ショートブレッド
「おりょうさん。俺も気をつけますけど、畑と果樹の方で何か気がついたらお願いします」
「うん。良太が里にいない時にいい感じに育った野菜なんかは、適当に収穫しちまうよぉ」
本当に、働き者のおりょうさんは頼りになる。
ブブブ……
「ん?」
細かく振動するような羽音が服の袖口から聞こえたので見ると、大きな蜂が脚を引っ掛けていた。
羽音からすると蜂から敵意は感じないのだが、フレイヤ様から授かった服には毛羽やほつれは出来ていないので、たまたま引っ掛かったという事でも無さそうだ。
「もしかして、呼んでるのかな?」
ブブブ……
俺の呟きが正解だったのか、袖から離れた蜂は巣箱の方へゆっくりと飛んでいく。
「良太?」
「おりょうさん、蜂の巣箱の中って確認した事ありますか?」
蜂の後を追って歩き始めた俺に、おりょうさんも続いた。
「いや、してないねぇ。養蜂ってのをした事が無いから、近づいたりもしてないよ」
「そうですよね」
雀蜂ほど凶暴性がある訳では無いのだが、蜜蜂だって怒らせると刺す事があるので、普通ならば積極的に近づいたりはしないだろう。
「あ、入った」
後を追っていた蜂は、小さく開けられた隙間から巣箱の中に入っていった。
「おりょうさん、これを」
巣箱を作った時についでに作っておいた、全身を覆う養蜂の為の作業衣をおりょうさんに手渡した。
養蜂用の作業衣は薄くしなやかだが、メッシュ状になっている顔周辺の部分以外は、蜜蜂どころか雀蜂の攻撃でもびくともしない程に頑丈だ。
「ありがとう。良太は着ないのかい?」
「俺の方は、気でなんとかします」
以前に雀蜂の巣を撤去する時にも同じ方法で耐えられたので、里の巨大化している蜜蜂が相手でも、多分だが大丈夫だろう。
「おりょうさん、いいですか?」
「うん。ちっとばかし動き難いけど、その辺は仕方が無いねぇ」
養蜂用の作業衣は密度の高い布で作られているのだが、その分だけ伸縮性などを犠牲にしているので、身体の動作には少し悪影響が出てしまうのだ。
「少しの間なので我慢して下さい」
「うん」
気を身に纏った俺と、完全防備のおりょうさんは、蜜蜂の巣箱に近づいた。
「どれどれ……うわぁ。ぎっしりと埋まってるな」
多段式になっている下段の巣箱では卵や幼虫が育っていて、上段には巣枠というスライド式の木枠が数枚嵌め込んであり、各巣枠には蜜蝋で蓋をされた状態で、蜂蜜がたっぷりと溜め込まれていた。
「あれ? そういえば、蜂が巨大化してるのに、入り口はそのままにしてあったような……」
通常、巣箱の入り口は雀蜂などが侵入しないように、蜜蜂の大きさギリギリくらいのサイズにしてあるのだが、里の中で暮らし始めて巨大化した蜜蜂の出入りに関しては考慮していなかった事に、今更ながらに気がついたのだった。
「でも、巣の中がこうなってるって事は……やっぱり」
「良太、どうかしたのかい?」
俺が身体を屈めて、巣箱の蜜蜂の出入り口を見ているのが気になったようだ。
「里に棲んでる蜜蜂って凄く大きくなってますけど、通常の大きさ用の巣箱で、どうやって出入りしているのかと思ったんですが」
「ん? なんか、出入りしてる辺りがギザギザになってるねぇ」
「そうなんですよ」
雀蜂程には顎の力が強くない筈なのだが、どうやら里の蜜蜂達は移住させたのに無責任に放置していた俺に代わって、自力で出入り口を拡張していたらしい。
「どの枠にもたっぷり詰まってるねぇ。良太、こいつは早いとこ集めちまった方がいいんじゃないのかい?」
「そうですね。とりあえず枠だけ入れ替えちゃいましょうか」
巣枠に蜜蜂が付いていたりしないのを確認してから、引き抜いた巣枠をドラウプニールに仕舞って、天沼矛のコンストラクトモードを起動して新たに巣枠を作り、次々に入れ替えていく。
「他の巣箱もこんな感じなのかなぁ」
新たな女王蜂の誕生によって行われる分蜂は、人為的に抑制をしないと三回程発生するらしい。
里に持ち込んだ巣から、最大数の分蜂が起きているとすると、四つ並べた巣箱は全て埋まっているのかもしれない。
「こりゃあ、巣箱も増やさないといけなそうだな」
里の畑に植えられている作物や果樹の花から集めた蜜にしては、かなり量が多い気もするのだが、実は結構活動範囲が広い蜜蜂の出入りは制限していないので、もしかしたら霧の結界を越えて外部からも採集しているのかもしれない。
「おりょうさん。他の巣箱も一杯っぽいですから、手分けして巣枠を回収しましょう」
「わかったよ」
おりょうさんに交換分の巣枠を渡すと一度ドラウプニールに収納してから、その後は手際良く蜜が詰まっている物と入れ替えていく。
完全に予定外だが、巣箱の中の状況を考えると気がついて良かったとも言えるし、何よりも大量の蜂蜜が入手出来たのは嬉しい。
「念の為に新しい巣も用意しましょうか」
「その方が良さそうだねぇ」
おりょうさんに手伝って貰って、全ての巣の巣枠を新しい物に交換してから、巣箱の数を4つ増やした。
「またすぐに、いっぱいになっちまいそうだけどねぇ」
「んー。多分ですけど、大丈夫じゃないかと」
巣枠は蜜でぎっしりだったが、里の中で活動する働き蜂の数が目立って多くなったようには思えないので、もしかしたら里に棲む巨大化した蜂はかなり知性的で、意図的に数を増やすのを抑制しているのではないかと思ったからだ。
巣箱を増やせば、それだけ分蜂をして蜜を溜めてくれそうだが、逆に増やさなければこちらから求めていないと蜂が受け取ってくれて、無闇に分蜂もしないような気がするのだ。
「……ぷはっ! 養蜂の作業用の服は、着てると暑くなるねぇ」
「お疲れさまです。刺されても大丈夫な代わりに、通気性を犠牲にしてあるので」
ドラウプニールで一瞬で着替えたおりょうさんは、顔のメッシュの部分以外は通気性の無い作業衣を着用していた事による、暑さと微妙な動き難さから開放されて大きく息をついた。
おりょうさんに疲労の色は無いが、額には薄っすらと汗が浮かんでいる。
「さて、と。俺は厨房に行って、夜の支度をしてきますね。おりょうさんは一休みしてて下さい」
「ん? 今からじゃ早いんじゃ無いのかい?」
「夕食は咖喱ですから、少し煮込む時間を取りたいので」
「ああ、成る程ねぇ」
向こうの世界に滞在中に、おりょうさんにカレーの仕込みを頼んだのもあって、俺の雑な説明でも言いたい事は伝わったようだ。
ドラウプニールに入れてあるし、蜂蜜はほぼ傷んだりする心配の無い食品ではあるのだが、使い易いように巣枠から適当な器に入れ替えをしておきたい。
「後は正恒さんに面倒な作業をお願いしてあるので、少し差し入れでも作ろうかと思って」
「差し入れって、握り飯か菓子でも作るのかい?」
「ええ。簡単に出来る菓子があるので」
オーブンが必要ではあるが、軽量さえすれば特に難しい技術がいらない、簡単な菓子を作って差し入れにするつもりだ。
「そいじゃ畑の方は今日明日でどうにかって感じじゃ無いんで、あたしも手伝おうかねぇ」
「それは心強い。じゃあ行きましょうか」
「うん!」
ごく自然に俺の腕に自分の腕を絡めたおりょうさんと一緒に、厨房に向かった。
「やあっ!」
「くっ!」
カンッ! カカンッ!
蜜蜂の巣箱を置いてある場所からおりょうさんと連れ立っての移動中に、午前中の頼華ちゃんの稽古のおさらい中なのか、大地君と鉄君が木の棒で激しく打ち合いをしていた。
小さい子同士の打ち合いだが、表情は双方共に真剣そのもので、緊迫した空気が伝わってくる。
「あ。大地くーん!」
大地くんに伝えなければならない事があったのを、顔を見た瞬間に思い出したので、稽古中に悪いと思いながらも声を掛けた。
「……主人? 何か御用ですか?」
俺が声を掛けると、打ち合いから鍔迫り合いになっていた体勢を両者共に解いて、荒くなった息を整えながら俺に向き直った。
「稽古中にごめんね。いま作業小屋の方で、俺の師匠の正恒さんが刃物を打ってるのを、教えておこうと思って」
「えっ!? しゅ、主人。それって見学出来ますか!?」
話を聞いた大地くんはすぐにでも作業小屋にダッシュしたそうな表情だが、俺とおりょうさんに遠慮して踏み止まっている。
「大丈夫だと思うよ。多分だけど申し出たら、大地君にも打たせてくれるんじゃ無いかな」
大地君の筋力的には問題無いと思うが、鍛造を最後までとなると持久力には不安がありそうな気がする。
その辺は正恒さんも気がつくと思うのだが、それでも鍛冶の触りくらいは体験させてくれるだろう。
「ごめん、鉄っ! 俺、行ってくるっ! 失礼しますっ!」
「あっ! お、俺も行く! 主人、姐さん、失礼しますっ!」
遂に我慢の限界を超えたようで、大地君は俺とおりょうさんに一礼すると、脱兎の勢いで作業小屋の方に駆け出した。
鉄君も鍛冶に興味があったのか、俺とおりょうさんに頭を下げると、全力疾走する大地君の後を追った。
「鍛冶とかに興味があるってのは、やっぱり男の子だねぇ」
「……そうですね」
(鍛冶場には、女性のロスヴァイセとヘルムヴィーゲがいるんだけど……)
などと心の中で思ったが、走り去る二人を温かな眼差しで見守っているおりょうさんに相槌を打っておいた。
大量の玉ねぎの微塵切りとにんにくと生姜を炒めて、香りが出たらカレー粉を半量加える。
摩り下ろした人参と種を取って潰したトマトを入れて火を通し、牛のスネ肉をと牛骨のスープを入れて、カレー粉の残り半分と、丁字、鬱金、馬芹といった和漢薬の材料を追加で投入して、香りをプラスする。
「これで良し、と」
量は多いが既に手慣れた行程なので、ここまでで三十分程度しか掛かっていない。
「あれ? 良太、鍋を火から下ろしちまうのかい?」
俺が鍋を石造りの竈から持ち上げるのを見て、おりょうさんが首を傾げた。
「一度煮立った鍋はこうやって保温すると、自分の熱で煮込むのと同じ状態が作れるんですよ」
作業台の上に広げた蜘蛛の糸で作った布の上に鍋を置いた俺は、隙間が出来ないように包み込んだ。
現代ならば新聞紙とタオルや毛布などを使うところだが、蜘蛛の糸で織った布は一見するとぺらっぺらだが、細い糸を密にしてあるので毛布以上に保温性は高い。
「「へぇー」」
里では気で鍋を直接加熱をするので、燃料の消費を気にする必要は無いのだが、保温調理ならばずっと鍋の番をしなくても済むし、何よりも安全だ。
「そいじゃ良太、次は正恒の旦那への差し入れ作りかい?」
「そうですね。でも簡単なので、手順を覚えたら材料を混ぜ合わせて捏ねるのは、おりょうさんとお糸ちゃんに任せましょうか」
「あたしは構わないよ」
「えっ!?」
予想通り、おりょうさんは気軽に請け負ってくれたが、お糸ちゃんは驚きの声を上げて不安そうにしている。
「お糸ちゃん、本当に簡単だから大丈夫だよ」
「は、はいっ! やってみます……」
まだ自分の腕前に自身が持てないのか、お糸ちゃんからは必死そうな意気込みが伝わってくる。
「先ずは、小麦粉と乳酪と砂糖を、三対二対一の割合になるように計量します」
現代のようにキッチン量りなんか無いので、容量が一合の木の枡を使って、小麦粉三杯を基本量にして、バターを二杯、砂糖一杯を鉢に入れた。
「ふんふん」
「……」
おりょうさんは頷きながら、お糸ちゃんは真剣な表情で俺の手元を見つめている。
「これを混ぜて……終わりです」
「「えっ!?」」
他にも何か材料を入れると思っていたのだろう、おりょうさんとお糸ちゃんの驚きの声が重なった。
「そ、そんだけなのかい?」
「ええ。後は均一に伸ばして、切って焼くだけです。簡単でしょ?」
バターが全体に馴染むまでにはそれなりに時間を掛けて捏ねなければならないが、特に難しい技術は必要としない作業だ。
「そりゃまあ、そうだねぇ……」
「ふえぇ……」
金属製の料理用のバットなどは無いので、以前に石窯用に作っておいた純鉄の天板に混ぜた生地を広げて伸ばし、均一に切り分けて表面にフォークで穴を開け、焼く前に冷蔵庫の中で少し寝かせる。
「そいじゃま、良太と同じ用にやればいいんだね?」
「あ、ちょっと待って下さい。おりょうさん、蕎麦粉はありますか?」
冷蔵庫の扉を締めて、石窯を予熱し始めた俺は、小麦粉を計量しようとしていたおりょうさんに待ったを掛けた。
「江戸に行ったついでに仕入れてきたけど……どうるすんだい?」
「おお、さすがはおりょうさん。じゃあ、おりょうさんは小麦粉の代わりに蕎麦粉で作ってみましょう。砂糖も黒砂糖の方で、油も乳酪じゃ無くて綿実油にしてみましょうか」
「えっ!?」
長く延ばす蕎麦切り以外にも、蕎麦掻きなどのアレンジレシピはあるのだが、おりょうさんには、バターと砂糖が入るという発想までは無かったようだ。
砂糖は元の世界でかなりの量を仕入れてきたので、特にケチる必要も無いのだが、そば粉に合わせて少し和に寄せてみようかと考えたのだった。
「まあ、やってみるけど……なんか落雁みたいだねぇ」
「ああ、近いかもしれませんね」
干菓子の落雁は、ざっくり言うと蒸したもち米を粉にしたと物と水飴を混ぜて型に入れ、乾いて固まれば完成だ。
いま作っている菓子には焼く行程があるのだが、粉を混ぜて纏めるだけというシンプルさでは、両者は近いと言えば近いかもしれない。
「お糸ちゃんの方は、そうだな……小麦粉と乳酪はそのままで、せっかくだから、さっき採れた蜂蜜を使ってみようか」
「や、やってみます!」
おりょうさんとお糸ちゃんが粉とバターを計量している間に、俺はドラウプニールから巣枠の一つを取り出した。
「よ、っと……おお、凄く綺麗な色だな」
巣枠の表面の、蜜蝋で出来ている蜜蓋という部分を包丁で削ぎ、おりょうさんとお糸ちゃんが使っているのとは別の鉢で、流れ出る黄金色の蜂蜜を受けた。
「主人。お砂糖は入れずに、蜂蜜だけで作るんですか?」
「蜂蜜は香り付けに使って、その分だけ砂糖を減らすよ」
お糸ちゃんが計量していた砂糖から三分の一程度の量を減らして、その分だけ蜂蜜を加えた。
「混ぜるのと延ばすのは任せて、俺はその間に……」
蜂蜜を取り出すのに、手回しの遠心分離機でもあれば良かったのだが、無い物ねだりをしても仕方がないので他の方法を使う。
「蜂蜜……良し、出来たな」
左手首のドラウプニールを弾いて回転させ、巣枠の中の蜂蜜だけを取り出して鉢に溜めていく。
大量の蜂蜜が抽出された後の巣枠には、蜜蓋とハニカム構造の仕切りの蜜蝋だけが残った。
蜂蜜と比べると蜜蝋の量は微々たる物だが、それでも回収した巣枠から集めると、数キロはありそうだ。
蜜蝋は木材や革の手入れに使えるし、蝋というくらいなので、昔は蝋燭の材料にも使われていた。
「良太、出来たよぉ」
「あ、あたしも出来ましたっ!」
向こうの世界で買った、漬物などに使うような壺に蜂蜜を移し替えてドラウプニールに仕舞うと、おりょうさんとお糸ちゃんから声が掛かった。
「おお。おりょうさんのも、お糸ちゃんのも、上出来ですね。
おりょうさんの蕎麦粉の生地も、お糸ちゃんの蜂蜜入りの方も、綺麗に混ぜて延ばされている。
「二人の作った分は少し寝かせて……先に俺が作った方を焼きましょうね」
五十個程に切り分けられて天板に並べた生地を石窯に入れ、蓋をした。
「さて。十分くらいで焼き上がるので、それまでに片づけとお茶の用意でもしましょうか」
「そうだねぇ」
「はい!」
いま焼いている菓子は作るのも簡単だが、使った道具も石窯と天板以外には、混ぜるのに使った鉢と計量の枡くらいなので、片付けの方も楽だ。
「主人! 凄くいい香りがします!」
「うん、そうだね」
お糸ちゃんが嬉しそうに言うように、石窯からは熱せられたバターの濃厚な香りが漂い出て来ている。
「良太。ここは紅茶かねぇ」
「いいですね」
俺の口が貧乏だからか、高級な茶葉と比べてもおいしく感じる、日本のメーカーの一番スタンダードな茶葉を出した。
急須に茶葉と湯を入れて、蒸らし二分で各自の湯呑に注ぐ。
「そろそろ良さそうだな……はい、焼き上がりです」
「「わぁ……」」
それ程しっかり焼き色は付いていないが、天板の上にはバターが香るイギリスの伝統的な菓子、ショートブレッドが焼き上がっていた。
焼き上がった分と入れ替わりに、おりょうさんとお糸ちゃんが作った生地の方を石窯に入れた。
「さあ、作った者の権利である、試食をしましょうか」
「いいねぇ」
口元を綻ばせながら、おりょうさんが同意した。
「お糸ちゃん、お上がり。まだ熱いから気をつけてね」
「は、はいっ!」
つんつんと、指で突っついて熱さを確かめてから、お糸ちゃんがショートブレッドを一つ摘み上げると、俺とおりょうさんも続いた。
「うわぁ……甘くて、乳酪の香りが口いっぱいに広がって、とってもおいしいです!」
「ふぅん……くっきーとかびすけっとってのに似てるけど、どっか違うねぇ」
「くっきー? びすけっと?」
「あ、お糸ちゃん、なんでも無いんだよぉ。さ、もう一個喰いな」
「は、はい?」
聞き慣れない単語に、きょとんとしているお糸ちゃんに、おりょうさんは新たなショートブレッドを勧めて誤魔化した。




