大前
翌日。嘉兵衛さんに井戸へのポンプの設置と、それに伴う改装に関して相談した。
「構いやせんが、良さん、こいつは結構な大工事じゃねえですかい?」
「ははは……なんか色々考えてたら、凄い事になっちゃって」
嘉兵衛さんの指摘通り、俺のポンプ設置その他の工事は、かなり大掛かりな物になってしまいそうだった。
「当然ですけど、料金は俺持ちですから」
「まあ店の準備にはそれ程掛かってないんで、その辺は構わねえんですが」
「そ、その代りと言ってはなんですが、これ、俺からの開店祝いです」
俺は開店祝いにと、萬屋さんで買い求めていた物を取り出した。
「ほう? 良さんからの開店祝いとは……りょ、良さん? こいつはいけねぇ!」
「えっ!?」
喜んでもらえると思っていた俺からの開店祝い。福袋と同じ昨日のつづらは、嘉兵衛さんのお気に召さなかったみたいだ。
「あっしだって、こいつが幾らするのかくらいは知ってやす。この店を開くまでにお世話になった良さんに、こんな高価な物を頂いちまうってのは……」
「でもこれがあれば、この間言っていた、裂いたり白焼きまで終えた鰻を保存しておけますよ?」
「それはそうなんですが……」
俺が元いた世界で百万円くらいの価値の物だから、簡単に受け取れないというのはわからないでもない。
「嘉兵衛さん、一度出した物は引っ込められないって、良く言いますよね?」
「うっ! そ、それは……」
気風の良い江戸っ子の得意なセリフは、こっちの世界でも通じるみたいだ。
「受け取って下さい。その代わりに、井戸周りの件は、俺も遠慮無く好き勝手にしますから」
「良さん……ったく、あんたって人は」
やっと、嘉兵衛さんがつづらに手を伸ばして受け取ってくれた。
「実は開店祝いは、こっちからお願いしようと思っていたんですよ。おう、入ってくんな!」
「「へーい!」」
嘉兵衛さんの呼び声で、店の外から大きな荷物を担いだ二人の男性が入ってきた。見れば木の板のようだ。
自然な形を残していて、四角く切り整えられたりしていない。
「こいつに、良さんが考えた店名を書き入れて欲しいんですよ」
「ええっ!?」
「まさか、嫌とは言いやせんね?」
嘉兵衛さんがニヤリと笑う。さっきまでのやり取りを考えると、断れる感じじゃ無い。
「俺の字って、そんなに上手い物じゃ無いですよ?」
小中学校の授業で習字はやっていたが、本格的に習ったりした事は無い。
高校の芸術の選択授業は音楽でも美術でも無く習字を選んだが、これは母親の「絵が描けなくても、歌や楽器が下手でも、字は書けるでしょう?」という言葉に納得したからだ。我が母親ながら至言かもしれない。
「結構でござんすよ。こういうのは上手い下手よりも、なんというか、味ですから」
「……わかりました」
嘉兵衛さんの言葉はなんの慰めにもなっていないが、俺の字の看板で客の入りに影響が出ることは無いと信じよう。
「では良さん、これで」
嘉兵衛さん的には俺に書かせるのが決定事項だったみたいで、硯に墨と筆が用意されていた。
「……ふぅー」
深呼吸をして自分なりに精神を統一して筆を手に取ると、俺は木の板に大きな文字で考えていた店名と、余計かなと思いつつも、小さな文字で一文を付け加えた。
自分なりに気合を入れたので、本当に気が入ってしまったみたいで、一瞬だが、書き終わった時に看板が光ったけど、見なかったことにしよう……。
「ほほぉ……『元祖鰻蒲焼 大前』ですか」
店名は、単に大川の前にある店だからだ。前に川があるからだと……元の世界の鰻の有名店と被るので避けた。
「良さん、この『元祖鰻蒲焼』というのは?」
「多分ですけど、この店が評判になったら真似をするところが出てくると思うので、蒲焼という料理を最初に出したというのを、看板に書いておいたらどうかと思いまして」
この世界だと神仏による裁きで嘘は暴かれるので、こうしておけば元の世界のように元祖○○が乱立する事は無いだろう。
「なあるほど。これで蒲焼って料理名は、うちから暖簾分けなんかで認められない限りは、使えないって寸法ですね」
これが後々にどういう影響が出るかはわからないけど、嘉兵衛さんの事だから上手い具合にやってくれるだろう。
「それにしても、腰が引けてたのに見事なもんじゃないですか」
「どうも……」
間違い無くお世辞だろうけど、嘉兵衛さんは俺が書いた看板を褒めてくれた。まあ上手い下手に関係なく、この看板が掛けられちゃうんだけどね。
看板を掛ける作業が終わった大工さん達と、井戸周りと思いついた水回りの工事に関してやり取りをする。
工事が完成するまでの間も井戸は利用するので、ポンプの設置は一番最後になる。
結局二日掛けて、井戸の周辺の工事とポンプ設置は終了した。
「それじゃ、水を出すよー」
「はーい!」
井戸の縁を地上一メートルくらいの高さになるようにした。そこへポンプを設置
支柱で支えた漏斗のような形の水を受ける部分を作り、節を抜いた竹をパイプにして浴室に直接水を送れるようにした。これで入浴の為の水汲みが簡便になるし、浴室で洗濯なんかも出来る。
「おお、本当に筒の先から水が流れ込んできました!」
浴室の中で水が流れ込むのを確認してくれていた頼華ちゃんが、興奮気味な声を上げる。ポンプ自体の方向転換が出来るので、外で直接水を汲むのにも不便は無い。
「本当はもう少し便利にしたかったんだけどね」
「これだけでも、物凄く便利ですよ!」
俺がいる井戸まで来た頼華ちゃんが、面白いのかポンプを勢い良く上下させる。
「頼華ちゃん、桶が溢れちゃうから……」
「あっ! す、すいません……」
済まなそうにポンプのハンドルから手を離した頼華ちゃんを見て苦笑する。
出来る事ならポンプをもう少し高い位置に設置して、貯水槽を作ってそこからパイプを延ばして、厨房と浴室に分配するような水周りにしたかった。
しかし、落水差の利用程度ではあるが、水圧による配管の強度に不安があるし、何よりも蛇口の再現が難しいと思った。ネジ式の取っ手に内部構造に必要なパッキンは、俺は勿論、正恒さんの手にも余るだろう。
「ポンプってのは便利なもんですなぁ。一日に必要な分が、あっと言う間に汲めちまうとは」
嘉兵衛さんはポンプの効果に感心している。釣瓶で何度も汲み上げて運ぶのとは、比べ物にならないほど効率がいいのは間違いない。
「本当に。うちの店にも欲しいもんだねぇ」
「その辺は、正恒さんに複製が作れないか頼んでみるつもりです」
「ああ、正恒の旦那ならなんとかしてくれそうだねぇ。少しくらいなら高くても買うよ」
生活に必要な事ではあるが、やはりおりょうさんにとっても水汲みはストレスになってたみたいだ。
何はともあれ、こうして嘉兵衛さんの鰻の店「大前」の開店準備は整ったのだった。
「いらっしゃいませ!」
「はい、お待ち遠様。こちら中入れ丼二人前です」
「鰻丼の上、四人前お願いします!」
「はいよっ!」
開店して一週間経ったが、大前は連日、昼も夜も大入り満員だった。特に昼食時は戦場のような忙しさである。
「兄上、味噌汁と漬物の用意出来ました!」
「了解! 嘉兵衛さん?」
「こっちも本焼き上がります!」
客席の喧騒に負けじと、半ば怒鳴り合いのようなやり取りをしながら、次々と注文を捌いていく。
厨房では俺と嘉兵衛さんと頼華ちゃん意外に、二人の若い男性が働いていた。二日ほど前に嘉兵衛さんに弟子入りを志願しにきて、雇い入れた人達だ。
「親方! 目打ち終わってます」
一人は料理屋で働いていた経験のある二十代の人で忠次さん。修行して鰻屋を開きたいと言う。
「おう! すいません良さん、焼きは俺がやりますんで、裂きの方たのんます!」
「はい! お華ちゃん、味噌汁はまだ大丈夫?」
「……あと五人前くらいです!」
「追加の味噌汁の仕込み、お願いします!」
「わかりました!」
もう一人は十代後半の人で、殆ど働いた経験の無い新吉さん。たまたま食べた鰻丼に感銘を受けて働かせてくれと、営業中の店で嘉兵衛さんに土下座して直訴したのだった。
「あと五匹くらい裂いておきましょうか。すいません、鰻の入った桶をお願いします」
「わかりました!」
「良さん、裂いた鰻の串打ちやっておきます!」
二人とも年下の俺の言う事でも、嫌な顔をしたりせずにやってくれるので助かる。この辺は嘉兵衛さんのリーダーシップ能力の高さだろう。
「はぁー……なんとか今日も乗り切れましたね」
肉体的な疲労はあまり感じない俺だが、注文の間違いをしてはいけないというのと、人の口に入る物を作っているという緊張感で、脳は結構疲れている。
「常連さんも付いてくれてますけど、新規のお客さんも結構来てくれてますね」
「大前の蒲焼は口コミで広まっているみたいですよ」
「こんだけ繁盛されたんじゃ、前からやってるうちの蕎麦屋も形無しだねぇ」
「いやぁ、おりょうさんには申し訳ない事しちまってます……」
「あらやだ、嘉兵衛の旦那ったら。冗談ですよ。お華ちゃん、お代わりは?」
「頂きます!」
昼の営業を終えて賄いに、焼いた鰻の頭を葱と豆腐を入れて鍋にした半助豆腐を食べながら、開店してからの事をみんなで振り返った。
「接客する人間は、あと一人か二人増やしてもいいかもしれません」
おりょうさんと共に接客を引き受けているお蝶さんが、茶碗と箸を置いて、湯呑を手に取りながら言った。
「そうですね。御飯や味噌汁の盛り付けにお華ちゃんが掛かりっきりになっちゃってますし、ちょっと余裕がなさ過ぎるかも」
「ううむ。口入れ屋には頼んでるんですが、開店からすぐにこんなに混雑するなんざ……嬉しい悩みなんですがね」
厨房の方は、開店初日からの客の入りの状況を確認しながら、少しずつ捌いたり白焼きにした鰻をつづらにストックして対応しているので、極端にピンチに陥ったりはしないでいる。それでも、今日のように味噌汁が不足したりなんかする事はある。
「それと、こいつらの問題もありますなぁ」
「えっ!?」
「お、俺達クビですか!?」
忠次さんと新吉さんの二人が、嘉兵衛さんに急に話を振られて目を白黒させている。
「そうじゃねえよ。おめぇ達に早いとこ本格的な戦力になってもらうのに、ちと不足してるもんがあるんだよ」
「鰻裂きと目打ちですね」
「良さん、わかってましたか」
「ええ」
新しい人達に練習無しで鰻を捌かせる訳にはいかないのだが、その練習をするための鰻裂きと目打ちが無いのだ。
それどころか正恒さんに依頼して作った鰻裂きは一本しかないので、柳刃で急場を凌いではいるけれど、忙しい時に俺と嘉兵衛さんが同時に鰻を捌く事も出来ない。
「ここは一つ、また良さんに御足労してもらってと、言いたいところなんですが……」
「今、俺が抜けるのは不味い、ですね?」
「ええ……」
仮に俺が抜けると、厨房は実質、嘉兵衛さん一人で切り盛りする事になる。
「でもまあ、このところ休み無しでやってきましたし、一日は休業して、あとは作り置きをしておけばなんとか……」
「良太が正恒の旦那のとこに行くんだったら、あたしも一緒に行きたいねぇ」
「私もです!」
「いや、姐さん達に休みをやらねぇって訳じゃねえんですが、一度に抜けられちまうと……」
接客出来る人が新たに入るにしても、多少は慣れるまでの期間は必要だろう。おそらく嘉兵衛さんが懸念しているのはその点だ。
「あの、接客に関しては私に心当たりがあります。お任せ頂けるのなら、明日には来るように手配できます」
思わぬところと言うと失礼だが、胡蝶さんから働き手のあてがあるとの申し出があった。
「それは、ありがてえ話ですが。給金なんかの条件的には、お蝶さん達と同じで大丈夫ですかい?」
「ええ。あとはたまに、良太さんがお菓子を作って下されば……」
期待を込めた視線を、胡蝶さんが送ってくる。
「……まあ、いいですよ」
最後のは、おそらくは胡蝶さんの個人的な要望だろうけど、そこは言わなくてもいいだろう。
「では、新しく来る者達の働きを見て頂いて、嘉兵衛さんから大丈夫と思われたら、良太さんとおりょうさんがお休みして出掛ける、という事で?」
「ええ。その新しい人達ってのは、お蝶さんと同じくらいには働けるんで?」
「その点は私が保証します」
「だったら、問題は無さそうですね」
ホッとしたように笑顔になった嘉兵衛さんは、食後のお茶を飲み干した。少し掴みどころの無い人ではあるが、胡蝶さんの能力は間違い無く高いのだ。
「じゃあ最短で明後日には正恒さんのところに向かいますけど、嘉兵衛さん、鰻裂きの必要な数くらいは、先に飛脚ででも連絡しておいた方がいいんじゃないですか?」
前回俺が行った時には、偶然に鍛冶の材料の下拵えから上拵えまでが終えられていたが、一から始めるとなると、それなりに準備期間も必要だろう。
「そうですなぁ。俺の分の予備と良さんの分、こいつらの分を入れると……目打ちと一緒に五本くらい頼んでおきますか」
「そうですね」
「じゃあその旨は、正恒に連絡しておきます」
「お願いします」
昼食の休憩を終えた俺は、食べ終わった食器を持って厨房に向かった。洗い物を終えたら、夜の営業の仕込みだ。
「「「いらっしゃいませー♪」」」
胡蝶さんの呼び寄せた新たな接客要員、初音さん、夕霧さん、若菜さんが、揃って笑顔でお客さんを迎える。なんというか、着物と前掛け姿なんだけど、華やかなメイド喫茶にいるような錯覚を覚える。というか、ノリは完全にメイド喫茶だ。
「お姐さん、新しく入った人?」
「はい。お初と言います。ご注文は何になさいますか?」
長い髪を、現代風に言うならサイドテールにまとめた、スラリとしたプロポーションの初音さんは、手慣れた感じで接客をする。職人風のお客が、花が咲いたような初音さんの笑顔に相好を崩す。
「お、俺、今日は中入れ丼にしようかな」
「あ、てめぇ! お、俺も中入丼を」
「はい! 畏まりました♪」
「こちらも中入丼、四人前お願いしますぅ♪」
軽くウェーブの掛かったセミロングの髪に、親しみを感じるふくよかな顔とプロポーションの夕霧さんは、少し間延びした言葉遣いもあって、親しみやすい雰囲気を醸し出している。
「こちら中入丼二人前です♪」
小柄で、あまり見かけないショートヘアの若菜さんは、活発でスポーティーな印象で、接客態度もキビキビとしている。その上、良く慣れた猫のような、人懐っこい感じの愛嬌がある。
何故か今日は中入丼の注文が多いが、どうやら愛想のいい美人の女中さんに格好をつけたくて、高い物を頼んでいるようだ。
「……なんか凄いですね」
「あたしもお蝶さんも、立場が無いねぇ……」
「お初さん達は、お蝶さんの同僚なんですよね?」
「ええ。私と同郷で、鎌倉で雇われている者達です……呼んで良かったんですよね?」
自分達が接客している時とは違うお客の反応を見て、おりょうさんと胡蝶さんが危機感を抱いているようだ。
「おりょうさんとお蝶さんの、これまでの接客には、何も問題はありませんでしたよ。俺としては、ちょっとお初さん達は怖いですね……」
「怖いって、何がだい?」
「お客さん達が、上手く転がされているようにしか見えないんですよね……」
(未成年なので勿論行った事は無いけど、キャバクラとかってこんな感じじゃないのかな?)
「あー……店の品書きが三品だけで良かったかもしれないねぇ」
「おりょうさん、夜の営業もあるんですよ?」
おりょうさんへの胡蝶さんの指摘は、俺も考えていた。勘定をして、帰り際に初音さん達に「夜もお待ちしてます♪」なんて言われたら、逆らえないんじゃ……。
「……店が繁盛して、あたし達が楽になるんなら、いいと思っておこうかねぇ」
「そうですね」
おりょうさんと俺は、なるようになると、既に諦めの心境だ。
新規に三人が入ったこの日の昼の営業は、お客の数自体は極端に増えていないのに、一番高い中入れ丼の出た数が多かったので、これまでで最大の驚異的な売上になった。
「なんか、別の店になっちまったようで、素直に喜んでいいんだか……」
嘉兵衛さんも微妙な表情で賄いの食事を口に運んでいる。
「匂いの時点で思ってましたけど、蒲焼っておいしい! お華様もお蝶ちゃんも、こんなにおいしい物を出すお店で働いてたなんて、ずるいです!」
「ほんとほんとぉ。あのぉ、お金は払いますからぁ、夜にお店で出している物もぉ、食べさせて欲しいんですけどぉ」
「あの、噂に聞くぷりんというのは食べられないのでしょうか?」
三人並んでの挨拶なんかのシンクロ度が凄かったけど、それでも性格は三者三様みたいだ。食べ物に関心が高いところは、頼華ちゃんや胡蝶さんにも似てるけど。
「嘉兵衛さん、とりあえずはお初さん達だけでも、接客は大丈夫そうですね」
「大丈夫……ええ、大丈夫ですよね」
接客自体に不安はないんだけど……なんとなく嘉兵衛さん感じているだろう、漠然とした不安は俺にも理解出来る。
「じゃあ良さん、明日から正恒のところへ行ってもらえますか。おりょう姐さんも御一緒にどうぞ」
「わかりました」
「なんかおいしいもんでも持っていかなきゃねぇ」
おりょうさんの言う通り、山で生活している正恒さんには、いつもとは違う物を食べてもらいたい。
「兄上、姉上。私も御一緒したかったのですが、鎌倉から使いが来ました」
「えっ!? お華ちゃん達、鎌倉に帰っちゃうの?」
(鎌倉から呼び出しというと、何か緊急事態だろうか?)
「帰ると言っても一時的な物です。それで、私達は兄上達に一日遅れで鎌倉に戻りますが、父上が兄上にも鎌倉に来て欲しいと」
「頼永さんが俺に? あ、もしかして……」
「ええ。あれが出来上がったようです」
頼華ちゃんの言うあれ、俺の打った巴の柄と鞘が出来上がったみたいだ。言われてみれば、そろそろ鎌倉から江戸に戻って二週間が経つのか。
「えっと、嘉兵衛さん、帰る予定が明後日になっちゃいそうですけど、大丈夫ですか?」
「良さん無しでどこまでやれるやら……でもまあ、お華ちゃん達もいない日は休みにしますし、最初から良さん達がいないと思っていれば、なんとかなるでしょう」
「明後日は、なるべく昼の営業までには戻れるようにしますので」
「わかりやした」
「お主等、りょうた兄上とりょう姉上がいなくなっても、店の営業に滞りを出してはならん。しっかり働くのだぞ」
「「「はい!」」」
しっかりはっきりした返事を初音さん達がするけど、なんだろう、この揃った返事を聞けば聞くほど感じる不安は……きっと考えても答えは出ないので、夜の営業と明日以降の事に思考を切り替えるとしよう。
「カレーの色からして、ターメリックが主体かなぁ。あとはクローブにクミン……」
閉店後。おりょうさんには先に竹林庵に帰ってもらい、俺は地下室に籠もってカレー用のスパイスの調合に取り掛かった。各スパイスの配分の知識なんか無いので、少しずつ計量しながら石盤に記帳していく。
スパイスを炒めると物凄く匂いが広がるので、正恒さんの工房まで依頼に行くついでに、工房の近くの河原で炒める作業を行おうと思い、その準備だ。
「この石鹸ってすごーい!」
「ねー! それにしてもぉ、湯屋に行かなくてもお風呂の入れるなんて思わなかったぁ」
「食べ物もおいしいし、普段のお仕事よりもいいかもね」
地上から、初音さん達の物と思われる会話が聞こえてくる。地上と地下ではあるが、位置的に浴室と近いので会話が丸聞こえだ。
(どうやら渡した石鹸は、初音さん達にも喜んで貰えてみたいだな)
盗み聞きは良くないと思いながらも、ついつい会話に聞き耳を立ててしまう。
「ところで、あの良太様って、頼華様の旦那様候補なのよね?」
「うん。でもぉ、頼華様は勿論だけどぉ、頼永様とぉ、雫様が超乗り気みたいぃ」
(……なんか物凄く不穏な情報が入ってきたな!)
「って事は、もしも良太様のお手付きになったら……玉の輿!? よーし……」
「あ、若菜ちゃんずるーい! でもでもぉ、良太様は、お胸の大きい女は嫌いかなぁ?」
「くっ……む、胸は夕霧には負けるけど、腰回りだったらあたしだって!」
「はいはい。初音、張り合わないの」
「……」
心休まると思っていたこの場所も、決して安全じゃないという事が判明した。
俺は計量を終えた香辛料を、薬研や乳鉢で粉末にする作業に没頭した。全てを忘れるかのように……。




