踏み込み
「さて黒ちゃん。ちょっと早いけど夕食の仕込みをするよ」
「おう! でも、もう?」
頼華ちゃんと白ちゃんが里へ向けて戻っていった厨房で俺が告げた言葉を聞いて、黒ちゃんが目をまん丸にしている。
まだ昼食の片付けを終えた時間なので、黒ちゃんが驚くのも無理はない。
「夕食はうどんにしようと思ってね。今の内に生地を捏ねて寝かせておきたいんだ」
夕食にはコシのある腹持ちの良いうどんが出したいので、直前に切って茹でるだけの状態にしておきたいから、今の内に仕込む事になるのだ。
「うどんかー。御主人、あたいにもお手伝い出来る?」
「勿論、出来るよ。と言うか、黒ちゃんと焔君の手伝いに期待してるから」
「おう! じゃあ、焔を呼んでくるね!」
「うん。お願い」
嬉しそうな表情をしながら、黒ちゃんはバタバタと厨房の外に駆け出した。
「さて、水回しをしちゃうか……」
黒ちゃんが出て行って一人厨房に取り残された俺は粉を篩に掛けると、ぬるま湯で塩を溶いて準備を始めた。
里ではあまり気にならないのだが、京はこのところ気温が上がり気味なので、塩に対しての水の量は少し少なめにする。
土三寒六常五杯という、うどんの塩加減に関する言葉があるが、これは茶碗一杯の塩に対しての水の量の事で、暑くも寒くも無い過ごし易い時期の水の分量は五杯で、土用の頃は少なめの三杯、そして寒い時期は六杯と多めにしなければ、コシのあるうどんが打てないのだ。
しかしこの塩と水の比率は昔ながらの製法の天然塩を使った場合で、現代の食塩でこの割合の塩水を使うと、とても食べられない程に塩辛いうどんになってしまうらしい。
俺がいま使っている塩は当然だが天然塩なので、三杯の水を入れた塩分が濃い塩水を篩った小麦粉に少しずつ加えていく。
「んしょっ……」
水を粉に馴染ませて軽く纏めてから、作業台に押し付けるようにして伸ばす。
「御主人! 焔を連れてきたよ!」
「しゅ、主人! 来ました!」
「……そんなに急がなくても良かったんだけどね」
焔君が黒ちゃんの小脇に抱えられているのを見ると、恐らくは遊んでいるところを掻っ攫うようにして連行されたのだろう。
「……まあいいか。それじゃ手伝って貰おうかな」
黒ちゃんも、床に降ろされている焔君もやる気に満ちた表情をしているので、俺は気を取り直した。
「先ずは黒ちゃんから、この生地を上から押し付けるようにしながら捏ねたら纏めて、っていうのを繰り返すんだ。やってみて」
「おう! てやっ!」
ギシッ!
流石の黒ちゃんのパワーで、押し付ける動作をすると生地を捏ねている作業台が軋んだ。
「むぅー。御主人、なんか上手くいかない!」
上から下に押し付けるようにして捏ねたいのだが、力の方向が前方に行ってしまって、せっかくの黒ちゃんのパワーが生地に対して活かされていない。
湾曲した蕎麦の捏ね鉢ならば黒ちゃんのやっている通りで良いのだが、平らな作業台では上から生地を抑え込むようにしなければ、力が前方に逃げてしまうのだ。
「腕の力だけでやろうとするからだね。ちょっと替わって」
「おう!」
素直に脇に避けた黒ちゃんに替わって、俺が作業台の前に立った。
「こう、身体全体を使って、上から……」
「おー! そっかー!」
(……本当にわかってるのかな?)
二度、三度と繰り返す俺の生地を捏ねる動作を見て黒ちゃんが感心しているが、なんとなく冷やかされているような気がする。
「御主人! 替わって替わって!」
「いいけど……」
妙に気合が入った表情の黒ちゃんと入れ替わった。
「よーし……ふんぬっ!」
ギシィッ!
作業台が悲鳴を上げるかのように、さっきよりも更に大きく軋む音が聞こえた。
「お?」
(綺麗に生地を捏ねられてるなぁ)
自ら交替を申しでただけあって、黒ちゃんの生地を捏ね方は見違えるように良くなっていて、纏めてからの連続の動作も実にリズミカルでスムーズだ。
(説明よりも、見せた方が理解が早いんだな)
ブリュンヒルドやロスヴァイセも、料理の作り方などを一度見せるとすぐに覚えるのだが、黒ちゃんも理論よりも実践派なのだろう。
「黒ちゃん、もういいよ」
「ん? もう出来上がり?」
「もう少しだけど、次は焔君にやって貰うから」
小麦の中のグルテンの働きで、生地に弾力と艶が出始めてきたところで、黒ちゃんから焔君にバトンタッチだ。
「しゅ、主人!」
「どうかした?」
何故か焔君が突然、大きな声で俺を呼んだ。
「お、俺には主人や黒姉様のように、凄い力で生地を捏ねるなんて出来ないです!」
「ああ、成る程ね」
どうやら焔君は、俺と黒ちゃんがうどんの生地を捏ねる姿を見ていて、自信を喪失してしまったようだ。
(別に気にする事も無いんだけどなぁ……)
焔君を含む里の子は、見た目が同年代の子供と比べるとパワーがあるのだが、それでも俺の無駄に高スペックな身体や、鵺である黒ちゃんとは比べるべくも無い。
しかしこの場合は焔君の劣等感と言うよりは、俺や黒ちゃんの役に立てないというのが悔しいのだろう。
「焔っ! やる前からそんな事を言うな!」
「う……」
「まあまあ、黒ちゃん」
焔君が言葉を詰まらせてすっかり萎縮してしまったので、これ以上責めないように黒ちゃんを宥めた。
「焔君はまだ小さいんだから、力が無くって当たり前なんだよ」
「でもぉ。だからといって御主人の言う事に逆らうのはぁ……」
黒ちゃん的には、俺の言う事に焔君が従わなかったというのが不満らしく、軽く口を尖らせている。
「生地をこうして……さあ焔君、この上から踏んづけて」
「「えっ!?」」
ドラウプニールから取り出した蜘蛛の糸で作った布でうどんの生地を二重に包み、焔君を抱え上げて作業台の上に載せて踏むように指示すると、焔君だけでは無く、黒ちゃんも驚きの声を上げた。
「うどんや蕎麦の生地を捏ねるのには、こういうやり方もあるんだよ」
讃岐うどんの生地を脚で踏み込むのは有名だが、江戸時代の絵画に蕎麦打ちの際に筵に包んで踏み込んでいる様子を描いた物がある。
「で、でも、姐さんが蕎麦打ちの時に、脚でなんてやってないよ?」
「おりょうさんの蕎麦打ちは名人芸だからなぁ。俺だって同じ様には出来ないよ」
うどんの塩加減が季節によって変わるのもそうだが、俺とおりょうさんでは体格が違うし、見たままをトレース出来たとしても完成品には違いが出てくる。
見せた事を再現出来るというのは十分に凄いのだが、それは人と比べて多少飲み込みが良いというだけで、即座に物事を習得出来るという意味では無いのだ。
「……」
「焔君、どうしたの?」
子供らしからぬ緊張感の漂う表情で、焔君が布に包まれたうどんの生地をじっと見つめている。
「しゅ、主人。食べ物を脚で踏むというのは、罰当たりな行為なのでは?」
「あー……まあ、そうなんだけど。布で二重に包んであるから大丈夫だよ」
普通に考えると、衛生的な意味でも食べ物を脚でというのは良くないのだが、力が必要なうどん打ちではこの踏み込みは重要な工程だ。
うどんの生地を包むのに使っている布は細い糸を密度を高めて織ってあるので、足の裏の汚れなどを通す事は無いのだが、念には念を入れて二重にしてある。
「そ、そうなんですか?」
「うん。さあ、やってみようか」
まだ焔君が疑わしそうな視線を送ってくるので、努めて気軽な口調で生地を踏み込むように促した。
「じゃ、じゃあ……わっ!? な、なんか上手く立てません!」
「おっと」
想像していたよりも生地が硬かったのか柔らかかったのか、焔君がバランスを崩しそうになったので、宙を彷徨うようにしていた手を取って支えた。
「焔君、あまり脚を高く上げたりしないでいいから、踵に体重を掛けて押し付けるようにして、全体を万遍なく踏みつけてね」
「は、はい! んしょ! んしょ!」
「そうそう、その調子。上手だよ」
片手を支えられた焔君はコツを掴んだのか、少しずつ生地を踏み込む動きが良くなってきた。
(一生懸命な姿が可愛いな)
小さな身体を一生懸命に動かして、真剣な表情でうどんの生地に取り組む焔君の姿は、失礼かもしれないが非常に微笑ましくて可愛く映る。
焔君も手伝いを楽しんでくれているようだが、俺にとっても非常に癒やしを感じる時間だ。
「御主人!」
「黒ちゃん、どうかした?」
「その踏むの、あたいもやってみたい!」
「いいけど……」
(黒ちゃんは踏む必要は無さそうだけどなぁ……)
内心でそう思っていたが、口には出さないでおいた。
「じゃあ、もう一玉打とうか」
最初に黒ちゃんのパワーで捏ねられていた生地は、ほぼ完成と言っていい状態だったので、焔君には念の為と仕上げの意味で踏み込んで貰っていたのだった。
「ん? そんなにいっぱい作るの?」
「作り置きしておけば、いざとなったらすぐに食べられるからね」
今日の昼も作り置きの御飯に助けられたので、いざという時の備えが重要だというのを思い知らされたばかりだ。
うどんは具や薬味との組み合わせで味のバリエーションがつけ易いし、鍋の締めなどにも使えるので作り置きしておけば重宝する。
「じゃあ、黒ちゃんは少し待っててね。焔君は、お疲れ様」
「おう!」
「はい!」
生地の上に立って踏み込むだけとは言っても、不安定なので見た目以上に重労働なので、小柄な焔君は少し疲れて見えるが、達成感があるからか顔は誇らしげだ。
黒ちゃんの方は作業台を壊しそうな勢いで力を込めていたのに、全く疲労の色は見えずに元気いっぱいだ。
「……こんなもんかな。それじゃ黒ちゃん、やってみて」
「おう!」
水回しをしてから纏めた生地を布にくるんで合図を出すと、黒ちゃんが予備動作無しでひらりと作業台の上に跳び上がった。
「……」
「どうしたの? 始めてもいいよ」
何故か黒ちゃんが作業台の上に立ったまま動かず、俺の方をじっと見下ろしている。
「ん」
「ん?」
短く声を発した黒ちゃんが、俺の方に手を差し出してきた。
「あー……はい」
「おう!」
焔君にしていたように自分を支えると言いたいらしいのを察して手を伸ばすと、黒ちゃんは嬉しそうにギュッと握ってきた。
(俺が手を取ってる方が、安定が悪そうな気がするけどなぁ……)
焔君の場合は身長が低いので、作業台の上に乗った状態で手を取っても普通に立っていられたのだが、黒ちゃんの場合は俺の方に大きく身体を傾けるような姿勢になっているので、見た目からして不安定だ。
「ふんふふーん♪」
しかし、見た目の不安定さが嘘のように、黒ちゃんは鼻歌を漏らしながらリズミカルに生地を踏み込んでいる。
(……まあ、楽しそうだからいいか)
御機嫌な様子の黒ちゃんにわざわざ水を差すのも無粋なので、俺は苦笑を噛み殺しながら生地を踏む姿を見守った。
「うん。もう終わって下りてもいいよ」
ドッカンドッカン踏み込むかと思ったが、焔君のやり方をしっかり見ていたのか、黒ちゃんの脚の動きは意外にも丁寧だった。
「おう!」
「わっ! っと」
何度か生地を折り畳んで踏み込むのを繰り返し、弾力と艶が出たのを確認して黒ちゃんに作業の終わりを告げると、俺の方に向かって頭から飛び込んできた。
一メートルも無い間合いで黒ちゃんが飛び込んできたのだが、即座に反応出来て受け止められたのは、こっちの世界で再構築された身体の反応の良さのお陰だ。
「危ないなぁ」
「御免なさーい」
素直に謝っては来たものの、腕の中の黒ちゃんは甘えるように頬を擦りつけてくる。
(他の人にはやらないだろうから、いいか)
少しおふざけが過ぎるのだが、黒ちゃんがこういう事をするのは俺だけなので、他に迷惑が掛からないのならそんなに厳しく注意する必要も無いだろう。
我ながら甘いと思うが、黒ちゃんの行動に悪意は感じないのでまあ良し。
「そ、それじゃ後は生地を寝かしておくだけだから、焔君はみんなのところに戻っていいよ」
「はい!」
俺と黒ちゃんが成り行きとは言え抱き合っている姿を、ずっと焔君に見せ続けるのに耐えきれなくなったので、うどんの仕込みはこれにて終了という事にする。
焔君は元気良く返事をすると、厨房の外に出て行った。
「黒ちゃん、最後にお手伝い頼むよ」
「おう! 何するの?」
腕の中の黒ちゃんが、つぶらな瞳で俺を見てくる。
「うどんの生地を別の布で包み直してから、作業台の掃除」
水分が蒸発するのを防ぐ為に、うどんの生地を布に包んで寝かせるのだが、流石に脚で踏み込まれた布のままでは良くないので別の物に交換した。
包み直したうどんの生地を、綺麗に拭いた作業台の上に載せて一息ついた。
「……」
「な、何かな?」
期待の込もった眼差しで、黒ちゃんが俺を見つめる。
「御主人はこの後、何するの?」
「そうだなぁ。半端に時間が出来たから、米糠の石鹸の試作でもしてみようかな」
本格的に米糠から石鹸を作る前に、抽出した油と灰汁の割合を調べる意味で、試作をしておいた方が間違いが無くなるだろう。
「それじゃ、あたいもお手伝いするよ!」
「黒ちゃんは、みんなと遊んでてもいいんだよ?」
既に黒ちゃんにはうどんの生地を作るのを手伝って貰ったし、子供達も一緒に遊ぶのを楽しみにしているかもしれない。
「でも、灰と水を混ぜたのって危ないから、子供達には手伝わせられないんでしょ?」
「それはそうだけど……」
「なら、あたいしか手伝えないじゃん!」
(試作だから、俺一人でもいいんだけど……)
と、言おうものなら、最悪の場合は黒ちゃんが泣き出しかねないので、口には出さないでおく。
「……それじゃ手伝って貰おうかな」
「おう!」
こうして黒ちゃんとの、米糠石鹸の試作が始まった。
「最初は米糠からの油の抽出だけど、頭の中で油が集まる様を想念してこの器に出すんだ。やってみて」
「おう!」
作業台の上に山と積まれた米糠を睨みつけながら、黒ちゃんがドラウプニールを弾いて回転させた。
「むうぅ……」
「黒ちゃん、別に力まないでいいからね?」
ドラウプニール嵌めている左腕を前に差し出したポーズで、黒ちゃんが妙に力んでいるが、別に油の抽出に力や緊張感などは必要無い。
「お、出てきたね」
「おう!」
黒ちゃんの気合に反応した訳では無いと思うが、作業台の手前側に置かれた鉢の中に、少しずつ油が集まり始めた。
米糠の中に油があるというのをイメージし難いかと思っていたが、俺がやるのを一度見ているので、黒ちゃんにもそれ程難しくは無かったようだ。
「……終わったみたいだね」
「御主人、あたい上手く出来た?」
綺麗な透明の油が鉢に満たされ、抽出された米糠の方は見た目からしてパサパサの状態になっている。
おそらくだが米糠の中の油脂分は黒ちゃんとドラウプニールによって、綺麗さっぱりと抜けきってしまったのだろう。
「うん。良く出来てると思うよ」
「おう!」
俺が褒めると、黒ちゃんはお陽様のような笑顔を浮かべた。
「御主人、次は!」
「次はこの米糠を、竈で燃やそうか」
「おう!」
(やる気に満ち溢れてるな)
俺がやる前に黒ちゃんはいそいそと、油の抜けた米糠を掻き集めて竈に運び始めたので、俺は竈の方で炎の術で米糠を燃やし始めた。
「……以外に良く燃えるな」
油脂分を搾り取られている状態なので燃え難いかと思ったが、カラッカラに乾燥しているからか米糠は直ぐに燃え上がった。
「御主人、追加しちゃって大丈夫?」
黒ちゃんは運んできた米糠を、竈に追加投入していいのか訊いてきた。
「うん。直ぐに燃え尽きちゃうだろうから、消えないように気をつけながらどんどん入れちゃって」
「おう!」
籾殻とかもそうなのだが、燃え易い代わりに持ちは良くないので、見る間に炎の勢いが弱まっていく。
俺の言葉を受けて黒ちゃんは炎の勢いが衰えない程度のペースで、次々と米糠を投入する。
「そろそろ良さそうかな」
竈の中に気を送り込み、出来る限り完全に燃え尽きるようにしたのだが、元の体積からは信じられない程の灰しか残っていないので、恐らくは思い描いた通りの結果になっている。
「この灰を……桶でいいか」
水を汲んだ桶に竈から掻き出した灰を入れ、ドラウプニールに入っていた樫の木の払った枝で混ぜた。
「御主人、この後は?」
黒ちゃんが待ちきれないと言わんばかりにうずうずしながら、俺の言葉を待っている。
「これは暫く放置して、灰が沈んで水が綺麗になるのを待つしか無いんだよ」
「えー……」
一気に石鹸を作る段階まで行くと思っていたのか、直ぐに出来る事が無いと聞いて黒ちゃんはがっかりしている。
「まあまあ。黒ちゃんは今日はいっぱい働いてくれたから、少し休憩してお茶にしようよ。お茶請けに家主貞良を出すから」
「家主貞良!」
白ちゃんが江戸の文月堂さんから買ってきてくれたカステラを出す事を告げると、黒ちゃんの意識は作業から完全に切り替わったのが色から読み取れる。
「みんなにも出すから、黒ちゃんは店の方に居る天后さんに声を掛けてきてくれる」
「おう!」
喜び勇んで厨房から駆け出した、黒ちゃんの後ろ姿を苦笑しながら見送った俺は、鉄瓶で湯を沸かしながらカステラを切り分けた。




