イカ墨汁
「おりょうさん、お糸ちゃん。夕食で出す汁を変更しますので、手伝いをお願いします」
「わかったよ」
「はいっ!」
「わ、私もお手伝いします!」
(む……ちょっと困ったな)
手伝いの申し出はありがたいのだが、ブリュンヒルドの苦手なイカを扱わせるのは不安なので、何か別の作業をやって貰った方がいいだろう。
「それじゃあブリュンヒルドさんには……俺が分量を計って用意する物を、混ぜて捏ねて貰えますか」
「は、はいっ!」
そこそこ力の必要な作業なので俺がやろうかと思っていたのだが、ブリュンヒルドなら任せても大丈夫そうだ。
捏ねた生地を焼く為に、今の内から石窯に気を注ぎ込んで予熱しておく。
「おりょうさんとお糸ちゃんは、イカの脚と内臓を抜いて、皮を剥いて下さい。十杯くらいお願いします」
「わかったよ。お糸ちゃん、やり方を教えてやるからこっち来な」
「はいっ!」
お糸ちゃんはイカを捌くのは初めての筈だが、おりょうさんが一緒なら安心だ。
「良太様、これは?」
「夕食に合わせて、現地で食べられているパンの一種を焼こうと思いまして」
「まあ! それは嬉しいです!」
馴染みがある食べ物だからか、パンと聞いてブリュンヒルドの表情が一気に明るくなった。
「でも、想像しているようなパンとは違うかもしれませんよ?」
「それでも嬉しいです! お米が決して不味いという事では無いのですが」
「まあ、わからなくは無いですよ」
現代人である俺も、パンやパスタばかりの食事が続くと米の御飯が食べたくなるので、多少の違いがあっても慣れ親しんだ食品を舌が求めるという、ブリュンヒルドの気持ちは良くわかる。
「……これくらいでいいかな。それじゃ全体が滑らかになるまで混ぜて下さい」
「はいっ!」
小麦粉、塩、重曹を入れた鉢に、別の器でオリーブオイル、水、蜂蜜を混ぜてから加え、ブリュンヒルドに混ぜて貰う。
俺はその間に、おりょうさんとお糸ちゃんが捌いてくれたイカの身と脚を、それぞれ食べ易い大きさに切り分けて、肝に付いている墨袋を破らないように切り離した。
「この切り方だと、焼いたり刺し身で喰うって訳じゃ無さそうだねぇ」
刺し身ならば糸造りとか、もう少し見栄えを気にした切り方になるし、焼くのならば脚と内臓を抜いた状態で皮付きのままで良いので、おりょうさんは別の調理法だと思ったのだろう。
「御名答です。汁物にしようかと思いまして」
夕飯はカレーなので、ワカメかコーンのスープにでもしようかと考えていたのだが、せっかくなので頼永様から頂いたイカを活用しようと思ったのだった。
「イカの汁? つみれにでもするのかい?」
和風の汁物には、あまりイカを使ったレシピは無いので、おりょうさんは切った物を更に磨り潰して団子にでもすると考えたようだ。
「琉球の方の料理なんですけどね」
鍋で湯を沸かして少し濃い目に鰹出汁を取り、イカを入れて塩と少量の醤油で味付けをしてから、小鉢に集めておいたイカの墨を加える。
「なんか凄い見た目の汁だけど……でも、向こうでイカの墨で味付けした、ぱすたってのも喰ったっけねぇ」
「覚えてました? これも口には合うと思いますよ」
少し煮込んで味と墨が全体に馴染んだところで、小皿に取っておりょうさんに渡した。
「ん……滑らかな舌触りと、物凄いコクだねぇ。それなのに後口は、思ったよりもさっぱりしてるし」
「でしょう? お糸ちゃんと、ブリュンヒルドさんもどうぞ」
別に用意した小皿に少量ずつイカの墨汁を取って、お糸ちゃんとブリュンヒルドにも渡した。
「ありがとうございます。ん……ええーっ!? ほ、本当に凄くおいしい! これって、出汁に塩と醤油と墨だけですよね!?」
微妙に口調が疑問形になっているお糸ちゃんだが、見た目が黒い汁の味の味が想像とは全く違っていたのだろう。
「……で、ではっ!」
暫くの間、じっと小皿を見つめていたブリュンヒルドは、意を決したように一声発すると、ぐいっと汁を口の中に流し込んだ。
(なんか自害を命じられたみたいになってるな……)
毒の杯を賜って自害をする罪人はこんな感じなのでは? ブリュンヒルドの思い詰めた表情とその後の勢いのある行動は、そんな事を俺に連想させた。
「……あれ、おいしい?」
物凄く苦い物でも口に入れたような顔で目を瞑り、瞼の端に涙を浮かべていたブリュンヒルドだが、味を確かめると目を開けて、空になった皿を不思議そうに見ている。
「もしかしたら、イカの見た目が駄目なんじゃないかって思ったんですが、こういう状態なら大丈夫そうですか?」
「あ、はい。イカってこういう味だったのですね」
「そいつはどうかねぇ」
見た目を誤魔化す作戦で、イカの墨汁の味はブリュンヒルドに受け入れられたようだが、ここでおりょうさんから物言いが入った。
「りょ、りょう様。どういう事でしょうか?」
「こいつは旨いんだけど鰹の出汁と墨の味が勝っちまってて、イカの味が出てるかってえとねぇ」
「あー……」
墨汁は濃厚で豊かな味わいの料理ではあるのだが、確かにおりょうさんの言う通り、イカ自体の旨さが前面には出てこない。
外国人なので刺し身とは言わないまでも、イカの風味を味わえる焼き物や煮物とかを食べない内に、墨汁でこういう味なのだと納得してしまうのは良くないかもしれない。
「ん……身の方も、焼いたりした物程は味が強く感じないけど、とりあえず喰ってみな」
「……え?」
なんとか墨汁でイカの苦手感を克服したブリュンヒルドに、おりょうさんから更なる試練が課せられた。
「あたしよりは……良太。あんたが喰わせてやんなよ」
「えー……」
「りょ、良太様自ら、私に!?」
要するに、おりょうさんはブリュンヒルドに『あーん』してやれと言っているのだ。
「……」
(恋人であるおりょうさんに、他の女性に対して『あーん』をやれと言われるとは……)
お糸ちゃんとかの小さな子に対してやるのは、保護者的な意識なのでなんとも思わないのだが、ブリュンヒルドのような成熟した女性が相手だと、色んな意味で気後れしてしまう。
「ほら。早いとこ喰わせてやんな」
「はい……」
小皿に取られたイカの身と箸を渡された俺は、観念してブリュンヒルドに向き合った。
「ふー……ふー……それでは、あーん」
「あ、あーん……」
目を瞑り、微かに震えるブリュンヒルドの口に、何度も息を吹き掛けて冷ましたイカの身を差し入れた。
「ん……あら、ちょっと癖がありますけど、温められた身の甘さと歯応えを感じます」
食べ慣れた俺には殆ど感じない癖をブリュンヒルドは感じたようだが、特に拒否反応は出ていない。
まだ姿の方には拒否感が出るだろうから、イカ飯みたいな物は無理だと思うが、ブリュンヒルドはある程度までは苦手を克服したと見て良さそうだ。
「うん。大丈夫そうだねぇ。そいじゃ良太、今度はお糸ちゃんにも喰わせてやんなよ」
「ああ、そうですね。はい、お糸ちゃん。味見して」
「えっ!?」
お糸ちゃんはこのタイミングで自分の名が呼ばれるとは思っていなかったらしく、目を白黒させている。
「はい、お糸ちゃん。あーん」
「ふぇぇ……あ、あーん……」
手早く鍋からイカの身を小皿に取り、冷ましてお糸ちゃんの顔の前に差し出すと、あちこちに視線を彷徨わせてから、観念したかのように口を開けた。
「ん……」
イカの身が硬かったという事は無いと思うのだが、お糸ちゃんは長い時間もぐもぐしていた。
「お、おいしいんだと思うんですけど、良くわかりません……」
「あはは……いいんだよ」
はっきりと味の感想を言えないのを、お糸ちゃんが凄く申し訳無さそうにしているが、勿論だが咎めたりはしない。
「兄上っ! お手伝いをしに参上しました!」
「御主人ー! 手伝いに来たよー!」
「主殿、何か手伝える事はあるか?」
厨房の扉を開けて、頼華ちゃん、黒ちゃん、白ちゃんが入ってきた。
「助かるけど……いいの?」
「子供達への指導は終えましたし、母上のお世話は夕霧に任せました!」
「あたいと白は、とーちゃん達の手伝いを終わらせてきた!」
「うむ」
どうやら三人共、同じタイミングで手が空いたので来てくれたらしい。
「それにしても、咖喱か……」
「あ。白ちゃんの分を、別に用意するのを忘れてたな……」
まだ俺と敵対しているような状態だった時の白ちゃんは、香辛料のミックスをぶつけられて捕獲された件がトラウマになっていて、カレーは苦手なのだった。
これまではカレーの時には、白ちゃんの分は味付けをする前に小分けにして、シチューにしたりしていたのだが、今回は大量に作る方に意識が行っていたので、そこまで頭が回っていなかった。
「ふむ……主殿、ちなみに咖喱以外の献立はどうなっている?」
「ん? えっとね……」
俺はカレーと一緒に出す惣菜と、汁の事を説明した。
「なんだ。それなら俺の飯には、咖喱を掛けないでくれればそれでいい」
言われてみれば、カレーと御飯しか用意していない訳では無いので、白ちゃんが食べる物が乏しいという状況にはならなそうだ。
「なんか悪いね」
「ふむ……では俺用に、何か別に一品作って貰えるか?」
いつもクールな白ちゃんは表情の変化には乏しいのだが、そこを差し引いても気分を悪くしている感じでは無いので、自分用にもう一品というのは、逆に俺に気を使って言ってくれたのだろう。
「そんな事でいいなら、わかったよ」
「うむ。頼んだ」
(新鮮なイカがあるから、使おうかな)
そんな事を考えつつ、カレー以外の夕食の支度に取り掛かる。
「それじゃあ、頼華ちゃんと黒ちゃんと白ちゃんには、この生地を延ばして、石窯で焼いて貰おうかな。こんな感じに……」
ブリュンヒルドが捏ねた生地を小分けにして、大きな楕円形を形作りながら延ばしていく。
「形は少しくらい歪んでも構わないからね。そしたら石窯に入れて、膨らんで焦げ目が付いたら出来上がり」
薄い生地は石窯の輻射熱であっと言う間に複雑な形に膨らみ、所々焦げ目が付いたところで取り出す。
蜂蜜の甘い香りが感じられる、自家製のナンの出来上がりだ。
「まあ! 良太様、これは正にパンではないですか!」
「ん? ブリュンヒルドさんの思っていたパンは、こういうのですか?」
「ええ。実を申せばもっと薄いのですが、ほぼ同じです」
どうやらブリュンヒルド達が食べていたパンは、酵母を使わない無発酵パンだったようだ。
話を聞く限りでは膨らみも少ないみたいなので、ブリュンヒルドの馴染みのパンは、おそらくは重曹すら使っていないのだろう。
「兄上! 味見をしたいのですが、駄目でしょうか?」
「ここにいるみんなで一枚を分けるくらいなら、まあいいかな?」
食前なので、ここで一人一枚とか言われたら断ったが、この場にいる全員で一枚を味見する程度なら構わないだろう。
「それじゃせっかくだから……はい、どうぞ」
ナンを適当な大きさに切り分けた俺は、上からスプーンで蜂蜜を掛け回した。
「おお! なんとも芳しい! では、頂きます!」
「いっただっきまーす♪」
「頂こうかな」
ゴーサインを出すと早速、頼華ちゃん、黒ちゃん、白ちゃんが手を伸ばした。
「むむ! このぱんも旨いですが、甘さといい香りといい、この蜂蜜が絶品ですね!」
「この、ちょっと焦げてるとこうまー! 甘いのもいいね!」
「ふむ……これは蜂蜜を掛けなければ、焼いた肉とかにも合いそうだな」
三人三様の感想を口に出すが、概ね好評のようだ。
「おりょうさんもお糸ちゃんも、ブリュンヒルドさんもどうぞ」
「頂こうかねぇ。ん……白の言うように肉も良さそうだけど、良太、こいつは咖喱と一緒に喰うんだね?」
「ええ。咖喱を食べる国ではこれか、米と合わせて食べてますね」
同じ小麦を材料にして焼いた物でも、ナン以外にももっと種類があるのだが、大雑把な説明としては間違っていないだろう。
「わぁ。さっきのお菓子とは違った感じですけど、これもおいしいです!」
「ああ、パンはおいしいですね……そこに甘い蜂蜜とは、なんて贅沢な」
お糸ちゃんは、ショートブレッドとの味や歯応えの違いを楽しんでくれている。
ブリュンヒルドは慣れ親しんだ味覚だから喜んでいるのかと思ったが、どうやらヴァルハラの食事事情は俺の想像以上に良くないらしく、蜂蜜の味に感動して身体を震わせている。
「なんて柔らかく、香り高いパンなのでしょう……良太様。先程は同じと申し上げましたが、今まで私が食べてきたパンとは別物の素晴らしさです!」
「そ、そうなんですか?」
かなりのオーバーアクションでパン、というかナンをブリュンヒルドが褒め称えている。
「我々が食してきたパンは、薄焼きで日持ちはするのですがカチカチに硬くて、まるで石を噛んでいるかのような歯応えで、微かに塩味が感じられる程度でして」
「それは……」
フレイヤ様達が信仰されている自然が厳しい地域では、燃料節約の意味でパンなどは纏めて焼いているのだろう。
焼いてから数日間はそれ程では無いと思いたいのだが、乾燥する気候のヨーロッパではバゲットタイプのパンなども、内側はともかく表面はあっと言う間に歯が立たなくなる程に硬くなると聞くので、もしかするとブリュンヒルドの言うパンは、焼き上がって冷めたらその時点でカチカチになるタイプなのかもしれない。
(でも、俺にはこれでも硬く感じるけどなぁ……)
食パンに慣れている現代人の俺にとっては、惣菜パン以外では外側がきつね色に焼かれて『耳』と呼ばれる状態になっている食パンが、パンの中では最もスタンダードだ。
安く手軽に買えるパンがふわふわに柔らかいので、旨いとは思うがナンですら、パンの一種だと認識するのは難しい。
「パンはその内に、別の種類もお出ししますから」
「まあ! それは楽しみです!」
重曹で膨らませたパンでこれだけ感激されてしまうと、自分が慣れ親しんだタイプのパンを出すと首を傾げられてしまうのでは無いか? そんな疑いを持ってしまう。
「さあ、中断しちゃったけど、料理を再開するよ」
「「「はい!」」」
みんなからの頼もしい返事を聞いて、俺も自分の分担の調理に取り掛かった。
「ん? 良太、肉を揚げる、かつとかって料理だけじゃ無くて、はんばーぐも出すのかい?」
「ああ、この挽き肉を見てそう思ったんですね。これはですね、向こうでも一度出した、挽き肉を纏めて揚げた料理ですよ」
俺は用意している材料で作る料理の内容を、おりょうさんに耳打ちした。
「ふーん……材料が殆ど同じって事なら、はんばーぐでも良さそうな気がするけどねぇ」
「ハンバーグは、いずれまた作りますので」
材料を見てハンバーグへの期待が高まっていたのか、おりょうさんは少しがっかりしている感じだ。
「おりょうさんは、別鍋に分けた咖喱の味付けをお願いします」
布で包んで煮込む状態にしていた大鍋を取り出し、三分の一くらいの量のカレーを別の鍋に移し替えた。
「味付けって、もう終わってるんじゃないのかい?」
「ええ、普通の味のは。こっちは辛口に仕上げて下さい」
カレー粉で作るだけでも、甘口よりはやや辛目な仕上がりなのだが、それでも以前に作った物よりはマイルドなので、おりょうさんに唐辛子や数種類の香辛料を渡して調整して貰うのだ。
「多分ですけど唐辛子は輪切りにして一本くらいが適量です。二本になると相当に……なので、一本入れて少し煮込んだら味見をしっかりお願いします」
「わかったよ。任しときな」
おりょうさんも比較的辛目な味付けが好きだが、蕎麦に七味を大量に入れて食べるような事はしないので、任せて問題無いだろう。
「主人。あたしはどうしましょう?」
俺を見上げながら、お糸ちゃんが訊いてきた。
「お糸ちゃんは、おりょうさんとは逆に、少し甘目の味付けを任せようかな」
里の子供達だけでは無く、カレーを初めて食べる者が多いので、甘口も作っておくのが良さそうだと思ったので、その調整をお糸ちゃんにお願いする。
大鍋に残ったカレーの、三分の一程度の量を鍋に移し替え、お糸ちゃんには辛さを抑える為の蜂蜜と、以前に作った生クリームを渡した。
「先ずは味見をして、お糸ちゃんが辛いと感じたらこっちの白いのと蜂蜜を少し入れて、煮込んだら味見をしてね」
「はいっ!」
カレー初体験のお糸ちゃんだが、特にスパイシーな香りに面食らうような感じは見せないので、極端な甘口にはならなそうだ。
「良太様。私は何を致しましょう?」
「ブリュンヒルドさんは、衣付けをお願いします」
カレーに添える揚げ物の準備に、粉、溶き卵、パン粉を付ける行程があるのだが、ともかく量が多い。
そこで、俺も手伝うが途中からは揚げるのに専念するので、ブリュンヒルドの残りの行程を任せたいのだ。
「こう、粉を付けたら軽く叩いて、卵にくぐらせたらパン粉を付けて、軽く握るようにします」
「こ、こうですか?」
生卵に肉をくぐらせる時に、多少おっかなびっくりという感じだったが、ブリュンヒルドはこの作業も一度見せただけで、特に問題無くやり遂げた。




