イカの肝焼き
「頂きます」
「「「頂きます」」」
年長者という事で、雫様に号令を掛けて貰って食事を開始した。
年齢で言えば、他に年上の者が何人かいるのだが……。
「ああ……やっぱり咖喱はおいしいですねぇ。これまでに頂いた物よりも、香りが鮮明に感じられますね」
カレーのスプーンを口に運んでゆっくり味わうと、雫様は目を細めながら満足そうな溜め息をついた。
「以前までの物は、俺の独自調合ですからね」
香辛料の調合を専門に行っている研究者が作り出した、大手メーカーのカレー粉との違いは、雫様には一口食べただけでわかったようだ。
「いえいえ。以前に頂いた咖喱も、これに勝るとも劣らない味でしたよ」
「そう言って頂けると」
慌てて俺を慰めてくれる雫様に、苦笑で応える。
「も、もう。本当に以前の物もおいしかったのに……あら、良太殿。この揚げた肉は、猪とも鹿とも違うみたいですが?」
どうやら俺が傷ついたとでも思ったらしい雫様なのだが、慰めの言葉を漏らしたばかりなのに、既に感心はカレーに載せられているカツの方に移ったらしい。
「それは以前に江戸の徳川家の家宗様から頂いた、牛の肉ですよ」
「まあ! 牛の肉というのは、こんなにもおいしい物だったのですね!」
「うーん……力仕事に使われていた老齢の牛だったので、肉を柔らかくするのにそれなりに工夫が必要でしたけどね」
食用に肥育された牛では無いので当然ではあるのだが、筋肉質で硬い肉には殆どサシが入っていなかった。
そんな食用に適しているとは言い難い肉を柔らかくする為に、重曹を溶いた水に漬けたりなどの工夫をしてヒレをステーキや、今日のカツに出来たのだった。
「もしかして咖喱に入っているこのお肉も、牛なのですか?」
「ええ。牛のスジ肉ですね」
「まあ! スジ肉と言えば、言葉からして硬そうに思えますが、これは口の中で柔らかく解れますね」
「下茹でして長く煮込むと柔らかくなって、良い出汁も出るんですよ」
ゼラチン質を多く含むスジ肉は、下茹でをして長時間煮込むなどの手間が多大に必要だが、出来上がった煮物や汁物は実に奥深い味わいになる。
(まだ牛スジは残ってるから、今度はおでんでも作ろうかな)
とか思ったが、これから暑い時期になるので、作るとしても数ヶ月は先の事になるだろう。
「もしかして、この楕円形の揚げ物の中身も牛なのですか?」
「それは、食べてみてのお楽しみです」
「そ、そうですか? あら、匙を入れたら、心地良い感じに衣が砕けて、中から肉汁が溢れ出て来ました!」
雫様がスプーンを入れたもう一つの揚げ物、メンチカツは、多量に出ていたトリミングされた肉を活用した。
トリミングされた分以外の肉も、まだ大量に残っているのだが、こっちの世界では滅多に手に入らない牛肉なので、出来れば少しも無駄にはしたくないのだ。
「んー……同じ挽き肉でも、鎌倉で頂いた鹿の物とは味わいが違いますね!」
「そうですね。両方ともそれぞれの風味に良さがあります」
鹿は季節や棲んでいる山の自然状況で食べる物に変化し、肉の味に影響が出てくるので、極端に言えば個体差で味が違うとも言える。
「牛の肉はまだありますから、里に滞在中に何度かお出ししますよ」
「あら、それは嬉しいですね。良太殿、お代わりを下さい」
「辛口と甘口も用意してありますよ」
「まあ♪ それでは辛口と、この楕円の方の揚げた物もお願いします」
成熟した美貌に無邪気な笑顔を浮かべながら、雫様は空になった皿を差し出してきた。
おういうところは頼華ちゃんにそっくりで、人妻で妊婦である事が信じられない程に可愛らしく感じる。
「ふぅ……この真っ黒な汁も、見た目とは違ってまろやかなお味で、咖喱の口直しにはぴったりですね」
俺がお代わりを用意している間に、特に見た目に怖気づく様子も無くイカの墨汁に口をつけると、意外なおいしさに驚いている。
「お口に合って何よりです。その汁に使ったイカは、頼永様がブリュンヒルドさんに持たせてくれたそうです」
「そうですか。頭領もこういう料理になるとは思っていなかったでしょうね」
「まあ、そうでしょうね」
イタリアンのイカ墨パスタも沖縄料理のイカの墨汁も、まだこっちの世界ではポピュラーでは無いので、目の前に出されたら頼永様は驚いただろう。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます♪」
見た目にもウキウキした感じで、雫様がカレーの盛り付けられた皿を受け取った。
正恒さんの家の畑で採れた枝豆を混ぜ込んだ御飯にカレーを掛け、その上に牛のカツとメンチカツ、素揚げにした茄子と人参を載せたので、彩りも悪くない感じに仕上がっている。
イカの墨汁の方にも、正恒さんの畑から採った菜っ葉を刻んで散らして、色と風味を追加してある。
「白ちゃん。おかずは足りてる?」
「ああ。十分過ぎるくらいだぞ」
カレーが苦手な白ちゃんには茶碗に盛り付けた枝豆御飯に、揚げ物類を別皿にして出してある。
「主殿が作ってくれたこいつは、飯にも合うが酒の肴に良さそうだな」
そう言いながら白ちゃんは、箸で切った断面が褐色な料理を御飯と一緒に口に運んだ。
「そう? まだ残ってるから、良ければまた作るけど」
「それは有り難いな」
カレー以外の料理を用意するのを忘れてしまったお詫びに、白ちゃんにはイカの肝を使って一品作ったのだが、満足してくれたようでホッとした。
「良太ぁ。白が喰ってるそいつは、何なんだい?」
今までに作った事の無い料理を白ちゃんが食べているのを見て、おりょうさんが首を傾げながら訊いてきた。
「それは、イカの肝を焼いた物ですよ」
「い、イカの肝!? イカの肝ってのはドロドロで、塩辛や身と混ぜて焼いたりする以外には使えないんじゃ無いのかい?」
イカの肝は少し苦味があるが旨味の塊なのだが、おりょうさんの言う通り包んでいる袋を切ってしまうと、柔らかいペースト状の中身が溢れ出してしまうので、利用法は限られている。
しかし白ちゃんが食べている料理は、柔らかそうではあるが箸で切っても形を保っているので、おりょうさんはイカの肝だとは思わなかったのだ。
「肝に塩を振って少し置いて余計な水分を出して火を通すと、柔らかいけど形が崩れなくなるんですよ」
イカの肝は塩を振ると水分が出て締り、それを焼くと箸で切って摘んでも崩れないくらいになり、そのまま食べられるようになる。
下拵えした肝は水で洗い、良く水分を取ってからシンプルに酒と醤油を振って味付けをしただけだ。
「でも、肝を絡めて焼いたイカと同じで、冷めると癖が強くなっちゃうんですけどね」
肝は塩で締り、火を通されて更に旨味が凝縮されるのだが、冷めると濃厚過ぎる味が途端にくどさに変わり、口の中で重く感じるようになるので、箸が進まなくなるのだった。
「だから白ちゃんも、冷めない内に食べちゃってね」
「承知した」
苦笑する白ちゃんに押し付ける形になるのは申し訳ないのだが、食べ残されても冷めると誰も欲しがらないと思うので、熱い内に食べて欲しい。
(子供達とワルキューレ達は……大丈夫そうだな)
「辛いけどおいしー!」
「この汁、黒くっておもしろーい♪」
カレーやイカの墨汁に物珍しさを感じているみたいだが、辛くて食べられないという事も無さそうで、子供達は賑やかに楽しんでくれている。
子供達は顔はそっくりではあるが、食事の仕方にはそれぞれ個性が出ていた。
スプーンで軽く混ぜながら食べる子がいると思ったら、最初にカレーと御飯を全て混ぜてしまう子もいるし、揚げ物や揚げた野菜と同じようにカレーもおかずのように食べてから、御飯だけを口に運ぶ子もいたりする。
しかし、子供らしくそれなりに賑やかに食べているのだが、極端に作法を外したり調子に乗り過ぎたりしないのは、里の子の特徴かもしれない。
「こんな、香辛料に野菜がたっぷりな料理なんて……」
「ブリュンヒルド様! 何なのですか、この柔らかいパンは!?」
「全ては、良太様の御業です」
一方のワルキューレ達は、野菜がたっぷり使われたスパイシーなカレーに、驚いたり呆れたりと忙しそうだが、特に辛さを苦手そうにしていたりはしない。
そして危惧していたイカへの反応なのだが、どうやらブリュンヒルドの個人的な忌避感が強かっただけのようで、他のワルキューレ達の表情や食べっぷりからは、特に拒否する様子は見えないのでホッとした。
ブリュンヒルドが妙な宗教みたいな感じに、皆に料理の説明をしているのは気になるが……。
ともあれ、里での最初のカレーのお披露目は、成功で終わったと言って良さそうだ。
「ドランさん、ブルムさん。ちょっと相談があるのですが」
夕食後に、ドランさんとブルムさんに声を掛けた。
「相談とは……まだ履物が?」
「いえいえ。実は、打った刃物の鞘を作りたいんです」
俺は個人的に履物について相談をしていなかったので、今頃になって言い出したのかと、ドランさんは思ったらしい。
「ほう。現物はありますか?」
「ああ。旦那、ここに持ってきてるぜ」
話を聞いていた正恒さんがグリップを作ったククリの一本と、削って形作った木製の鞘をドラウプニールから出してくれた。
「これはまた、変わった形ですな……それで、この木の鞘を革で包むような感じで作れば良いのですかな?」
「ええ。それと出来れば携帯し易いように、革で腰帯も作って貰えればと」
さすがは革を扱う専門家のドランさんだけあって、こちらの意図を察してくれたので、追加の要望も伝えた。
「成る程。材料の革の方は手持ちにありますが、少しお時間が必要ですよ?」
「こっちは頼む方ですので、出来上がるまでの期間はお任せしますよ」
革の細工物は作った事が無いので、どれくらいの手間と時間が必要なのかが見当がつかないので、ドランさんに任せるしか無いというのが正直なところだ。
「ふむ……ちなみに数はどれくらいで?」
「実は……総数で言うと、三十くらいになります」
「さ!?」
数個だと思っていたのか、三十という数を聞いてドランさんが絶句した。
「あ、いや。三十と言いましてもそれは完成予定でして、現状では六本しか出来上がっていませんし」
正恒さんに任せた焼戻しの分はグリップを作っていないが、とりあえずの完成と言って良いククリは今日の時点では六本だ。
「ああ。それに、暫くは他の作業もしなけりゃなんねえから、当分は数が増える事は無いぜ、ドランの旦那」
正恒さんの言う通り、里と鎌倉で稼働予定のストレート・ダリウス風車や、製麺機やミンサーもこっちの世界の技術で再現して貰うという仕事もあるので、予定しているククリの三十本という数が揃うのは、かなり先の話になるだろう。
「わかりました。ではこの件は江戸に持ち帰りまして、また週末に来る時に一定数をお納めしましょう」
「えっ!? また週末に来てくれるんですか?」
「おや。もしかして御迷惑でしたかな?」
「いやいや、決してそんな事は無いです。歓迎しますよ。でも、お店の方は大丈夫なんですか?」
俺が知らないだけなのかもしれないが、ドランさんの店には従業員はいなかったと思うので、営業の方に差し支えが出ないかと思ったのだ。
「ははは。お得意様には予定を言い含めておきますので、週末に二日くらい店を休んだところで、何の問題もありませんよ」
「なら、いいんですけど」
色々とお世話になっている上に、店の売上に影響が出たりしたら申し訳が無いのだが、ドランさんの話を信じるならば大丈夫そうだ。
「そこで、鈴白さんというか、ワルキューレ殿達に御相談があるのですが」
「私達に何か?」
返事をしたのはブリュンヒルドだけだが、呼ばれた事に気がついたワルキューレ達は、一斉にドランさんに注目した。
「神の御使いであるあなた達に、こんな事をお頼みするのは気が引けるのですが……次の週末の夕方に、江戸まで私を迎えに来て頂けませんかな?」
(成る程。そういう事か……)
実際の江戸と京との距離よりは遥かに縮まったとは言え、それでもドランさんの店から藤沢の山中の霧の結界がある場所までは、決して近いとは言えないのだ。
京の笹蟹屋からは、日が傾いてから出発しても日が沈むまでには到着するのだが、江戸からだとかなり早い時間に出なければ、夜までの到着は難しいだろう。
という事は、ドランさんは週末の二日間だけでは無く出発する当日も、実質的に休業になってしまうのだ。
「我らの都合は良太様次第なのですが……畏まりました」
俺が問題無いと頷くと、ブリュンヒルドはあっさりとドランさんの申し出を受け入れた。
「それは有り難い。では、面倒ついでにもう一つお願いが」
「なんですか?」
こちらからお願いをする事はあっても、あまり言われる事が無かったので、ドランさんからどんな要望が出るのか予想がつかない。
「明日、京のブルムの店に寄ってから江戸に帰りたいと思いましてな」
「その後で、江戸に送って欲しいと?」
「ええ。せっかくですのでブルムの店に顔を出すついでに、京の街も見物したいと思いますし。送って頂くついでに、私の店の場所も覚えて貰えるかと」
「成る程」
照れ臭そうに笑いながら、ドランさんが頬を掻いた。
確かにドランさんの言うように、一度はワルキューレが店の方に行って場所を覚える必要もあるので、丁度いいと言えなくもない。
「そんな事ですか。畏まりました」
ドランさんからの申し出を、あっさりとブリュンヒルドは受け入れた。
「あら。良太殿、それでしたら私も、京に行ってみたいのですが」
「えっ!?」
源家の奥方ともなると、あまり旅行をする機会も無いのだとが思うが、雫様が軽い口調でそんな事を言いだした。
「うーん……」
「良太殿。これからはお腹も大きくなっていきますし、産後は体調が戻ったら鎌倉に戻らなければなりません。良い機会なので是非、京に行ってみたいのです」
俺が難色を示していると、雫様が両手を合わせて頼み込んできた。
「……京までは戦乙女さんの誰かの馬に乗って移動、という事で良ければ」
京の街中なら周囲に気を配れば歩いても大丈夫だと思うのだが、山を降らなければならない道中は危ないので、その間だけワルキューレの馬で移動するならば、雫様の安全は確保出来るだろう。
「それは勿論です。ありがとう、良太殿……いえ、婿殿に感謝を」
「そこまでされなくても、結構ですから」
気が引けるのであまりやって欲しく無いのだが、雫様は当然の事のように俺に頭を下げてきたので、すぐにやめて貰った。
「ドランさんと雫様の京行きの話も含めて、年長者の皆さんで話し合いをしますので、そうですね……一時間後にここに集合という事でお願いします」
一時間あれば、入浴して一息ついても余裕があるだろう。
来客用の館の応接スペースでは大人数だと手狭なので、食堂に集合という事にした。
「良太。それは例のアレについてだね?」
「そうです。アレです」
俺が何の事を言いたいのか、おりょうさんが察してくれた。
「それじゃ、一度解散しましょうか」
「そういう事なら、俺は一汗流してくるかな」
「正恒様、お供致します」
「母上、風呂に行かれますか?」
「そうね。そうしましょうか」
正恒さんはロスヴァイセと一緒にサウナに、頼華ちゃんと雫様は浴場に向かった。
「良太はどうするんだい?」
「俺も風呂に入ってきます」
寝る前に入浴しようかとも思ったが、カレーのスパイスと揚げ物の油の匂いが身体、特に髪の毛に染み付いているだろうから、早く洗い流したいと思ったのだ。
「むぅ……雫様が女湯にいるんじゃ、良太と一緒に湯に浸かるのは無理だねぇ」
「まあ、そうですね」
おそらく雫様の方は気にしないと思うのだが、俺の方は遠慮したい。
ならば自分が男湯の方にと、おりょうさんが言い出すかと思ったが、ドランさんとブルムさんも浴場に向かったのを見て、さすがに避けるみたいだ。
「仕方が無いねぇ。黒、白、行くよ。夕霧さんと天さんもどうだい?」
「おう」
「うむ」
「はぁい」
「お供致しますわ」
おりょうさんは年長組の女性陣と、志乃ちゃんや小さな子も何人か引き連れて浴場に向かった。
ワルキューレ達は半数ずつくらいに分かれて、浴場とサウナを利用するらしい。
「主人! 風呂に行くなら、御一緒しましょう!」
「うん。鍛冶の作業で汗かいちゃった?」
「はい!」
鍛冶で相当に疲れていると思うのだが、晴れ晴れとした表情の大地君に手を掴まれた。
「主人! 俺も一緒にいいですか?」
「勿論だよ。初めての鍛冶が、どうだったか聞かせてね」
反対側の手を、鉄君にギュッと掴まれた。
「えー……でも、あんまり上手く出来なかったし」
「あはは。それはそうだよ。いきなり上手く出来たら、正恒さんみたいな専門家はいらなくなっちゃうよ」
上手くやれたらという鉄君の気持ちは良くわかるのだが、自分で言うのも何だが、いきなりやってそれなりに様になる、俺やワルキューレ達の方がおかしいのだ。




