褐色の水
「それにしても鈴白。この野菜……何かの芽か? 随分と歯応えがいいな」
「それは緑豆という豆を、日に当てずに育て豆の芽です」
「ほぅ? 育て方だけ聞くと、弱そうに思えるのだがな」
単に疑問に思った事を口に出しているだけなのだと思うのだが、シャキシャキでは無くゴリゴリと音を立ててもやしを食べている沖田様は、いきなり核心を突いてきた。
「本当はそうなんですけど……山の湧き水で育ててるので、その成分でそうなるのかもしれませんね」
「湧き水で? 水でそんなに育ち方が変わるというのか?」
「地面に染み込んだ水は、湧き出る時に通る層の成分で味などが変化しますからね」
「ああ、聞いた事があるな」
京は名水が多く、その水を利用しているので古くから豆腐料理が発展している。
井戸の場所や深さによっても水の味が違うので、京の家庭ではそれぞれが贔屓にしている豆腐屋が違っていて、利用する店の豆腐を『うちの豆腐』と称するくらいに自慢しているらしい。
「鈴白よ。その水が湧いている場所に案内して貰う訳にはいかんか? ちと飲んでみたい」
「えっ!?」
沖田様から、思いもよらぬ……いや、俺が想定していなかっただけで、有り得る提案が出てきた。
「えっと……水が湧いている場所があるのは凄く山奥でして。辛うじて豆の芽の栽培に利用出来る程度の湧出量しか無いので」
「むむ。それならば、残念だが仕方がないな」
「え、ええ……」
沖田様のような善良な人物に嘘をつくのは気が引けるが、里の事を教える訳にはいかない。
「鈴白殿。この豆の芽というのは、豆を水で育てるだけなのですか?」
「ええ。その通りです」
「ふむ……それならば、航海中にも育てられるかな?」
どうやらケイ卿は、どうしても航海中に不足する野菜に、もやしを充てたいようだ。
「航海では水の確保が大変ですよね? 豆の芽を育てるには毎日水を交換しないとなりませんけど」
「それは……成る程、残念ながら無理そうですね」
航海中は野菜の不足も問題になるが、何よりも飲み水の確保が重要になってくるので、生活用水ですら切り詰めなければならない場合がある。
現代のように動力機関搭載で、海水を処理して真水にする技術でも無ければ、もやしなどの栽培に割く程の量の水を航海中に確保するのは難しいだろう。
「水といえばこの国では、どこでも水が飲めるのには驚きました」
「ケイ殿? 水など、どこでも飲めるものでしょう?」
沖田様には、ケイ卿の言っている何が驚きなのかがわかっていないのだ。
「ははは。沖田殿、ブリテンからこの国までの間の寄港地でも、そのまま水が飲める土地はそれ程多くはありませんよ。私の母国でも領土内の半分程では、水が飲用に適さないのですよ」
「な、なんと!?」
こっちの世界の日本では、江戸のように上水路などは普及していないようだが、飲用に適した水の流れる河川が数多く、大概の土地ではそれ程深く掘らなくても、水が湧いて井戸として利用出来る。
こっちの世界の日本の国土的な特徴でもあるのだが、水に関連する神仏への信仰が篤いというのも恵まれている理由なのだろう。
「母国の領土内のある島では水が褐色に染まっていて、初めての人間はとても驚きますよ」
「褐色の水とは……腹を壊したりは?」
「それが不思議な事に、地下を通る時にその色になってしまうらしいのですが、飲んでみると実に旨いのですよ」
「むぅ……世界は広いですなぁ」
ケイ卿の語る褐色の水の話を聞いて、沖田様が大きく頷いている。
(ケイ卿の言ってる褐色の水っていうのは、あれか……)
あれというのは、スコッチウィスキーの蒸留所で使われている水の事だ。
俺自身は酒は飲まないが、向こうの世界に戻った時に酒好きのおりょうさんの為に色々調べていたら、そういう水を使う蒸留所の事に行き当たったのだった。
その蒸留所のウィスキーはスモーキーフレーバーという、麦芽の発芽を止めるピートの燻煙香がかなり強いらしく、苦手な人間は敬遠してしまう程だが、好きな人間には堪らないという通好みの味わいだと聞く。
使われている褐色の水だけでは無く、ウィスキーの仕込みの方も実に個性的なのだ。
(あれ? もしかしたらこっちの世界では、俺の世界のようなウィスキーは造られていないのかな?)
発芽を止めるのにピートで燻すという手法は、燃料である薪が高騰して使えなくなった醸造所が、周辺の土地に幾らでも堆積しているピートを利用して、結果的に独特の香りがついたと言われている。
蒸留が終わったウィスキーをワインやシェリー酒が貯蔵されていた樽に詰めて熟成をさせるという手法も、徴税から逃れる為に本来はウィスキー用では無い樽に隠し、飲んでみたら樽の香りが移っていたので風味が増したので、その後も使われるようになった手法だ。
(でも、酒の神様は酒飲みに優しいって聞くし、スコッチって名称が変わる程度で、同じ様な酒が造られている可能性は高そうか)
アーサー王の統治下であるブリテンで、スコットランドという国が成立する可能性はかなり低いので、スコッチという名称が使われる事はほぼ無さそうだ。
ウィスキーという名称自体はゲール語で命の水を現すウィシュケベサが語源らしいので、元の世界と同じに使われているのかもしれないが。
(そういう意味では、こっちの世界で独自進化をしてる物って少ないような……いや、新大陸の事なんか殆ど知らないんだから、そう考えるのは早計だな)
目の前には不死の王……というとアンデッドのようで微妙に聞こえが悪いが、アヴァロンから帰還して以来ブリテンを統治している、アーサー王の円卓の騎士であるケイ卿が座っている。
現代で言うイギリスとフランスの殆どの地域をアーサー王が統治しているのだから、世界の他の地域が元の世界の歴史通りになっている訳が無いのだ。
(ケイ卿に訊いたら、世界情勢について色々と教えてくれそうだけど……やめておこう)
こっちの世界の歴史と情勢に興味はあるのだが、あまり首を突っ込むと抜け出せなくなりそうな気がするので、積極的に調べるのはやめておく。
頼華ちゃんの実家の源家が関わっていなければ、北条との戦にだって首を突っ込みたくは無かったのだから。
「ケイ卿。お帰りの際にこれをお持ち下さい」
「これは……随分と重たいですね」
食後のお茶を飲んで一息ついたところで、俺がケイ卿に作ったばかりのチェスのセットを差し出すと、持ち上げてみてその重さに驚いている。
「盤の方も少し工夫しましたから、重い分だけ安定すると思います」
「成る程。この窪みに駒を差し込んで……これならば嵐にでも遭遇しない限りは、航海中にチェスが出来ますね」
通常ならばフラットになっている筈の駒の下側に円柱状のパーツが突き出していて、盤の方に同じ形と大きさの窪みがある意味を、ケイ卿はひと目で見抜いたようだ。
「む? その馬に乗っている人物は、もしやケイ殿なのか?」
「えっ!? あ、本当だ!」
沖田様に指摘されるまで気が付いていなかったケイ卿が、ナイトの駒を手に取って目を見開いた。
「これは……色こそ二種類しか使われていませんが、なんという精緻な彫刻。これだけの物を一日で、しかも一揃え作れるものなのですか?」
「えっと……出来れば質問は無しでお願いします」
「む……そういう約束でしたね。わかりました」
俺の返答に一度は難しい表情をしたケイ卿だが、すぐに破顔一笑した。
「航海用では無い、駒の下側が平らな物も用意しました」
「これは素晴らしい。持ち運びには重たいですが、実に風格がありますね」
「そう言って頂けると」
駒の造形自体にはそれなりに自信があったのだが、重たくなってしまったとは思っていたので、ケイ卿に受け入れられてホッとした。
「外国の将棋か……ケイ殿。戻ったら一つ、御指南願えるかな?」
「沖田殿がお相手下さるのでしたら、嬉しいですね」
「では、早速戻るとするか。一つは私が持とう」
言うが早いか沖田様は、盤の表面がフラットな方のセットを右手で抱えて立ち上がった。
「沖田殿、そんなに急がなくても……」
「鈴白。馳走になった上に慌ただしくて済まんな」
「いえ。御満足頂けたのなら何よりです」
ケイ卿が沖田様を嗜めるが、既に戻ってのチェスの対局に向けて頭が切り替わっているのか、意に介した様子が無い。
「では、店の他の者にも宜しく言ってくれ。見送りはいらんぞ」
「あ……鈴白殿、お邪魔しました」
「またお越し下さい」
さっさと踵を返して応接間を後にした沖田様に、ケイ卿が苦笑しながら頭を下げて後に続いた。
「兄上! 非常においしい昼食でした!」
「御主人! もやしって旨いんだね!」
ケイ卿と沖田様が帰ったので、応接間の食器類をまとめて厨房で洗おうとしたところで、同じ様に頼華ちゃんと黒ちゃんも食器を運んできた。
「有難う。口に合ったのなら良かったけど……あれ? そういえば白ちゃんは頼華ちゃんと一緒じゃ無かったの?」
「ああ、白はですね……」
「俺なら、ここにいるぞ」
俺の質問に頼華ちゃんが答えようとしたところで、白ちゃんが厨房に掛かっている暖簾を跳ね上げて入ってきた。
「白ちゃんは頼華ちゃんと別行動だったの?」
「長崎屋と徳川の頭領に引き留められてな」
「長崎屋さんと家宗様に?」
「ああ。少し待てば、砂糖をなんとかしてやると言われたんだ」
「あー……それは済まなかったね」
長崎屋さんが砂糖の流通に関わっているというのは推測していたが、考えてみれば江戸の商取引に関しては、領主である家宗様が握っているのだ。
相談に行った白ちゃんは長崎屋さんのお気に入りなので、おそらくはなんとかしようと画策したのを家宗様が聞きつけ、色々と手を回してくれたのだろう。
「以前に買った家主貞良の店の主とかに、相当に無理を言って集めてくれたそうだ」
「家主貞良の店って上野の文月堂さん? それは……今度お詫びに買いに行かないとね」
砂糖はカステラに欠かせない材料なので、もしかしたら上野の文月堂の生産に影響が出てしまっているかもしれない。
次に江戸に用事が出来た時には、忘れずに文月堂のカステラを買いに行って貰い、少しでも売上に貢献しよう。
「主殿ならばそう言うのではないかと思ってな。砂糖を仕入れて余った金で、店頭に並んでいる分を買ってきたぞ」
「という事は、お金は足りたんだね?」
頼華ちゃんに金貨一枚を預けたので流石に足りたらしく、万が一は起こらなかったようだ。
「キロ当たり銅貨十五枚という事だったが、無理を言ったので銀貨で五枚支払ってきた。構わなかったか?」
「うん。構わないよ」
(確か元禄期の小売価格が現代の価値で千六百円くらいって事だったから、仕入れ値ならもう少し安いかな?)
元の世界で砂糖を仕入れる時に、万が一こっちの世界で砂糖を売却する事があった場合に、基準価格を決める為に調べておいたのだが、それ程大きな価格差は無いようだ。
尤も江戸も末期になると、輸入品の砂糖には最大で五百パーセントもの関税が掛けられて、小売価格がキロ五千円を超えた事もあったらしいのだが。
「家主貞良は幾つ買ってきたの?」
「二十本だ」
「それは……まあ、たまにはいいか」
高価な砂糖を使っている菓子だけあって、家主貞良は銅貨で二十枚もする贅沢品だ。
「とりあえず里に十五本持ち帰って、ここには五本置いていこうと思うが」
言いながら白ちゃんは、ドラウプニールから木の箱に入ったカステラを取り出し、作業台の上に置いた。
「そうだね。そうしてくれればお客様にも出せるし。里の分は、適当にみんなで分けて食べてね」
「承知した。これは釣り銭だ。ところで、砂糖は置いていった方が良いのか?」
砂糖とカステラの代金の余りの銀貨を俺に手渡しながら、白ちゃんが訊いてきた。
「三分の一くらい置いていってくれるかな。残りは里に運んで、この間作った米糠の菓子を、おりょうさんに言って作って欲しいんだ」
笹蟹屋に設置した土窯と里の石窯では、純粋にサイズの違いが合って一度に焼けるショートブレッドの量が段違いなのだ。
俺が食事の支度などの合間にショートブレッドを作れる時間も限られるので、動員出来る人数の多い里で多めに受け持って貰えると助かる。
「主殿の願いを、おりょう姐さんが断る訳が無いからな。ちゃんと伝えておこう」
「別に、強制する気は無いんだけどね……」
仮に全く焼いて貰えなくても、笹蟹屋に滞在中に可能な限り作っておいて、里に戻ってからひたすら丸一日くらい費やせば、ケイ卿が江戸に到着するまでにはショートブレッドも出来上がるだろう。
「ははは、冗談だ。姐さんや夕霧は食事の支度もあるので無理はさせられんが、俺や戦乙女の連中が手分けすれば、物の数では無いだろう」
「確かに戦乙女さん達の中で、ブリュンヒルドさんとロスヴァイセさんは料理が出来るね」
ブリュンヒルドやロスヴァイセに二人は、鎌倉に行った時に料理の仕方を教えたらすぐに覚えたので、ショートブレッドの作り方くらいは説明すればすぐに習得するだろう。
「主殿、そんな戦乙女連中から、里の生活に関しての要望が出ているのだが」
「要望って、どんな?」
要望は幾らでも気軽に言って貰って構わないのだが、フレイヤ様やオーディンの命を受け、あらゆる場所に派遣されるワルキューレは環境への順応力が高いと思っていたし、里の居心地は良さそうに見えたので、白ちゃんの言葉はちょっと意外だった。
「大した事では無い。床に布団を敷いて寝るのは慣れないので、出来れば寝台が欲しいとの事だ」
「寝台か」
寝台、要するにベッドの事だが、確かにベッドに寝るのに慣れていると、床に布団を敷いて寝るのは違和感があるかもしれない。
「それと、これも出来ればという事だが、あてがわれている部屋の中が散らかってしまうので、箪笥とかが欲しいとの事だ」
「あー……箪笥に関しては戦乙女さん達の分だけじゃ無くて、全員の分をなんとかしないといけないね」
元々の里の住人と俺を含む初期から関わっている者は、糸を操って比較的簡単に衣類などを作り出す事が出来る。
当然ながら各自の衣類や布製品が増えていく事になるのだが、ドラウプニールを所有していない者は部屋の片隅に置いておくくらいしか手段が無いので、かなり気をつけていないと室内が雑多な感じになってしまうのだ。
(雫様も、寝起きはベッドの方が楽だろうしなぁ……)
頼華ちゃんを出産した経験があるので、雫様も布団での生活に慣れているかもしれないが、床に腰を下ろして寝起きをするよりは、ベッドの縁に腰掛けての方が楽だろうし、安全なのは間違い無い。
「……頼華ちゃん。里に戻ったら、木を五本くらい伐採しておいて貰えるかな」
ベッドと箪笥に関しては、現在の住民の分と来客用の館の全てに設置するのを決定事項にしていいだろう。
里の天沼矛のコンストラクトモードで、箪笥はともかくベッドを設置出来るのかは、やってみなければわからないが、いざとなれば手作りすれば良い。
いずれにしても資材が必要なので、頼華ちゃんにお調達を依頼した。
「わかりました!」
「念の為に言っておくけど、超電磁砲は使っちゃ駄目だよ?」
「ぐぬっ! あ、あれを使ったのは気の迷いですので、今回は確実に切り倒します!」
「気の迷いで使われると困るんだけど……」
樫の大木を薙ぎ倒した威力を考えると頼華ちゃんの超電磁砲の威力は、某作品の短髪短パン少女に匹敵するかもしれないので、無闇に使われると里の周辺の土地に悪影響が出る可能性が極めて高い。
「安心してくれ主殿。頼華が何かしでかしそうになったら、俺が責任を持って止めよう」
「頼んだよ、白ちゃん」
(そういえば前回の伐採の時に、白ちゃんが一緒だったんだっけ)
頼華ちゃんの超電磁砲の威力を目の当たりにしている白ちゃんは、俺がどうして使わにないように言っているのかを正確に理解しているのだろう。
「主殿。おりょう姐さんに頼めば、木なんぞ根本から引っこ抜けるのでは無いのか?」
「ああ、五行の木の力で? 可能かもしれないけど……」
白ちゃんの言う通り、おりょうさんの身に宿った五行の木の力を用いて伐採する木の重さを軽くして、地面に根を張っている力を弱めてしまえば安全に、文字通り根こそぎにしてしまう事も不可能では無さそうだ。
「……まあ、おりょうさんが嫌がらなければ、得た力を試すのにはいい機会かもしれないね」
「そうだな。姐さんには主殿がいま言ったように伝えておこう」
「それで頼むよ」
俺が里に居ない間は、おそらくだがおりょうさんが一番忙しく働いていると思うので、わざわざ他の仕事まで振るのは悪いと思うのだが、試しておかないといざとなると五行の力が思い通りに使えずに、足りなかったりやり過ぎたりしてしまうかもしれないので、別に機会を設けるにしても検証は必要だ。
「そういえば俺も、五行の金の力を試していなかったな……姐さんと一緒にするかはわからんが、主殿が里に戻るまでの間に、試しておくとしよう」
「おお! そういえば余も、朱雀から得た火の力を検証していませんでした! 戻ったらやってみましょう!」
「まあ程々にね。特に頼華ちゃん、火は延焼が怖いから気をつけて」
白ちゃんが試そうとしているのは、白虎から得た五行の金の力による走力や敏捷力の検証なので、周囲への影響は殆ど無いと思える。
頼華ちゃんの場合は従来から使える火の力に加えて、朱雀から得た五行の火の力で増幅されているから、加減を誤ると山火事にでもなりかねない。
「出来れば頼華ちゃんが検証をする時には、白ちゃんが付いていてあげて」
「承知した」
「くっ! すっかり兄上の余への信用が失墜してしまっています!」
「いや、そこまでは……」
普段の頼華ちゃんの事は全面的に信用しているのだが、、超電磁砲の一件が頭に残っているので、事が能力の検証となると少し身構えてしまうのだった。




