塩鯖
「朝の支度、その前に……」
静かに寝床を脱出するのに成功した俺は、洗顔を終えて朝食の支度をする前に中庭に出た。
「ふぅー……」
息を吸ってから長く吐き出しながら、両腕を伸ばした姿勢から腰を落として馬歩の構えを取った。
リズミカルな呼吸を繰り返して朝の清浄な空気を取り込み、体内の気と混ぜ合わせて循環させる。
(……特に異常は感じられないな)
数分間続けてから馬歩の構えを解き、式神の騰蛇が取り込まれた事による異常などが無いのを確認した。
(でもそうなると、頼華ちゃんと黒ちゃんと白ちゃんの変化の説明がつかないんだけど……)
頼華ちゃんと黒ちゃんと白ちゃんに現れた変化は式神を倒した事によると考えられるのだが、その変化が二人にしか現れていないというのが謎になってしまう。
(もしかしたら、既に持っている能力に関しては反映されないとかなのかな?)
騰蛇は炎を纏った蛇という姿だったので、既に炎の能力を持っている俺には良くも悪くも影響が出なかったという事が考えられる。
この仮設通りだと、おりょうさんも雷を使えるから、青龍を取り込んでも変化が現れなかったという風に説明がつく。
「あ、もしかして……やっぱりか」
頼華ちゃんが空を飛ぶ為に出していた翼が火の粉を散らしていたのを思い出して、俺も試してみると、予想通りに炎を纏っている。
「……よし、消えた」
翼が纏っていた炎は、頭の中で考えたらあっさりと消えた。
(こりゃ、おりょうさんにも早めに試して貰わないといけないな……)
四神である青龍は雨や雷を伴って現れ、方角では東、五行では木を司っている。
もしかしたらおりょうさんの身体にも、雷などに関連する変化が起きていないとも限らない。
(……でもまあ、慌てる事も無いか)
昨日別れてから、一晩経った現在までの間に里から何も言って寄越さなかったし、炎はともかく日常でおりょうさんが日常で雷を使う事は無いだろう。
下手に焦って動いても、笹蟹屋に滞在している人達に動揺を与えてしまう事になるので、今すぐに里に戻るとかはやめておこう。
心を落ち着かせる意味でも料理をしようと、俺は厨房に向かった。
「あ。おはようございます、主人」
「おはよう……って、お糸ちゃん。今日も料理のお手伝いはしないでいいんだよ?」
厨房に入ると当然のように、お糸ちゃんが米を研いでいた。
「え……」
「京に居る間は、お手伝いは順番だって言ったよね!?」
また目からハイライトが消え掛かったお糸ちゃんを抱き上げ、軽く揺すった。
「うー……」
「唸っても駄目だよ。お糸ちゃんの出番は週末だね」
「でも……」
ちゃんと言い聞かせた筈なのだが、お糸ちゃんは中々諦めようとしない。
「昨日お菓子を作った時は、少し失敗してもみんな楽しそうだったよね? 他の子も料理をしたいと思っても、お糸ちゃんが割り込んじゃうの?」
「う……」
ちゃんと順序立てて説明をすると、お糸ちゃんが言葉に詰まった。
「わかったかな?」
「はい……」
納得して貰う為とは言え、小さい子をしょんぼりさせてしまったのは、俺としては心苦しい。
「でも、米を研ぐのを途中で放置するのも良くないから、これはお糸ちゃんに最後までやって貰おうかな?」
「え……あ、はいっ!」
俺の言葉を一瞬置いて理解したお糸ちゃんは、ぱあっと花が咲いたように笑った。
「「「おはようございます、主人!」」」
「みんなおはよう」
炊飯を開始した頃に、お糸ちゃん以外の子供達が現れて朝の挨拶をしてくれた。
(あれ?)
竈の置いた羽釜に、いつものように気を注ぎ込んで炊飯をしようとした時点で、俺は自分に起こっている異変に気がついた。
(……いつもよりも、気の消費が少ない?)
ゲームのように自分のパラメータが表示されて、気の上限や消費量を数値的に確認出来る訳では無いのだが、炊飯といういつもの行為なので、感覚的に必要な気の量や強度というのは把握済みだ。
しかし昨日の炊飯をした時と比べると、明らかに少ない時間で羽釜の中が沸騰をし始めたので、自分に異変が起こっている事に気がつけたのだった。
(騰蛇を倒して手に入れたのは、翼が炎を纏うだけじゃ無くって、元から俺が持ってる炎の能力が増幅された、とか?)
漠然とそんな事を考えるが、恐らくだが大きく外れてはいないだろう。
(気がつくのが鍛冶の時とかじゃ無かったのは、不幸中の幸いだったな……)
羽釜の中は米と水が入っていて、沸騰して炊きあがってからも高温に晒され続けなければ、焦げ付きなどの悪影響は少ない。
これが鍛冶の作業になると、これまでと同じ量と強度の気を込めていたら、下手をすれば鋼材が熱されて柔らかくなるのを通り越して、ドロドロに融解していたかもしれないのだ。
(なんにせよ、色々と様子を見た方が良さそうだな)
里の風呂は温泉なので俺が湯を沸かす必要は無いのだが、笹蟹屋の風呂の湯は俺が炎の能力とドラウプニールを利用して入れているので、今までと同じ感じで気を使うと、最悪の場合は熱湯風呂になってしまうかもしれない。
(それにしても、昨夜の内に気が付かないっていうのは我ながら迂闊だなぁ……)
昨夜も夜食を作るのに竈を使ったのに、その時点では自らの異変に気が付かなかった。
油揚げを洗う時と鍋の湯を沸騰させる為に高温を、しかも短時間しか必要としない状況で炎の能力を使ったのが気が付かなかった理由といえば理由なのだが、それにしたって迂闊だった。
「主人。どうかされましたか?」
羽釜の置かれた竈の前で立ち尽くしていた俺に、お糸ちゃんが声を掛けてくれた。
「ありがとう、なんでも無いよ。えっと……今朝は風華ちゃんに手伝いをお願いしようかな」
お糸ちゃんに心配を掛けないように笑顔を向けてから、料理の手伝いに風華ちゃんを指名した。
「はい!」
「それと、昨日は夕方の買い物から風華ちゃんに手伝って貰っちゃったけど、今日の昼までは風華ちゃんに手伝って貰って、夕方の買い物からは潮君に手伝いをお願いしたいんだけど」
「「はい」」
名指しをされた風華ちゃんと大地君が返事をする。
これは昨日、昼食作りの手伝いをしてくれた潮君と、お菓子作りの失敗で落ち込んでいた風華ちゃんを、夕方の買い物以降で入れ替えてしまった事で、不公平が生じないようにという措置だ。
今の時点まで特に何も言われなかったが、もしかしたら潮君が自分の順番を飛ばされたのを我慢していて何も言わないだけで、実は落ち込んでいるのかもしれない。
「それじゃ風華ちゃん。早速お願いしようかな」
「はいっ!」
「みんなは居間を片付けたり、食器を運んだりしてくれるかな?」
「「「はいっ!」」」
風華ちゃんは俺に歩み寄り、他の子達は盆に茶碗やお椀を載せて運び出したりと、忙しく動き始めた。
「主人。あたしは何をすれば?」
「そうだな……風華ちゃんには野菜を切って貰おうかな」
「わかりました!」
俺は大根を取り出して洗い、葉を落として五センチくらいの輪切りにした。
「先ずは大根をこう持って、包丁の刃を当てて、こんな風に回すように皮を剥いてね」
風華ちゃんへのお手本に、大根を桂剥きにしていく。
「や、やってみます!」
風華ちゃんは小さな手でやっと持てる大根を、慎重に回しながら桂剥きにしていく。
「うぅ……主人みたいに上手く出来ません」
「そんな事無いよ。初めてなら上出来」
風華ちゃんの桂剥きは厚さが均等じゃ無いので、剥き終わりの大根が丸くなってなかったりするが、包丁を持った経験も乏しい割には立派な出来だと思う。
「それじゃ次は皮を剥いた大根を縦に半分に切って、更に半分になるように包丁を入れたら、これくらいの薄切りに」
丸い大根の半分の半分、要するにイチョウ切りのお手本を風華ちゃんに見せた。
「この皮を剥いてある分を全部だけど、大丈夫かな?」
「だ、大丈夫です!」
イチョウ切りはそれ程は難易度は高くないのだが、笹蟹屋に滞在している人数分なのでそれなりの量になる。
(俺が早く終わったら、手伝ってあげればいいか)
「よいしょ……よいしょ……」
風華ちゃんは時々、俺のお手本の大根を横目で見ながら大きさや形を確認しながら、慎重に包丁を使っている。
初心者の風華ちゃんに手際の良さなど期待していないが、これだけ慎重な包丁使いならば怪我とかの心配は無さそうだ。
(こっちも作業を始めよう)
昨日の内に買っておいた塩鯖を取り出して、頭を落として三枚におろす。
落とした頭を縦割りにし、中骨は五センチくらいの長さに切り分けてから洗う。
鍋に昆布を敷き、水、少量の酒、塩鯖のアラ、風華ちゃんの労作の大根を入れて、中火くらいの火加減にして煮ていく。
その間に、熱くなった焼き網で塩鯖の身の方を焼き、添え物の大根をおろす。
鯖の焼き加減を見ながら、煮立ってきた鍋の火を一度止めて、昆布を取り出してアク取りをする。
再び火に掛けて薄口醤油と塩で味付けするのだが、塩鯖を使っているので少しずつ味を見ながら調整する。
大根が柔らかくなった頃には身の方も焼き上がり、炊飯も完了したので朝食の支度は完了だ。
「おはようございます、兄上!」
「お、おはようございますぅ!」
「おはようございます、良太様!」
羽釜の蓋を開けて炊きあがった御飯を混ぜているところで、頼華ちゃん、夕霧さん、ブリュンヒルドの三人が、寝起きの顔に焦りを浮かべて厨房に駆け込んできた。
「おはようございます」
「「「な、何かお手伝いは!?」」」
俺が挨拶を返すと、三人は声を揃えてそんな事を言ってきたが、御飯を掻き混ぜる俺と、きょとんとした顔の風華ちゃんを見て、顔から血の気が引いていく。
「なんですか貴方達。着替えもせずに髪も乱したままで……良太殿、おはようございます。風華殿も」
ちゃんと身嗜みをした雫様は、布団から出てそのままの格好の三人を冷たく一瞥すると、何事も無かったような笑顔で、俺と風華ちゃんに朝の挨拶をしてくれた。
「「「……失礼しましたー!」」」
今更ながらに自分達の格好に気がついたのか、三人は顔を赤くしたり青くしたりしながら厨房から立ち去った。
「頂きます」
「「「頂きます」」」
ブルムさんの号令で朝食を開始した。
「ん……まあ。すっきりとしているのに豊かな味わいで。良太殿、これは魚を使った汁物のようですが、なんの魚でしょうか?」
「本来なら雫様にお出しするような魚じゃ無いんですが……それは鯖です」
元の世界の江戸時代の将軍程は、食べる物に制限は無いと思うのだが、それでも領主の奥方である雫様を相手に鯖を、鎌倉の屋敷の料理人は出さないだろう。
「鯖ですか? 初めて頂きますけど凄くおいしいですよ」
以前に鯵を出しても何も言われなかったので大丈夫だとは思っていたが、雫様から言葉でおいしいと聞いてホッとした。
「この焼き魚も鯖ですよね? しかし干物とは違うのに良い塩加減で身が締まっていますね」
日本での生活が長いらしいブルムさんは干物は知っていても、塩鯖は知らなかったようだ。
「それは塩鯖と言って、京から離れた港で獲れた鯖に塩をして、丸一日の輸送の間に良い加減になるそうです」
「ほう?」
現在の福井県の若狭の漁港と京都を結ぶ若狭街道を利用して、様々な日本海の海産物が運ばれた。
若狭の漁港で穫れた鯖を塩で締めた塩鯖は、行商人が京に運ぶ丸一日の間に丁度いい加減になって庶民に重宝され、いつしか若狭街道は鯖街道とも呼ばれるようになったと言われている。
「……うん。今の時期は脂の乗りが悪いですけど、こうやって船場汁にして食べるには丁度いい脂の加減ですね」
煮汁を味わう料理の船場汁は、少し脂の乗りが悪いくらいの鯖の方が、口の中にしつこさが残らないので個人的には好きだ。
「今の時期と仰ると?」
「秋になると栄養を蓄えた鯖は、凄く脂の乗りが良くなるんですよ。そうなると焼くと脂が滴り落ちるくらいですし、味噌煮にすると溶けるような味わいで」
「まあ……この焼いた物よりも脂が多いなんて。それは是非とも食べてみたいですね」
雫様の言う通り、アラで作った船場汁はそれ程でも無いが、今の時期の鯖、それも塩をしてあっても焼かれた物は、口に入れると旨味と一緒に脂を感じる。
(話をしてたら、味噌煮が食べたくなったな……)
無い物ねだりではあるが、雫様に説明をしていたら鯖の味噌煮の味が脳裏に蘇り、無性に食べたくなった。
ともあれ、塩鯖を使った朝食は概ね好評だった。
「俺はこの後、ちょっと里に行ってこようと思います」
食後に年長者にはお茶、子供達には麦湯を淹れたところで話を切り出した。
「あら、そうですか? では私も良太殿と御一緒しましょうか」
「京の見物とかはしないでいいんですか?」
俺は構わないのだが、雫様は京の街に来るのを楽しみにしていたっぽいので、里に戻るにしても夕方くらいだと思っていた。
「京を巡るのは、この子が生まれて落ち着いてからしようと思います」
「そうですか。では里まで御一緒しましょう」
雫様自身が納得しているのなら、俺がこれ以上口出しする問題じゃ無い。
「では余も、兄上と母上と御一緒に!」
「頼華ちゃんは残って、この子達を見てて貰わないと」
「う……」
一緒に居たいと思ってくれるのは嬉しいのだが、ブルムさん一人では笹蟹屋の営業と子供達の面倒までは見れないだろうから、俺が出掛けている間は頼華ちゃんが留守を守ってくれないと困る。
「昼までには戻るから、それまでは頼んだよ」
「お任せ下さい!」
「全く、調子のいい……」
胸をドンと叩いて請け負ってくれた頼華ちゃんを見て、雫様が小さく溜め息をついた。
「では雫様とお世話をする夕霧さん、馬に乗せてくれるブリュンヒルドさんは、支度が出来たら出掛けましょう」
「「「はい」」」」
午前中の方針が決まったので、食器や茶器の片付けを開始した。
「そうだ。頼華ちゃん、ちょっといいかな?」
「兄上? も、もしや許嫁の余と、少しでも離れるのがお嫌とか? むふふ……」
何を想像しているのか、頼華ちゃんは眼尻を下げてほくそ笑んでいる。
「えっと……うん。それもあるんだけど、話がね」
「またまた。そんなにお照れにならずとも、余は身も心も兄上の物ですから」
雫様に厳しくされたからなのか、今朝の頼華ちゃんは甘えモード全開だ。
「夕霧さん、申し訳ないですが洗い物をお願いします。頼華ちゃんはこっちに」
話が一向に進まないので、半ば無理矢理に切り替えた。
「はぁい」
「強引な兄上も素敵です!」
夕霧さんに承諾を得られたので、薄く頬を染める頼華ちゃんを居間から別の間に連れ出した。
「実はね」
「真剣なお顔の兄上も、素敵です!」
「うん。ちょっとその辺は置いといて、昨日の件なんだけどね」
「む? 昨日の件と申されますと、晴明の式神絡みですか?」
「うん」
晴明の式神というワードが出て、やっと頼華ちゃんの表情が引き締まった。
内心でホッとしながら、俺は自分の身体に起こっている変化を頼華ちゃんに説明した。
「黒ちゃんと白ちゃんに起きた外見的な変化とは違うんだけど、気をつけないと危なそうなんだ」
「気の消費量が減って、威力は上がっているのですか……確かに、知らずに使っていたら危なかったですね」
気の使用は戦闘にも大きく関わるので、話を聞き終わった頼華ちゃんは真面目な顔で考え込んだ。
「確認をしてみたいですが、ここでは無理ですね」
「うん。頼華ちゃんは明日になったら里に戻るんだから、試すならそれからがいいだろうね」
里やその周辺なら炎や雷で荒らしてもいいという事では無く、とりあえずは山の中なので人目につかずに色々と検証が可能だという事だ。
「もしや兄上が一時的に里にお戻りになるのは、その為なのですか?」
「うん。おりょうさんが青龍、天さんも勾陳を倒してるからね」
おりょうさんの柔術も、天が得意とする術の系統も、倒した式神の性質とは違うので、里での日常で気の込め過ぎでの事故等は起きないと思うが、一応の注意と状況の確認は必要だ。
「という訳だから、子供達にせがまれて剣術や炎や雷の術を見せる時とかに、気の込め方に注意してね」
「わかりました!」
始めはぐだぐだだったが、なんとか頼華ちゃんに伝える事が出来た。
「じゃあ俺は行くから、留守中は頼んだよ」
「無論です! でもその前に……」
「ん?」
立ち上がった俺に、頼華ちゃんが抱きついてきた。
「お早いお帰りを。母上を頼みます」
「うん……」
頼華ちゃんの温もりを感じながら、俺の方からも抱き締めた。
「それじゃ鈴白さん、奥方様、夕霧さんとブリュンヒルドさんも、道中お気をつけて」
「「「行ってきます」」」
ブリュンヒルドの愛馬のグラーネに乗った雫様と俺達を、ブルムさん達が店の前まで見送りに出てきてくれた。
「雫様。少し遠回りして、朱雀大路を通って帰りませんか?」
「朱雀大路ですか。それはいいですね」
「それじゃブリュンヒルドさん、こっちです」
「はい」
俺が進路を示すと、手綱を取るブリュンヒルドはグラーネを朱雀大路の方向に誘導する。
「兄上ー! いってらっしゃーい!」
「「「いってらっしゃーい!」」」
頼華ちゃんや子供達は俺達の姿が雑踏に紛れるまで、店の前に立って手を振り続けてくれた。




