メープルシロップ
(期間中だったら、ブリュンヒルドは五枚召喚出来ちゃいそうだよな……)
ワルキューレ達はおりょうさんに対して、完全に目上というか格上として接されていたので結び付きは強そうだし、頼華ちゃんも元々のお姫様という身分に相応しいような、丁重な扱いを受けていた。
俺に関しても、たかが幻影の炎を超えてしまった事によって、ブリュンヒルドに勇者として見込まれてしまったらしいのだ。
(あんな、熱くもなんとも無い炎を越えた程度で、勇者とか言われてもなぁ……過去の勇者って、余程大した事が無かったのかな?)
しかしブリュンヒルドの、物理的な力さえ感じられそうな程の熱っぽい視線と、完全に恋する乙女と化していた表情を考えると、実際にはあの幻影の炎を超えるというのは、それなりの難行なのだろう。
催眠術などでも、焼けた鉄の棒だと思い込まされて只の木の棒を押し付けられたら、実際に火傷をしたような症状が現れたりすると聞くので、もしかしたら幻影の炎にもそういう作用があったりするのかもしれない。
「……あ」
「兄上、どうかされましたか?」
ある事を思い出して声を出してしまった俺に、頼華ちゃんから声を掛けられた。
「うん……今のところは困った事も起きていないんだけど、ブリュンヒルドさんを始めとする戦乙女達って、明らかに俺に喚ばれる事を期待してたよね?」
「それは……そうですね」
喚ばれたい理由はそれぞれ違うのだとは思うが、特にブリュンヒルドと、ワルキューレの仕事にあまり熱心じゃ無さそうに見えたオルトリンデの期待は、大きかったように見えた。
「ですが兄上の仰る通りに、特に困るような事も無いのですから、喚ぶ必要はありませんよね?」
「そうなんだけど……ちょっと向こうの身体の事が気になっちゃってね」
「向こうに置いてきた身体、ですか?」
俺の言っている意味がわからないのだろう、頼華ちゃんが首を傾げている。
「うん……」
「それは、どういう?」
「考え過ぎだと思いたいんだけど……置いてきた身体に、何かされたりしないかなって考えちゃってね」
あの場にはフレイヤ様がいたので、ブリュンヒルドが何かをしようとしても止めてくれると思いたいのだが、どうにも不安が拭いきれないのだ。
(まさかのフレイヤ様が何かをするって事も……天照坐皇大御神様もいたから大丈夫だとは思うけど)
最悪の方向に考えが及び、背筋が震えてしまったが、最後の砦とも言える天照坐皇大御神様の存在を思い出し、心の中で小さく溜め息をついた。
「そ、それは……とりあえず、あの指揮官の者だけでも喚びますか?」
俺の感じている危機感を頼華ちゃんもわかってくれたのか、ブリュンヒルドを召喚しようとまで言ってくれた。
「頼華ちゃんがそう言ってくれたのは有り難いんだけど、仮にブリュンヒルドさんを喚ぶにしても、おりょうさんとも相談してからだね」
寝ている間に俺と頼華ちゃんの二人で相談した上に、勝手にブリュンヒルドを召喚までしてしまったら、送り返せとかは言わないにしても、自分の頭越しに色々と行われてしまっては、最終的には納得はしてくれるにしても、おりょうさんの気分は決して良く無いだろう。
「なんにせよ、早くても明日の朝起きてからの話だね」
「そうですね! では、そろそろ寝ますか?」
「そうしようか……って、頼華ちゃんも眠くなってきた?」
コーヒーの所為か眠くないと、ついさっき頼華ちゃんは言っていたばかりだ。
「それ程眠くは無いのですが、明日も出掛けるのですよね?」
「そうだね。お花見だよ」
「では、明日に備えて寝るとします……っと、その前に兄上」
「ん? どうかした?」
俺の膝から降りようとしていた頼華ちゃんだったが、動きを停めて振り返った。
「この、すまーとふぉんを使った遊戯ですが、継続的に行った方が良いですか?」
「いや。頼華ちゃんのクジ運っていうのがどれくらいなのか知りたかっただけだから。でも、学校に行ってて俺がいない日なんかもあるから、そういう時の暇つぶしの一つとしてはいいんじゃないかな?」
確率が悪いと言われているゲームの召喚が、どれくらいの結果になるのかというのを知りたかっただけで、頼華ちゃんにプレイを無理強いする気は全く無いのだが、俺が学校に行っている時間帯の暇つぶしの手段として、残しておいてもいいだろう。
「そうですね! では兄上、寝ましょうか」
そう言いながら、頼華ちゃんは俺の膝から降りた。
「うん……って、なんで頼華ちゃんは俺の後に付いてこようとしてるのかな?」
俺も立ち上がって、まとめた茶器などを流しに置いて部屋に行こうとしたら、何故か頼華ちゃんが後に付いて階段を上がってきた。
トイレに行くのかと思ったが、その場合には壁を挟んで反対側の階段を上がるのだ。
「せっかくですので、兄上と一緒に寝ようかと」
「何がせっかくなのかはわからないけど……朝になって、起きたおりょうさんに状況を説明出来るんならいいよ」
「うっ……」
自分を放っておいて、俺と頼華ちゃんが一緒に寝ているのにおりょうさんが気がついたら、烈火の如く怒るか、無言で重圧を掛けてくるだろう。
その事を想像したのだろう、頼華ちゃんは言葉を詰まらせた。
(まあその場合には、俺も只じゃ済まないだろうけど……)
俺の方から積極的に、頼華ちゃんに一緒に寝るように誘うなんて事はしないと、おりょうさんならわかってくれてると思うが、それでも受け入れてしまったならば、その事実に関しては許しては貰えないだろう。
「わ、わかりました。用を足しましたら、姉上と同じ部屋で休みます」
「うん。おやすみ頼華ちゃん。良い夢を」
「はい! 兄上も!」
清々しい顔で就寝の挨拶をした頼華ちゃんは、ペコリと頭を下げて階段を下りていった。
(さて、寝るにはまだ早いよな……)
頼華ちゃんにはお休みと言ってしまったが、昨夜も就寝時間が早かったので、今日一日かなり歩いたとは言っても全然眠気が無い。
現在は夜の十時くらいだが、こっちの世界での通常時の就寝時間にはまだ早いというのも、眠くない理由だろう。
「少しだけ……」
俺は独り言ちるとパソコンの電源を入れ、ログインボーナスの入手をする為にネットゲームのクライアントを起ち上げた。
「あれ、早いですねおりょうさん」
ログインボーナスを入手して、一時間程度でプレイを切り上げたので、いつもの自分的には昨日の就寝時間は早かったと言える。
お蔭で早起きしたにも関わらずに目覚めも良かったのだが、そんな俺よりも先に起きたらしいおりょうさんが、リビングでお茶を飲んでいた。
「おはようさん。昨日は先に寝ちまったみたいで、悪かったねぇ」
自分が眠った時の状況を覚えていないのか、おりょうさんは困ったような笑顔を浮かべている。
「いえ。こっちに慣れてないから、疲れたんじゃないですか?」
「そうなのかねぇ……そのお詫びに朝飯でもと思ったんだけど、良太の言うように、こっちには慣れてないから、失敗しちゃ申し訳無いと思っちまって、ね」
「ああ、成る程」
緑茶の茶葉や茶器なんかは向こうの物と変わりが無いし、俺が使っているのを見て、電気ポットの扱いはわかったのだろう。
「なら、一緒に朝食の支度をしましょうか。少し待ってて下さいね」
「わかったよ」
俺は歯磨きと用足しの為に洗面所へと向かった。
「一緒にとは言いましたけど、今朝の準備は済ませてあるので、殆ど手伝って貰う事も無いんですよね」
「そうなのかい?」
苦笑しながら冷蔵庫からプラスチック容器を取り出す俺を見て、おりょうさんが首を傾げている。
「ええ。焼くだけなんですけど……せっかくだから、その焼くのをおりょうさんにお願いしましょうか」
「だ、大丈夫かねぇ……」
俺が言うと、おりょうさんは少し不安な表情を浮かべる。
「竈よりは火加減の調節が簡単ですから、大丈夫ですよ。それじゃ先ずは、このフライパンっていう鍋を弱火に掛けて、乳酪を溶かして下さい」
「う、うん……」
不安そうにはしているが、料理自体は慣れているというかプロなので、おりょうさんの手際に危なっかしい感じはしない。
一欠けのバターはすぐに溶けて、細かな泡を発しながらフライパン一面に広がっていく。
「弱火にってのは、乳酪を強火に掛けると真っ黒になっちまうんだったかい?」
「そうです。向こうでの事を覚えててくれたんですね」
向こうでも入手出来たバターを使って、何度か料理をした事があるが、その時に説明した内容をおりょうさんは覚えていてくれた。
「乳酪が溶けて広がったら、仕込んでおいたこれを焼いて下さい」
「うん」
プラスチック容器の中で漬け込んでおいた物を、そっとフライパンの中に置くと、バターの風味の中に甘い香りが広がった。
「随分と柔らかくて甘い香りがするけど、朝から菓子かい?」
「お菓子っぽいですけど、これでも一応は外国の朝食の一種なんですよ」
「へぇ……」
俺の言葉に感心しながらも、おりょうさんはフライパンの中で焼かれる食材から目を離さない。
「そろそろいいかな? それじゃ柔らかいので、これで慎重にひっくり返して下さい」
「わかったよ」
端の方に焦げ目が見え始めた食材を、俺が手渡したフライ返しで、おりょうさんが慎重にひっくり返した。
「いい香り……それに綺麗な焦げ目が付いたねぇ」
「そうですね。さすがはおりょうさんです」
「も、もう……」
お世辞では無く綺麗に焼けているのだが、おりょうさんは薄っすらと頬を染めて、もじもじしている。
「もう良さそうですね。それじゃ皿の方に」
「うん」
俺が用意しておいた三枚の皿に、おりょうさんが焼き上がった料理を丁寧に取り分けた。
「頼華ちゃんはまだ起きてこないか……ついでに、珈琲の淹れ方を教えましょうか?」
昨日行ったMマークのファーストフード店と、湯上がりのアフォガードに対する反応を見た限りでは、コーヒーはおりょうさんの嗜好に合っていたように見えたので、ちょっと話を向けてみた。
「ああ、そいつはいいねぇ。良太がいない時でも飲めるしねぇ」
「それじゃ、豆の挽き方からですね」
俺は注ぎ口の細いポットを火に掛け、コーヒーミルと、冷凍庫に入っていた豆を用意した。
「……茶を淹れるのよりは、ちょいと面倒そうだねぇ」
「それはまあ……ですが、少し儀式的な感じがして、俺は嫌いじゃ無いんですよ」
豆を挽いて、ドリップの最初の段階の湯を少量ずつ注いでいる時や、マキネッタのセッティングをするのは儀式的な感じであり、抽出を行っていると非常に心が落ち着くように思えるのだ。
ただ、その段取りが面倒臭く感じたりもするので、日常的にはインスタントのお世話になる事が多いのだが……。
「豆の量はこの軽量スプーンで一杯が一人分です。濃くしたり薄くしたりというのは慣れてからの方がいいでしょうね」
「そうだねぇ」
プラスチック製の軽量スプーンで三人分の豆をミルに入れ、練習という事で挽くのはおりょうさんに任せた。
「後はこの道具に豆を入れて、この注ぎ口の細いポットで、先ずは少量ずつ湯を注いでいきます」
「ふんふん……」
下に抽出したコーヒーを受ける為のガラスのサーバーを用意して、その上でネルのドリッパーの豆に、注ぎ口の細いポットから少しずつ湯を注ぎ、全体を湿らせるようにしていく。
「それじゃ、俺がこっちを持ってますから、おりょうさんはのの字を書くように、お湯を少しずつ回し入れて下さい」
「わ、わかったよ」
俺が持ったままのネルのドリッパーのコーヒーに向けて、緊張の面持ちのおりょうさんが、慎重に湯を注いでいく。
「この、下の器に一杯分ずつの目盛りがあるので、その分まで湯を注いだら完成です。難しくは無かったでしょ?」
「う、うん……でも、少し緊張しちまったよ」
「あはは。その辺は慣れですね」
ホッとしたのと苦笑が混じり合った表情をしながら、おりょうさんがポットを置いた。
「おはようございます、兄上、姉上!」
コーヒーを淹れ終わり、そろそろ起こそうかなというタイミングで、頼華ちゃんの元気のいい挨拶の声が背後から掛けられた。
「おはよう頼華ちゃん。歯を磨いたら御飯だよ」
「頼華ちゃん、おはようさん」
「はい! すぐに終わらせてきます!」
言うが早いか、頼華ちゃんは軽やかな足取りで洗面所へ向かった。
「それじゃおりょうさん、俺は仕上げをしますから、皿と珈琲の器を運んで下さい」
「仕上げ? まあ、わかったよ」
俺の仕上げという言葉に首を傾げながらも、おりょうさんは出来上がった物を運んで行ってくれた。
「それじゃ、頂きます」
「「頂きます」」
俺の号令で朝食を開始した。
「ちょっと食べる前に待って下さいね」
「えぇー……兄上、このおいしそうな朝食を前にお預けとは、なんと残酷な事をなさるのですか!?」
お預けを食らった頼華ちゃんが、ギロリと鋭い眼光で俺を睨みつけてきた。
「あはは……でも、もっとおいしくしてあげるから、少しだけ、ね?」
「もっとですか!? では仕方がありませんね! ですがなるべく早めにお願い致します!」
「はいはい」
俺はスプレー缶のような容器からホイップクリームを、おりょうさんと頼華ちゃんの皿に盛り付けられている料理の上にたっぷりとデコレートすると、その上から瓶に入ったメープルシロップを掛け回した。
「おおお!? こ、これが朝食なのですか!?」
「ちょっと外国風にしてみたんだけど、こういうのもあるんだよ。さ、どうぞ」
「頂きます!」
フォークを掴んだ頼華ちゃんは、切り分けるのももどかしいと言わんばかりに、荒々しく朝食の料理、フレンチトーストに突き刺した。
「おおっ!? これはなんとも柔らかい! そして……むっはぁー! トロットロで甘くておいしいです! それにこの、上に掛かっているくりーむでしたか? なんとも濃厚な味です!」
一口分を削り取るようにして、クリームとシロップを絡めて口に運んだ頼華ちゃんは、ほっぺたを押さえながら物凄くいい笑顔になった。
「ふぅん。お菓子みたいって思ったけど、この風味は卵に牛の乳……滋養がありそうだねぇ」
大興奮の頼華ちゃんとは対象的に、おりょうさんはフレンチトーストを分析するように味わっている。
「むふぅ! って、兄上。 口直しに飲み物をと思いましたが、これは珈琲という苦いのですよね?」
一気にフレンチトーストの半分程を平らげた頼華ちゃんは、一息つくのに飲み物をと思ったらしいが、用意されていたのがコーヒーだと気がついて、カップを見ながら顔を顰めている。
「牛の乳が入っているようですが、砂糖を入れても苦いのは……」
緑茶などは飲み慣れている頼華ちゃんだが、種類の違うコーヒーの苦味は別扱いなのか、カップを手に取るのを躊躇しているように見える。
「大丈夫だよ。そう言うと思って、あんまり苦くないようにしておいたから」
「そうなのですか?」
「うん。もし口に合わなければ、別の飲み物を用意してあげるから」
念の為にと考え、頼華ちゃん用にココアやオレンジジュースなどの準備はしてある。
「兄上がそこまで仰るのなら……」
少し難しい表情をしながらも、頼華ちゃんはカップを手に取って口元に運んだ。
「む? 珈琲の風味はするのに、昨日よりもまろやかで……これなら飲めます!」
「そう。良かった」
頼華ちゃんは昨日の風呂上がりのアフォガードに感じた苦味を警戒していたようだが、昨日は苦味の冴えたマンデリンであり、今朝はやや酸味が勝っているモカの豆を使用していた。
昨夜のエスプレッソと今朝のネルドリップという抽出の仕方の違いもあり、更に頼華ちゃんの分だけは念
の為に、半量がミルクのカフェ・オレにしておいた事もあって、苦さで飲めないという事態には至らなかった。
「良太。この上から掛けてあるのは、蜂蜜とは違うんだね?」
おりょうさんがフレンチトーストを示しながら言う。
「ええ。メープルシロップと言って、北の方のサトウカエデっていう木の樹液から作られてます」
「樹液!? 良くもまぁ、そんな物を食い物にしようって思ったもんだねぇ」
「それは同感です」
カナダとかの名産のメープルシロップだが、北国の過酷な環境での試行錯誤で生まれたのだとは思うが、これに限らず発端が怪しい食品というのは数多く存在する。
「でも、考えてみれば砂糖の原料のサトウキビも、見た目に砂糖が取れそうな植物には思えませんけどね」
「あたしは見た事が無いけど、そうなのかい?」
「そうですね……竹っぽいかな?」
たまに物産展などで売っている砂糖を絞る前のサトウキビの断面の、細かな繊維質の部分を見ると、予備知識がなければ本当に竹と間違うかもしれないと思う。
「兄上。この、めーぷるしろっぷというのは、向こうでも手に入りますか?」
「難しいかなぁ……あ、いや。確か日本の楓でも、出来はしたはずだよ」
「本当ですか!?」
「うん。とは言っても、向こうでの生産しているのかとか、してるにしても量はどれくらいなのかとかは、調べてみないとわからないけどね」
以前に観たテレビで、秩父の山中で国産のメープルシロップを作っている生産者の方の番組があった。
植林したサトウカエデの他に、日本にも古くから生えているイタヤカエデの樹液からもメープルシロップを作っていると言っていたのを思い出したのだ。
「後でちょっと調べてみるけど、あまり期待はしないでね」
メープルシロップの主要生産国のカナダは森林面積が広いので、樹木一本当たりの樹液量が限られていても、産業として成り立っているのだろうと思うが、現状で日本国内でそれ程メジャーな品目じゃ無い事を考えると、イタヤカエデの生えている範囲は相当に限られていると予想出来る。
「わかりました! でも、この蜂蜜とも砂糖とも違う味わいが、もしかしたら向こうの世界でもと思うと、ワクワクが止まりませんね! あむっ!」
向こうの世界でのメープルシロップへの期待感いっぱいな笑顔で、頼華ちゃんは残りのフレンチトーストを頬張った。




