して働いていたのが徳川家の家宗様にバレてしまい、まだお互いに親しくなかったので敵対的な行動をしてくると勘違いした俺は、思いっきり殺気を放ってしまい、店の人達や客に多大な迷惑を掛けてしまったのだ。
(あの時は、おりょうさんと頼華ちゃんは辛うじて平気だったけど、すぐ近くに居た黒ちゃんと白ちゃんは、ぐったりしちゃってたからなぁ……)
自分自身の事は良くわからないのだが、制限を掛けずに放つ俺の殺気は、至近距離なら鵺である黒ちゃんと白ちゃんを萎縮させるくらいの威力はあるらしい、というのは把握している。




