死後の世界にて、初めての食事
「これが異世界か。時代を遡った感じはあるけど……普通だな」
街道と思しき、広いが舗装されていない道と、低い木造建築の街並みを眺めながら独り言ちた。
「ここは……品川宿の辺りか」
周囲の店と思しき建物の看板や暖簾の記述からすると、東海道の宿場町である品川辺りに俺はいるらしい。
異世界言語では無く日本語表記なのはありがたい。会話は出来るけど字が読めないというのは、良くあるパターンだ。
(会話も読み書きも、自動で変換されますので、仮に国外へ行かれても問題はありませんよ)
「わっ!?」
唐突に、頭の中にヴァナさんの声が響いた。囁く様な声量ではあったが、初めての経験なので思わず声を上げてしまった。
(も、申し訳ありませんっ! 驚かせてしまったようで……)
(あ、いや。確かにちょっと驚きましたけど……それで、自動変換されるんですね?)
周囲の目を気にして、俺もヴァナさんに対して、心の中で質問を呟いた。
(はい。時代によって、同じ日本語でも言い回しが違ったりしますし、方言とかもありますので)
(ああ、それはそうですよね)
確か鎌倉時代なんかは、和歌を詠むような感じで会話したりもしてたんだっけ。それに現代日本でも、沖縄と東北辺りの方言での会話は成り立たない。
(あと、宿によってはお名前を記帳しなくてはならなかったりしますので、筆記する際にその土地での一般的な言語と書体へと自動で変換されます。変換後もリョータ様には普通に読めますので、ご安心を)
成る程、これは便利だ。同じ日本語でも俺には草書体とかは読めないからな。
(それと、距離や重さに関しましても、理解しやすいように変換して伝えられるようになってます。具体的にはメートル、キログラム換算になってますが、ヤード、ポンドとかにも出来ます)
(あ、それならメートル、キログラムのままでお願いします)
(畏まりました。では、また暫く黙っておりますので、旅をお楽しみ下さい)
そう言い置くと、側にはいるみたいだが、ヴァナさんの声が聞こえなくなった。見られているような気配も感じないので、居心地の悪さは無い。
「さて、とりあえずは……」
どうやら異世界でも普通に腹が減るみたいなので、俺は目に付いた蕎麦屋の暖簾をくぐった。昼間ということもあるが、店内は明るかった。現代風な照明なんかは勿論無いが、どういう仕掛けかわからないが、天井の中央辺りが明るく輝いている。熱は感じないが、何か魔法とかの類だろうか?
「いらっしゃい。ご注文は?」
適当に空いている席に座った俺にの前に湯呑茶碗を置きながら、長い髪を、現代風に言うならロングのポニーテールにまとめた、威勢のいい女中さんから声を掛けられた。和装に前掛けを着けて清潔感がある。
「おすすめは?」
壁に掛かった板に書かれた品書きを眺めながら、俺は訊いてみた。
「うちはなんでもおいしいけど、おすすめは天ぷら蕎麦かねぇ」
「じゃあ、それを」
「はい。天ぷら蕎麦一丁っ!」
「はいよっ!」
俺の注文を復唱した女中さんの声に、店の奥の厨房からだろう男性の声が、威勢良く応じた。
「はい、お待ちどう!」
それ程待つ事も無く、小柱と三つ葉のかき揚げが載った蕎麦の丼が目の前に置かれた。ダシのいい香りが食欲をそそる。
「こりゃうまそうだ。では、頂きます」
卓上の箸立てから箸を取り、これも卓上の小さな竹の容器に入った七味唐辛子を軽く振り掛けて食べ始めた。
「……うまい!」
小さく呟くと、ダシが利いたツユと揚げたてサクサクのかき揚げの載ったうまい蕎麦を、一気呵成に平らげる。
「お客さん、おいしそうに食べるねぇ」
「いやぁ、本当にうまいから」
嬉しそうに言ってくる女中さんに、思わず笑顔を向けた。
「ふぅ……うまかった」
もう一杯食べたいくらいうまかったが、後の食事を考えて自重した。まだ陽は高い。
「お客さん、蕎麦湯が欲しいなら、そこの桶から御自由にどうぞ」
空腹が落ち着いたところで、女中さんの指し示す方を見ると、店の奥の卓に湯気の立つ木の桶が置かれているのに気がついた。うまかったが飲み干すにはツユが濃いめだったので、蕎麦湯はありがたい。
俺は店の奥まで歩くと、桶の中に置かれたままの柄杓で蕎麦湯をすくい取り、蕎麦を食べ終えてツユだけになった丼へ蕎麦湯を注いだ。
席に戻り、蕎麦湯で丁度良く薄まったツユをじっくりと味わいながら、最後の一滴まで飲み干した。飛び込みで入っただけの店での満足度に驚かされる。
「勘定は……銅貨十枚か」
レクチャーで聞いた平均的な食事額からすると、天ぷら蕎麦は結構な贅沢品のようだ。でもまあ、異世界初日だし、何よりもうまかったので良しとしよう。それに、現代の日本でも小柱のかき揚げ蕎麦は、決して安い部類には入らない。
「ごちそうさま。勘定、ここに置きますね」
「毎度あり。またお越し下さいね!」
卓上へ勘定を置いて立ち上がった俺に、女中さんから笑顔で威勢のいい声が掛けられた。うまいし気持ちのいい店だった。機会があったらまた来よう。俺は店の暖簾をくぐって外へ出た。
「さて、どうするかな……」
特の目的のある旅では無い。この辺で宿を取ってもいいし、どうやら元の世界の江戸時代と同じように、東海道の起点になっている日本橋方面に行ってもいいし、西進してもいい。その場合、今からでも多摩川を越えるくらいは出来るだろう。
「ここはあんまり冒険しないで、賑やかそうな方を目指すか……」
自分の知識にある江戸とは違うのだろうけど、とりあえずは日本橋方向に歩き始めた。
「おっと、ごめんよ……うわっ!?」
蕎麦屋の店頭から歩き出そうとした俺にぶつかった男が、何かに弾かれたようになって地面に転がった。
「お客さん、どうかしたっ!? って、徳……あんた、またやろうとしたのかい」
騒ぎを聞きつけた蕎麦屋の女中さんが、俺と転がった男を見て、大きく溜め息を付いた。
「お客さん、こいつは徳蔵っていう、ケチなスリ野郎なんですよ。旦那ぁ! 番所に連絡を!」
店の奥に女中さんが大声でそう告げると、店主に言いつけられたのか、小さな男の子が店に出てきて、そのまま道を走り去っていった。
「ま、待ってくれよ! 俺は何も……」
徳蔵は言い訳しようとするが、多分常習犯なんだろう。女中さんは聞く耳を持たないとばかりに、倒れてい
た徳蔵の腕を取って、地面へ組み伏せた。
「お、お姉さん、強いんですね?」
「ああ、客の中には荒っぽいのや、食い逃げしようなんていう、ふてぇ輩がいるからね。少しは腕っ節が強くないと、やってらんないのさ」
にっこり笑いながら、更に徳蔵の腕を締め上げていく女中さん。細腕、細面の美人だが、人は見かけによらないようだ。
「お、来たね。こっちですよ、岡っ引きの旦那!」
女中さんの見る方から、十手を手にした貫禄のある男性が、後ろに手下らしい者を引き連れて走ってきた。
「おう。おりょう、お手柄だな。それに引き換え……徳蔵、お前ぇ、これで何度目だ?」
女中さんの名前は、おりょうさんというのか。そして呆れ顔で溜息をつく岡っ引きの旦那とは顔見知りみたいだ。
「だ、旦那、ご勘弁を……」
なんとか言い逃れしようとする徳蔵だが、岡っ引きの旦那は手下に命じて徳蔵を縛り上げ、連行するために立たせた。
「それじゃあ、おりょうと、お前ぇさん、この辺じゃ見ねぇ顔だが、状況の聞き取りをしてぇんで、すまねぇ
が来てくれるかい。おっと、俺の事は留吉って呼んでくんな」
留吉と名乗った岡っ引きの旦那は、貫禄はあるが笑うと随分と印象が変わる。
「はいはい。それじゃお客さん、行きましょうか」
「あ、はい」
訳のわからない内に騒動に巻き込まれてしまったが、俺はおりょうさんに促されるまま、留吉さんの先導で歩き始めた。
「はぁ……疲れたな」
番所での取り調べから解放される頃には、既に大分陽が傾いていた。さすがにこれから日本橋方面へ行くのは無理だろう。
「災難だったねぇ。ところで、留吉の旦那も言ってたけど、お客さんはこの辺の人じゃないのかい?」
自分の騒動に巻き込む形になってしまったが、おりょうさんは最後まで取り調べに付き合ってくれたのだった。
「ええ、旅の途中でして」
「それじゃあ、今夜の宿は?」
「まだ決めてないんですよ。どこかいい宿を知ってますか?」
おりょうさんに甘えっ放しになってしまうが、こういう事は地元の人に聞くのが一番だろう。
「だったら、宿じゃないけど店の二階に泊めてもらうかい?」
「えっ!? そんな事が出来るんですか?」
「お得意さんには二階で飲み食いして、そのまま泊まってく人もいるからね。だから、あんたもちゃんと注文さえしてくれれば、店の旦那も文句は言わないさ」
昼に食った蕎麦の事を考えれば食事の味に関しては間違い無さそうだし、何より気疲れしたので宿の事で悩みたくない気分だった。
「それじゃあ、お願いしようかな」
「うんうん。そうしなよ」
店での接客の時からそうだったが、おりょうさんは凄く笑顔が素敵な人だ。怒らせると怖いけど……。
「それで、いくらくらい飲み食いすればいいんでしょう?」
おりょうさんと並んで歩き始めた俺は、具体的に店にお世話になるための金額を訊いてみた。
「そうだねぇ……あんた一人じゃそんなに食べられないだろうから、銅貨二十枚分くらい?」
「あ、そんなもんでいいんですか」
宿代の相場が食事付きで銅貨三十枚だから、結果としてかなりお得になる。
「じゃあ、先にお渡ししておきます。食事の内容はおりょうさんにお任せで」
立ち止まった俺は財布から、銅貨を二十枚ではなく三十枚取り出しておりょうさんに渡した。
「あれ、多いよ?」
「多い分は、変な事に巻き込んじゃった、おりょうさんへのお詫びです」
「あら、そうかい? じゃあ遠慮なく」
俺の申し出に、おりょうさんが目に見えて上機嫌になった。
「その代わりと言っては何ですが」
「ん? さすがに夜のお相手には、ちょっと足りないよ?」
「いやっ! そ、そうじゃなくてですね」
おりょうさんのとんでもない言葉を、俺は慌てて否定する。
「あらそうかい? もう少し色を付けてくれたら、考えないでも無いんだけどね」
カラカラと笑いながら、おりょうさんは面白そうに俺の顔色を窺ってくる。
「あー……さっきも言いましたけど、俺はこの辺に不案内なので、おりょうさんの仕事が終わってからでいいから、色々と教えてもらいたいんですよ」
「なんだ、そんな事かい。お安い御用だよ。さ、行こうか。あ……ところで、あんた名前はなんていうんだい?」
なんかすっかり親しい人間同士のように接していたが、ちゃんと名乗ってもいない事に、今更気がついた。
「あ、そういえば言いそびれてましたね。鈴白良太といいます」
「あらまあ。あんたが良太で、あたしがおりょう。似たような名前で、こんなところにも縁があるのかねぇ」
渡した代金を自分の財布に仕舞いながら、そう呟いたおりょうさんは、俺の腕に自分の腕を絡めると、鼻歌を歌いながら蕎麦屋へ向けて歩き出した。