製麺機と精米機
(魂の修行の為の世界なんだけど、製麺機くらいなら許されるのかな?)
向こうの世界では内燃機関や、電気を利用した道具を開発しようとすると必ず失敗するのだが、これは向こうの世界に行く際にフレイヤ様から受けた説明によれば、魂を鍛えて解脱したり格を上げたりする為だという事だ。
道具類などを発明して利用するというのは、色んな意味で楽をする為の行為なので、あまり便利になると修行の妨げになってしまうという事なのだろう。
「ところで兄上。話に夢中になっておりましたが、今日のこのお茶はなんなのですか? 砂糖も入れていないのに、蜂蜜のような芳醇な甘みと香りを感じますが」
「ああ。あたしも頼華ちゃんと同じ様に思ってたんだよ。これは紅茶なのかい? でも、なんか違うようにも……」
小振りな茶杯を持ち上げながら、頼華ちゃんとおりょうさんが揃って首を傾げる。
「凄いなぁ、二人共。飲んだだけで説明も受けずに、このお茶の本質がわかってるなんて」
知ってはいた事なのだが、改めて二人の鋭敏な感覚に驚かされた。
「どういう事だい?」
「どういう事ですか?」
「このお茶は東方美人っていう名前なんですけど、正に二人が言った点が、主にヨーロッパ……大陸の西部の方に住んでる人達に気に入られてるんですよ」
俗に蜜香と呼ばれる味と香り、そしてその不思議な味わいに相応しい名前、そして紅茶に似た味わいによって、ヨーロッパで東方美人は人気になっている。
「でもこれって、実はとんでもない栽培の仕方をしてるんですよね」
「とんでもないってのは、無茶苦茶に手間を掛けてるって事かい?」
「実はその逆で……普通の茶の産地だと送風機を使って露を払ったり、葉を食べる害虫を駆除したりするところを、殆ど放置したままにするんですよ」
「「……へ?」」
おりょうさんと頼華ちゃんが、見事なシンクロで呆れ顔になった。
「で、でも、そんな状態じゃ葉が萎れちまったりするんじゃないのかい?」
「そうですよ。虫に齧られた葉だって、健全な状態では無くなりますよね?」
「ところが、そういう状態の茶葉を収穫して仕立ててみたら、いま飲んでるみたいになっちゃったらしいんですよね」
どういう偶然の産物なのか、露に濡れ虫に齧られたて変質した茶葉が通常とは違う発酵をして、東方美人の独特の風味を生み出した。
おそらくは東方美人は最初からこういう栽培や仕立てを考えていた訳では無くて、世界中に似たような話のある、勿体無いので食べて(飲んで)みたら旨かったという事例の一つだろう。
「へぇぇ。それにしても東方美人って名前は、随分と洒落てるねぇ」
「おりょうさんとか頼華ちゃんが飲むのに、相応しい名前ですよね」
「「っ!」」
俺の言葉を聞いた瞬間に、二人は耳まで真っ赤になってしまった。
「あ、あはは……ら、頼華ちゃん、そろそろ風呂に入ろうかねぇ」
「そ、そうですね! 兄上! お先に失礼します!」
「あ、はい……」
(あれ、上手い具合に褒められたと思ったんだけど……不発?)
一応は本心から言ったのだが、反応だけを見ると二人を喜ばせるよりは、動揺させただけになってしまったみたいだ。
「……」
おりょうさんと頼華ちゃんの二人は、逃げるように慌ただしく風呂場に行ってしまったので、手持ち無沙汰になってしまった俺は茶器を片付け始めた。
「あ、上がったよぉ……」
「よ、良い風呂でした!」
多少は落ち着いたみたいだが、まだおりょうさんも頼華ちゃんも少し顔を赤らめているのは、風呂上がりだからというのだけが理由では無さそうだ。
「はい、風呂上がりに頼華ちゃんにはこれを」
「ありがとうございます! これは、こーらにあいすくりーむですね!」
「うん。こういう風にアイスクリームを浮かべてあるのを、フロートって呼ぶんだ。これはコーラフロートだね」
瞳を輝かせる頼華ちゃんに、長めのスプーンとストローを渡した。
「んー! 少し溶けたあいすくりーむが混じったこーらも、おいしいですね!」
ストローでコーラを味わった頼華ちゃんは、嬉々としながらスプーンを手に取って、コーラに浮かんでいるアイスクリームに取り掛かった。
「おりょうさんにはこれを」
ガラスのデザート皿に盛り付けてスプーンを添えたアイスクリームを、おりょうさんの前に差し出した。
「ん? あたしのは、あいすくりーむだけかい?」
別に嫌いだと言っていないのに、自分の分だけコーラが無いのはどういう事なんだろうと、おりょうさんは思ってるようだ。
「ええ。でも、仕上げにこれを」
俺はミルクピッチャーに入れておいた液体を、アイスクリームの上から振り掛けた。
「んんん? なんか透明のを掛けたけど……もしかしてこいつは、酒かい?」
ガラスの器を持って鼻を近づけたおりょうさんは、見事に液体の正体を嗅ぎ分けた。
「実は学校の帰りに、料理に使って貰おうと思って買ってきたんですよ」
自宅近くに地酒を豊富に扱う店があり、料理にしか使わないという約束で顔見知りの店長さんに無理を言って、なんとか売って貰った。
「へぇ……って、こいつからする凄くいい香りから考えると、料理に使うにはちと勿体無いんじゃないのかい?」
どうやらおりょうさんは、自分が今まで飲んできた清酒とは違うと、立ち昇る香りから気がついたらしい。
「凄いな。たったこれだけの量をアイスクリームに掛けただけなのに、わかるんですね」
「そりゃあねぇ」
酒を掛けた事によって溶けたアイスクリームの風味が混じるので、清酒単体の時とは変わってしまうはずなのだが、おりょうさんは酒の本質的な香りを嗅ぎ分けてしまったようだ。
「出来の良い酒だというのは店の人に聞きましたけど、料理酒と比べて特に高いって訳でも無いんですよ」
「そうなのかい?」
「その辺は後で説明しますから、溶けちゃう前にどうぞ」
興味深さが先に立って手を付けないので、おりょうさんにアイスクリームを食べるように促した。
「おっと! じゃあ頂こうかねぇ。ん……あいすくりーむの濃いめの口当たりと甘さとは違う、なんだろう、凄く良い砂糖水を掛けたような?」
「なんとも不思議な味のようですね……」
おりょうさんのテイスティングの結果を聞いて、頼華ちゃんが物欲しそうにスプーンを口に咥えながら見ている。
「良太……」
「……まあ、一口くらいなら」
頼華ちゃんのあまりにも切なそうな表情に、おりょうさんも俺も屈してしまった。
「そいじゃ頼華ちゃん、あーん」
酒が少しだけ掛かっている辺りのアイスクリームを少しだけ掬い取って、おりょうさんは頼華ちゃんの顔の前にスプーンを差し出した。
「はい! あーん……むむ! 姉上の仰る通り、これは上菓子のように澄んだ甘さで、それでいてなんとも芳醇な!」
ほんの一口だけだが頼華ちゃんにも、黒砂糖を使った駄菓子の対局にある白砂糖を使った上菓子のような、清酒の透き通った甘さが感じられたようだ。
「そいじゃ良太も、あーん」
「えっ!?」
「あーん」
不敵に微笑むおりょうさんは、どうやら勘弁してくれそうに無い。
「あーん……」
「ふふっ。はい、どうぞ」
含み笑いをするおりょうさんに口に入れられたスプーンから、ひんやりしたアイスクリームの味の次に、上品な清酒の甘さが一気に広がった。
「確かに凄いですね。おりょうさんの言った、凄く良い砂糖水って意味がわかりましたよ」
「そうだろぉ?」
まるで自分の手で酒を醸したかのようにえっへんと、おりょうさんが胸を張った。
「ところでこいつは、どこの酒なんだい?」
「えーっと……群馬ですね。昔風に言うなら上野かな?」
俺は酒瓶のラベルを見ながら、辛うじて覚えていた江戸期の地名を思い出した。
「おや。こっちじゃ江戸の近くでも、いい酒を造るようになったんだねぇ。それにしても、こんな酒がそんなに高くないってのは凄い事だねぇ」
こっちの江戸時代と同じく向こうの世界でも酒造りは西高東低な状況で、江戸周辺でも酒の醸造は行われていたのだが、灘や伏見などの関西の酒が質が高いと珍重されていた。
「うーん……高くは無いんですけど、安いかって言われると難しいところなんですよね」
「ん? そいつはどういう意味だい?」
おりょうさんが清酒を掛けたアイスクリームを口に運ぶ手を止めて、俺に問い掛けてきた。
「料理酒と比べて、少しだけ高いのがその清酒なんですけど、こっちの日本で売られている酒の中では、安い部類には入らないって事なんですよ」
この場合の例に挙げているのが、いま目の前にある清酒というだけで、無論だがもっと高い物も安い物も存在はする。
「そりゃあ……また良くわかんなくなっちまったねぇ」
「えーっと……向こうで鎌倉にお邪魔した時に、ドランさんが出してくれた葡萄酒を覚えてますか?」
どういうのを例にして説明すればいいかと考えて、アルコール度数の近い清酒とワインの比較にしてみた。
「ああ! 覚えてるよ。あれは旨かったねぇ」
ブルムさんが出してくれたのは、こっちの世界ではリースリングという葡萄品種を使った、ドイツワインに該当すると思われる。
微発泡ですっきりとした甘口のワインは、おりょうさんだけでは無く頼華ちゃんの御両親にも好評だった。
「その葡萄酒なんですが、地球の裏側の国から輸入されているワインの方が、日本で醸造されている清酒よりも安いんですよ。えーっと……これは一例ですけど」
俺は以前に興味本位で調べた、チリワインの比較をしているサイトを開いておりょうさんに見せた。
「んんっ!? 七百五十みりりっとるで、三百九十八円!? そいで、この酒は一升瓶で幾らなんだい?」
「二千二百円ですね」
一合辺り二百二十円なので、室の高さを考えると恐ろしくリーズナブルなのだが、俺がおりょうさんに見せたサイトで取り上げられていたチリのワインは、その上を行っているのだ。
チリワインの中でもネットで味の評価が比較的良く、しかも近所の激安の殿堂でも取り扱っている銘柄という事で覚えていたので、今回の比較用に取り上げてみたのだった。
「そそそ、そいつはどういう事なんだい?」
「おりょうさん、落ち着いて……俺にも詳しくはわかりませんけど、税金とか、人件費の違いなんですかね?」
おりょうさんに味見してもらった清酒が高いとは思わないのだが、そこそこのレベルの味の、ペットボトルなどでは無く、しっかりしたガラスのボトルに入っているワインの方が安いというのは、消費者からずればありがたい話だとは思うのだが、色々と謎の多い状況ではある。
成人年齢に達したら自分も酒を飲み始めると思うのだが、旨さだけでは無く価格というのも重要なファクターなので、おそらくは今以上に頭を悩まされる事になるのだろう。
「兄上。この香り高く甘い酒は、原料が同じ米なのですから、向こうでも造れるという事ですか?」
「それは無理だね」
「あっさりと!?」
一瞬の迷いも無く俺が答えたので、出来るという言葉を期待していたらしい頼華ちゃんはショックを受けたようだ。
「酵母とか、色んな要因はあるんだけど……あのね、この精米歩合って書いてあるのがわかるかな?」
俺は酒瓶に張ってあるラベルの、精米歩合という部分を頼華ちゃんに指で示した。
「精米歩合……五十ぱーせんとですか?」
「そうそう。これは玄米の状態から、どれくらい精米しているかっていうのを示すんだ」
「という事は、精米した残りの半分は使われないという事なのですね。ん? 食べる白米はどれくらいになるのですか?」
「大体、七十五パーセントくらいだって言われてるね」
実は頼華ちゃんのこの質問は、米を主食にしているのに日本人でも意外に知られていない事柄なのだが、俺の場合は偶々、日本酒をテーマにした漫画を読んで知っていた。
「それでその精米歩合というのが、向こうでは作れないという理由なのですか?」
「それが全てじゃ無いんだけど、かなり大きいみたいなんだよね」
米を削る量を多くして醸造する吟醸酒や大吟醸酒が一般的には良いとされているのだが、流れに逆行するように八十五パーセント以下という、低い精米歩合で醸造された清酒というのも存在するからだ。
「でも、どうしてそんなに米を削るのですか?」
「お酒用の米の中心部分、芯白って呼ばれる部分だけを使うと、雑味の無い香り高い酒になるって言われてるんだ。でも低精米でも雑味があるとは聞かないから、説明がつかないんだけどね」
芯白を使うとスッキリとした味わいになり、吟醸香と呼ばれる果物のような芳香が酒に現れるのだが、その反面で芳醇さや複雑味に欠けるという事で、低精米による仕込みをした清酒がリリースされたりもしているが、実は詳しいメカニズムは判明していなかったりする。
「そこまではわかりましたが、向こうで精米歩合の高い米で酒を仕込めないという理由とは?」
ここまでの会話の流れではあるが、酒に関する事なのに、おりょうさんでは無く頼華ちゃんが興味津々だ。
「ある程度までの精米は、向こうでも使ってる水車とかで出来るんだけど、それ以上になると大きな精米機って機械を使わないと無理なんだよ」
「精米機ですか?」
「うん」
水車を使った精米では現代と比べて質が落ちたりすると思われがちだが、実は安土桃山時代辺りから、米自体の質はともかく精米に関しては、現代と遜色が無いと言われている。
「五十パーセント以上とかになると機械で何日も掛けて、米同士を擦り合わせて削っていくんだ」
「米同士をですか?」
「うん。だから最終的には……っと、あった。こういう風に、食べる米とは似ても似つかない、丸い粒になるんだよ」
タブレット端末で検索した、精米歩合五十パーセントから始まり、一部の酒蔵で行われている冒涜的とも言える二割三分まで削った、粒と言うよりは粉の一歩手前にまでなった米粒の写真を頼華ちゃんに見せた。
「ふぇぇ……勿体無い気はしますが、それがここの酒蔵の、酒造りに対する情熱の現れなのでしょうね!」
感心半分、呆れ半分といった感じで、写真に見入ったまま頼華ちゃんが呟いた。
「そうだと思うよ」
高速な機械による精米は、摩擦によって熱が発生するので食用としては良くないと言われているのだが、精米歩合の高い米による酒造に於いては、大型の精米機は無くてはならない物なのだ。
「機械が無きゃ醸せないってのは、残念だねぇ」
「余も、父上や母上に召し上がって頂きたかったのですが……」
おりょうさんと頼華ちゃんは諦めきれないのか、スプーンを咥えて難しい表情をしている。
「う、うーん……向こうでの再現は難しいけど、お土産には買って帰れるんだから、それを飲んで貰おうね」
「はい!」
神様の加護があるので、向こうで酒造りをしても腐造などの失敗は無さそうなのだが、素人が手を出していきなり上手く行く訳が無い。
何年か試行錯誤をすればいい結果が出るかもしれないが、将来的に本格的に酒造りを仕事にするとかでも無ければ、あまり深く突っ込んだりはしない方がいいだろう。
「向こうでも旨い酒が飲めりゃあと、あたしも思ったんだけどねぇ」
「うーん……酒蔵に知り合いでもいれば、多少は技術的な協力くらいは出来るんですが。でもそういうところの職人さんや、醸造の責任者の杜氏さんなんかは、これまでの経験に基づいて酒造りをしてるから、素人の言う事に耳を貸してくれますかね?」
「あー……そいつは難しいかねぇ」
俺の話を聞いて無理だと悟ったのか、おりょうさんが天を仰ぐ。
これまで多くの酒造りの現場では伝統的な製法が受け継がれてきたのだが、近年は清酒でもワインでもウィスキーでも、経験などに基づく方法では無く、気候や温度や材料などを全てデータで管理して、目覚ましい出来の物を生み出している人達もいる。
しかし、従来通りのやり方を頑なに守る、と言うか他のやり方を知らないし、これまでの自分の立場を脅かされてしまうのだから、説明を聞きもしない人というのは確実に居るだろう。
「なんか酒の話になっちゃいましたけど……そういえば食事の手助けのになるような物の話をするって言いましたね」
俺は半ば無理矢理に、話題を切り替えた。
「ああ。そういえばそうだねぇ。すーぱーって店は物が多過ぎるから、予め買おうと思ってた物以外には、目移りしちまうんで、良太が便利な物を教えといてくれると助かるよ」
「そうですね……先ずはおりょうさんが関心が高いと思う蕎麦ですか」
「ふむふむ」
予想通り、酒の話題と同じかそれ以上に、おりょうさんが俺の方に身を乗り出して来た。
「素麺みたいな乾燥した状態の蕎麦や、火を通してある茹で麺なんかがあります。うどんや中華麺なんかも同じような物がありますね」
「素麺と同じような蕎麦があるのかい!?」
素麺の歴史はかなり古いのだが、蕎麦の乾麺はこっちの明治時代くらいに作られたらしい。
どうやら向こうの世界にはまだ存在しないようで、俺の話を聞いたおりょうさんが驚いている。
「ええ。かなり色んな種類がありますよ」
「そいつは是非、試さなきゃねぇ。でも茹で麺って方は、日持ちはしなさそうだねぇ」
「そうですね。乾麺の方は他の乾物類と同じ場所に置いてあるんですけど、茹で麺は一食ずつとかを分包して、冷蔵や冷凍の売り場にあるので」
茹で麺は蕎麦の乾麺とは別のコーナーに置いてあるので、おりょうさんに話をしておいて正解だった。
「鍋で茹でて、その場で売ってる訳じゃ無いんだねぇ」
「いや、それは……」
どうやらおりょうさんは、その場で鍋などで茹で上げた物を売っていると思ったようだ。
「蕎麦に合わせる天ぷらなんかも売ってますから、一緒に試すといいと思いますよ」
「うん。そうするよ」
スーパーの惣菜売り場の天ぷらは、決して質が高いとは言えないと思うが、蕎麦に添える程度でも家庭で揚げ物をするのは何かと大変なので、手軽に済ませたい時には重宝する。




