鯉
「良太殿。どうかされたのですか」
「あ、いや。大した事ではありません」
頼華ちゃんと小声でボソボソと、トイレに関しての意見交換をしていた俺に、頼永様が怪訝な表情を向けてきたので慌てて取り繕った。
「そ、それじゃ厨房と食堂をお見せしますね」
「「はい」」
厠の改良は後の事として、頼永様達を厨房の中へと導き入れた。
「おや良太。帰ってからここに来るまでに、随分と時間が……これは頭領様、奥方様。御無沙汰を」
厨房の扉を開けると、作業中だったおりょうさんが手を止めて微笑み、俺の傍らに頼永様と雫様の姿を確認すると、手を拭きながら丁寧に頭を下げた。
里の管理権限を持っているおりょうさんは、俺と頼華ちゃんが帰ってきているのには気がついていて、来客用の館から動かないのは何か理由があるのだと感じて、わざと放置していてくれたようだ。
「お久しぶりです、りょう殿。そう畏まらないで下さい」
「そうですよ。良太殿と婚約したという事は、りょう殿は頼華の姉になるのですから。義理ではあっても私共の娘です」
「っ! あ、ありがとうございます……」
雫様の言葉がおりょうさんにどういう作用を齎したのかはわからないのだが、少し言葉を詰まらせたと思ったら、頭を下げたままの顔から幾筋もの水滴が落ちた。
「りょう姐さん……」
「な、なんでも無いんだよぉ、お糸ちゃん。すいませんねぇ、辛気臭くしちまって」
傍らで作業を手伝っていたお糸ちゃんが異変に気が付き、おりょうさんに声を掛けると、涙で濡れたままの顔を上げ、かなり無理をした感じでニカッと笑った。
「おりょうさん。今夜の献立はなんですか?」
場の空気を変えようと、無難な話題をおりょうさんに振った。
「身重の奥方様をお迎えするってんで、鯉を仕入れてきてあるよぉ」
「鯉ですか」
鯉は母乳の出が良くなると言い伝えられていて、妊婦には非常に向いている食材とされている。
(鯉って言うと……洗いに塩焼きに鯉こくか? 後は中華の甘酢あんかけとか)
鯉は食べた事が無いのだが、本などで知った幾つかの料理を頭に思い浮かべた。
「そんな、お気を遣われなくとも……」
「あははっ。今日は歓迎の意味で御用意しましたけど、毎日お出しする訳にゃ行きませんよぉ。明日からは庶民的な料理しか出ませんからねぇ」
「それならば良いのですが……」
今日が特別だという言葉をおりょうさんに聞いて、頼永様と雫様がホッとしている。
「良太殿と話し合って、米や味噌や野菜などを定期的に供給させて頂く運びになっておりますが、お世話になるのに贅沢を言うつもりはありませんので」
「そうは言われましてもねぇ。この里で生活したから、赤ちゃんが元気が無いなんて言わても困っちまいますし」
「いや、そんな……」
さっきまで涙を流していたとは信じられない程に、おりょうさんはころころと笑っているのだが、冗談だとはわかっていても頼永様は困惑している。
「おりょうさん。他にも買ってきた材料はありますか?」
「良さそうな冬瓜が売ってたんでねぇ。後は牛蒡を買ってきてあるよぉ」
夏場から出回るが冬まで保存出来るという意味で名付けられた冬瓜に、アクが少なく香りの良い新牛蒡とは、昨日から野菜が不足気味に感じていたので、おりょうさんのセレクトは有り難い。
「鯉はどんな料理に?」
「そうだねぇ……酒の肴には洗いにして、酢味噌なんかつけて食ったらいいと思うんだけど、冷たい料理は雫様にゃ良くないだろうから、塩焼きかねぇ」
「なら、俺は冬瓜で汁物を作りましょう」
「ん? 煮物とかじゃ無いのかい?」
滑らかな舌触りと淡白な味わいの冬瓜は味が染み込み易いので、おりょうさんが言うように煮物などが定番の調理法なのだが、ちょっと試してみたい料理を思い出したのだ。
「そうかい。汁は焼き豆腐の吸い物にでもしようかと思ってたけど、良太に任せようかねぇ。そいじゃ牛蒡はキンピラにでもしようか。お糸ちゃん、笹掻きにしてくれるかい?」
「はいっ!」
踏み台に乗って手伝いをしていたお糸ちゃんは、おりょうさんの指示に従って新牛蒡を手に取った。
「ん? お嬢ちゃん。ちっとその包丁を見せてくれるかい?」
「え……あ、あの、主人?」
初対面の相手である正恒さんにお気に入りの包丁を見せるように言われて、お糸ちゃんが明らかに戸惑っている。
「お糸ちゃん、この人は正恒さん。俺が使ってる包丁なんかの作り方を教えてくれた、鍛冶の師匠なんだ」
「しゅ、主人の師匠様!?」
「また師匠かよ……」
俺の師匠だと言うと、お糸ちゃんは驚きに目をまん丸にして、正恒さんはうんざりしている。
「正恒さんは刃物の専門家だから、ちょっと見せてあげてくれるかな?」
「は、はいっ!」
「ったく……ふむ。作りは適当な感じだが、材料は悪く無さそうだな。それに、この刃付けは良さんだな?」
尊敬の眼差しで見てくるお糸ちゃんが差し出す包丁を、面白く無さそうに受け取った正恒さんだったが、すぐに表情を一変させて、技術者の目で観察し始めた。
(正恒さん。大きな声では言えないんですが、俺のいた世界で買ってきた、一本で銅貨二十枚くらいの物です)
(銅貨二十枚? はぁー……その値段でこの出来なら、上物かもな)
鍛冶師の正恒さんからすれば、細かな部分の造りや全体のバランスなど気になる点は多そうだが、使われている鋼はある程度以上の水準に達しているので、低い評価にはならなかったみたいだ。
「でもまあ、お嬢ちゃん達が使うには持ち手なんかが不十分そうだから、俺が合間を見てもっといいのを打ってやるよ」
「本当ですか!?」
「良かったね、お糸ちゃん」
鋼材の水準が高くても、機械鍛造の数打ちの包丁はお気に召さなかったのか、正恒さんの職人魂に火がついたようだ。
俺としては買ってきた包丁がお蔵入りになったとしても、お糸ちゃんを始めとする子供達が良ければ、それで構いはしない。
「良太殿。私達には糸殿は御紹介頂けないのですか?」
「こんな可愛らしい子を御紹介下さらないなんて、良太殿も意地が悪いです」
「あ、えと……お、お糸ちゃん。この方達は頼華ちゃんの御両親の、頼永様と雫様だよ」
正恒さんと俺の関係を説明したので、すっかり全てを済ませた気になっていたのだが、御二人からの非難の込もった言葉と視線を浴びせられて、慌ててお糸ちゃんに頼永様と雫様の事を紹介した。
「はじめまして。頼華の父の頼永です」
「頼華の母の雫です」
「は、はじめましてっ! 糸と申します!」
相手が小さな子でも丁寧に挨拶をする頼永様と雫様に、お糸ちゃんもぺこりと頭を下げた。
「まあまあ。里の子達はみんな可愛らしくて、小さいのに礼儀正しいのね」
「母上、その辺は兄上の薫陶の賜物です。どちらかと言えば新参者の戦乙女共の方が、礼儀は怪しいですね」
「「「うっ……」」」
頼華ちゃんがチラッと見ながら言い放つと、この場にいるブリュンヒルド、ロスヴァイセ、オルトリンデの三人のワルキューレが言葉を詰まらせた。
ブリュンヒルドは自分の監督が行き届いていない事を、ロスヴァイセは同僚の不甲斐無さを、オルトリンデは思いっきり自分に心当たりありと、それぞれの受け止め方は違っているようだが、三人共が頼華ちゃんの言葉に恥じ入っているというのが表情から読み取れる。
「そ、それじゃ次は食堂に。おりょうさん、また後で」
「わかったよぉ」
頼華ちゃんは何も間違った事は言っていないのだが、ワルキューレ達が見た目にどんよりと落ち込んだ表情になってしまったので、俺はとりあえず場を移そうと、おりょうさんに断りを入れた。
「おお……人数が多いので当たり前ではありますが、中々に壮観な広さですなぁ」
厨房に隣接する扉を開いて食堂を見回した頼永様は、数多くのテーブルと椅子が立ち並んでいるのを見て感心している。
「あ! 主人! 頼華姉さま!」
「主人ー!」
「姉さまー!」
何組かに別れて遊んでいた子供達の内、何人かが俺と頼華ちゃんに駆け寄ってきた。
「黒ちゃんと白ちゃんに、ドランさんとブルムさんはまだか……」
ここまで里の中を歩いても姿が見えないので、おりょうさん以外の江戸への遠征組と、お迎え予定のドランさんはまだ来ていないらしい。
「良太殿、ブルム殿とは?」
「那古野で知り合った行商人の方なんですが、江戸のドランさんとは同郷だそうです」
「なんと、ドラン殿と!? それはまた、良太殿には奇縁がありますね」
現代と違って江戸と那古野間の移動には時間が掛かるし、同郷の外国人と出会うというのは恐ろしく確率の低い出来事なので、頼永様が言っているのは決して大袈裟では無い。
「父上、ブルム殿には珍しい食材などを世話になったり、京に構えた店で兄上の考えた物の販売などを行って頂いておるのですよ!」
「ほう? 珍しいと食材と申されると、例えばどのような?」
頼華ちゃんのように大食漢では無いのだが、それでも食にはかなり関心の高い頼永様が食いついた。
「色々とありますが、代表的なのは赤茄子ですね!」
「「あ、赤茄子!?」」
頼華ちゃんの赤茄子という言葉を聞いて、頼永様と雫様は予想通りに驚いている。
「……良太殿。赤茄子は毒なのでは?」
「そう言われていたみたいなんですが、そのままだと癖がありますけど、実際には火を通すと独特の酸味と旨味があるんですよ」
現代ではトマトの食べ方でサラダなどの生食は普通だが、それはフルーツトマト以外のスーパーなどで一般的に売られている物が、品種改良で甘みと旨味が増しているからだ。
元々はその鮮やか過ぎる赤い色から毒があり、観賞用とされていたトマトなのだが、食べられるとわかってからも一般に受け入れられるようになるまでには、相当に長い期間を掛けての品種改良が必要だったのだ。
ブルムさんから買ったトマトは酸味と青臭さが前面に出ていて、元から好きな人間じゃ無ければ生食をするのは厳しいだろうから、基本的には火を通した状態じゃなければ食卓には出さないつもりだ。
「むぅ……それは一度食べてみたいですね」
「うーん……明日の昼食では如何でしょう?」
今夜の献立は既に決まっているし、朝食よりは昼食の方がトマトの使い方などの説明をしながら、料理を作る事も出来るだろう。
「そうですか。それは是非お願いします」
「今から楽しみですねぇ」
「父上、母上。まだ夕餉も済ませていませんよ?」
「これは……頼華に一本取られるとはな」
「「「ははは」」」
親子の和やかなやり取りに、周囲で笑いの波が広がった。
「それじゃ次は……」
「良太様。頭領様達をサウナに御案内したいです」
この場にいる子供達と頼永様達の挨拶が終わったところで、ロスヴァイセが挙手をした。
「構いませんけど、大丈夫かな……」
「良太殿、さうなというのは、そんなに危険が伴うのですか?」
「そういう訳では……」
脱水症状を起こしたり、代謝が活発になるので心臓に負担が掛かったりはするが、適度に利用する分にはサウナは決して危険では無い。
「なんだ、良さんにしちゃ歯切れが悪いな?」
頼永様達をサウナに案内して良いものかと思案していると、正恒さんがそんな事を言ってきた。
「ロスヴァイセさん。使用中の人がいるようなら、とりあえず外に出ないように言って来て貰えますか?」
「あ……はいっ! お任せを!」
俺の意図を察したのか、ロスヴァイセが先行してサウナの様子を伺いに向かった。
「良さん、どういうこったい?」
「えっとですね……戦乙女さん達の活動範囲は、一年のかなりの期間を雪に閉ざされるような酷寒地でして」
「はぁー。そいつは過酷そうな場所だな」
「そうなんですよ」
温暖化などとは縁が遠そうなこっちの世界では、江戸や鎌倉でも冬はそれなりに寒いだろうから、俺の説明は正恒さんにはすんなりと受け入れて貰えたようだ。
「その反動なのか短い夏場の陽光を有難がって、その……周囲に肌を見せる事に恥じらいが無い人が多くって」
「「「あー……」」」
正恒さんだけでは無く頼永様と雫様も、俺が言いたい事を察してくれたみたいだ。
「それとサウナというのは、焼いた石の熱で身体を温めて汗を出して代謝を促す為の物なんですけど、熱くなった身体を水風呂や湖水なんかで冷やして、繰り返して利用するんですけど」
「ああ、さっきそう言ってたな」
「ええ。ここのサウナは水風呂じゃなくて、近くの小川で身体を冷やすんですけど、風呂場みたいに外との仕切りが無いので」
「「「あー……」」」
どうして俺がロスヴァイセを先行させたのかを、話を聞いていた人達は一気に納得してくれた。
「ロスヴァイセさんが注意しに行ってくれたから、多分大丈夫でしょう。それじゃ行きましょうか」
「「「はい」」」
膝の上に乗ったり抱き上げたりしていた子達を下ろして、サウナ小屋に向かった。
「一見するとただの小屋に見えますが、窓が無いような?」
「手前側は脱衣所なので外から見えないように、奥は焼いた石の熱が逃げないようにしてあるので、必然的に窓が無くなったんです」
「成る程」
サウナ小屋の建物の脱衣所側には全く窓が無いので採光が出来ないから、天井部分で能力で出した熱くない永続的な炎が、明かりの代わりになっている。
サウナ側の方もほぼ採光部は無いのだが、脱衣所との間と通路に面する扉には小さな窓が空いていて、窓の部分には蜘蛛の糸から作った透明の紙を貼って、中の様子が見えるようになっている。
脱衣所側はともかく、サウナ側の中の様子が全く見えないと安全確認が難しくなるので、小さな窓を設けるのは仕方が無い措置だ。
「……大丈夫そうですね」
目を凝らしてサウナ小屋の外から観察すると中では炉が高温を発し、幾つかの人間大の熱源と気も見えるので、何人かが利用をしているのは間違い無さそうだが、ロスヴァイセの言いつけを守って裸のままで外に飛び出してきたりする者は無さそうだ。
「ふぅ……おや良太様。お戻りだったのですね」
しかし、ロスヴァイセがと入れ違いに小川に身体を冷やしに行っていたのか、気分の良さそうな溜め息を漏らしながら、金髪と引き締まった肢体から水滴を滴らせるゲルヒルデが、真面目其の物の表情で挨拶をしてきた。
「げ、ゲルヒルデさん。お客様をお連れしているので、速やかに中に入るか服を!」
「む。これはお見苦しい物をお見せ致しました」
「謝罪はいいですから!」
「はっ!」
土下座こそしなかったが、全裸での最敬礼という中々の破壊力のある行動をしたゲルヒルデは、最後まで真面目な表情を崩さないままに、サウナの扉を開けて中へと去って行った。
「げるひるでという方の身体は、この国の者とは違って腰高ですなぁ」
「抜けるように白いお肌でしたね」
「手足は長いが均整は取れてたな」
(……裸に怒ったりはしないと思ってたけど、以外な反応だな)
頼永様と雫様は鎌倉の屋敷で入浴の際には、着替えや洗ったりは使用人に任せているみたいなので、裸を見るのも見られるのも慣れているだろうとは思っていた。
正恒さんは職人的な目でゲルヒルデを観察していたようだが、考えてみれば町中の湯屋は混浴なので、俺が思っているよりは裸での行動を気にする必要も無いのかもしれない。
でも、子供達の教育には良くないので、風呂場とサウナ小屋周辺と自室以外での衣類の着用に関しては、今後も撤回する気は無い。
「―!」
「……」
「ん?」
サウナの中から何やら言い合っている声が聞こえてくるのだが、意味まではわからない。
「も、申し訳ございません!」
着衣のままで顔に弾汗を浮かべているロスヴァイセが、サウナの扉を開けて開口一番に謝罪してきた。
「中にいた者には、暫くの間は外に出ないようにと注意をしておいたのですが、まさかゲルヒルデが小川に行っていたとは……」
「まあ、ゲルヒルデさんに悪気は無かったみたいですし、ロスヴァイセさんにも非は無いですから」
どうやら想像した通りの状況だったので、特にゲルヒルデとロスヴァイセが悪いという訳では無い。
「それよりもロスヴァイセさん。汗びっしょりですから、そのままサウナを利用されては?」
着替えに関してはロスヴァイセにもドラウプニールがあるので、すぐにでも出来るのはわかっているのだが、一度汗を拭くなり流すなりした方がいいだろう。
「良太様、なんてお優しい……それではお言葉に甘えようと思いますが、宜しければ御一緒に如何ですか?」
「え……」
ロスヴァイセは自分が好きなサウナの利用許可を得たので、その良さを分かち合おうと俺を誘ってきたのだとは思うが、婚約者の頼華ちゃんとその御両親がいる状況では、軽々しく返事は出来ない。
「お、俺は夕食の支度を手伝わないとけないので……」
料理の手伝いは嘘では無いし、ロスヴァイセが強引に誘ってくるという事も無いだろう。
「それは残念ですね……では頭領様と正恒様は如何ですか?」
「えっ!?」
俺が駄目ならと狙いを変えてきた訳では無さそうだが、ロスヴァイセは頼永様と正恒さんを相手にサウナの布教をするつもりらしい。
「ふむ……試してみたいとは思っていたので、丁度いい機会ですか」
「俺も飯の前に、一汗流すかな」
「えっ!?」
ロスヴァイセのサウナへの誘いを、以外に軽い感じで頼永様と正恒さんが受け止めているので、変な声が出てしまった。




