付与実験
ブルルルル……
「よーしよし、グラーヌス。いい子ね」
グラーヌスと呼ばれた馬は、ロスヴァイセに頭を寄せて機嫌良さそうに喉を鳴らしている。
「グラーヌス。こちらは私がお世話になっている良太様よ。フレイヤ様やブリュンヒルド様とも親しくされている凄い御方なの」
「いや、そんな……」
空を飛ぶと言うか駆けるし、ワルキューレに関わりがある時点で普通の馬とは違うだろうから、人語は解しそうである。
そんな馬にあまり大袈裟な紹介をされるのは、照れる以前に困ってしまう。
「このグラーヌスは、ブリュンヒルド様の愛馬のグラーネと同じく、大神の駆られるスレイプニールの血を引いているのです」
「それは凄いですね」
スレイプニールと言えば俺でも知っている、八本の脚があると言われるオーディンの愛馬だが、目の前のグラーヌスの脚は四本だ。
ブルッ……
「ん?」
(なんかこのグラーヌスって馬……俺を睨んで無いか?)
野生や飼育されている動物と比べると、明らかに瞳に知性を感じるのだが、どういう訳かその瞳の奥と醸し出す雰囲気に、僅かだが俺に対する敵意のような物を感じる。
「こ、こらっ、グラーヌス! すいません……この子は私に近づく異性に対して、あまり好意的ではありませんで」
「あー……」
ロスヴァイセの説明からすると、どうやらこのグラーヌスという馬は、俺に対してヤキモチを焼いているらしい。
「あの、良太様」
「はい?」
「ここは一つ良太様の凄いところを、この子に見せつけてやって下さい」
「えっ!? それって、具体的には何をすればいいんですか?」
ロスヴァイセの言っているのが、俺にグラーヌスと戦えとかいう類の話なのか、今の時点では判断に悩む。
「簡単です。良太様が抑えていらっしゃる気を、ほんの少しだけ出して下さればいいのです」
「そんな事で?」
「ええ。特に殺気などを放って頂くまでもありません」
「それじゃあ……」
普段は悪意を持っている相手の攻撃に対してだけ自動的に防御を行うだけに留めている、身体の周囲を取り巻いている気を意識して、少しだけ強度と厚みを増してみた。
ブルッ!?
グラーヌスの瞳が見開かれ、息が詰まったような音が聞こえたかと思ったら、慌てたように俺に近づいて頭を下げてきたので、なんとなく頭を撫でた。
「これで良かったんですか……って、ロスヴァイセさん?」
「……素敵」
「……は?」
グラーヌスが頭を下げて、大人しく俺に撫でられるままになっているので、上手く行ったのだろうとは思うのだが、なんでかそんな俺達を見ているロスヴァイセは、瞳を潤ませて顔を上気させている。
「良太様は御自身の御力を自覚されていないのですね。先程、恐らくはほんの僅かに気を解き放っただけで、私と共に数多の戦場を駆け抜けてきたグラーヌスを屈服させ、周囲の森の野生動物を逃げ去らせたのに」
自分を抱きしめるようなポーズを取るロスヴァイセは、笑顔なので恐怖を感じているわけでは無さそうだが、小刻みに身体を震わせている。
「そんな事になってたんですか? それは困りますよ」
猪のセーフリームニルという定期的に肉を得る手段が出来たのだが、それでも鹿などの野生動物は食卓にバリエーションを与えてくれるし、何よりも周辺の住民へ迷惑を掛けてしまうかもしれない。
ロスヴァイセに言われるままにやってしまったが、暫く様子を見てからではあるとしても、後処理をする考える必要があるかもしれない。
「も、申し訳ありません! でも御安心を。私が先頭に立ちまして、山の中へ悪影響が出ていないか調査致しまして、場合によっては近くの山から獲物を追い込んできますので!」
俺の危惧を聞く前に理解してくれたらしく、ロスヴァイセが済まなそうな表情をしながら早口で捲し立てる。
「まあ、そういう事でしたら……」
「お任せ下さい! で、では良太様。当初の予定通りに移動を致しましょうか」
ロスヴァイセは俺に、グラーヌスの背に置かれている鞍を手で示しているのだが、どういう意味に受け取ればいいのか困る。
「あの、俺は乗馬ってした事が無いんですけど」
「大丈夫ですよ。この子は普通の馬とは違いまして、乗り手の意思を読み取ってくれますので」
予想通りにロスヴァイセは、俺にグラーヌスに乗って操れと言いたいらしい。
「そう言われても……まあ、せっかくだからやってみましょうか」
乗馬には興味があったのだが、跨ったり繋がれている状態で歩く練習とかをすっ飛ばして、いきなり自分で操る事になるとは思わなかった。
(確かこんな感じで、鐙に足を掛けて……)
とりあえずは知識としてだけ知っていた、馬への乗り方を試してみる事にしてみた。
サドルホーンと呼ばれる鞍の前部にある突起状のパーツを掴み、鐙に足を差し込んでから勢いをつけて身体を持ち上げ、捻れている鐙が戻ろうとするのに逆らわずに、一気に鞍を跨いで腰を下ろす。
(なんとか上手く行ったな……)
初心者というのは告げていたので、仮に失敗しても馬鹿にされたりとかは無いと思うのだが、それでも女子の前で格好悪いところは見せたくなかったので、無事に跨るのに成功した事に内心で胸を撫で下ろした。
(それにしても想像していたより、見える景色が高く感じるなぁ)
鐙にもう片方の足を通して、グラーヌスに乗った状態からロスヴァイセの方を見てみると、思った以上に普段の視線との高低差があって驚く。
「それじゃロスヴァイセさん」
「え……」
俺が鞍に跨ったまま手を差し出すと、何故か驚いた表情のロスヴァイセは俺の手と顔を交互に見てくる。
「あの……一緒に行くんですよね?」
「あ……ああ! そう、そうでした! で、では……」
なんでこの状況で一緒に行くのを失念したのかは謎なのだが、少し頬を染めたロスヴァイセは、差し出した俺の手を取った。
「よっ……と」
「きゃ……」
「ん? 何か?」
引っ張り上げ、自分の前に座らせたたロスヴァイセが小さく声を上げたので、何か不都合があるのかと思って顔を覗き込んだ。
そもそもが一人乗り用の鞍なので、座り心地が悪くなるのは仕方が無いから、その辺の不都合だとしたら目を瞑って貰うしかない。
現状は俺が鞍の後方に思いっきり着座位置を下げ、サドルホーンとの間にロスヴァイセを座らせているという形になっている。
「だ、大丈夫です!」
「そ、そうですか? それじゃ、行きますよ」
「はいっ!」
何故か顔の赤味が増しているのだが、一応はロスヴァイセから了解が得られたので、俺は両手で手綱を握って構えた。
「それっ」
ブルル……
足で軽くグラーヌスの胴を蹴ると、軽く喉を鳴らしながら歩き始めた。
(意思に従うって言ってたけど……おお!)
ゆっくりした歩様で進み始めたグラーヌスの手綱を軽く引きながら、頭の中で飛ぶようにイメージすると、フワッとでは無く、まるで空中に目に見えない足場があるかのように踏み出し、少しずつ高度が上がっていく。
(これは凄いな……)
黒ちゃんと白ちゃんから受け継いだ部分变化のお蔭で、翼を出して空を飛べるようになってはいるのだが、グラーヌスに乗っていると文字通り空を駆けているという状態なので、安心感が段違いだ。
空中を移動したお陰で地形や生えている木々などに邪魔をされないで移動出来たので、普通に山の中を歩くのとは比べ物にならない短時間で、何度か石を切り出した場所に辿り着いた。
「良太様。ここまで来て何を検証されるのですか?」
先にグラーヌスから下馬した俺が伸ばした手を取りながら、ロスヴァイセが訊いてきた。
「武器や装備への文字による付与と、術の応用です」
「きゃっ♪」
「っと!」
俺の手を取ったまま宙に舞ったロスヴァイセが、何故か嬉しそうに声を上げながら飛び込んできたので、軽く引き寄せながら受け止めた。
ブルル……
結果的に抱きとめる形になってしまった俺とロスヴァイセを、グラーヌスが面白く無さそうな雰囲気を身に纏いながら見てくる。
「……それじゃ始めますね」
「はい!」
(……本当に、好奇心旺盛なんだな)
これから俺が何を始めるのか、興味津々という感じで目を輝かせながら、ロスヴァイセが返事をした。
「先ずは……」
ドラウプニールから、こっちの世界に来たばかりの時期に買った小筆と、水の入った桶を取り出した。
「それは筆ですよね?」
「ええ。武器への付与を試したいんですけど、俺の刀は特別で、刻印とかが出来ないので」
巴は焼入れの後で、焼戻しの処理を行うまでも無く完成してしまい、茎に陰陽太極図と号を彫り込むのにも相当に苦労をしたのだ。
「この方法が出来るのかどうかはわかりませんけど、試してみます」
俺は小筆を水に軽く浸して気を込め、巴の黒く染まった鎬地の部分に『斬』と書き込んだ。
墨を使って書く事も考えたのだが、なんとなく普段の見栄え的に格好悪いかと思ったので、水プラス気で試してみた。
「「えっ!?」」
俺が水で鎬地に書き込んだ筆の跡が何故か光を発し、すぐに消えた。
それを見ていた俺とロスヴァイセは同時に声を上げて、お互いの顔と巴の間で視線を行ったり来たりさせる。
「い、今、光りましたよね?」
「ええ。でも……もう乾いてるな」
巴の鎬地に触れてみると、既に表面の水分は乾いていて、指には何も伝わってこない。
(上手く行ったのか失敗したのか、判断に困るな……)
水では込めた気に耐えられなくて、一瞬で揮発してしまったのかもしれないのだが、全く効果が無かったとも思えない。
「む……おお! 文字其の物は残ってるんだな」
俺が文字を書き込んだ辺りに意識を集中しながら気を送り込むと、『斬』の文字が墨で書いたようかのように浮かび上がった。
「後は効果だけど……大丈夫そうだな」
「あの……良太様? なんでも無いみたいに仰ってますけど、いま豆腐でも切るように岩を切断しましたよね」
文字による付与効果を試す為に、所々出っ張っていた岩の一部を切り飛ばしたのを見て、ロスヴァイセが目を丸くしている。
「へぇ。ロスヴァイセさん、豆腐を知っているんですね」
「ええ。豆を海水から取った成分で固めてある、非常に優れた食品ですよね……いえ、そういう話では無くてですね」
こっちの世界にヘルシー志向という言葉があるのかは不明だが、ロスヴァイセの興味は食べ物の方にも向けられているというのがわかった。
「この刀の元々の切れ味が凄いんですよ。そこに切れ味が増すようにこの文字を入れたんですけど、思った以上に効果がありました」
「そんなにですか?」
どうやらロスヴァイセの興味は、早々に巴と書き込んだ文字の方に移ったようだ。
「刀身に気を流して切れ味と強度を増して使った事はあったんですが、文字を入れた事によって、今までよりも少ない気の量で、同じ効果が得られていると思います」
『斬』の文字によって斬撃という方向性に力を向けたからなのか、単純に比較するのは難しいのだが、今までと同じ量の気で、効果が倍増しているように感じられる。
「それじゃ次だな……ロスヴァイセさん。ちょっと俺に攻撃をしてきて下さい」
「えっ!? でも……」
「こちらから反撃はしませんが、本気でお願いします」
新たな文字を筆で書き込んだ俺は、巴を正眼に構えた。
「……畏まりました。では、行きます!」
明らかに表情が戦闘モードに切り替わったロスヴァイセは、両手で構えた軍神テュールのルーンが輝きを増す槍を、空気を切り裂くような鋭さで突き込んできた。
「なっ!?」
「……これも上手く行ったみたいですね」
一般的な剣術からすると恐ろしく邪道な、正眼の構えから僅かに動かした、鎬地に『剛』の文字が浮かび上がる巴の刃の部分で、ロスヴァイセの必殺の刺突を正面から受け止める事が出来た。
ロスヴァイセが槍を引いたので、俺も構えを解いて巴の刀身を確認すると、元々から異様に頑丈ではあったのだが、かなり強引な攻撃の受け方をしても刃こぼれなどは見られなかった。
(あんまり衝撃も感じなかったけど、それも文字の効果なのかな?)
無理な構えからの無理な攻撃の受け方だったので、巴が無事でも手首くらいは痛めるかと思ったのだが、そういう事も無かった。
「ロスヴァイセさんの槍の方も、なんとも無いですか?」
「……はっ! え、ええ。大丈夫のようです」
放心したように俺を見ていたロスヴァイセに声を掛けると、一瞬の間を置いて反応した。
「攻撃と防御はこれで良さそうだから……次は補助手段だな」
次に俺は今までの漢字とは違う文字を、巴の鎬地に書き込んだ。
「良太様、それはこの国の文字とは違いますよね?」
「ええ。これは梵字という、大陸の南方で使われている文字です」
梵字はインドのサンスクリット語を表記する為の文字なのだが、中には一文字で神仏を表す種子という、ルーンと同じ様な使われ方をする物もある。
俺が筆で書き込んだのは、権能を授かっている不動明王の種子である『カーン』だ。
「……」
「まあ!」
俺が『カーン』の種子に意識を集中して気を送り込み、巴の刀身全体に炎を纏うように想念して実際にそうなるのを見て、ロスヴァイセが声を上げた。
「っ!」
軽く巴を振り下ろすと切っ先から小さな炎の弾が飛び、岩の壁面に当たって飛び散ってから消えた。
岩の表面が焼け焦げているので、大きさの割には威力がありそうだ。
「っ!」
次に、振り下ろすなどの動作をしないで炎の弾を打ち出し、続けて五発連射をしてみた。
ついでに上下左右からカーブを描くように意識して誘導してみたのだが、全て最初に当たった壁面に命中した。
「ふむ……これなら鍔迫り合いの最中に放ったり、視界の外から攻撃したりも出来そうですね」
「そ、そうですね……」
接近している最中に片手を離して炎を放ったりしないでも良さそうなので、遠隔攻撃の手段だけでは無く、多彩な戦闘パターンを組み立てられそうだ。
しかし『カーン』の種子で基本の気の消費量が抑えられ、威力が増すという検証が出来たのだが、動作無しで巴から放ったり軌道をコントロールしたりすると、気の消費が少し多かった。
(……気の消費量が大きくても、動作が必要無いっていうのはいいな)
俺としては嬉しい検証結果になったのだが、話し掛けたロスヴァイセの反応は、どこかぎこちない物だった。
(……『雷』の文字も入れておこう)
ロスヴァイセの様子が気になるが、炎と同じくらい戦闘に役立つと思われる『雷』の文字を、巴の鎬地に筆と水で書き込んだ。
「あ、あの、良太様」
「はい?」
少し離れた位置に立っていたロスヴァイセが、俺との距離を詰めて話し掛けてきた。
「その文字をですね……私の鎧にも書いて頂けませんか?」
「えっ!?」
俺の文字を利用した付与を興味深そうに見てはいたのだが、まさかロスヴァイセが自分の装備に施して欲しいと言い出すとは思わなかった。
「でも、その鎧に……」
ファンタジーのイラストで良く見るチェインメイルの要所を金属板で補強した、いかにも西洋風なデザイン鎧に、通常時は見えなくなっているとは言え漢字や梵字を書き込むのには、少し躊躇いを感じてしまう。
「そうです! 鎧というのは実用品! その防御力に生命を預けるのですから、少しでも強化出来る手段があるのに何を躊躇う事があるのでしょう!」
「まあ、それもそうですか」
ロスヴァイセの勢いに押された訳では無いのだが、言っている事は正しいので、本人が良ければという気になった。
「で、では?」
「ええ。それで、強化するのは防御でいいんですよね?」
槍には既にルーンが彫り込まれているので、攻撃面で文字を書き込む必要は無さそうだ。
「はいっ! ではこの……左の胸にお願い致します!」
「えー……」
ロスヴァイセは胸の形に打ち出されている金属パーツの左側を、俺の方に向けてアピールする。
「良太様、どうされました? 心臓の保護が最重要なのですから、左胸に防御強化の文字を入れるのは理に適っておりますよね?」
「そうなんですけど……」
魂が抜けると塩の塊になってしまうワルキューレの身体に、普通の人間と同じように内臓が配置されているのかはわからないのだが、ロスヴァイセの言っている事自体は間違ってはいない。
(それにしたって、装着したままなのか……)
鎧の上からではあるのだが、女性の身体に筆で文字を書くというのは、何か妙なプレイのような感じがして、非常にやる気が削がれるのだ。
しかし、気を込めて行う作業全般に言える事なのだが、どれだけ真剣に向き合うかで発揮される効果が違ってくるので、やる気を出しておかないと、万が一ロスヴァイセが深刻なダメージを受けた場合には、自分の行いに後悔をする事になってしまうだろう。




