一条戻橋
「良太様」
「ブリュンヒルドさん、何か?」
里の周囲を取り巻く霧の結界を抜けてすぎに、ブリュンヒルドが話し掛けてきた。
「小さな子は交代しながらでも、私のグラーネとヴァルトラウテのアルファクシに乗せては如何でしょう? 奥方様には窮屈な思いをさせてしまいますが……」
どうやら子供達を気遣って、ブリュンヒルドは提案してくれたようだ。
「それは……」
「良太殿。私は構いませんから、そのように」
グラーネに乗って移動している雫様は、ブリュンヒルドの提案をすぐに受け入れてくれた。
里の子供達は皆が健脚なのだが、それでも自分だけ馬での移動というのは、雫様にとっては心苦しかったみたいだ。
「それじゃあ……遥君。雫様と一緒に乗せて貰おうか」
「は、はい!」
遥君は雫様の実の娘である頼華ちゃんの事が気になったのか、俺に返事をしながらも視線を送って様子を窺っている。
「遥よ。気にせずに乗るが良い」
「はい!」
頼華ちゃんから直々にお許しが出たので、遥君はホッとした表情になった。
「それじゃあ、持ち上げるよ。よ、っと」
「うわあ! 高い高い!」
両脇に手を差し込んで持ち上げ、遥君を雫様の座っている鞍の前に下ろした。
馬上の視線の高さに、遥君は驚きと喜びを隠しきれずにキョロキョロと周囲を見ている。
「うふふ。あまり動くと落ちてしまいますよ?」
「は、はいっ!」
背後から軽く抱き寄せながら雫様に注意されて返事はしたのだが、それでも遥君は落ち着き無くそわそわしっぱなしだ。
「ヴァルトラウテさん、いいですか?」
「はい。来なさい、アルファクシ!」
(ブリュンヒルドさんのグラーネと、ロスヴァイセさんのグラーヌスみたいに名前が似てるけど。オルトリンデさんのヤールンファクシと、血が繋がってるのかな?)
他のワルキューレ達の時と同じように、アルファクシというらしいヴァルトラウテの愛馬も小さな嘶きを発しながら空中に現れ、こちらに向かって駆けてきた。
「おお! なんと天馬なのか!?」
大陸を横断するというかなりの冒険行を成し遂げたドランさんも、空中を駆ける馬なんか見るのは初めてらしい。
「どうぞ、良太様」
「はい。それじゃあ……風華ちゃんとお糸ちゃん、乗せて貰おうね」
「「はい」」
アルファクシには女の子ペアをお願いする事にした。
「すっごーい!」
「ひゃああああぁ……」
風華ちゃんは遥君と同じように楽しんでいるのだが、お糸ちゃんは未体験の高い着座位置に目が眩んでいるしまっているようだ。
「お糸ちゃん。怖ければ他の子と替わってもいいよ?」
「い、いえ! 別に怖くは……す、少しすれば慣れると思います!」
「そ、そう?」
どうやら多少の問題よりは、いま自分の座っている場所を譲るのが勿体無いと思っているらしい。
「貴方様」
「天さん、何か?」
後ろから、天に袖をツンツンと引っ張られた。
「他の子も歩かせるのは可哀想ですから、貴方様と私で抱いて運んでは如何でしょう?」
「ああ、それはいい……っと、俺は大丈夫ですけど、天さんは?」
おりょうさんを背負いながら藤沢まで走った事もあるので、子供一人分の体重くらいならば俺には苦にはならない。
「あら、わたくしをお気遣い下さるのですね。でも、こう見えても、力はあるのでございますよ」
言うが早いか天は、手近に居た焔君を抱き上げた。
「そういう事なら……疲れたら言って下さいね?」
「はい♪」
天は特に無理をしているいる感じでは無いので、俺は残った潮君を抱き上げた。
「むぅ……」
「頼華ちゃん……」
「「「……」」」
「他の子達まで……」
男の子の潮君が相手だし、俺だけでは無く頼華ちゃんにとっても弟のような存在なので、半分は冗談だろう。
しかし、馬に乗ったり天に抱かれたりしている他の子達は、俺が抱いている潮君に羨望の眼差しを送ってきている。
「……」
(ブリュンヒルドさんまで……)
子供達にも増して、ブリュンヒルドの視線には羨望と嫉妬が入り混じっているように感じる。
「さ、さあ、いつまでもここで停まってても仕方が無いし、行きましょうか」
「畏まりました」
「……」
俺が歩き出すのに愛馬のアルファクシの手綱を取ったヴァルトラウテが続いたので、ジーッと俺に視線を貼り付けたままのブリュンヒルドと、他の一行も移動を再開した。
京の街が見えてきたところで雫様以外は下馬して、抱かれていた子達も降りて手を繋ぎ、関所の門前まであるいた。
まだ朝早い時間だが、関所の前にはそれなりの人数が列を成していたので、俺達もその最後尾に並んだ。
「おお! 鈴白ではないか!」
里と比べて蒸し暑く感じる京の関所を入領税を支払って通過すると、番をする人達を監督しているらしい新選組一番隊組長の、沖田様の涼やかな声が響き渡った。
「……兄上?」
「えーっと……頼華ちゃんは初めてだったっけ?」
親しい感じに俺の名を呼びながら笑顔で近づいてくる沖田様を面白く無さそうに見た後で、頼華ちゃんは疑いの視線を俺に送ってきた。
頼華ちゃんの視線からは、沖田様と俺の関係を疑っている成分を感じる。
(あの人は京の市中を見回っている、新選組っていう集団の組長さんだよ。以前にお世話になってね)
(ほぅ?)
沖田様が近づく前に、頼華ちゃんにどういう人なのかを小声で囁いた。
「なんだなんだ。先日連れていた子達や娘御とは違うが、鈴白はいつも可愛い子に囲まれているな! ほい!」
「ひゃあっ!?」
悪意も害意も無いので反応が遅れたのか、両脇に手を差し込まれた頼華ちゃんは、電光石火の早業でリフトアップされてしまっていた。
沖田様の言う先日連れていた娘御というのは、黒ちゃんの事だろう。
「あ、兄上!?」
「えーっと……悪い人じゃ無いので」
沖田様の手の中から抜け出すのは、頼華ちゃんの身体能力ならば容易い事なのだろうけど、京を守護する職務に就いている人が相手なので対応に困っている。
「ほほぅ。兄上と呼んでいるいう事は、鈴白の妹なのか?」
「血縁では無いのですが、まあ似たような」
相手がおりょうさんならともかく、実は頼華ちゃんは婚約者だとか言ったらどういう反応をされるのか判らないので、ここは無難な説明をしておいた。
「そうかそうか。む? ではそこの御婦人が、この娘御の御母堂かな?」
「えっと……はい」
(なんで気がつくのかなぁ……)
武人としての勘が働くのか、認識阻害効果がある外套を身に着けている雫様の存在に、沖田様はあっさりと気がついたようだ。
「ほほ……お初にお目に掛かります。良太殿がお世話になっているようで。私も短い間ですが京に滞在致しますので、何かございましたらよしなに」
雫様は上品に口元を手で隠しながら、沖田様に当たり障りの無い挨拶をした。
「良き滞在になれば、京を護る拙者としても誇らしい事だ。子らと共に存分に楽しんで行かれると良い」
「ええ。有難うございます」
「うむ。おお、そうだ。飴をやろう、ほれ」
やっと頼華ちゃんを地面に下ろした沖田様は、黒ちゃんの時のように飴の入った袋を取り出し、一粒を摘んで差し出した。
「あ、兄上?」
「頂くといいよ」
沖田様がニコニコ顔なのが逆に恐怖を煽っているようで、珍しく頼華ちゃんが怯んでいる。
「ほれ。口開けな」
「……」
「は、はい。あーん……」
頼華ちゃんは最後に雫様の方を見て、小さく頷いたのを確認してから沖田様に向かって口を開けた。
「……」
「どうだ? 旨いか?」
「は、はい。有難うございます」
口の中でモゴモゴしていたが何も言わない頼華ちゃんの顔を沖田様が覗き込むと、気圧されたように少し身体を反らしながら返事をした。
「そうかそうか、旨いか! どれ、他に子にもやろうか」
頼華ちゃんの返事が余程嬉しかったのか、俺の脚にしがみつくようにして立っていた潮君にも、飴玉を差し出した。
「ほら」
「……」
「頂いていいよ」
飴を差し出す沖田様と俺を潮君は呆然と見ていたが、出来るだけ優しい笑顔で許可を出すと、おずおずと口を開いた。
「……ありがとうございます」
「うむ! 良い子だ!」
少し乱暴に潮君の頭を撫でた沖田様は、順番に他の子達にも飴をくれた。
「……」
(……そうか、飴か)
子供達に飴をあげる沖田様の姿を見て、パンケーキに掛けたり調味料の代わり以外の蜂蜜の使い途を思いついた。
「組長……」
「おっと! すまんな、職務に戻らないと不味いようだ」
同じダンダラ模様の羽織を着た、部下らしい若い男性に声を掛けられ、沖田様は背筋を伸ばした。
「それでは残りは、一番年上らしいお主に預けておこう。皆で仲良く分けて食べるが良いぞ!」
「は、はぁ……有難うございます」
半ば無理矢理な感じに沖田様から押し付けられた飴の袋を、頼華ちゃんは勢いに負けて受け取った。
「あ、沖田様」
立ち去ろうとする沖田様を、俺は呼び止めた。
「む? 何かあったか?」
「お返しにもなりませんが、これ、宜しければお召し上がり下さい」
自分の分として確保していたが、味見の時以外に食べていなかったショートブレッドを、小さな布袋ごと沖田様に差し出した。
「ほう? これもお主が?」
「俺と、そこの子とです」
「ふぇっ!?」
急に自分に話が振られて、お糸ちゃんがビクッとした。
「おお、そうかそうか! 小さいのに手伝いとは感心だぞ!」
「ふえぇ……あ、有難うございます」
満面の笑顔で手荒く頭を撫でる沖田様に、お糸ちゃんは戸惑いながらも抵抗しない、と言うか出来なかった。
「あの沖田とかいう武人、恐ろしい相手ですね……」
関所を後にして暫く歩き続ける間、沖田様に呼び止められるのを危惧していたのか、頼華ちゃんは一度も振り返らなかった。
そして真一文字に結んでいた口を開いたのも、人波の向こうに沖田様の姿が見えなくなった、今になってやっとだ。
「あはは……いい人なんだけど、ちょっと強引なんだよね」
とは言うものの、沖田様が強引ながらも悪意が全く無いのを頼華ちゃんも感じ取っていたから、下手に逆らったりしなかったのだろう。
「っと。頼華ちゃん、俺は少し別行動するから、先に笹蟹屋に行っててくれるかな」
「兄上っ!? よ、余を一人にすると仰るのですか!?」
「一人って……落ち着いて頼華ちゃん」
まるでこの場に俺しか知っている人間がいないとでも言うかのように、頼華ちゃんは俺に縋り付いてくる。
どうやら俺の想像以上に、沖田様が頼華ちゃんに付けた心の傷の影響は大きいようだ。
「なんですか頼華。その情けない体たらくは」
「は、母上……」
自分の名を呼ぶ声で、頼華ちゃんはこの場に沖田様と同じかそれ以上に恐ろしい人物がいる事を思い出したのだった。
「良太殿。我らの事は気にせずに、好きに行動なさって下さい」
「すいません、雫様」
「あ、兄上ぇ……」
頼華ちゃんは俺の服の裾を握り締めて逃すまいとしていたのだが、雫様に睨まれているので涙ぐみながらも手を離した。
「頼華、あなたは、あの沖田という方に気迫で負けていたのです。そんな事で良太殿の隣で戦えるのですか?」
「う……」
「ブルム殿のお店に着いたら、少しお話をしましょうね」
「は、はい……」
雫様は頼華ちゃんに笑顔を見せているが、その笑顔は鉄のような硬質な物だ。
「では良太殿。また後程」
「あ、はい」
優雅な動作で俺にそう言った雫様は、ブリュンヒルドに促してグラーネの歩を進めさせた。
「っと、天さん。俺と一緒に来て下さい」
「えっ!? わ、わたくしでございますか!?」
少しタイミングは外したと思うのだが、天は凄く驚いている。
「夜の前に一度、一条戻り橋を見ておきたいので、その案内を頼みたいんです」
「ああ! そういう事でございますか! ではでは、こちらです♪」
「う……」
天は凄くナチュラルな動作で俺の腕を取ると、その巨大な胸の谷間に埋めるように押し付けた。
「貴方様、どうかなさいましたか?」
「……いえ、別に」
驚く程無邪気な表情で天が首を傾げるので、指摘をして止めて貰う方がお互いに気まずくなりそうで、ついこんな返しになってしまった。
出会った当初は色仕掛けっぽく接してきたりもした天だが、今は表情にも仕草にもそういった感じは見られない。
(……落ち着かない事には変わりないけど)
今風に言うならダイナマイトボディに加え、西洋と東洋が絶妙に融合した感じの美貌の持ち主に、甘い吐息を感じる程に身を寄せられているのだから、別に変な術とかを掛けられていなくても、健全な男子なら幻惑されるのは仕方が無いだろう。
しかし、おりょうさんと頼華ちゃんという将来を約束した相手が俺にはいるので、なんとか心のブレーキが掛かっているのだった。
「貴方様。ここが一条戻橋ですわ」
「……いますね」
「そうでございますねぇ……」
これと言って特徴の無い石造りの橋なのだが、その橋を支える橋脚の石の一つから、明らかに気を感じるのだ。
意識しないで橋の上を通り過ぎれば気が付かないレベルなのだが、そこに在る事を意識して集中すると、橋の石組の内部には強大な気が内包されているのを感知出来る。
おそらくは安倍晴明の手によって巧妙に気を隠蔽しているのだが、式神が外部に対しての探知や晴明からの命令の受信をする為などの、最低限の外部への接続用に穴が開けてあるのだろう。
「中にそれなりの存在がいるのは確定ですけど全容は掴めないので、やっぱり包囲してから事に当たった方が良さそうですね」
「そうでございますねぇ」
天も既に妖怪というレベルを超越している存在であり、かなり強力な術を行使したりも出来るので、適当に相槌を打っているのでは無いというのはわかっている。
「天さん、この辺りは夜は人通りは?」
「この辺りは客商売の飲食店などはありませんから、陽が落ちれば殆ど人目はありませんわ」
「それは好都合ですね。でも、念の為に天さんには、周辺の人払いとかをお願いする事になると思いますけど」
「そういった術は得意ですので、お任せ下さいませ!」
天は元が狐の妖だからなのか、人の意識を誘導するような術は得意らしい。
「下見はこんなもんで良さそうですね。そうだ天さん」
「なんでございましょうか、貴方様?」
俺が話し掛けながら視線を向けると、天の白磁の美貌が思いの外近くにあった。
「えっと……小麦とか蕎麦とかを扱っている店を知っていますか? 出来れば粉の状態になっている方がいいんですけど」
「そういう物でしたら、朱雀大路の方まで行った方が良さそうですわね」
「ああ、あの辺ですか」
先週末の笹蟹屋から里への帰り途に、おりょうさんと大地君と一緒に歩き、立ち寄った水無月を食べた茶屋が面していたのが朱雀大路だ。
「ええ。あの辺りには飲食店も多いですから、必然的に消費する穀類などを扱う店も集まりますわ」
「成る程。それはそうですよね」
料理屋のように朱雀大路に面していなくても、食材を扱う店が近くにあるという天の話は納得だ。
「それで、どれくらいの商いをしている店に御案内すれば宜しいですか?」
「そういうのは特に……ここから近い店なら構いませんよ」
小麦や蕎麦の相場なんか知らないので、あまり大回りになって笹蟹屋への到着が遅くならないように、手近な店で済ませる事にした。
「では少し南下をしまして、二条の通りを西進して目に付いた店に入るという事では?」
「いいですね。そうしましょうか」
少し長目に京に滞在していた割には食材の買い出しくらいしか外出をせずに、殆ど観光っぽい事をしていない俺には、天の提案は俺には魅力的だ。
「それでは貴方様、行きましょうか♪」
「はい」
(……決して、浮気では無いですからね?)
別に後ろめたい事はしていないのだが、俺はなんとなく心の中で、おりょうさんと頼華ちゃんに謝っていた。
「御主人、これは?」
「そいつはきな粉ですよ。奉じてありますので、そのまま召し上がれます」
天と共に二条通りを歩き、朱雀大路と交わる手前の辺りに開いていた穀物類を扱う店に入ったのだが、粒のままの物から製粉してある物、そして焙煎と同じ意味の奉じてある物まで、取り扱っている品は非常に豊富だった。
頼永様から頂いたお金があるので、小麦粉や蕎麦粉をかなり大量に買い込み、他に何か無いかと店内を物色してると目に付いたのは、黄色というよりは金色と言っても差し支えの無い、鮮やかな色のきな粉だった。
「きな粉か……すいません、これも下さい」
「毎度どうも。でしたらお客様、こういうのも如何ですか?」
「これは?」
きな粉を枡で計りながら店主が指差す先には、粒の細かさはきな粉と似ているのだが、見た目には薄いグレーで、あまり食材には向かなそうな色の粉があった。
「そいつは丹波の黒大豆を粉にした、黒きな粉とでも言う物ですよ」
「でも、あんまり黒くありませんね?」
「黒い皮ごと挽いてるんですけどね」
店主もそう思っているのか、俺の言葉を聞きながら苦笑している。
「これは使い方としては?」
「味はいいんですけど、この色なんで……家庭での料理では無く、菓子作りなんかに使われてますよ」
「成る程」
粉にする前の黒豆は料理屋は勿論だが、家庭でも使われているのだろう。
「それじゃあ、これも頂けますか」
「有難うございます。沢山お買い上げ頂きましたので、少しおまけ致しますので」
「それはどうも」
どの粉もキロ単位で買い込んだ俺はこの店では、料理屋や菓子舗などを別にすれば大口の客なのだろう。
理由はどうあれ有り難いので、店主のお言葉に甘えておく。
「……貴方様。こんなに大量に粉をお買いになって、どうされるのですか?」
「昨日、里で配ったお菓子があったでしょう?」
「ええ。とてもおいしかったですが」
天が食べている場面には立ち会えなかったが、目の前の笑顔からするとショートブレッドは好評だったようだ。
「少しずつ色が違ったのを覚えているでしょうけど、あれは粉なんかの材料を少しずつ変えてあったんですよ」
「まあ! では、いまお買いになった材料をお使いに?」
「そういう事です」
実際には消費した小麦粉や蕎麦粉の補充という意味もあり、今日も昼食は麺類にしようかと思っているので、その為でもある。




