ジャム
「ん……」
自然に目を覚ました俺は、寝る前に枕元に置いたスマートフォンで時間を確認した。
どうやらセットしておいた時間の直前に目を覚ましたらしいので、俺はスマートフォンを操作してアラームを解除した。
出来るだけ静かに階段を降りて、トイレで用を足してから歯磨きと洗顔を済ませ、一旦部屋に戻って学校の制服のスラックスとシャツを着てネクタイを締めてから、上着とバッグを持ってリビングまで下りた。
俺の通う学校は基本的に服装は自由なのだが、毎日着る物に頭を悩ませたく無いのと、ネクタイを締めるブレザーが嫌いでは無いので、制服を来て通学をする事にしている。
しかし、まだネクタイを結ぶのに慣れていないので、一度で丁度いい具合に長さの調整が出来なかったりするのだが……。
「……卵とベーコンでいいな」
今朝はパン食にしようと思って米は研いでおかなかったので、パンをオーブントースターにセットして、冷蔵庫から卵とベーコン、バターと牛乳のパックなどを取り出す。
ジュワアァ……
火に掛けたフライパンに載せたベーコンが、自ら出た脂で揚げ焼きになって縮んでいく。
香ばしくカリカリに焼き上がったベーコンを取り出し、脂の残っているフライパンににバターを追加で投入して、割りほぐして少し牛乳を入れた卵を流し込む。
火を通しながら卵を掻き混ぜて、柔らかな半熟の内に軽くまとめたら出来上がりだ。
「おはよう良太。飯の支度なら、あたしがしたのに……」
「おはようございます。明日からはお願いします」
六畳間の戸を開けて起き出してきたおりょうさんが、済まなそうな顔をしている。
今晩からはおりょうさんが夕食を作ってくれるので、買い物も任せる事になるから、明日以降は朝食もお世話になるかなと思い、今日まではと朝食を用意したのだ。
「おはようございます、兄上!」
「おはよう。顔を洗ったら朝食だよ」
「はい! すぐに済ませてきます! 姉上、行きましょう!」
「そうだねぇ」
頼華ちゃんに背中を押されながら、おりょうさんも洗顔に向かった。
「頂きます」
「「頂きます」」
コーヒーにトースト、カリカリに焼いたベーコンにスクランブルエッグという朝食を開始した。
「んー! 卵がとろとろですね! 風味は乳酪と、この燻製肉でしょうか?」
スクランブルエッグをフォークで一口食べて、頼華ちゃんが訊いてきた。
「そうだね。豚の肉だけど、向こうで豚っているんだったっけ?」
向こうの世界では、俺達は食べる分は自らの手で調達していたので、肉に関しての詳しい食習慣や流通などは、あまり気にしていなかった。
「豚というのは確か猪を家畜化した物でしたか? 向こうでは猟師が獲ってきた肉以外には、労働力や移動力としての牛馬と、卵を得る為の鶏と鶉くらいしか飼育していませんでしたね」
「そんな感じかぁ」
(でも確か、大陸での豚の地位っていうのも、長らく向上しなかったんだっけ?)
多産で肥育も早い為に、今では多様な料理や利用法があるが、飼育環境が良くなかったので肉の質が良くない時代の中国では、禄に料理法も研究されなかったので豚肉は不味く、金の無い人間の食べ物だという認識だったらしい。
「猪の肉よりは風味が無いですが、これはこれでおいしいですね!」
「そうだね。俺が次に食事を作る時には、豚肉を使った物を出そうか?」
俺が学校に行く日の食事は、基本的におりょうさんに任せるつもりだが、週末などに労をねぎらう意味で、料理をするのはありだろう。
「おお! それは楽しみです!」
「店で出す豚肉の料理にもおいしい物がいっぱいあるから、その内食べに行ってみようね」
「はい! ところで兄上。その瓶に入っているのはなんですか?」
ベーコンを食べ終わってからトーストにしたパンをひと齧りしてから、頼華ちゃんは食卓に上がっている瓶を指差した。
「あ。ごめんごめん、言うの忘れてたね。これはジャムって言う果物に砂糖を加えて煮詰めた物で、パンに塗ったりして食べるんだよ」
「果物を砂糖で! で、では早速……ふおぉ!? あ、甘くて酸っぱい香りが口いっぱいに広がって、これはなんという味わい!」
「そこまで!?」
スプーンで控えめにイチゴジャムをパンに載せた頼華ちゃんは、少しの間味わってからカッと目を見開いた。
こっちに来てから、頼華ちゃんが色々と食べて感動する姿を見てきたが、もしかしたらジャムを食べている今が、これまでで最高かもしれない。
「あ、姉上っ! 是非ともお召し上がりを!」
頼華ちゃんは自分のパンに、今度はジャムを山盛りにしてから、おりょうさんにスプーンと瓶を渡した。
「そ、そうかい? それじゃ……んっはぁぁぁぁ……な、なんだいこれっ!? この間食べた切っただけの果物も、搾ったのもうまかったけど、この凄く濃厚で甘酸っぱい味わいはどういう事なんだい!?」
一口食べて、なんとも艶めかしい溜め息をついたおりょうさんは、どうして今まで食べさせなかったんだと言わんばかりに、俺に捲し立ててきた。
「そんなに口に合いました? じゃあ、これもどうぞ」
俺はオレンジのマーマレードの瓶の蓋を捻じ外して、二人の前に差し出した。
「じゃ、じゃあお先に……ああ、こいつはさっきのよりは優しい味わいだけど、旨いねぇ。蜜柑に似てる気がするけど?」
「オレンジっていう、蜜柑の親戚が原料です。これには皮も使われてます」
「うむむ。さっきの苺の物よりは控えめな風味ですが、この優しい甘酸っぱさは……」
イチゴジャムの時のように大興奮という感じでは無く、おりょうさんも頼華ちゃんもマーマレードをじっくりと味わっている。
「兄上、兄上! こ、これは向こうでも作れますか!?」
「えーっと……苺は手に入るのかな? オレンジは無くても蜜柑は何種類かあるから……多分だけど作れるね」
「おお! それならば是非、向こうでも作りましょう!」
(あれ? レモンが必要か? でもあれって、無くても大丈夫って説もあるんだよな……)
良く洗ってヘタなどを取り除き、苺の場合は荒く潰して半量くらいの砂糖をレモン汁を絞り入れて溶かし、煮詰めれば完成なのだが、この時レモン汁は無くても良いという人もいる。
砂糖は今回大量に仕入れていくつもりなので大丈夫なのだが、上手く出来なかった場合にはレモンをと思っても、こっちのように店に行けば売っている訳では無いのだ。
(うーん……レモンを幾つか仕入れていくか? 柚子とかスダチとか以外に、甘みの無い柑橘類っていうのがあってもいいしな。レモン単独でもマーマレードにも出来るし)
甘さというのは料理の種類によっては邪魔になり、柑橘類の風味だけが欲しい時というのがある。
典型的な例は、人によっては要らないと言うが、揚げ物や焼き物などに掛ける場合だ。
とりあえずは利用法が多いので、里での栽培などは考慮せずにレモンを幾つか持って帰る事に決めた。
「兄上! これが食べられるのでしたら、余は朝食は、毎日ぱんで構いません!」
「そんなに!? 俺は構わないけど……」
俺はジャムを塗って食べる事はあまり無いのだが、こっちでの朝食はパンの事が多かったし、炊飯するのに比べれば支度も片付けも楽なので、特に頼華ちゃんに反対する理由は無い。
「う、うーん……この味は確かに好きだけど、あたしゃ飯に味噌汁も好きなんでねぇ」
頼華ちゃんはジャムの甘さの虜になったみたいだが、おりょうさんの方は味は認めつつも、食べ慣れた和の朝食の方が良いらしい。
「食事はおりょうさんに任せる訳だからなぁ……頼華ちゃん、パンはお昼にも食べられるんだから、毎朝じゃ無くてもいいんじゃないかな」
今頃になって気がついたが、おりょうさんと頼華ちゃんが俺が不在の間の昼食をどうするのかという話をしていなかった。
料理が出来るおりょうさんがいるし、スーパーやコンビニで食材や惣菜類が売っているのも教えてあるので、特に心配は無いと思うが。
「おお! さすがは兄上です! そうですね。姉上にお任せする身としては文句を言うつもりはありませんが、逆に昼に楽をして頂くという意味で、ぱんにするのは如何でしょうか?」
「……毎日にするかってのは考えるとして、明日の昼はそうしようかねぇ」
おりょうさんとしても、食事の献立を考えるというのは頭を悩ませる問題だからか、頼華ちゃんの意見は採用という事になったらしい。
「帰ったら、昼食に簡単に作れる物とかも教えますよ」
二人には店などで色々と試して貰っているが、料理の手間を省くような調味料やインスタントなどについては、まだ詳しく話をしていなかった。
「良太が学校に行ってる間に、あたしも自分で調べてみるよ」
「勿論、余もです!」
(……そうか。もう二人共、検索はお手の物なんだっけ)
初日からパソコンのキーボードを手探りながらも使って、検索を行っていたのを思い出した。
こっちの同年代の人間のように、何でもスマートフォンで調べ出すのもすぐだろう。
「さて、と。俺はそろそろ行きますね。片付けを任せちゃうのは申し訳ないんですが……」
「気にしないで、行っといで」
「そうです! 後の事は姉上と余にお任せを!」
おりょうさんは呟きながら優しく微笑み、頼華ちゃんは胸をドンと叩いた。
「それじゃ、行ってきます」
靴を履いてバッグを持った俺は、振り返って二人に出発を告げた。
「良太なら大丈夫だと思うけど、気をつけて」
「おりょうさん……」
俺の肩に手を掛けたおりょうさんは、軽く身体を預けてきた。
(……永の別れって訳じゃ無いんだけど、まあ嬉しいな)
たかが学校に行くだけなのだが、おりょうさんは俺との別れを惜しんでくれているのだから、嬉しくない訳が無い。
「兄上、御武運を!」
おりょうさんが離れた俺の腰に手を回し、頼華ちゃんが抱きついてきた。
「別に何とも戦わないんだけど……でも、ありがとう」
如何にも武家の息女らしい、頼華ちゃんなりの俺を送り出してくれる言葉だ。
「なるべく早く帰ってきますので」
「「いってらっしゃい」」
軽く手を振りながら送り出してくれる二人に、少し後ろ髪を引かれる思いがするが、俺はドアを開けて通路に歩み出た。
自宅から、通っている学校の運営するトラムを乗り継いで、十五分程で登校した教室に辿り着いた。
トラムは近くの国道の交差点を中心にして四路線あり、どれも一方通行の環状路で二十四時間、自動で運行している。
俺と同じ学校に通う学生と、トラム路線から周囲一キロ以内の住民の利用料は無料なので、開通の際に自動車道の車線を一つ潰してしまう事になっても、地域の利便性が上がるという事で反対の声は殆ど上がらなかった。
そんな地域のインフラにまで影響を及ぼしている、俺が通っている私立星鳳学園は、幼稚園から大学院まである一貫校で、東京都との県境の多摩川までの、かなりの部分に渡って敷地を所有している。
「……そうか。廃油からグリセリンを抜くとバイオ燃料になるのか」
教室の雛壇状の席の一つに腰を下ろして、スマートフォンで向こうの世界で使える有用な情報を検索していた。
いま調べているのは、俺の好みで向こうで多くなりつつある揚げ物の、調理後の廃油の再利用についてだ。
(廃油から作った燃料は灯りにでも使えばいいし、抜き取ったグリセリンは保湿効果があるらしいから、水と香料を足せば化粧水になるし、石鹸と混ぜてシャンプー代わりにしてもいいな……って、あれ? グリセリンってドラウプニールで抽出出来るのか?)
ドラウプニールで元素の抽出が可能なのは実証済みなのだが、廃油の中からグリセリンの成分を取り出せるかどうかは、試してみなければなんとも言えない。
(……あ。揚げ物に使った油の劣化って酸化なんだから、もしかしたらゴミを濾し取ってから酸素を抜けばいいのか?)
植物油とラードを混ぜてしまったような物の再利用は考えない方がいいと思うが、同じ種類の油から酸化の原因の酸素を取り除けば、還元とまでは行かなくても利用回数は増やせるかもしれない。
「鈴白君だったっけ。ゲームでもやってるの?」
スマートフォンの画面を眺めながらあれこれ考えていると、斜め後方から声が掛けられた。
「えっと……堀内君だったっけ?」
振り返った先には声の主であるクラスメイトの、確か堀内悠希という名前のはずの少年が座っていた。
(間違って無かったよな?)
クラスメイトの名前も覚えていないのかと自分でも呆れそうになるが、そもそも通っている学校が普通とはちょっと違うのが原因だ、と、心の中で言い訳をする。
星鳳学園の高等部は単位制なので普通の学校でホームルームに当たる物が無く、文化祭や体育祭などの行事での一つの単位という意味でしか無い。
一応は担任とクラスメイト同士の自己紹介などは行われたのだが、かなり印象が強かったり、数人存在した有名人以外には、男女問わず名前を覚えている数は多くない。
その中でも堀内悠希は、ホームルーム以外にも授業が幾つか被っているので顔を合わせる機会が多いので、辛うじて名前を覚えていたのだ。
(確かゲーム好きだって言ってたっけ)
容姿的には平凡で目立つタイプでは無い堀内だが、ハキハキとした物怖じしない喋り方で、格闘やシューティングなどのゲームが好きだと、自己紹介の時に言っていたのを思い出した。
「良かった。俺って目立たないだろうから、覚えてくれて無いかと思ってたよ」
「いや。俺もゲーム……堀内君とは違い種類だけど好きなんで、それで思えてたんだ」
特に取り繕っても仕方が無いので、俺はそのまんまを言葉に出して堀内に伝えた。
(クラスメイトって概念が薄い上に、先週は身体測定とオリエンテーションがメインだったしなぁ。しかも、向こうの世界に行ってた訳だし……)
新入学の時のお約束の身体測定や、校内の施設などを知るためのオリエンテーションでは、一応はクラス単位で動いていたのだが、当たり前だがお互いが印象に残るような出来事は無かった。
そして学校よりも印象が強く濃密な向こうの世界での生活があったので、辛うじてでもクラスメイトの堀内の事を覚えていた自分は、賞賛に値するのではないかと思う。
「俺と違うって事は……スマートフォンだからソシャゲ?」
俺がスマートフォンを眺めていたので、堀内は最近主流のソーシャルゲームのプレイヤーだと思ったらしい。
「いや。MMOとか、最近はあんまりやってないけど、シミュレーションとかが好きかな」
種類は違うがゲーム好きの堀内が相手ならばと思い、この辺も正直に伝えておいた。
「ふぅん。そっち方面なら、鈴白君とネットで対戦って訳にはいかないかぁ。残念」
「ははは」
どうやら俺をプレイ相手にとでも思っていたのか、堀内は残念そうに呟く。
「ところで鈴白君、話は変わるんだけど」
「ん?」
堀内はそう言うと、少し俺の方に顔を寄せてきた。
「土曜に駅前で、凄く綺麗な女の人と女の子と一緒だったでしょ?」
「っ!?」
辛うじて表情を崩す事は無かったと思うが、それでも堀内の言葉を聞いて、一瞬息が詰まった。
「……うん」
おりょうさんのような女性と頼華ちゃんみたいな女の子と一緒に行動するというのは、恥ずかしいどころか自分にとっては誇らしい事なので、なんで言葉に詰まってしまったのかと思いながら、正直に堀内に答えた。
「やっぱりそうだったのかぁ。似てなかったからお姉さんと妹さんじゃないよね? 彼女?」
「まあ……うん」
堀内に対して少し言葉を濁すような感じになってしまったが、これは俺がおりょうさんと頼華ちゃんの恋人だと宣言出来る程、自分に自信を持っていないだけだ。
「ところで、駅前のどこで俺を見たのかはわからないけど、堀内君も買い物?」
「あ……あはは。えっと、実は俺も、その……デートだったんだよね」
「そうなんだ」
(これは……噂は本当だったんだな)
堀内悠希にまつわる噂というのは、二年生で生徒会長の神野摩耶と恋人関係にあるという物だった。
(あんな美人と、ねぇ……)
俺自身の容姿がそれ程良いと思っている訳では勿論無いのだが、目の前の堀内も決して美男子とかの部類では無い。
しかし、入学式で高等部代表として挨拶をした生徒会長の神野摩耶は、艷やかな長い黒髪の、一種の迫力を感じる程の美人で、自分の事は棚に上げるが堀内の恋人だと言われても全く実感が沸かない。
「授業を始めます。着席して下さいね」
俺と堀内との会話が途切れたところで、若い女性教師が教室に入ってきて授業の開始を告げた。
星鳳学園高等部には単位としてのホームルームは存在するが、通常の中学や高校で行われている朝と帰りの時間のホームルームというのは無い。
これは単位制なので、生徒によって登校と下校の時間がバラバラだからで、朝の連絡などは行わずに一時間目の授業が始まる。
「……先生、失礼します」
「あ、藤堂さんね? 話は聞いていますので、どうぞ」
「失礼します……」
(あれ? いきなり帰るのか?)
これから授業が開始だというのに、眼鏡を掛けた女生徒が女性教師に語り掛けて立ち上がり、教室を出て行こうとしている。
「藤堂さん、今日は対局か」
背後から堀内の呟きが聞こえた。
(藤堂……ああ、そういえばプロなんだっけ?)
整った容貌だが地味な印象の眼鏡を掛けた、早退するらしい藤堂真姫という名の女生徒は、中学生時代からプロの囲碁棋士だというのを噂話で聞いていた。
どうやら今日は囲碁の対局があるようだが、恐らくは今後も休んだり早退したりする事が多くなるらしい藤堂は、少しでも出席日数を稼ぐ為だけに登校して来たのだろう。
「真姫、ファイトだよ!」
「うん」
教室から立ち去ろうとしていた藤堂に、ショートカットで小麦色に日焼けしている、活発そうな少女から声が掛けられた。
周囲への迷惑を考えてだろう、小柄でショートカットの少女の声は控えめではあったが、しっかりと藤堂には届いたようで、はにかみながら微笑みを返している。
(藤堂さんは広末さんと仲がいいのか)
藤堂に声を掛けている少女、広末桜は中学生時代から全国レベルの陸上短距離の選手だ。
スポーツ特待生としてこの学校に入学した広末は、既に大学や実業団のスカウトから大きな注目を浴びている。




