抹茶
「里で茶の木の栽培も考えようかな」
抹茶味のショートブレッドの小さな一切れを食べて、そんな言葉を漏らしてしまった。
「茶の木ですか?」
「うん。同じ茶葉でも加工の仕方次第で緑茶にも紅茶にも、大陸で飲まれている烏龍茶みたいな青茶にも出来るしね」
「そんな事が出来るのですね!」
元の世界に言った時にお茶やコーヒーなど色々と飲ませてあげたが、同じ茶の木の茶葉が加工によって煎茶にも烏龍茶にもなる事は説明していないので、頼華ちゃんが驚くのも無理はない。
「収穫から加工をするのは大変だけど、里でなら虫の害を心配しないでもいいからね」
収穫後に手で揉んだり窯で煎ったりと、加工をして飲めるようになるまでには大変な手間が掛かるのだが、どういう訳か里には害虫は侵入してこないので、水やりや病気に気をつければ栽培の方の苦労はそれ程でも無いだろう。
「でも兄上。確か東方美人とかいう茶は、虫食いがされなければ出来ないのですよね?」
「東方美人ね。あれは茶の木が霧に晒されたりもしないといけないから、里で作るのはちょっと無理なんじゃないかなぁ……」
里のある場所は少し標高が高いので、そろそろ梅雨の時期だというのに湿気も少なくて快適なのだが、周囲を霧の結界に覆われているのに、内部にまで霧が発生する事が無いのだ。
里の領域内では蜜を集めてくれている蜂以外には虫の姿を見ないので、そういう意味でも東方美人になる茶葉を栽培するのは難しいだろう。
「まあ東方美人は出来なくても、里の中で消費する分くらいの茶葉は収穫出来るだろうから、栽培はしてみてもいいかもね。子供達の飲み物の選択肢が、水か麦湯だけっていうのは可哀想だから」
お茶に含まれるカフェインは、利尿や覚醒効果など良い面もあるのだが、妊婦や乳幼児が摂取し過ぎると害になるのも確かだ。
里では子供達と雫様には、基本的に麦湯と呼ばれている麦茶か水だけしか飲み物が無いので、もう少しバリエーションをとは前から思っていたのだが、発酵を止めるのに火入れをする烏龍茶を代表とする青茶は、日本の焙じ茶と同じでカフェインが飛んでいるので、たっぷり飲んでも身体に悪い影響が出たりしない。
「余も烏龍茶は好きですので、良いと思います!」
「頼華ちゃんは砂糖を入れた紅茶以外では、烏龍茶が気に入ってたっけね」
「はい!」
中国では茶館と言えば大人の社交場のような扱いだが、緑茶やコーヒーと比べると青茶という飲み物は、成分的には子供に向いていると思う。
「しかし兄上。紅茶や烏龍茶のような青茶の製法を御存知なのですか?」
「うん。こっちでも茶葉は手に入るだろうから、機会があったら作りたいと思ってたんだ」
と、頼華ちゃんに言ったが、実際には茶の栽培農家か加工をしている職人に知り合いでもいなければ無理な話だし、栽培にしても加工にしても失敗すると目も当てられないので、茶について調べた知識は無駄になるかなと自分でも思っていた。
里の中で茶の木を育てるとなると規模は小さくなるから、栽培や加工に失敗したとしても金額的な損失は無くて済むので、あまり気兼ねしないで行えるだろう。
「青茶ですか……知識としては知っているのですが、飲んだ事が無いので興味がありますね」
「少しでしたらありますよ」
「えっ!? そ、そうなのですか!?」
俺が青茶を持っているとは思わなかったのか、天后が驚いている。
「ええ。丁度いいから淹れましょうか」
コーヒーは頼華ちゃんが牛乳や砂糖を入れないと飲めないので持ち込まなかったのだが、比較的安価な緑茶や紅茶や中国茶は、元の世界から何種類か買ってきている。
「それじゃ、烏龍茶を淹れようか」
俺は急須に凍頂烏龍茶の茶葉を入れ、鉄瓶で沸騰させた湯を注いだ。
蓋をした急須を流しに置いて上から湯を掛け、湯呑の方にも湯を掛けて温める。
茶壺と呼ばれる中国茶用の丸くて可愛らしい急須は無いが、蒸らし時間などを守って淹れれば問題は無い。
店とかだと急須に注いだ最初の湯の分は、茶器を洗いながら温めたり香りを楽しむだけで捨ててしまう事が多いのだが、製茶の技術も高くなっているし勿体無いので、捨てずに湯呑に半分の量を注いだ。
「はい、どうぞ」
急須に湯を注ぎ直して茶の本来の風味が出たところで、二煎目を湯呑に注ぎ足して天后と頼華ちゃんに出した。
本来は注ぎ足しなどせずに、茶海と呼ばれる器で一煎目と二煎目を合わせてから湯呑に注ぐのだが、これは仕方が無いところだ。
「頂きます!」
「日本のお茶の淹れ方とは随分と違うのですね……」
湯呑に注がれた茶を頼華ちゃんは直ぐに飲み始めたが、天后は緑茶とは相当に違う淹れ方を見て、口を付けるのを躊躇している。
「そうですね。大陸のお茶はひたすら熱く淹れます」
「それは……何故なのですか?」
「んー。緑茶と青茶の性質の違い、かな?」
「性質の違いでございますか?」
理解が追いつかないのか、天后は首を捻った。
「緑茶は高温の湯で淹れると、色や風味と一緒に渋みが出ちゃうんですよ」
「青茶の方は違うという事ですね?」
「ええ。青茶の方は高温のお湯で淹れると、茶葉が開いて色と香りが出ますから」
俺は急須を開けて、細長くなっていた茶葉が開いている様子を天后に見せた。
「まあ……色が変わっているのを別にすれば、形は元通りの茶葉になっているのですね」
「ええ。多分ですけど、高い温度で眠っている茶葉を起こすという淹れ方なんでしょうね。さあ、話だけじゃ無くて、実際に味や香りを楽しんで下さい」
俺も天后も、つい話に夢中になってしまって、このままでは肝心の熱く淹れた茶が冷めてしまう。
「そうですね、では……まあ、一見すると乱暴にも見える淹れ方でしたのに、微かな甘さの後に口の中をさっぱりさせるようなほろ苦さが。渋みが殆ど感じないのは驚きですね」
「そうでしょう?」
凍頂烏龍茶の味が良いのは生産者のお陰なのだが、天后に言われて淹れただけの俺も嬉しくなった。
「兄上、お代わりを下さい!」
「ちょっと待ってね……はい、どうぞ」
「有難うございます!」
「あら。もう四煎目ですのに、色が濃くならないのですね?」
湯呑を両手で捧げ持つようにしながら、又もや天后が首を捻った。
「多少は濃くなるんですけど、不思議と気になる程では無いんですよね。それでいて渋くならずに、この量の湯呑だったら六煎くらいまでは出ますよ」
「そ、そんなにでございますか?」
「ええ」
これは日本のサイズの湯呑の話で、中国茶用の小振りな茶器ならば八煎か九煎はおいしく飲めるくらいに抽出出来る。
「兄上。話は戻りますが、里で茶の木を育てるのでしたら、抹茶も作ってみては如何ですか?」
「抹茶を? でもあれは、凄く手間が掛かるんじゃ無かったっけ?」
抹茶を作るつもりは無かったので記憶が朧気だが、緑色を鮮やかにする為に筵などで日光を遮って栽培した茶葉を、収穫後に直ぐに加工をするのだったと思う。
現代では流通やパッケージングの技術が発達しているので、粉末にした状態で販売したり保存したりも出来るのだが、江戸時代くらいまでは香りを際立たせる為に、蒸して乾燥させて碾茶という状態になった物を、点てる前日とかに茶臼で挽いて用いていたという。
現代でも格式の高い茶会などでは、粉の状態の物では無く直前に茶臼で挽いた抹茶を出している。
「手間は掛かりますが、少量でも高額で取引されておりますよ!」
「んー……やるだけやってみてもいいかもね。俺は点てた抹茶も嫌いじゃ無いし」
頼華ちゃんの勢いに押された訳では無いのだが、緑茶や紅茶や青茶に用いる分以外で、試しに抹茶を作ってみるのも面白いと思ってしまった。
おりょうさんや頼華ちゃんは本格的な茶道も嗜んでいるから、里で作った抹茶で作法を教わるというのもいいかもしれない。
「では父上に、茶釜や茶道具をお願いしましょう! 揃ったら余が、兄上に一服お点て致しますので!」
「それは楽しみだな」
こっちの世界の茶道具を扱っている店などに心当たりが無いので、そういう物に詳しそうな頼永様に頼るという、頼華は良いアイディアを出してくれた。
ブラックのコーヒーやエスプレッソに口が慣れている所為か、苦い苦いと言われている抹茶を口にしても俺はおいしいと感じるので、適当に相槌を打ったのでは無く楽しみなのは本当だ。
「抹茶もいいんだけど、個人的には珈琲が欲しいなぁ」
抹茶の話題から苦い飲み物を連想して、そこからコーヒーに思い至ってしまった。
元の世界の短期滞在から戻ってそれ程経っていないし、極端なコーヒー好きという訳でも無いのだが、ふっと時間が出来るとコーヒーブレイクをしたくなるのは現代人の性という奴かもしれない。
「珈琲ですか? その手の物ならばブルム殿に伺ってみては?」
「ああ、言われてみればそうかもね」
コーヒーはエチオピアから発祥してアラビアに伝わったと言われていて、日本には江戸中期にはオランダから長崎に持ち込まれたらしいが広まらず、本格的に飲まれ始めたのは明治末期頃からだ。
コーヒーがユーラシア大陸の交易品に含まれていれば、新大陸であるアメリカの産物よりは出来る可能性が高そうだ。
「しかし兄上。珈琲豆が手に入ったとしても、淹れる道具はどうされるのですか?」
「焙煎は鍋でも出来なくは無いし、淹れるのは布と針金でもあれば十分だよ。豆を挽くのは……石臼かな?」
専用の焙煎の器具など望むべくも無いが、焙じ茶用の焙烙なんていう道具もあるし、買ってきたコーヒー豆の焙煎が甘い時にはフライパンで煎った事もある。
抽出用の器具もマキネッタやサイフォンは難しいが、蜘蛛の糸で編めばペーパーやネルのドリップの代用品には十分なるだろう。
コーヒーミルは無いが、さっき話題に出た抹茶を挽く為の茶臼なんて物もあるので、目立て次第で粗挽きから細挽きまで出来る筈だ。
「あの……主様?」
「なんですか?」
思いっきり怪訝な表情の天后に声を掛けられた。
「失礼ながら、先程から話題にされている内容の中に、私には不明な言葉が散見されるのですが」
「えーっと……」
(そういえば天后さんには、俺の詳しい話はしてなかったっけ?)
子供達以外の里の関係者には俺の素性をカミングアウトしたので、天后達もそうだと思いこんで気にしていなかった。
しかし考えてみれば天后を始めとする式神達は、昨日の晩に一条戻り橋で出逢って里の住人になったばかりなのだから、知っている訳が無くて当たり前なのだ。
「なんか話があっちこっちに飛んでいるので、混乱すると悪いんですけど、説明しますね」
「天后よ、心して聞くが良い。そして間違っても、里の関係者以外に者に口外するのでは無いぞ?」
「は、はい」
頼華ちゃんの前置きを聞いて重大事だと感じたのか、天后の表情が引き締まった。
「実は俺は、この世界に生まれた人間では無いんです」
「っ!?」
「続けますね?」
「は、はい……」
天后は息を呑んで驚いた様子だが、俺が言葉を続けるのを待っている。
「とある女神様のお陰でこっちの世界に来てしまったのですが……」
もう済んだ話だし、フレイヤ様の恥を晒す事になるのだが、これを説明しないと俺がこっちの世界に来る切っ掛けを説明出来ない。
(しくしく……)
(あ、すいません……)
フレイヤ様の悲しむ気を感じ取ったので、心の中で詫びておいた。
「とまあそんな感じで、一条戻り橋で天后さん達とも出逢って、今に至ります」
俺が居た世界とこっちの世界との事、フレイヤ様にドラウプニールを授かった事、江戸でおりょうさんや嘉兵衛さんやドランさんと出逢った事、頼華ちゃんとは初対面が最悪だった事なども話した。
その後、鎌倉で黒ちゃんと白ちゃんと、伊勢で朔夜様や椿屋さん、那古野でブルムさんと出逢い、不幸な行き違いから蜘蛛達に襲われた後で京に到着し、結界や百鬼夜行をなんとかしてから、おりょうさんと頼華ちゃんと共に現代にショートステイしてから、一条戻り橋の戦いのところまで天后に説明して、一度話を区切った。
細かなエピソードはいっぱいあるのだが、天后への俺の現状の説明としては、こんなところだろう。
「主様がお強いのは存じておりますが、神仏とも交流があるとは……凄まじいお話ですね」
「交流というのとは違うんですけど……お世話になっているのは間違い無いです」
実際、神仏から与えられた加護や権能などが無ければ、様々な困難な状況に対応出来なかったと思うし、里の整備や子供達の世話なども、もっと苦労をしていただろうというのは容易に想像出来る。
「俺も元の世界に関する事は、知っている人達以外の前ではしないようにしますから、天后さんも口外しないように気をつけて下さい。あ、大裳さんと太陰さんには話していいですからね。と言うか、天后さんから説明をお願いします」
「畏まりました」
天后は恭しく頭を下げた。
「兄上」
「ん?」
会話が途切れたところで、頼華ちゃんが声を掛けてきた。
「珈琲の話なのですが、輸入品なのですから、長崎屋に訊いてみるというのは?」
「あっ! そ、そうだよね。言われてみれば……」
長崎屋さんが諸外国からの輸入に関しての窓口である事は知っていたのに、薬種問屋であるというのが念頭にあったので、コーヒーとかを扱っているという考えに及ばなかった。
コーヒーを直接扱っていなかったとしても、長崎屋さんに相談をすれば仕入れの糸口くらいは掴めるかもしれない。
「兄上のお役に立てましたか?」
「凄く役に立ったよ」
「むふふ。それでは長崎屋に出向いた際に、珈琲の話もしてきますね!」
「うん。有難う、頼華ちゃん」
笑顔の頼華ちゃんを軽く抱き寄せながら、御礼の言葉を口にした。
「それでは兄上、そろそろ休みましょうか?」
「そうだね。天后さん、長々と付き合わせちゃってすいません。休んでくれて結構ですよ」
ショートブレッド作りの手伝いはともかく、必要な説明だったとはいえ、プライベートな話に天后を長い時間付き合わせてしまったのは事実だ。
「いえ。大変興味深い話をお聞かせ頂きました。それではお休みなさいませ」
「「お休みなさい」」
頭を下げて立ち去る天后を、頼華ちゃんと一緒に見送った。
「兄上、今宵は床を御一緒しても良いのですよね?」
「うん。いいよ」
江戸までのお使いのお礼になるのかはわからないが、今日は頼華ちゃんの希望をすんなり受け入れた。
「頼華ちゃん。俺はここを片付けてから部屋に行くから、布団をお願い出来る?」
寝て起きたら朝食の支度をしなければならないので、ショートブレッドを作ってお茶を飲んだ状態の厨房を放置するわけにも行かない。
「お安い御用です! それでは兄上、お待ち申し上げておりますが、あまり待たせないで下さいね?」
「あはは。わかったよ」
「はい!」
にっこり笑った頼華ちゃんは、ひと足先に部屋に向かった。
「……これで良し、と」
手早く片付けと洗い物を済ませた俺は、長崎屋さんに持って行って貰う夏物の通気性を良くした着物を三組程作った。
着物を作った後で、里に滞在中の雫様と夕霧さんに宛てて、頼華ちゃんに江戸で用事を済ませてきて貰うので、御迷惑をお掛けしますという内容の書状を作った。
頼華ちゃんに関する文章を、本人に見られながら書くというのは気になってしまうので、寝る準備を任せるという口実で、厨房で一人になれるように仕向けたのだった。
出来上がった着物の包みと書状を折りたたんでドラウプニールに仕舞いながら立ち上がった俺は、厨房から寝る為の部屋へと向かった。
「お待たせ……ん?」
俺が障子を開けると、部屋の中は静まり返っていた。
部屋の中に敷かれた布団では、頼華ちゃんが幸せそうな笑顔のままで眠っていた。
「……」
(疲れてたのかな?)
そっと障子を閉めながら俺が部屋に入っても、頼華ちゃんは目を覚まさなかった。
(別に布団を敷いて寝るっていうのは……起きてから怒られるかな?)
別々の布団で寝るという考えが浮かんだが、朝になって頼華ちゃんに責められそうな気がしたので心の中で却下した。
「……」
頼華ちゃんを起こさないように気をつけながら掛け布団を捲り、隣に身体を滑り込ませた。
起こしていないか気になったので、少しの間上から頼華ちゃんの顔を見下ろしていたが、どうやら大丈夫だったようだ。
「……ん」
乱れた髪の毛が額に掛かっていたので、そっと手で払った時に微かに頼華ちゃんが声を発したのだが、何か幸せな夢でも見ているのか、笑顔だった状態から更に口角が上がった。
「……おやすみ、頼華ちゃん」
笑顔の頼華ちゃんに小声で囁いた俺は、枕に頭を預けて布団を掛けると目を瞑った。




