炭酸カリウム
「出汁の支度もしといちゃおうかな」
黒ちゃんが厨房を出てからカステラを人数分切って菓子皿に盛り付け、急須と湯呑と盆を用意をし終わってから、水を張った鍋に軽く洗った昆布を入れた。
今日は関西風のうどんのつゆにしようと思うので、鰹節だけでは無く昆布との合わせ出汁にする。
「……出来るかな?」
今回は削り鰹では無く粉末状にして出汁を取ろう思うのだが、金槌などで荒く砕いて擂り鉢で細かくするのが面倒なので、試しに手に持った鰹節をギュッと握ってみた。
「……少し細かくなり過ぎたな」
結論から言えば、世界一硬い発酵食品と言われる鰹節は、俺の手の中であっさりと砕けて、文字通り粉々になった。
自分の握力がどの程度なのか検証はしていないが、握り続けていれば粉々になった鰹節が圧縮されて、再び固形になりそうな気がしなくもない。
「御主人、お待たせ!」
「主様、参りました」
元気な黒ちゃんとは対象的に、天后が静々と厨房に入ってきた。
「俺達はここで飲みますから、子供達とブルムさんの分のお茶とお菓子を運んで欲しいんですけど……ちょっと数が多いですね」
七人分なので湯呑だけでも盆の上がいっぱいで、天后が一人で運ぶのは大変そうだ。
「俺も……」
「主様、大丈夫です。こう見えて私は力はありますから」
手伝うと言おうとしたが、優美に微笑む天后に遮られた。
「あら? このお菓子、私は初めて拝見します」
「そうですか? これは外国のお菓子を日本で再現した、家主貞良と言います」
ポルトガルから伝わったと言われるカステラだが、原型と言われる『パン・デ・ロー』という菓子との共通点は、小麦粉、砂糖、卵を用いて作られるという点くらいで、見た目も味も相当に異なる。
どれくらい異なっているかというと、ポルトガルで日本式のカステラを販売する店が開かれても、現地の人は外国の菓子だとしか思わなかったくらいには異なっている。
「安くない菓子だけど、御主人のお陰で食べられるんだぞ! 有り難く頂け!」
「別に言わないでもいいのに……」
銅貨二十枚と、カステラは確かに安くは無いのだが味は良いし、たまに贅沢な気分を味わうには高くは無いと思う。
しかも今回は砂糖の仕入れの件で上野の文月堂さんに迷惑を掛けた、お詫びの意味で白ちゃんが買ってきたのであって、俺が指示をした訳では無い。
「そのような高価な菓子を、私にもですか?」
「そうですけど、何か?」
皿の数を見て、天后が目を見開いた。
「主様の御厚情は非常に有り難く思いますが、私は食べなくても大丈夫ですので、その分は主様か黒様がお召し上がり下さい」
「御厚情って……」
別に天后が言うような主としての情とかでは無く、里の住人に対して不公平にならないようにしているだけなのだが。
「お前! 新参の癖に御主人に逆らうのか!」
「そ、その様なつもりはございません。どうかお許しを」
黒ちゃんがここまで激しく反応するのは意外だったが、いきなり平伏す天后も、ちょっと過敏過ぎる。
「黒ちゃん、別にそこまで言わなくても……」
「いーや! こいつは御主人の優しさを踏み躙ったんだよ!」
「そんな事は無いと思うんだけどなぁ」
食べ物に関する話だからか、俺が宥めても黒ちゃんの怒りは収まる様子を見せない。
「大体なー! 食わないで大丈夫って言うなら、あたいだって同じなんだよ!」
「それは俺もそうかな」
「そ、それは……」
呼吸法や動作による練気によって周囲から気を吸収すれば、俺も黒ちゃんも食事の必要が無く生命の維持が可能なのだがそうはしない、と言うかしたくない。
食事という行為も料理も好きだし、コミュニケーションの一つにもなっていると思うので、必要無いからという理由で食べるのを止める事は、俺にとっては有り得ないのだ。
「もしかして天后さんはこれまでの食事も、特においしいとか思わずに食べていたんですか?」
「い、いえ。決してそのような……」
(一応は否定しているけど……)
否定の言葉を口にしているが、天后の言葉は後半が尻すぼみになっている。
「……お前が食わないのは、まあいいよ。でもなー、もしも御主人がこれを食いたいから作れって言われたら、食った事の無いお前に、果たして作れるのか?」
「うっ」
(黒ちゃん、中々面白いところを突いたな)
オーブンのような調理器具が無ければ作るのが難しいカステラと同じ物を手作りしろとか、そんな無茶を言う事は無いが、俺の不在時に食事の支度を天后に頼むというのは有り得る事態だ。
その場合、恐らくは『適当に』とかいう曖昧な指示では無く、具体的にこういう料理をと言っておかなければ、天后はパニックに陥りそうな気がする。
その俺が指示した料理が、天后が活動していた時期には存在しない料理だったりすると、もしかしたらだが作るどころか、動く事も出来ないという可能性が否定しきれない。
(最初のうちは細かく指示をして徐々に臨機応変に動いて貰う、って感じかな?)
結局は色々と経験をして、状況に応じての対応を天后自身に覚えて貰うしか無さそうだ。
その為には天后達にたまに無茶振りも……敢えて俺がしなくても、黒ちゃんや頼華ちゃんがやってくれるとだろう。
「……私が浅慮でございました。心よりお詫び致しまして、今後は主様のお言葉を真理と従いますので、どうかやり直す機会をお与え下さいませ」
「いや、真理とか、そこまで大袈裟な話じゃ……」
床に額を擦り付ける天后の姿は、俺の精神力をゴリゴリ削っていく。
「変に遠慮をするんじゃ無くって、有り難く食べた分だけ御主人に報いるんだ! わかったか!」
「はっ! 心しておきます!」
「おう!」
(……なんか軍隊調になってるなぁ)
黒ちゃんだけでは無く頼華ちゃんにもそういう傾向があるが、俺としては最低限の礼儀を守ってくれれば、変に上下関係とかを気にしないで欲しい。
「えーっと……とりあえずお湯が冷めちゃう前に、みんなに出してあげるといいと思うんですけど」
「はっ! そ、そうでございますわね。それでは主様の新たな使命、実行致します」
見た目の細腕では持て余しそうな盆を軽々と扱う天后は、上品な仕草で礼をすると厨房から立ち去った。
「……お茶にしようか」
「おう!」
俺は精神的に少し疲れたが、黒ちゃんは元気いっぱいだ。
「いっただっきまーす! あむ!」
大きな口を開けた黒ちゃんはカステラの半分程を齧り取って、幸せそうにもぐもぐしている。
「ねえねえ御主人!」
「ん? 何?」
「この紙についてる黒いところ、貰ってもいい?」
黒ちゃんの言っているのは、カステラの表面に貼り付いている紙にくっついた黒く焼けている部分の事だ。
「……ここが一番おいしい事に、黒ちゃんは知ってたんだね」
「おう!」
(いったいどこで……あ、長崎屋さんか?)
これまでカステラを食べる時には俺が切って出していたので、廃品である紙についた黒い部分は、色んな意味で俺が『始末』していた。
その黒い部分のおいしさを何故、黒ちゃんが知っているのか……恐らくは長崎屋さんを訪ねた時に、丸のままのカステラを出されたのだろう。
「いいよ。おあがり」
「おう!」
俺が許可を出すと、黒ちゃんはカステラの黒い部分がついている紙を手で持ち、歯でこそげ取るようにして食べ始めた。
「んー! カステラって、全部がこの黒いのに出来ないのかなぁ?」
「それは難しいだろうね」
ローストビーフでも両端の、エンドカットと呼ばれる部分が一番おいしいとされているが、最新の調理器具と調理法を使っても無理だ。
「御主人も食べる?」
「え?」
そんなに物欲しそうな顔をしていたのか、黒ちゃんがそんな事を言ってきた。
「俺はいいよ。黒ちゃんが全部食べて」
「……」
「どうしたの?」
何故か黒ちゃんが、紙を咥えたままで俺をじっと見ている。
「ご、御免なさい!」
「いきなりどうしたの?」
ここまでの俺と黒ちゃんとのやり取りで、謝られる様子が思い当たらない。
「御主人も食べたかったのに、あたいが欲しがっちゃったんだよね?」
「いや、そう言われても……」
「ん!」
まだ面積の半分程にカステラの黒い部分がくっついている紙を、黒ちゃんが俺の顔の前に差し出した。
(……これを俺にどうしろと?)
所によっては黒ちゃんが口に含んだりもしていた、カステラが付着した紙を差し出されても困ってしまうのだが……。
「……ん」
「……」
黒ちゃんは俺から視線を外さずに、紙を差し出したポーズをキープしている。
(こりゃ、食べないと収まりそうに無いな……)
独り占めしないで俺にも、という黒ちゃんの気持ちは理解出来るし有り難いので、こちらの方でも応えなければならないだろう。
なるべく黒ちゃんの口が触れていないカステラの黒い部分が多く残っている辺りを、歯でこそぎ取って食べた。
「ん……有難う、黒ちゃん。やっぱりおいしいね」
「おう!」
俺が食べたのを見て、何故か黒ちゃんが我が事のように喜んでいる。
「残りは黒ちゃんが食べていいからね」
「御主人は、もういいの?」
「うん」
「おう! それじゃ遠慮無くー♪」
本音では独り占めしたかったらしい黒ちゃんは、嬉々としながら紙を口元に持っていった。
「……あ」
「ん? 御主人、やっぱもう少し食べる?」
「い、いや。黒ちゃんが食べていいよ」
「おう!」
思わず声が出てしまったのは、黒ちゃんが俺が食べた辺りの紙にも躊躇せずに口をつけたのを見たからだ。
(汚いとかは……思ってないのかな?)
無論、俺も黒ちゃんが口をつけた物が汚いとかは感じたりはしないのだが、女の子にこういう事をされてしまうとドキッとする。
「あー、おいしかったぁ!」
「文月堂さんの家主貞良はおいしいね。砂糖の事では迷惑掛けちゃったけど」
このおいしいカステラを作る文月堂さんへ供給される予定の砂糖を、徳川の家宗様と長崎屋さんの協力があったとは言え、こちらの都合で滞らせてしまった事には責任を感じてしまう。
今後も誰かに江戸に行って貰う時には、ちょくちょく文月堂さんでの買い物を頼もう。
「そろそろ良さそうだね」
桶の中の様子を覗くと、灰を溶いた水の上澄みは既に透き通っている。
「御主人、これで出来上がり?」
「これを少し煮詰めて暫く置いてから、底に沈んだ成分を取り除いて油と混ぜるんだ」
通常ならば上澄みの液体を鍋に移し替えて火に掛けるのだが、鍋では無く別の桶に移し替え、少し横着して炎の術を使って水を直接熱する事にする。
鉄の鍋はかなり強力なアルカリじゃ無ければ腐食しないと聞くが、洗って料理に使うのは気が引けそうなので桶を使っておく。
「ふーん。まだ結構掛かるんだね」
「そうだね。複雑な工程っていうのは無いけど」
ここまでの作業を自分でやってみて、特に難しい事が無いのは確認出来た。
後は煮詰めてアルカリ成分が強くなった水溶液を、肌に触れないように作業を行えば大丈夫だ。
「……道具が必要だな」
石鹸作りに必要な道具が足りない事に思い至ったので購入するかと考えたが、手持ちの材料で作れそうなので思い直した。
「お遣いならあたいが行ってくるけど?」
「ああ、大丈夫。作れるから」
俺はドラウプニールから太さが違う竹を数本と鉈、細かな作業をする為の刃物として、伊勢の朔夜様から貰った小柄を取り出した。
「お手伝いする?」
「それじゃ、この竹を縦割りにして、一センチくらいの太さにしてれるかな」
俺はドラウプニールを操作して腰に巴をセットしてから引き抜き、竹の節の辺りから十五センチくらいの辺りで切り離した。
「おう!」
巴を鞘に戻して黒ちゃんに節の部分の無い竹と鉈を手渡し、俺の方は節の近くで切った竹に、小柄で小さな孔を開ける。
「てや!」
パカン!
小気味の良い音を立てながら、黒ちゃんが鉈を振るって竹を縦割りにしていく。
「御主人、これでいい?」
「うん、良く出来てるよ。有難う」
「おう!」
俺が礼を言うと、黒ちゃんは屈託無く笑った。
「そいで、これは何になるの?」
「これは柄杓だよ」
「柄杓?」
黒ちゃんが作ってくれた竹の棒を、小柄で穴の大きさを微調整しながら挿し込む。
使い勝手を考えて、柄杓の柄の部分は少し斜めになるようにしておいた。
「でも、なんで幾つも作ったの?」
様々な太さの竹で、汲める量の違う柄杓を幾つも作っているのを見て、黒ちゃんが首を傾げた。
「石鹸作り用を作るついでにね」
石鹸用には太い竹を使って、神社の手水場に置いてある大きさの柄杓を作って、他には料理の際に醤油や酒などを加える時に使う、容量の少ない豆柄杓も作った。
既に里と笹蟹屋の必要な場所には柄杓が置かれているので、本当についでに作っただけだ。
「そろそろいいかな?」
桶の中の灰の水溶液が沸き立ち、元の量の半分程度に減ったので術で熱するのを止めた。
冷めるのを待つ時間が惜しいので、炎の術で今度は温度を下げる。
「お? 御主人、なんか底に粉みたいなのが沈んできたよ!」
「その粉が混ざらないように、そっと……」
黒ちゃんが言う粉みたいな物の正体は炭酸ナトリウム、要するに重曹だ。
この重曹が舞い上がらないように静かに上澄みを汲み出して輪切りにしてある竹に流し入れ、そこに米糠から抽出した油を少しずつ加える。
「おお、ドロドロしてきた」
掻き混ぜていると強アルカリの水溶液中の主成分、炭酸カリウムと油の中の脂肪酸が反応して粘性が出始めた。
「……これが石鹸なの?」
石鹸といえば固形の物しか見た事が無い黒ちゃんが、訝しそうに訊いてきた。
「うん。このままでも使えるけど、木とかで型を作って水分を抜けば、いつも使ってる石鹸に近くなるよ」
今回は試作なのでこのままの状態で使って泡立ちや洗浄力、そして肌への反応を見るつもりだが、問題が無さそうなら大きさを整える意味でも、木などで型を作って固めようとは思う。
(副産物として重曹も出来るし、手間さえ考えなければ米糠の再利用はかなり有効だな)
重曹は料理以外に拭き掃除などにも使える便利な物なので、機会があったら海に行って塩と一緒に作るつもりだった。
しかし少量ながらも、重曹が石鹸の副産物として生産出来るのだから、大量に必要になる事態でも発生しない限りは、わざわざ海に出向く必要も無さそうだ。
「……匂いはあんまりしないんだね?」
「そうだね」
もう少し米糠っぽい香りが残るかと思ったが、出来上がった石鹸はほぼ無臭だ。
「里で果実が収穫出来たら、皮か種で香りを付けるのも良さそうだな」
「そんな事が出来るの!?」
「多分ね」
強いアルコールに果皮や種などを漬け込めば香りが移るので、石鹸に少量混ぜ込めば良い。
(そういえば、おりょうさんと頼華ちゃんは香料入りの石鹸やシャンプーを気に入ってたな)
二人共お洒落に気を使う女性らしく、元の世界の滞在中に喜んだ物の一つが、様々な香りの石鹸やシャンプーだった。
おりょうさんと頼華ちゃんが風呂から上がり、少し身体を動かすと長い髪がふわりと靡いて、体臭と共に石鹸やシャンプーの香りが周囲に振りまかれるので、いつもドキドキさせられていたのを思い出す。
「さて、とりあえずは出来たけど……」
「ん? 出来たのに、なんか問題でもあるの?」
尤もな疑問を、黒ちゃんが俺に問い掛けてきた。
「実際に使ってみて、肌とかに悪くないかを検証したいんだけど……」
「そんなの、あたいが使ってみればいいんでしょ?」
「俺もそうだけど、黒ちゃんの身体も普通の人とは違うから」
「あ」
お互いに普段は特に気にしないで生活しているのだが、俺も黒ちゃんも身体の構成が普通の人間とは異なるので、多少の刺激程度では肌が荒れたりする基準にはならない気がする。
黒ちゃんも俺に言われて、その事を思い出したようだ。
「多分、大丈夫だとは思うんだけど、おりょうさんや頼華ちゃん、夕霧さんなんかが使う前に調べたくはあるね」
「むぅ……」
やはり黒ちゃんも女性なので、肌が荒れたりするのが一大事だという認識があるのか、口をへの字にして考え込んでしまった。
「あ」
「何か思いついた?」
「うーん。でもなぁ……」
「?」
明らかに黒ちゃんは何かを考えついているのだが、再び腕組みをして考え込んでいる。
「あのね、御主人」
「うん?」
「こういう事言うと怒られちゃうかもしれないんだけど」
「怒る? 俺が?」
「うん……」
(……なんとなく読めてきたけど)
要するに石鹸を誰かに使って貰っての実証実験が必要な状況なのだが、その誰かを口に出すと、俺が怒ると黒ちゃんは思っているのだ。
「あの、ね。思い切って言っちゃうけど……ブルムのおっちゃんは?」
「あー……」
(やっぱり、予想通りか……)
女性、子供、元々肌の荒れない俺や黒ちゃん達を除外していくと、最終的に残るのはブルムさんと正恒さんという事になる。
そして正恒さんは里に居て、ブルムさんはすぐ近くに居るのだ。
「そう、だな。予め事情を全て説明してから、その上でブルムさんに使ってみて貰おう」
「えっ!? い、いいの?」
「うん。もしも肌が荒れたりしたら、俺が責任を持って治療するから」
ブルムさんに試用を断られる可能性もあるが、承諾を得て肌が荒れてしまったとしても、気を送り込めば治せる事も説明しよう。




