ケイ
「りょう殿、宜しいのですか?」
黒ちゃんが抱きついている俺への距離を、少しずつ詰めてくる夕霧さん、天、ブリュンヒルドの様子を見て、雫様がおりょうさんに問い質している。
「全てを駄目って言っちゃいますと、後々になって不満が一気に噴出しちまいますからねぇ。少しくらいは許してやった方がいんですよぉ」
「りょう殿はそれでいいのかもしれませんけど……良太殿は?」
おりょうさんが余裕の表情なので、雫様は話題を俺の方に切り替えてきた。
「良太は、嫌なものは嫌だって言うでしょうから、心配はしちゃいませんよぉ」
「いえ、そうでは無くて……他の女性に気が移るのとかを心配はされないので?」
「良太が……他の女に?」
「ええ」
雫様に問われて、おりょうさんは目を丸くしている。
「……あっはははは! 無い無い! それは無いですって!」
「りょ、りょう殿っ!?」
突然笑い出したおりょうさんを見て、雫様の方が動揺を隠せないでおろおろしている。
「そ、そんなにおかしな事を、私は言いましたか?」
「あははははは……だ、だぁってぇ。雫様、さっき良太に、平等に愛してくれるんなら、受け入れてもいいよって言ったら、なんて返ってきたと思います?」
「そ、そんな話をされていたのですね……それで、良太殿はなんと?」
「「「……」」」
いつの間にか、この場にいる者の意識はおりょうさんと雫様の会話に集中されていて、俺に抱きついていた黒ちゃんまでもが腕の力を緩めて聞き耳を立て、続きが語られるのを待っている。
「それがですねぇ、平等になんて出来ないって言うんですよぉ」
「そ、それは?」
「うふふ。あたしと頼華ちゃんを優先するから、平等になんか扱えないってぇ。きゃっ♪」
「おりょうさん……」
嬉しそうにはしゃぐおりょうさんを見て、雫様は呆気にとられたその顔を薄く朱に染めた。
特に口止めもしなかった俺も良くないのだが、おりょうさんにしか聞かせるつもりが無かった恥ずかしいセリフを皆に晒されてしまって、どういう顔をすればいいのかわからない。
「……成る程。正妻であるりょう殿と頼華の地位は、盤石だという事ですね」
「そうですねぇ♪」
雫様に確認されて、おりょうさんは御機嫌だ。
(……やっぱり黒ちゃんは、おりょうさんと違う匂いがするんだよな)
抱きついている黒ちゃんの頭を撫でながら、俺は現実から逃避する為にそんな事を考えていた。
こっちの世界の日本にも香の類はあるのだが、元の世界の現代とは違って手軽に買ったり使ったりはされていない。
だから感じるのは固有の香りの筈なのだが、どうして気が実体化したような存在の黒ちゃんの身体から、女の子っぽい甘いような匂いがするのかは謎である。
(それにしても……黒ちゃんにおりょうさんの匂いに気づかれたって事は、頼華ちゃんにもおりょうさんと黒ちゃんの匂いを指摘されるちゃうのかな?)
頼華ちゃんも黒ちゃんと同じかそれ以上にスキンシップをしてくるので、俺に抱きついたりするのは日常茶飯事だ。
京に戻ったら早々に頼華ちゃんは抱きついて来そうなので、おりょうさんと黒ちゃんの残り香に関して追求される可能性は極めて高い。
「むぅー! お前等寄るな! 御主人はあたい達のだぞ!」
手で追い払うような動作をしながら、歯を剥き出しにした黒ちゃんが夕霧さん達を威嚇する。
「うぅー……く、黒ちゃぁん。あたしは江戸の大前で、一緒に働いた仲じゃないですかぁ」
「それはそうだけど! 姐さんや頼華と同列には扱えないよ!」
「くぅー……」
夕霧さんの情に訴える作戦は、黒ちゃんには通用しなかった。
「ゆ、夕霧様でも駄目という事は……」
「狐! 当然お前も駄目だ!」
「や、やっぱり……」
九尾の狐である天も、黒ちゃんのガードを突破するのは無理だと悟ったらしく、がっくりと項垂れている。
「……わかりました。私には時間が与えられましたので、事を性急に運ぶつもりはございませんので。お騒がせ致しました」
夕霧さんや天とは違って、ブリュンヒルドはあっさりと引き下がり、黒ちゃんと俺に頭を下げた。
「ふむ……黒、俺は?」
「白はいいに決まってるだろ!」
「そ、そうか……では」
「何が『では』なんだかわからないけど……」
これまでそんな気配を感じなかった白ちゃんが、黒ちゃんの許可を得て俺に抱きついてきた。
(……ま、いいか)
当事者の俺の許可は得ないで行動だが、普段の表情が乏しい白ちゃんの口角が少し上がっているのに気がついたので、少しの間だけ身を任せる事にした。
「気をつけて行ってくるんだよぉ」
柔らかく微笑んだおりょうさんが、軽く手を振りながら京に向かう俺達を見送ってくれている。
「ええ。なんか外国から特使が来てて、京の警備も厳重になりそうですから、気をつけます」
「ん? そいつは初耳だねぇ」
「そういえば言ってませんでしたね……」
応接間で話をしていたメンバーと、俺の姿に気がついた数人の子供達の見送られているところで、帰り途で遭遇した外国の特使の事を思い出したのだった。
「なんでも、ぶりてんとかいう島国から来られたそうですよ」
「ぶりてん……もしかして、あの?」
「ええ。あのブリテンです」
雫様のブリテンという単語に反応したおりょうさんが、俺に視線を送って確認して来たので、小さく頷きながら向こうの世界で何度か話した、かつて英雄王の治めていた伝説の国だという事を肯定した。
「なぁんかぁ、嫌な予感がするねぇ……」
「俺には関わりは無いと思うんですけどね」
おりょうさんがフラグがたったみたいな言い方をするが、こっちの世界のブリテンと俺との間には、何の接点も無い筈だ。
「ただ、少しだけ氣になる事があるんですよね」
「なんだい?」
「ブリテンの特使の方が、国務長官で円卓の騎士のケイ卿だと」
「えっ!? そ、そいつは……そのまんまじゃないか!?」
「そうなんですよね……」
アーサー王伝説は長く読み継がれられている物語であり、様々な作品のモチーフに使われたりもしていて、向こうの世界に滞在中におりょうさんだけでは無く頼華ちゃんにも、何度か説明をしたりネットで調べたのを見せたりした。
しかし、アーサー王はモデルになった人物はいたっぽいのだが、円卓の騎士も架空の物語に登場しているに過ぎないのだ。
こっちの世界でのブリテンと円卓の騎士が、俺達の知っている物と同じとは限らないし、普通に考えれば同じ物では有り得ないだろう。
「良太殿、りょう殿。ぶりてんの特使が、何か問題なのですか?」
「特に問題かと言われると……」
俺達の知っている円卓の騎士が悪の組織という事では無いので、雫様に問題があるのかと問われても、そんな事は無いとしか答えられない。
しかし、円卓に択ばれた騎士は通常とは違う能力や加護などを得ている事が考えられるので、万が一にでも敵対した場合には、大きな脅威になるのは間違い無い。
「良太。円卓の騎士がどんなもんなのかは、あたしから雫様に説明しとくから、あんたは出掛けな」
「わかりました。それじゃ、行ってきます」
「「「いってらっしゃい」」」
思いの外盛大なお見送りを受けながら、俺、ブリュンヒルド、オルトリンデ、天后の四人は、京に向けて出発した。
「昨晩も乗せて頂いたのですが、殆ど揺れないというのが不思議でございますねぇ」
里を取り囲む霧の結界を抜けて、ブリュンヒルドとオルトリンデの愛馬に分乗して少し進んだところで、天后が呟いた。
「蹄の音は聞こえるけど、実際には少し浮いてるらしいですよ」
ブリュンヒルドの後ろに座った状態で糸を操っていた俺は、天后の方は見ずに言葉を返した。
「だから揺れが少なく、下り坂なのに歩調も乱れないのですね」
「ええ。お陰で俺の方も、作業の邪魔をされませんでした」
乗馬というのは歩くのに比べると、高速で長距離を移動出来る手段ではあるのだが、見た目の優雅さと比べて筋力や持久力を要求される。
馬上というのは鞍や鐙を使っていても、思った以上に揺れる場所なので、振り落とされないように耐えずバランスを取る必要があるからだ。
しかしワルキューレ達の愛馬は地面を踏み締めて掛ける訳では無いので、揺れや振動が皆無とまでは行かないまでも、駆け足でもしなければ両手を離して乗っていられる程度には快適だ。
「……これで良し、と。天后さん、これを」
認識阻害の他、様々な効果を付与して出来上がった外套を、並走しているオルトリンデの愛馬、ヤールンファクシの後部に乗っている天后に差し出した。
「す、凄い。なんという強度と密度……これを私に?」
何度も確かめるような視線を送ってきた天后は、おずおずと伸ばした手で外套を受け取ったが、それでもまだ信じられないという表情で俺を見てくる。
「ええ。普通に京に入ろうとすると、天后さんの容姿では目立っちゃうと思うので」
式神という創られた存在だからなのか、天后は文字通りに人間離れした、精緻に整った容姿をしている。
神様であるフレイヤ様や、整っていながらも人間味を感じるおりょうさんや頼華ちゃんと比べて、天后の完璧過ぎる整い方には、どこか異質さを感じさせるのだった。
「有り難く頂戴致します」
天后は揺れの少ない馬上で、受け取った外套を軽く持ち上げて眺め、見る方向などを変えたりしながら瞳を輝かせている。
(所作とかは本当に自然だなぁ……)
昨晩は一緒にいる時間が少なかったので、あまり観察する事も出来なかったのだが、時折する瞬きや首を傾げる姿などは非常に人間っぽくて自然に映る。
(もしかしたら表情とかは、白ちゃんよりも豊かなんじゃないのかな?)
そんな事を考えさせる程、天后と言うか晴明の式神は、人間以上に人間ぽい仕草をするのだった。
「ブリュンヒルドさん、ここまででいいですから」
京を取り囲む壁と北側の門が遠くに見えてきたところで、俺はグラーネの手綱を取るブリュンヒルドに声を掛けた。
「えっ!? そ、そんな。笹蟹屋までお送りするつもりでしたのに……」
俺の声を聞いて両手で手綱を引き、グラーネの脚を止めたブリュンヒルドが振り返ると、その顔にはなんとも言えない悲しい表情が浮かんでいる。
「入って直ぐに出ちゃうんじゃ、足税が無駄になっちゃいますから」
壁で囲まれた京に出入りするには、一人辺り銅貨で十枚を支払わなければならない。
そんなに高額という訳では無いのだが、それでも入って直ぐ出るだけで支払うには勿体無い額ではあるのだ。
「あの、良太様?」
「なんですか?」
俺がグラーネから下りるのを見て、天后もヤールンファクシから下りながら声を掛けてきた。
誰の手も借りずに、慣れた動作でヤールンファクシから下りる姿を見ると、天后は乗馬には慣れていたようだ。
俺と天后に続いて、ブリュンヒルドとオルトリンデも愛馬から下りて、それぞれの愛馬の手綱を握っている。
「もしかしてなのですが、あまり財政的に余裕が無かったりしませんか?」
「う……」
足税をケチろうとしたからか、天后に痛いところを指摘されてしまった。
「えっと……確かに余裕は無いですけど、困窮するって程でも無いのが実際です」
「まあ……では私は、食事は頂かない方が宜しいですね?」
「いやいや。食事の時間に天后さん一人だけ食べないとかだと、子供達が気にしちゃいますから」
店番以外の者が食事の時に席を外したり、具合が悪いのでも無いのに食べなかったりすれば、子供達は心配したり悲しんだりしてしまうだろう。
「それに、食べるのには困らないですし、お金の方も入ってくるあてが無い訳じゃ無いんですよ」
幸いな事に里には猪や鹿の肉が大量に備蓄してあるし、周囲の山も自然が豊かなので、その気になれば獲物の調達は比較的容易だ。
里に流れる小川にも岩魚が多数棲息しているし、畑の野菜の収穫ペースさえ確認出来れば、主食の米と味噌さえなんとかなれば、一般的な庶民の食卓よりは豊かになるだろう。
ただ、里で初期に揃えなければならなかった物の調達に少なくない金額を投入したのと、京の笹蟹屋の永代使用権の取得、そしてドラウプニールのレプリカを作るのに使ってしまったので、俺の手持ち金が少し乏しくなってきているのも事実だった。
頼永様から雫様の滞在費として預かっている分が無ければ、ちょっと大きな買い物をするには、これまで手を付けていなかったフレイヤ様からこっちの世界に来る時に貰った砂金も、使わなければならないかもしれない。
「その、入ってくる予定のお金というのが、どういう物なのか伺っても?」
「ええ。天后さんに手伝って貰う笹蟹屋では、里の人間が作った糸の製品や、俺が作った盤上遊戯とかを扱っているんですけど、その売上です」
天后にはこう答えたのだが、商取引に関しては笹蟹屋の店主のブルムさんに全て任せているので、言われるままに作ったり、外部に発注して作っている製品が、どの程度売れているのかは俺の方では把握していない。
商店で扱う品物の売買益というのは、ある程度の期間毎に仕入れや諸経費を売上金額から差し引いて算出されるのというのもあって、これまでは特にブルムさんに言及してこなかったのだが、もう少しすればどれくらいの利益が出たのかがはっきりするだろう。
「まあ。それでは私も売上に貢献出来ますように、張り切らなければなりませんね」
「天后さんが看板娘になれば、売上は増えると思いますけどね」
実際に元の世界の江戸では、寛政の三美人と言われた看板娘のお陰で、繁盛を通り越して騒動にまで発展してしまったという例がある。
文字通りに人間離れした美貌の天后が軒先の掃除や店番をしているだけで、かなりの集客効果が見込めるのではないかと思う。
「という訳でブリュンヒルドさん、ここまで有難うございます」
「うぅ……お名残惜しいですが、無事にお送り出来て良かったです」
「オルトリンデさんも有難うございます。里での雫様のお世話と家事の方も、しっかりとお願いしますね?」
「はい……」
本当に名残惜しそうなブリュンヒルドと、里に戻ってからの事を考えているのか、憂鬱そうなオルトリンデは、挨拶を交わすとそれぞれの愛馬に跨って駆け去った。
「それじゃ天后さん、俺達も行きましょうか」
「畏まりました」
優雅に一例をした天后と一緒に、京の北側の門を目指して歩き始めた。
「む? そこを往くのは鈴白か?」
「はい?」
天后と一緒に京の関所を抜け、西洞院大路を歩いていると、聞き覚えのある女性……沖田様からに背後から声を掛けられた。
「おお、やはりそうだったか! 何やら後ろ姿が似ていたので声を掛けたが、本人で良かったわ!」
「……え?」
(それなりに気配は絶っていた筈なんだけど……さすがは沖田様)
京の関所を抜ける時には外套のフードを被ったままという訳にはいかないので、俺も天后も顔を晒した状態で通過をした。
その後は天后は目立たないようにフードを被り直したが、俺は素顔のままで歩きながらも目立ちたくは無いので、気を使いこなせない人間には察知されない程度に気配を絶っていたのだが、優れた武人である沖田様には、あっさりと俺の事を見つけられてしまったのだった。
「あの、主様。その方は?」
「む? 連れがいたのか? 不覚にも気が付かなんだ」
しかし、俺が施した認識阻害の外套は、確実に効果を発揮していたようで、天后が自ら話し掛けて来なければ、沖田様レベルの相手にでも存在を誤魔化せていたというのが実証された。
「これは美しい娘だな。それにしても、主様?」
「え、えっとですね……沖田様もお越し下さった笹蟹屋で雇う事が決まったのですが、まだ俺をなんと呼ぶのかを言い含めていないので、そう呼んだのでしょう」
「そ、そうか……」
沖田様は信頼出来る相手だとは思うのだが、俺と式神である天后の関係は、滅多な事では口に出せない。
一方的に捲し立てたので、沖田様も俺の事を追求しては来なかった。
「ふむ……これからその娘と、笹蟹屋に行くのか?」
「ええ」
「それならば丁度良い。我等も一緒に行こう」
「我等?」
(……かなり巧妙に気配を消しているな)
沖田様に言われて初めて、少し後方に佇んでいる人物の存在に気がついた。
その人物は沖田様のダンダラ模様の新選組の隊服とは違うが、こっちの世界の日本の武人が良く身に着けているような羽織と袴姿であり、時代劇でお忍びで行動する時に着ける覆面を被って顔を覆っている。
(ん? 日本人じゃ無い?)
瞳の色が碧色であり、覆面の隙間から僅かに覗く目の周辺の部分だけでも、日本人とは違う造形なのがわかった。
「こちらの外国から来た御仁が、私の着物を見て興味を持ってな。笹蟹屋に相談に行くところだったのだ」
自分の事が話題になっていると気がついたその外国人は、半歩前に歩み出た。
「初めまして。ケイと申します」
流暢な日本語による挨拶よりも、自己紹介でケイという名前を聞いた衝撃の方が俺には大きかった。




