咖喱
「それじゃ行ってきます」
「行ってくるよ」
「はいはい。おりょうさん、良太さん、道中お気をつけて」
「いってらっしゃいませ」
早朝、品川宿の蕎麦屋、竹林庵の前で、俺とおりょうさんは店主の伊助さん、おたつさん夫婦の見送りを受けていた。これから藤沢宿近くの山中にある、刀剣鍛冶師の正恒さんの住まいへと向かう。
「なんか良太と二人だけってのが、凄く久し振りに感じるねぇ」
歩き出してすぐに、笑顔のおりょうさんが俺を見ながら言った。
「そういえばそうですね。このところ、必ずお華ちゃんも一緒でしたし」
嘉兵衛さんの鰻屋、大前が開店するまでは竹林庵で寝泊まりしてたし、開店してからも営業終了までは一緒に働いていた。鎌倉育ちで江戸に不慣れな頼華ちゃんと胡蝶さんのために、買い物に付き合ったりもしたしな。
「賑やかなのも嫌いじゃないけど……りょ、良太と久し振りの二人っきり、だね?」
「っ! そ、そうですね……」
薄く頬を染めながら、おりょうさんが俺の表情を伺うように覗き込んでくる。
(う、嬉しいけど……けど)
「あっ! そ、そうでした! こ、これ、おりょうさんに使ってもらおうと思って!」
俺は福袋の中から、ドランさんの萬屋で買った外套を取り出した。緑色の方だ。
「こいつは、随分と上等な仕立てじゃないか。高かったんじゃないのかい?」
両手で持った外套を裏返したりしながら品定めするように、おりょうさんがじっくりと観察している。
「値段は問題じゃなくて、おりょうさんと最初に藤沢まで行った時に、こういうのも必要だと思ったんです。それに……」
「それに?」
「お、おりょうさんに、良く似合いそうだと思ったんです……あ、俺のは色違いです」
「に、似合いそうって……そ、それに、お揃い!?」
やむを得ない事態ではあったが、先に俺が緑色の方、頼華ちゃんが灰色の方に袖を通してしまっているのだが、その事は黙っておこう。
「そ、そんなら着させてもらおうかね……ど、どうだい?」
外套を羽織って合わせを留めたおりょうさんは、被っていた菅笠を取ってフードを被った。
フードを被ってしまうと和装と黒い髪が隠れて、切れ長の瞳のエキゾチックな美貌の持ち主のおりょうさんは、一見しただけだと外国人のようにも見える。
「思ってた通り、良く似合ってます」
「そ、そうかい? うん。羽織った感じも軽いし肌触りもいいし、こいつ気に入ったよ。ありがとう、良太!」
着物を買った時に頼華ちゃんがしたように、おりょうさんがその場でくるっと回る。無邪気な笑顔で外套を翻らせているおりょうさんからは、普段よりも幼さを感じる。
「よ、喜んでもらえて良かったです……」
(やっべ……おりょうさん、すげぇ可愛い!)
外套を着てはしゃぐおりょうさんの姿を見て、内心で激しく動揺しているのを悟られないように、俺は顔を見られない角度で、自分の灰色の外套を羽織った。
「じゃ、じゃあ、この間と同じ様に……」
「あ、うん……」
前回と同じ様に、品川宿から一キロほど歩いたところで、おりょうさんに背中を向けて腰を屈めた。
「……いいですか?」
「うん」
おりょうさんの足が地面から離れたのを確認して、俺は立ち上がる。
(な、なんか前回よりも、おりょうさんの体温が高く感じるな……)
俺とおりょうさんの着ている外套の分だけ、前回よりも熱は隔たっているはずだが。
(こ、これはもしかして、おりょうさんの密着度が、前回よりも高いのか!? そ、それに、なんか首筋に吐息が……)
背後で行われている事だったのではっきりとは言えないけど、前回は背負ったおりょうさんの手は俺の肩に置かれていて、今回は首に腕を回して抱きつくような感じになっている。それだけではなく、俺の首の辺りに顔がくっついているような……多分、気の所為ではないだろう。
「い、行きますよ?」
「うん。無理しないどくれね?」
「はい」
背中に感じる体温や、押し付けられる柔らかい感触なんかに心を奪われそうになるが、なんとか意識を走る事と前を見る事に集中する。
結果として、多摩川の六郷の渡しで船に乗った時意外は、ほぼ全速力で街道を駆け抜けたので、昼にならないうちに藤沢宿近くの山中の、正恒さんの住まいに到着した。
「おりょうさん、着きましたよ」
「……着いたのかい?」
藤沢宿から街道を外れて入った山道を登り、正恒さんの住まいと敷地の中に広がる畑が見えた時点で、俺は足を止めておりょうさんに呼びかけた。
「ええ。あの、もしかして寝てたんですか?」
「ふぁ……そうみたいだねぇ。なんか前回よりも揺れが少なくて、気が付いたら寝ちまってたみたいだよ」
可愛らしいあくびをしたおりょうさんが、まだ目覚めきっていないのか、いつもよりのんびりした口調で話す。
揺れを少なくしようとは意識していたが、眠れる程だとは思わなかった。なんにせよ、おりょうさんに自動車での移動と同じ位の快適さは提供出来たみたいだ。
「良太、御苦労さん。よ、っと……もし、正恒の旦那、いるかい?」
身軽に俺の背中から下りたおりょうさんは、その足で正恒さんの家の前まで歩き、木戸を叩きながら中に向かって呼びかけた。
「おう。勝手に開けて入ってくれ」
「あいよ」
「お邪魔します」
扉を開けて中に入るおりょうさんに、俺も続いた。
「良さん、姐さん、久し振り。って程でもねえか」
家の中に入ってすぐの土間の先にある、小上がりの板の間の囲炉裏端で、腰を下ろして湯飲みを持ったここの主、刀工の正恒さんが笑顔で俺達を迎えてくれた。
「そうだねぇ。でも懐かしく感じるよ」
「正恒さんの打ってくれた鰻裂きのおかげもあって、嘉兵衛さんのお店は順調ですよ」
「そうみたいだな。じゃあ嘉兵衛の野郎には、ちっとくらい代金をふっかけても良さそうだな」
正恒さんがニヤリと、人悪い笑顔を浮かべた。
「お手柔らかにしてあげて下さいね」
「冗談だよ、良さん。ほい、連絡を貰った御所望のもんだよ」
「えっ!?」
正恒さんが左右の手に二本ずつ刃の方を持って、四本の鰻裂きを俺に差し出してきた。
「あの、これって?」
「この間、良さん達が帰ってから、こんな事になるんじゃないのかと思ってな。残りの一本はこれからだが、暫くは凌げるだろう? ほれ、目打ちも」
土間の床に置いてあった木箱から、これも完成していた目打ちを正恒さんが四本取り出して、俺に手渡してくれた。
「これはありがたいです」
「さすがだねぇ、正恒の旦那」
「ははは。姐さんに褒められると嬉しいが、ちと怖いな」
「おや、酷い言い草だねぇ」
言葉だけだと嫌味な感じの応酬に聞こえるが、実際は正恒さんとおりょうさんは、笑顔で冗談を言い合っている。
「ただよ、良さん。嘉兵衛と良さんの事はわかってるから構わねえんだが、今いるのと、今後入ってくる新米で見どころの有りそうな奴には、俺のとこまで来させるようにって、嘉兵衛の野郎に伝えてくれ」
「わかりました」
失念していたが、鎌倉で源のお抱えで刀を打っていた正恒さんが、山の中で暮らしながら鍛冶仕事をしているのは、自分の仕事をわかってくれる人間にだけ使って欲しいからだった。
「だからよ、今回渡すこいつらは、あくまでも予備であり、練習用だ」
「わかりました。俺の方でも忘れてて、正恒さんに失礼な事をしちゃいましたね」
「よせやい。そんな事を言うのは今更だぜ。それに、良さんが来るならうまいものが食えそうだって、俺なりの打算もあったんだよ」
「あはは。そういう事なら、腕を振るいますよ」
打算とは言うが、これは正恒さんの心遣いだろう。でも、お言葉には甘えて、その分おいしい物を食べてもらおう。
「おや。ここんとこ、食事は良太の世話になっちまってたから、昼はあたしが作ろうかと思っていたんだがねぇ」
大前での仕事中は、昼と夜の賄いは俺と嘉兵衛さん、それに修行の意味で新人の忠次さんと新吉さんが作っていたのだが、朝は竹林庵で食べていたので、おりょうさんの言葉には少量の嘘が含まれている。
「おっと、こいつは失礼しちまったな。おりょう姐さんの腕前を疑っちゃいねえから、期待してるぜ」
「まったく、鍛冶の腕だけじゃなくて、お世辞までたいしたもんだねぇ」
さっきのやり取りと同じで、おりょうさんも本気で怒ったりはしていない。笑顔で厨房まで歩いて材料を物色し始めた。
(俺もおりょうさんと正恒さんみたいに、軽い感じでやり取り出来るといいんだけどな……)
最近はシチュエーションによっては、おりょうさんを意識し過ぎてしまって、軽い感じどころかうまく言葉自体が出なかったりもするから、尚更そんな風に思ってしまう。
「こいつが姐さんの店の蕎麦か。いい出汁の香りだ……」
「口に合えばいいけどねぇ」
前回ここを訪れた時に話題に出て、正恒さんが興味を示していたし、蕎麦掻きが好きと言っていたので、出来たての天ぷら蕎麦を福袋に入れて持ってきた。
「っかー……揚げたての天ぷらが載って、こいつは贅沢だな」
食べ始めたと思ったら一気に食べ終わって、用意していた蕎麦湯で割って、正恒さんはつゆまで飲み干して満足そうに丼を置いた。
「いやぁ、うまかった!」
「お次は、これをどうぞ」
「おお……こっちもうまそうだ」
用意してきた蕎麦粉で、この場で湯を入れて箸で掻き混ぜて蕎麦掻きが出来上がった。これも持ってきた漆塗りの小さな桶に張った湯に入れて出す。
「出来たては、蕎麦の香りがたまんねぇな……うん、うまい!」
俺も蕎麦を手繰りながら、正恒さんが山で採ったウドを、おりょうさんが酢味噌和えとキンピラに料理した物を口に運んだ。白いウドと比べると、歯応えと香りが段違いだった。
「少しは正恒さんの手伝いもしようと思ってたんですが」
「良さんも姐さんも、嘉兵衛の野郎にこき使われてるんだろう? のんびりしていけよ」
食後のお茶をうまそうに飲んでいる正恒さんは、実に満足そうだ。
「良太、せっかくだから、そうさせてもらおうよ」
洗い物を終えたおりょうさんが、囲炉裏のある小上がりの方へ戻ってくる。
「そうですね。あ、でも、ちょっとやりたい事が……」
「何かあるのかい?」
呆れたように、おりょうさんが腰に手を当てて俺を見つめる。
「やりたい事と言っても、料理なんですけどね」
「料理って、竹林庵や大前では出来ないような物なのかい?」
「おいおい良さん。そいつは穏やかな話じゃねえな」
おりょうさんと正恒さんから散々な言われようだが、ここで作った腸詰とかプリンとか、ドランさんの国とかじゃ無ければ、あまり一般的とは言い難いか。
「そんなに大層な物じゃないんですけど、ちょっと匂いが凄いので、室内で作るのは不味いと思いまして」
「そりゃまあ、俺の家なら、すぐに炭と鉄の匂いに置き換わっちまうが」
正恒さんはこう言うが、換気扇も無いので室内での調理は考えていない。
「ああ、いや。七輪でも貸してもらって、外の河原の辺りでやりますから」
「七輪つーと、なんか焼くのか?」
「焼くというか、炒めるんです」
「良くわかんねえが、七輪と炭は好きに使ってくれ」
「ありがとうございます」
「おう。ところで良さん、預かってた猪と鹿の腿と、腸詰の燻煙も終わってるぜ」
「出来ましたか。じゃあ後で引き取ります」
俺は河原へ向かおうと、七輪に適当な量の炭を載せて準備する。
「良太、あたしも一緒に行っていいかい?」
「構いませんけど、大丈夫かなぁ……」
元の世界の日本では、カレーの素が市販されてから爆発的に一般家庭に広まったみたいだけど、果たしておりょうさんを始めとする、この世界の人達には受け入れられるのだろうか?
でも実験台、と言うと聞こえは悪いが、おりょうさんと正恒さんに試食をしてもらうのには、良い機会かもしれない。
「念の為ですけど、風下にはいないで下さいね?」
七輪で炭火を熾しながら、おりょうさんに注意した。
「なんか、そんなに恐ろしい物を作ろうってのかい?」
「そういう訳じゃ……でも、匂いが強いのと、その匂いが着物とかに付くと取れ難いんですよ」
「……良くわからないけど、気をつけるとするかね」
(おりょうさんに顔を近づけて匂いを嗅いだりする人はいないだろうけど、カレーの強烈な香りは、一緒に食べた人以外には嗅ぎ取れるかもしれないからなぁ……)
俺の服は防汚の付与があるので大丈夫だが、この後の炒め作業と調理、その後の食事を終えたら、風呂で念入りに身体と髪の毛を洗う必要があるだろう。
「それじゃ始めますよ」
「うっ……あ、あんたが言ってたのがわかったよ。火に掛ける前だってのに、この匂い……」
俺が取り出した、調合した香辛料の匂いに、おりょうさんが顔をしかめる。香辛料は仕事の合間に買った蓋付きの壺に入れてある。
「そんなにですか?」
現段階では漢方薬に唐辛子が混ざっているだけなんだが、それでもこの反応か。
「うっわ……風下にいるのに、強烈だね。りょ、良太ぁ、これって本当に、食べ物なのかい?」
「えっと、印度って国の、七色唐辛子みたいな物なんですよ。使い途はもっと広いんですけど」
「ああ、そういう事。確かに七色にも、山椒や陳皮なんかが入ってるねぇ。でもこいつは、七色みたいに蕎麦に振ったって……」
竹林庵という、うまい蕎麦屋で働いているおりょうさんだけあって、七色唐辛子といえば蕎麦に結びつけたみたいだ。
「そう思うでしょ? でも、これを入れた蕎麦が大好きな人もいるんですよ」
おりょうさんにそう説明はしたが、カレー南蛮に使うカレー粉は、香りはもう少しマイルドかも。
「……本当かい? だって、こんな強烈な香りじゃ、蕎麦の風味なんか負けちまうだろ?」
「それは、そうなんですよね……」
おりょうさんの言う通り、カレーの味や香りの支配力は圧倒的で、混ぜればなんでもカレー味、カレー風味になってしまう。
「俺も、純粋に蕎麦を味わおうと思ったら、もりや、かけが一番だと思います。でも、おろし蕎麦とか、楽しみ方は色々とあるじゃないですか」
「そりゃまあ、そうだけどねぇ」
おりょうさんとの会話を続けながら、俺は鍋で、香辛料をミックスした物の半量を煎り始める。焦げないように気をつけながら、木のしゃもじでゆっくりと掻き混ぜていく。
(香辛料と唐辛子……さすがにちょっと目にくるな)
涙が出る程では無いが、辛い物特有の香りが目に染みる。
「これは印度の咖喱って香辛料を混ぜた物なんですけど、無理に蕎麦に入れろとか、これを使って調理した物を食べろとか言いませんから」
「良太がそんな事を言う奴じゃ無いってのはわかってるよ。でも、これまでにあんたが作ってくれた珍しい物は、好き好きは勿論あるけど、おいしい物ばっかりだったから、試してはみるさね」
「初めて試す人にも食べやすい物を、考えてみますね」
「期待してるよ」
微笑むおりょうさんから、意識を香ばしく炒め終わったスパイスミックス、カレー粉に向ける。いい機会なので、この場でカレーのベースまで作ってしまおう。
炒め終わったスパイスを、別に用意した壺に一度保存して、前回ここに来た時に作った猪のラードを取り出して鍋で溶かす。そこへ、予め微塵切りにしておいた玉葱を投入して炒め、色が変わったら擦り下ろしたにんにくと生姜を加え、角切りの猪の肉も入れて、軽く塩と小麦粉を振り込んでから良く炒める。
別の鍋で猪の骨を煮出して、アクを取ったら一口大に切った人参とじゃが芋を入れて下茹でする。
「これは、筑前煮みたいな物なのかい?」
材料の切り方や、出汁を取っている行程を見て、おりょうさんは思ったみたいだ。
「煮物ではあるんですけど、これは御飯に掛けたり、小麦粉を焼いたりした物に付けて食べたりするんですよ。あ、蕎麦粉があるから、蕎麦切りじゃなくて別の作り方をした物で、試してみましょうか?」
いきなりカレー南蛮よりは、広げて焼いたクレープみたいな物なら、付けるカレーの量も調節しやすいから、それ程抵抗無く食べられるかもしれない。
「良くわかんないから、あんたに任せるよ。いざとなったら、別の料理も作ってくれるんだろう?」
「それは勿論です」
正恒さんが作ってくれた燻製があるから、煮込んでポトフ風にしてもいいかもしれない。これは下茹でにした人参とじゃが芋を使えば調理時間も掛からないし、塩味にすれば、おりょうさんにも正恒さんにもおいしく食べてもらえるだろう。
猪出汁で下茹でした人参とじゃが芋の半量は、念の為に鍋のまま福袋に収納して、もう半量は玉葱と肉を炒めた鍋に煮出したスープと一緒に投入して、炒めたカレー粉を少しずつ加えて味を見る。
「ああ、この味……」
猪の骨からとった濃厚なスープで作ったカレーは、なんとも贅沢な味わいだった。元の世界ではいつでもどこでも食べられる味が、死後の世界に爆誕した。と言うと大袈裟か。
さっき自分で言った通り、こっちの世界の印度にもあるかもしれないし、既に英国には紅茶と一緒に伝わっているかも。
夕食の時間になったので、小上がりの板の間の囲炉裏端で、用意してきた鰻の料理を正恒さんに振る舞う。
「良さん、このうまきってのは、タレ焼きの鰻がさっぱり食べられるな。卵自体も濃厚な味のはずなのに、不思議なもんだ」
「頼華ちゃんを筆頭に、嘉兵衛さんの店で働いている女性は、みんなうまきが好きですよ」
「だって、うまきはおいしいじゃないか」
おりょうさんも、大前で結構な回数食べているはずだが、嬉しそうにうまきを口に運んでいる。
「ああ、女は卵好きが多いよな。このうざくってのも驚きだな。焼いた鰻を酢の物にするなんざ、とは思ったが、酒にはぴったりだ」
前回来た時には出せなかった鰻の料理を、カレーを出す前に食べてもらったのは、こうしておかないと、カレーの後に何を食べても印象に残らない可能性があるからだ。
「それじゃあそろそろ、別の料理も食べてもらいましょうか」
「なんか、随分と勿体振るねぇ」
「そういう訳じゃ……では、先ずはこれから」
いきなりカレーのルーは強烈かなと思い、じゃが芋を千切りにして多めの油で揚げ焼きにした物に、少量の塩とカレー粉を振り掛けた物を出す。カレー味のハッシュポテトだ。
「……なんつーか、凄い刺激臭だな」
「外で嗅いだけど、やっぱり匂いが強いねぇ……」
正恒さんとおりょうさんは、手を出すのを躊躇している。
「そんなに変な味はしないんですけどね。頂きます……うん、うまい」
中はホックリしているが、表面はカリカリでスナック感覚だ。試行錯誤を繰り返して調合したカレー粉も、どうやらある程度の成功をしたと言っていいだろう。
「まあ、せっかくだから頂くか……んん!? こ、こいつは、匂い通りの刺激的な味だが……うん。嫌な感じの味じゃねえな。うまい、のか?」
「そんじゃあたしも……んん!? ピリッと辛くて香ばしくて……本当に、今まで味わった事が無いけど、おいしい……のかねぇ?」
「良さん、こいつは芋か?」
「ええ。外国産の輸入品の芋です」
「里芋ほどねっとりしてないけど、香辛料の中に、芋の甘味を感じるねぇ」
二人共、未知の味との出会いなので戸惑っているようだが、決して印象は悪くないみたいだ。
「じゃあ、次はこれを」
蕎麦粉に猪のラードを少量と塩を入れ、柔らかい生地を作って焼いた、発酵させていないパンのような物を作った。一緒に猪のスープで作ったカレーを、皿に盛って出した。
「これを千切って、少し付けて食べてみて下さい」
「こんなもんかな……おお、さっきの芋の料理よりも、味が複雑だな」
「あたしはこんなもんで……うあ……か、辛い、けど、なんか妙に後を引く感じがあるね」
正恒さんは大胆に大きく、おりょうさんは、恐る恐るという感じで一口サイズに千切った物にカレーを付けて食べて、それぞれ感想を漏らした。どうやらそれ程、カレー味に抵抗は無さそうだ。
「お次はこれです」
小皿に御飯を盛り、そこへカレーを掛ける。現代日本でのオーソドックスなスタイルのカレーだ。これにドランさんの店で買ったキャベツで作ったコールスローを添える。
「ぶっかけ飯かい、これは?」
「なんか毒々しいくらい、色鮮やかな料理だねぇ」
木の匙を持った正恒さんとおりょうさんは、ターメリックで艷やかな黄色いルーの中に、じゃが芋と人参、猪の肉が散りばめられているカレーライスを、不思議そうに見ている。確かに、塩や醤油や味噌の味付けが主体の和食には、あまり無い彩りの料理だ。
「そうです。今までの物が大丈夫だったから、多分、おいしく食べられると思います。これは咖喱の口直しに、サラ……即席の漬物です」
サラダと言っても翻訳されるかもしれないが、まだ文化として無いかもと思って、浅漬けの一種として説明した。まあ間違ってはいないよな。
「それじゃ……うあ……や、やっぱ辛い……で、でも、なんか止まんない……な、なんだいこれ?」
「あ。おりょうさん、その漬物食べると、辛さが和らぎますから」
自家製マヨネーズを使って作ってあるので、コールスローの油脂分で辛さを緩和してくれるはずだ。
(おりょうさんには随分辛そうだな。炒めて辛味成分は結構飛んだと思ってたんだけど……次にスパイスを調合する時には、もう少し唐辛子を控えるか)
薬種問屋の長崎屋さんで買い込んだ和漢薬の材料は、まだまだかなりの量があるので、今回のデータをベースにして、もう少し研究を重ねて比率を変えたりしてみよう。
「ふぅ……なんか急に身体が熱くなってきやがったな」
「ほんとに。身体の内側から火照ってくるねぇ」
「それは咖喱に入ってる香辛料と唐辛子の効果です。唐辛子だけでも代謝を良くしますけど、香辛料が内蔵の動きとかを活発にしてくれるんです」
「そいつは、なんか薬みてえだな」
「実際に、薬に使われている物が多いですからね」
香り付けのにんにくや生姜にしたって、身体に有効な成分が多く含まれている。
「なんか汗が出て、目まで冴えてきやがったな。おう良さん。お代わりくれや」
「あの、良太。あたしにもお代わりもらえるかい」
「気に入ってくれました?」
カレーだから、いざとなったら俺が食べればいいと思い、御飯は多めに炊いてある。
「うまいかどうかってのは、まだ言えねえが、飯と一緒に掻き込みたくなる料理だってのはわかったぜ」
「本当にねぇ。なんか不思議と食べる手が止まらないんだよねぇ」
「……あんまり食べ過ぎないで下さいね?」
熱い御飯に辛いカレーはあまり噛まずに、つい早く口から喉へ送り込んでしまいがちで、食べ終わって暫くしてから食べ過ぎに気がつく事があるので、念の為に言っておいた。
「辛さと匂いで気が付かないで、やっと具材の味がわかったが、この野菜や肉もうまいな。良さん、お代わりくれ」
「あたしにも」
正恒さんとおりょうさんから、早くも二度目のお代わりが来た。小皿とは言えハイペースだ。
(小皿だけど、御飯の量は普通の茶碗くらいあるんだけどな……大丈夫かな?)
先にじゃが芋の揚げ焼きや、蕎麦粉のパンもどきも食べているので、既に普段の食事量は上回っているはずだ。
「ありがとよ。しっかしこいつは、鍛冶仕事の時にはぴったりな食い物かもしれねえな」
「ああ、そうかもしれませんね。でも、汗が止まらなくなって、水を飲む量が増えますよ」
「ちげえねぇ」
ただでさえ汗をかく鍛冶の作業に、カレーで代謝が促進されたら凄い事になりそうだ。でも、現代日本の鍛冶職人さんは普通に食べてそうだな。
「も、もう一杯食べたいけど……く、くるし……」
「おりょうさん!?」
作務衣の俺や、作業着の正恒さんと違って、着物に帯を締めているおりょうさんは、言葉通りに苦しそうに、身体を後ろに傾けて、手で支えている。
「無理しないで、暫く横になってた方がいいですよ」
おりょうさんの身体を支えて、横になるのを手伝ってから、俺は押し入れに枕を取りに行った。
「済まないねぇ。それじゃ、行儀が悪いけど……」
「姐さん気にすんな。ここには気を使わなきゃならねぇ奴なんざ、いねえからよ」
「お言葉に甘えさせてもらうよ。ふぅ……」
横になったおりょうさんは、お腹に手を当てながら、俺が取ってきた枕に頭を預けた。
「もう一杯食いてえところだが、我慢しておくかな」
「その方がいいですよ。気に入ってくれたんなら、香辛料を混ぜた物を置いていきますよ」
「そうかい? じゃあ作り方なんかも教えてくれや」
この場所で作れそうなカレー粉を使った料理を、幾つか正恒さんに説明する。醤油を入れた出汁にカレー粉を入れたカレーうどんに、かなりの興味を示している。
「野菜は極端に水分が多い物じゃなければ大丈夫だと思います。その辺はお好みで。肉は大概の物が合いますよ」
「そうみたいだな。しかし気をつけねえと、なんでも咖喱味に作っちまいそうだ」
「ありがちなので、お気をつけを」
正恒さんの食の志向は、現代の日本人に近い気がするな。
「あまり味付けの濃くない鍋料理なんかの残った汁に、最後に咖喱の粉を入れるってやり方もありますよ」
「むぅ……そいつは話を聞いているだけでも、うまいっってのがわかるな」
「くれぐれも、食べ過ぎには気をつけて下さいね?」
鍋の残りにカレーというのは、相撲部屋のちゃんこ鍋の締めのやり方なので、食欲を増すのは間違いない。俺だって食べ過ぎてしまいそうだ。
「ああ。香辛料も安いもんじゃねえのはわかってるから、月に一回か二回くらいの御馳走にしておくよ」
苦笑する正恒さんに、厨房に合った蓋付きの壺に入れて、炒ったカレー粉を渡した。
「ところで、今日出した咖喱に、あまり馴染みの無い食材が入っていたのはわかりましたか?」
「ああ。口直しの漬物に使ってあった野菜も、変わった味だったな」
「実は……」
靴や外套、野菜なんかを売ってくれた、萬屋のドランさんについて正恒さんに説明した。
「外国からか来た商人か。面白そうなもんを扱ってそうだな」
「正恒さんの事も話したんですが、もし良かったら、たまに入ってくる猪とか鹿なんかの肉を融通してあげたり出来ませんか?」
「買ってくれるんだったら、別に構わねえよ。不定期にしか手に入んねえってのも説明してあるんだろう?」
「ええ。それじゃあ、江戸に戻ったら伝えておきます」
「おう。浅草の萬屋のドランだな。覚えておくぜ」
多分、大丈夫だとは思っていたけど、正恒さんの承諾が取れて良かった。ドランさんも喜んでくれるだろう。
一度話を区切って、洗い物を済ませてから、再び俺は正恒さんに相対した。
「話は変わりますが、刃物じゃないんですけど、出来れば正恒さんに作ってもらいたい物がありまして……」
「ふむ? そりゃまたどういう物だい?」
俺は石盤に書いた手押しポンプの簡単な図を見せて、どういう用途に使う物なのかを正恒さんに説明した。
「成る程な。確かにあれば便利そうな道具だな。良さんの見た感じでは、材質は青銅製なのかい?」
「ええ。緑錆が浮かんでいるのと、持った感じの重さで青銅製で間違いないと」
「ふむ……手で押す部分と弁は問題無いが、水を吸い出す部分と出す部分の筒状の構造を考えると、型を作って鋳造の方が良さそうかもな」
「鋳造、ですか?」
「ああ。鋳物って奴だ」
砂で型を作って、そこに溶かした金属を流し込むんだったっけ? 確かに、今後ある程度の量産を考えると、鍛造よりは鋳造の方が良いのかもしれない。
「なあ良さん。このポンプってのの話は、別に秘密って訳じゃねえんだよな?」
「ええ。外国では結構普及している技術ですし」
「だったら、鎌倉の源の頭領のところへ話を持ち込んじゃどうかな」
「源の、頼永様のところにですか?」
「ああ。ほら、寺の釣り鐘なんかは鋳物だろ? ここの設備じゃちと厳しいし、頭領ならいい鋳物職人を知ってそうだ」
元々、頼永様にはポンプの事は説明する予定ではあったんだけど、作ってくれる人を紹介してもらうという展開は考えていなかった。
「そう、ですね。鎌倉に行く用事もありますから、その時に相談してみます」
「それがいい。俺は暇を見て、試しにここで自分用のを作ってみるわ」
「わかりました」
頼永様がポンプを普及させたら買うのかと思ったら、そこはやはり職人の正恒さんで、自分で作る気になっているみたいだ。
「話は終ったかい?」
まだ少し苦しそうなおりょうさんが、半身を起こした。
「話の区切りはつきました。大丈夫ですか?」
おりょうさんに近づいた俺は、身体を支えて起きるのを手伝った。
「ふぅ……やっと少しお腹が落ち着いたよ。あの咖喱ってのは、魔性の食い物だねぇ」
「ははは……」
魔性と言うなら貯古齢糖の方じゃないかなぁ、と思ったけど黙っておこう。
「片付けなんかは、俺がやっておきましたけど」
「そりゃ済まなかったね。良太が言ってたから、寝る前に風呂で身体を洗いたいんだけど……」
身動きが出来ない程苦しいという事は無さそうだが、まだ軽快に動ける状態では無いみたいだ。
「良さんが手伝ってやりゃいいじゃねえか」
「「えっ!?」」
思わず、俺とおりょうさんの驚きの声が重なった。
「そんなに驚く事か? 湯屋なんかには一緒に行ったりしてるんだろ?」
「そ、それはそうなんですけど……」
このところ、仕事の後で大前の浴室を使ったりしているので、おりょうさんと一緒に湯屋に行く機会は減っていた。
「この間来た時にも一緒に入ってなかったか? それに良さん、人助けじゃねえか」
「……そうですね。おりょうさん、行きましょうか」
「っ! は、はいっ!」
「ごゆっくり」
くっくっく、と、喉の奥の方で笑う正恒さんに見送られながら、俺はおりょうさんを背負って河原にある風呂へ向かった。
「済まないねぇ、良太」
「何も済まない事なんか無いですよ。降ろしますよ?」
「うん」
お腹を圧迫しないように、背負ったおりょうさんを河原まで運んだ。着替えその他の用品は福袋でまとめて運べるのが、こういう時には本当に便利だ。
「ご、ごめん、良太。身体を捻れないから、帯解いて……」
「っ! わ、わかりました……」
(人助け人助け……)
心の中で繰り返しながら、なるべく見ないようにしながらおりょうさんの帯留め、続いて帯を解いていく。
「ふぅ……ありがとう、良太。やっと楽になったよ」
「そ、そうですか……」
帯を解いて着物を脱ぎ、襦袢姿になったおりょうさんは、大きく息をついた。
「あ、あの……先に行って、湯加減見ておきますね」
「あ……」
俺は腕輪の機能を使って一瞬で服を収納すると、手早く下着も脱いで、手拭いと石鹸を持って湯船に向かった。
「……少し熱いけど、大丈夫だな」
河原の石の間から湧き出している温泉は、熱いが水で冷ます程ではなかったので、置いてある木桶で湯を掻き混ぜて、何度か身体を流してから湯船に入った。
「ふぅ……」
「……邪魔するよ」
「っ! ど、どうぞ」
湯船に浸かって一息、と思った瞬間に、手拭いで身体を隠して佇むおりょうさんの姿を確認して、思わず息を呑んだ。
「はぁー……着物を脱いでも、まだ少し苦しいねぇ。あ、良太、見て見て! おはは。あたしのお腹、こんなに膨れちゃってる!」
「み、見られる訳無いじゃないですか……」
はしゃぎながらおりょうさんが、湯船の中の自分のお腹の辺りを指差して笑っている。
「っ! そ、そうだねぇ……ごめんね」
自分が俺に何を言ったのか自覚したおりょうさんは、顔を真赤にして俯く。
「いや、そんな、謝るような事は……さ、さあ。まだ苦しいでしょ? 俺が背中を流しますよ」
「っ!? そ、そうかい? じゃ、じゃあお願いするよ」
何度かチラチラと視線を送ってきたおりょうさんは、やがて意を決したような表情で、俺に背中を向けて立ち上がった。
「……な、流しますよ?」
「うん……」
おりょうさんの背中から桶で湯を掛けた俺は、桶に汲んだ湯で手拭いを湿らせて、石鹸を擦り付けて軽く泡を立てた。
「おりょうさん、ここに座っちゃって下さい」
俺は湯を捨ててひっくり返した桶を、おりょうさんに示す。
「……」
無言で頷いたおりょうさんは、胸を隠すように身体の前で腕をクロスさせて、桶の上に腰を掛けた。
「痛かったら言って下さいね?」
「うん……」
白くて滑らかなおりょうさんの背中を、丁寧に手拭いで、洗うと言うよりは磨いていく。
「ああ……良太、凄く上手だよ……」
「そ、そうですか……」
吐息混じりのおりょうさんにお褒めの言葉を頂いて、ドキッとした。
「良太。あ、あのね、まだちょっとお腹苦しいから、悪いんだけど……脚の方なんかも洗ってくれる?」
「あ、脚っ!?」
「うん。身体屈めて、脚の先の方に手を伸ばすのが難しそうで……」
(えーっと、脚というと、横からじゃ届かないから、前の方に周るという事で……)
下手に頭の中で状況をシミュレートなんかしたので、余計に混乱しそうになる。
「わ、わかりました……」
「ほ、本当にごめんね?」
(人助け人助け……そ、それに、この間は頼華ちゃんの身体だって洗ったじゃ……)
まだ幼く未発達だったが、繊細で幻想的だった頼華ちゃんの肢体を思い出してしまい、更に頭に血が昇る。
「じゃ、じゃあ……」
「うん……」
恥ずかしそうに、俺から顔を逸らすおりょうさんの前の方に周り、脚を持ち上げて手拭いで洗っていく。
「うぅん……くすぐったぁい……」
目をきつく閉じ、身体を捩りながら、おりょうさんがなんとも甘い声を上げる。
「あ、すいません……」
「あ、ごめん。足の裏なんて、他人に洗ってもらった事が無いから……んっ!」
なんとかくすぐったさをやり過ごそうとしているようだが、おりょうさんの喉の奥からは、押し殺したような声が漏れてしまうようだ。
「んん……」
「……」
(平常心平常心……)
手に伝わるすべすべの肌の感触や、耳に入ってくる吐息や声を意識しないようにして、なんとかおりょうさんの脚を洗い終わった。
「あ、あの。膝から上は、自分で出来ますよね?」
「っ! そ、そうだね……あ、でも、髪を洗って流すのは、手伝ってくれるかい?」
「ええ」
前傾姿勢で髪の毛を洗い流すのは、まだ苦しいのだろう。
「じゃ、じゃあ、少し待ってますので」
「うん」
立ち上がった俺は、おりょうさんに背を向けて湯船に入った。
「……」
背後の事とは言え、裸のおりょうさんが身体を洗う音なんかは聞こえてくるので、なんとも気分が落ち着かない。
「……良太。お願いできるかい?」
「はい。あ、その前に、一度身体を流しましょう」
「うん。お願い」
立ち上がったおりょうさんを極力見ないようにしながら、桶を取って湯を汲み、背中側から何度か身体を流した。
「椅子代わりの桶が無くて苦しいかもしれませんけど、少しの間我慢して下さい」
「わかってるよ」
おりょうさんは俺に背を向けたまましゃがんで、地面に着かないように、自分の長い髪の毛を手でまとめている。
「流しますね」
何度か湯を掛けてから、石鹸を泡立てて髪の毛全体に行き渡らせる。勿論、強くは擦らないが、カレーの匂いを念入りに洗い落とさなければならない。
「流しますから、いいって言うまで目を開けないで下さいね?」
「わかったよ」
毛先まで丁寧に泡を流してから、桶に汲んだ湯に少量の酢を入れて混ぜ、髪の毛に馴染ませてから仕上げに流して完了だ。
「はい。終わりましたよ」
「ありがとう。手間かけちまったね」
「こんなの何でも無いですよ。さ、身体が冷えちゃわないように、湯船に浸かって下さい」
「……何でも無い、か……」
「ん? 何か言いましたか?」
おりょうさんの小さな呟きは、川の流れる音に掻き消されて、良く聞き取れなかった。
「ううん。あんたも早く洗っちゃいな。それとも、手伝うかい?」
「っ! お、俺は自分で出来ますから!」
「そうかい?」
くっくっくと、さっきの正恒さんみたいに、湯船に浸かったおりょうさんが、喉を鳴らすように笑う。
「んもう……意気地無し」
「えっ? なんですか?」
手早く身体を洗ってから洗髪に移行していた俺は、泡で目を開けられないまま、おりょうさんの方へ顔を向けた。
「何でもなーい。良太、頭流してあげるよ」
「あ、すいません」
目を開けていなかった俺は、良く考えずにおりょうさんへ感謝の言葉を述べてしまった。
「ふぅー……ありがとうございま……」
石鹸の泡を流されて、手で顔の湯を拭って瞼を開いた瞬間に、たわわに実った揺れ動く二つの果実が、俺の視界いっぱいに飛び込んできた。驚きに、感謝の言葉も止まってしまう。
「良太……」
「な。なんでしょう?」
頭が混乱し過ぎて、いけないとは思いつつも目が離せない。
「……咖喱の匂い、する?」
「か、咖喱?」
「うん」
(それは俺に、匂いを嗅げと!?)
おりょうさんがじっと動かないところを見ると、俺の考えは肯定されているのだろう。
「……」
固唾を呑んだ俺は、少し身体がよろけてしまったらくっついてしまうくらいの距離まで頭を近づけ、荒くなってしまっている呼吸を無理矢理鎮めながら、鼻から息を吸い込もうとした、のだが……。
むぎゅっ
寸前で停める予定だったのに目測を誤り、そんな擬音が聞こえてきそうな弾力のある感触が、俺の鼻先から頬の辺りに広がった。勿論、いい匂いがしたのは言うまでもない。
「はひゃぁぁっ!?」
「す、すいま……」
「そおいっ!」
俺の詫びの言葉は最後まで紡がれる事は無く、ゼロ距離どころか身体が密着していたためか、気の防御も効果を発揮しなかった。
いつになく気合の入ったおりょうさんの掛け声と共に、掴まれた腕と踏み込まれた脚で正中を崩され、あっという間もなく宙を舞った。
(あれ? 俺、おりょうさんに言われて……)
天地が逆転した視界の中でそんな事を考えていると、俺は頭から湯船の中に落下した。
「はわわわわわ……ご、ごめんね良太! で、でも……やっぱ無理ぃっ!!」
「おりょうさんっ!?」
俺の呼び掛けに応えずに、脱いで置いてあった着物を掴んだおりょうさんは、脱兎の如く正恒さんの家の方へ走り出した。
「あ、暗いから気をつけて……」
俺は呆然としながら、走り去るおりょうさんの背中へ、そんな言葉を投げ掛ける事しか出来なかった。




