蜂蜜酒
「あたしに管理して欲しいってのは、そこに置いてある樽の中身かい?」
「そうなんですけど、その前に少し話を」
俺の部屋には隅に畳んでおいてある寝具と大きな木の樽しか無いので、おりょうさんがすぐに気がついたのは当たり前だ。
「話ってぇのは、ブリュンヒルドさんの事かい?」
「ええ。おりょうさんには、これだけは言っておいた方がいいと思いまして。とりあえず座りましょうか」
「うん」
床にはラグとかの代わりに蜘蛛の糸をパイル状にした物を敷き詰めてあるので、おりょうさんを座るように促しながら俺も腰を下ろした。
「で、何を言いたいんだい?」
「おりょうさんと頼華ちゃんが反対ならば、俺からは絶対にブリュンヒルドさんだけでは無く、夕霧さんや天さんの想いに応える事はありませんから」
「ん? そいつは、良太の方にはその気があるって事なのかい?」
「そう言われると……全く好意が無いというと嘘になりますからね」
「まあ、みんな美人だからねぇ」
やはりというか、同性のおりょうさんの目から見ても、いま名前の上がった三人は美人だという証言が得られた。
「正直に言いますと、おりょうさんと頼華ちゃんより先に出逢っていて好意を寄せられていたら、気持ちは動いたと思います」
「あー……まあ、仕方が無いだろうねぇ」
恋人であるおりょうさんに対しての物言いとしては如何な物かと我ながら思うのだが、反応からすると納得はしてくれているみたいだ。
「あたしとしちゃあ良太を独占しちまいたいけど、頼華ちゃんがいる時点で、それも出来なくなっちまってるしねぇ」
「あー……」
俺とおりょうさんの間で、頼華ちゃんの事は既に決着済みなのだが、苦笑交じりの言い方を見ると実際には心中は複雑なのだろう。
「まあ夕霧さんも天さんもブリュンヒルドさんも、会ってからは短いけど一緒に生活したりして人柄なんかはある程度把握してるから、良太が平等に愛してくれるなら……いいよ?」
「平等になんて、俺には無理ですよ」
「えっ!? や、やっぱり良太には、あたしくらいの胸の大きさじゃ……」
「なんでそうなるんですか……」
どうやらおりょうさんは夕霧さんや天やブリュンヒルドよりも、自分の事を下に扱うと勘違いしたらしく、その原因が胸の大きさだと思われているのは、俺としてはちょっと心外だ。
「そうじゃ無くてですね。おりょうさんと頼華ちゃんの方を大切にするに決まってるじゃないですか」
「あ……」
照れ臭いのを我慢して俺が言うと、おりょうさんは顔を真赤にしながら身体を寄せてきた。
「ご、御免ね? 良太の気持ちを、少しでも疑っちまって……」
「そんな風には思ってませんよ」
上目遣いに俺を見てくるおりょうさんを、軽く抱き寄せた。
「ねえ、良太」
「なんですか?」
「良太の心情的に受け入れられるってんなら、あたしは構わないよ」
「それは……」
断固反対という考えなのかと思っていたら、おりょうさんから予想外の受け入れオッケーという意見が飛び出した。
「仮に受け入れるとしても、おりょうさんと頼華ちゃんと、正式に婚儀をしてからですねぇ」
「こ!」
婚儀という単語がどういう風に響いたのかは不明だが、おりょうさんは目をまん丸にして固まってしまった。
「おりょうさんと頼華ちゃんが優先というのは俺には譲れない線なので、ここだけは言う事を聞いて貰います」
「うん……」
おりょうさんは恥ずかしそうに、俺の胸に顔を伏せた。
二、三分の間、俺の胸に顔を埋めていたおりょうさんは、ゆっくりと身体を起こした。
「えっと……御免ね?」
「何を謝るんですか?」
じっと俺の目を見ながらおりょうさんが誤って来たが、俺には心当たりが無い。
「その……良太に無駄な時間を使わせちまったり」
「おりょうさんと一緒に過ごす時間が、俺には無駄なんですか?」
「っ! も、もう……大好き」
既に朱に染まっていた顔を更に赤くしながら、おりょうさんは再び俺の胸に顔を伏せた。
「うー……で、でも、あんまり時間を掛ける訳には行かないんだよねぇ?」
「それはそうですね。天后さんを待たせる訳にもいかないですし」
まだ数分しか経過していないので、予定した時間まではもう少しあるが、ゆっくりとしていられる程での無い。
「そいじゃ、良太の気持ちは確認したから、他の要件を済ましちまおうじゃないか」
「そうですね」
まだほんのりと頬が染まっったままだが、落ち着きを取り戻したおりょうさんは顔を上げた。
「そこに置いてある樽なんですが、蜂蜜酒が仕込んであります」
「蜂蜜酒ってーと、蜂蜜を水で薄めればいいんだったっけねぇ?」
「そうです。だから仕込むっていう程の事でも無いんですけど」
水との割合と、埃が侵入したりしないように蓋をし、その蓋が発行に伴うガスによって飛んだりないようにだけ気をつければ、蜂蜜に含有されている酵母が活動を始める。
活動を始めた酵母は蜂蜜の糖分をアルコールに変えてくれるので、蜂蜜酒の仕込みは本当に簡単なのだ。
「昨日、出掛ける前に仕込んだので、通常なら一週間から十日程度で酒になるんですけど、ここは色々と普通じゃ無いので」
「あー……」
俺の言わんとする事を、おりょうさんはあっさりと納得してくれた。
「そいじゃここに時々来て、樽の中の様子を見りゃあいいんだね?」
「ええ。ちょっと確認してみようかな」
顔は上げたがおりょうさんが身を寄せたままなので、手を伸ばして樽を引き寄せて、蓋はそのままで端の方にある小さな木の栓を外して、耳をすませた。
「……発酵は順調みたいですね」
「なんかパチパチいってるのが聞こえるねぇ」
静かな室内に、微かに気泡の弾ける音が聞こえてくる。
蜂蜜の中の酵母が糖分をアルコールに変え、その際に発生する炭酸ガスが弾けて、発酵が順調に進んでいるのを知らせてくれているのだ。
「これが聞こえなくなったら、発酵が終わって出来上がりです」
「出来上がってたら、飲んじまっていいのかい?」
「構いませんよ」
蜂蜜は腐ったりはしないのだが、里に移り棲んでくれた蜜蜂達があまりにも大量に集めてくれたので、製菓材料にしたり蜂蜜酒に加工したりした。
無くなったら蜜蜂達が集めてくれるだろうし、蜂蜜酒はまた仕込めばいいのだから、遠慮無く飲んで欲しい。
「でも、口当たりはいいけど意外と強いらしいですから、飲み過ぎには注意して下さいね?」
発酵がの過程が終わって出来上がった蜂蜜酒は、十度くらいのアルコール度数があると聞くので、甘い香りに騙されると飲み過ぎてしまうらしい。
「そいじゃちょいと味見だけして、本格的に飲むのは良太が居る時にしようかねぇ」
おりょうさんは暗に、自分が酔っ払ったら俺に世話をしろと言っているのだ。
「参ったな……」
「うふふ」
断れる訳が無い俺に、おりょうさんは悪戯っぽく微笑んだ。
「もやしの世話と合わせて、こいつの事はあたしに任しときな。尤ももやしの方は、子供達にもやらせるつもりだけどねぇ」
「ああ、それはいいですね」
もやしは食べられるまでの生育が目に見える程に速いので、子供達にも楽しく世話が出来るだろう。
「何日くらいで育つのかが把握出来たら、里での消費量と相談しながらですけど、幾つか並行して育ててもいいかもしれませんね」
「そうだねぇ。元は豆で身体にも良さそうだし、上手く考えて週に二、三度収穫出来れば、献立的にも助かるしねぇ」
もやしはもう一品欲しい時や、肉の添え物などに使うのに重宝する食材なので、毎日収穫するのはやり過ぎだが、週に二、三度食卓に上がるようにすれば飽きが来ないので、毎日のメニューを考える人間にとっても助かるだろう。
「あ、そうだ。昨日買った豆類がいっぱいあるので、おりょうさんに渡しておきますね」
「ああ、そりゃ助かるよ。今夜は煮豆にでもしようかねぇ」
「今夜は里では食べられない俺に献立を言うなんて、殺生ですよ」
煮豆なんて何の変哲も無いメニューではあるのだが、自分が好きな人が作るとなると話は別だ。
その料理を作る為の材料を提供するのに、当の自分が食べられないという状況は、例えようも無く残酷だ。
「おや。そいじゃ良太の分は、別に取っておこうかねぇ」
「それは嬉しいな。食べられるのを楽しみにしてますね」
「うん♪」
嬉しそうなおりょうさんの笑顔を見ると、脳が痺れるような幸福を感じた。
「来たか主殿。もう準備は出来ているぞ」
おりょうさんと一緒に一階に降りると、白ちゃんが迎えてくれた。
準備というのは天后の衣類の事だが、言われて見ると元の世界の中国風な衣類から、紺地の地味めな着物に着替えている。
元の中国風な衣類は腰の辺りを絞るようなデザインだったので、天后のメリハリのあるプロポーションを強調していたのだが、和装になった事によって少しだけだが目立たない感じになっている。
尤も、プロポーションは隠せても、東洋系ではあるが純粋な日本人よりは彫りの深い天后の顔立ちは、十分以上に人目を集めそうだ。
「他の衣類は、こっちに纏めておいた」
「ああ、腕輪が無いからだね。助かるよ」
白ちゃんは、これも紺地の風呂敷のような布の包を示した。
天后達、新たに里の住人になった式神にはドラウプニールを渡していないので、荷物は手で持ったり背負うなりしなければならない。
「三人にも腕輪を渡してもいいんだけど、今すぐにって訳には行かないな……」
「主様。腕輪と申されますと?」
「ああ、これなんですけどね」
俺が簡単にドラウプニールの由来とその機能を説明すると、次第に天后の顔が青褪めて行った。
「お、お待ち下さい! そのような強力な神宝を授かるなど、荷が重過ぎます!」
「そうですか? 便利なんですけどね」
「べ、便利とかそういう事で片付けるのは、如何なものでしょうか!?」
「はぁ……」
ドラウプニールに助けられた事はあっても、邪魔に感じた事は無いので、俺には天后の剣幕が理解出来ない。
「まあ直ぐには用意出来ないので、天后さんがそう言うなら暫くは渡すのを保留しますけど、必要を感じたら知らせて下さいね?」
「は、はぁ……」
「それじゃ衣類は、俺が預かりますから」
何か腑に落ちないという表情をしている天后の衣類の包みを預かり、ドラウプニールに収納した。
「それと、作るのが間に合わなかったから、今日のところはこれを羽織って下さい」
「「「!」」」
「ひぃぅっ!?」
俺が自分の迷彩効果のある外套を取り出して天后に渡そうとした途端に、周囲に緊張感に包まれた。
その気配の変化を感じ取り、視線などから自分が原因だと悟った天后は、短い悲鳴のような声を上げると息を呑んだ。
「な、なんで新参者に、御主人のを貸しちゃうの!?」
「主殿。必要ならば俺のを使わせても構わんぞ」
「め、目立つのが困るのでしたら、わたくしが認識阻害の術を施しますが?」
「あー……」
黒ちゃんと白ちゃんと天が尋常ではない目つきで天后を睨みつけながら、俺に意見をしてきた。
作ったのを渡すのは、これまでに何人にもしているので今更だが、俺の私物を天后に貸すという行為が問題だったらしい。
(でも、その割にはおりょうさんは冷静なんだよな)
「あははぁ、良太も罪作りだねぇ。今回はあたしが原因なんだけどさ」
「おりょうさんが原因って?」
「ほら。あたしと良太が話し込んでたから、天后さんの外套を作る時間が無かったのが原因なんだろう?」
「ああ、成る程」
話し込んだ事によって時間が無くなり、俺が天后の外套が作れなかった現在の状況を作った責任の一端を担っているという自覚があるから、おりょうさんは黒ちゃん達のように怒ったりしないで苦笑するだけだったのだ。
「あ、主様。お気持ちは嬉しいのでございますが、恐れ多くも主様の衣類をお借り致しますのは……」
「えっと……」
天后は遠回しな言葉遣いをしているが、要するに俺に外套を借りると身の危険を感じるから勘弁してくれという事だ。
「そういう事なら、馬での移動中になんとか作ってみましょうか。なんとか京に着く直前には完成するだろうから」
「そ、そうして頂けますと……」
天后は何も悪く無いのだが、三人からの物理的に刺さりそうな視線を受けて、すっかり萎縮してしまっている。
「うーん。それなら……」
「まあ、構わんか」
「そういう事でしたら」
「あ、はい」
天后達式神は、これから生活を共にする相手なので、外套の貸し借りくらいであまり揉めないで欲しいのだが、平和的に解決出来そうなので余計な事は言わないでおこう。
「じゃあそろそろ出発……って、ブリュンヒルドさんはまだ来ていない?」
「外に出て、まだ戻っては来ていないな」
「良太様。お待たせ致しました!」
白ちゃんに所在を確認していたら当のブリュンヒルドが、オルトリンデを連れて入ってきた。
「そんなにお待ちもしていないですけど」
「いえ。既に出発の準備が整っておいでではないですか」
申し訳無さそうに、ブリュンヒルドが深く頭を下げた。
「……言い訳になってしまいますが、この者がまだ昼にもなっていないのに、サウナに入っておりまして」
「あ、あはは。部屋の掃除と畑の世話は済ませたので、大丈夫だと思ったんですけど……」
「それなら構わないんじゃないですか?」
身の回りや里の中で出来る事を疎かにしたのなら咎めるところだが、言っている通りの状況ならば取り立ててオルトリンデを責める必要も無い気はする。
「汗をかいたり身体が汚れたりしたので、見苦しくないように入浴とかならともかく、オルトリンデは自分の欲求を満たす為だけにサウナに入っていたのです」
「……」
オルトリンデは特に反論も言い訳もせずに、顔に冷や汗を浮かべているのを見ると、ブリュンヒルドの言っている事に間違いは無いのだろう。
「良太様。馬でお送りするのは当然ですが、どうかこの者に罰を」
「そうですね……」
「……」
以前に態度が良くなかった時に、オルトリンデには最悪の場合にはヴァルハラへの帰還もあり得ると言ってあるので、強張った顔を蒼白にしながら俺の言葉を待っている。
「じゃあ京に行って戻ってきたら、今日はオルトリンデさんが雫様の世話係を。夕霧さん、監督をお願い出来ますか?」
「はぁい」
応接スペースで大裳を相手にチェスをしている雫様の傍に控えている夕霧さんが、朗らかに返事をした。
「明日はおりょうさんの監督で、料理や洗濯を」
「わかったよ」
「今日も明日も、監督の夕霧さんとおりょうさんが、ちゃんと仕事をこなしたと合格を出さなければ、明後日以降に延長もありで」
「えぇー……」
「真面目にやれば、今日の午後と明日で終わりですよ?」
不満そうなオルトリンデに、そう言って釘を刺す。
「オルトリンデ。良太様の温情に対して、そのような態度を……」
「わ、わかりましたっ! 真面目に取り組ませて頂きますっ!」
ブリュンヒルドが怒りを具現化させたような気を身体から立ち昇らせると、オルトリンデはビシッと背筋を伸ばして宣言した。
「その言葉、忘れないように。それにしても貴女は学習しませんね。良太様も私も、いつまでも優しくはいられませんよ?」
「はっ!」
オルトリンデは直立した姿勢のままで返事をしたが、眉間に皺を寄せているブリュンヒルドは全面的には信じていないように見えるし、それは俺もだ。
サウナを利用するくらいは些細な事と言っても良いのだが、オルトリンデの場合は少しずつ信頼を失って行ってるので、次に何か大きな出来事が起きたら、決断を迫られるかもしれない。
「では出掛けましょうか」
「「「はい」」」
京に向かうブリュンヒルド、オルトリンデ、天后が返事をした。
「おりょうさん、後の事はお任せします」
「例のもんも含めて、任しときな!」
軽く胸を叩いて請け負ってくれたおりょうさんが、実に頼もしく見える。
「あ、御主人。ちょっと待って!」
「黒ちゃん?」
扉を開けて外に出ようとしたところで、黒ちゃんに呼び止められた。
「ぎゅーっ!」
「あはは……」
京で別れる時にもやられた、黒ちゃんなりの俺との別れの儀式、抱きつきが今回も行われた。
「む! 御主人から姐さんの匂いがする!」
「「えっ!?」」
思わぬ黒ちゃんの言葉に、俺とおりょうさんの驚きの声が重なった。
「ほほぅ。姐さんは、主殿は自分のものだと主張しているのか」
「なっ!? し、白っ!?」
「違うのか?」
「ち、違……わない、けど」
ニヤニヤ笑う白ちゃんに、おりょうさんは言いくるめられてしまった。
「うぅー……御主人、もうあたいは、ぎゅってしちゃ駄目?」
「別に駄目じゃ無いよ。人が多い所では控えてくれればね」
黒ちゃんのスキンシップは少し過剰気味なのだが、人前でされると少し照れ臭い以外には特に気にしてもいない。
「そ、それじゃあぁ、あたしもぉ!」
「わたくしもですわ!」
「わ、私もです!」
「えー……」
出遅れてなるものかと言わんばかりに、夕霧さん、天、ブリュンヒルドが、ジリジリと俺との距離を詰めてくる。




