牛めし
「ところで、おりょうさんが行きたい店っていうのは?」
待ち合わせ場所から近いコインロッカーに空きがあったので、スーツケースを放り込んで身軽になった。
「実は、ね……」
おりょうさんから、思いもよらぬ言葉を聞かされた。
「ええー……そりゃ、俺はたまに利用してますけど、本当にそんな店に行きたいんですか?」
ショッピングモール内にも、小洒落た感じだったり、一風変わった料理を出す店もあるので、買い物中に目についたそういうところを指定するのかと思ったが、おりょうさんは俺の予想を大幅に外してきたのだった。
「そうだねぇ。高級な店とかも行ってみたいけど、こっちの世界の気取らない店ってのも気になってねぇ」
「それにしてった……あんまり女性の利用客はいませんよ?」
「そうなのかい? でもまあ、いいじゃないか。さ、行こうかねぇ」
「……わかりました。でも、あんまり期待はしないで下さいね?」
口調は柔らかいが、俺の腕を取ったおりょうさんの態度には有無を言わせぬ物を感じるので、気は進まないが折れる事にした。
「楽しみです!」
「頼華ちゃんまで……期待外れかもしれないよ?」
おりょうさんと反対側の手を握り、嬉しそうにブンブンと前後に振る頼華ちゃんは、言葉通りに期待に表情を輝かせている。
「あ、そうだ。頼華ちゃん、ちょっと御免ね」
頼華ちゃんと繋いでいた手を離し、ポケットの中からカードを二枚取り出した。
「これは?」
「交通系の電子カードです。公共の交通機関を利用する際に使えるのと、一部店舗や自動販売機なんかで買い物も出来ます」
さっき書店にいる時に、このカードを買っておくのを忘れていたのに気がついたのだった。
カードの購入時にデポジットとして五百円分のチャージがされているのだが、それ以外に五千円分を別に入金しておいた。
「なんか色々あるんだねぇ」
俺から受け取ったカードを財布に入れながら、おりょうさんが呟いた。
「スマートフォンに統合とかも出来るんですけど、故障すると全部が使えなくなっちゃうので……」
「そいつは困るねぇ……」
統合すれば便利にはなるのだが、相応のリスクが有るという事は、おりょうさんにもわかったようだ。
「特に、その二人が契約した会社は、トラブルの対応が遅くって……」
「そうなのかい?」
「短期間なので、大丈夫だと思いますけどね」
俺が両親と一緒に契約している会社は、最古参で最大手なのだが、料金の値引きなどはイマイチな代わりに、営業所に行けばすぐにトラブル対応してくれるのだ。
一方、手軽な契約と各種サービスでのし上がって来た、おりょうさんと頼華ちゃんが契約した会社は、トラブルの際の窓口の対応が遅い上に、端末の種類によっては交換などが数日待ちになってしまう事もあるのだ。
(でも、二人が買い物でハズレを引く事は無さそうだしなぁ)
神仏の口から、元々からおりょうさんはツイているという言質を取ってあるし、更に加護を得ているのだ。
頼華ちゃんに至っては、八幡神様が愛し子とまで言っているので、強運なだけでは無く、様々な出来事から護られているだろう。
そんな事を考えながら歩いている内に、ショッピングモールから少し離れた場所にある、おりょうさんが御所望の店の前に辿り着いた。
「この機械で、食券ってのを買うんだね?」
「ええ。でも、本当にいいんですか?」
既に店の中に入っているのだが、食券の販売機を前にしても、俺はまだ二人を連れてきた事に関して迷いがあった。
おりょうさんの要望したのは、黄色い看板の牛めしと定食の店だったのだ。
「いいんだよぉ。テレビの、なんつったっけ……こまーしゃるかい? あれで観て、この店に来たかったのさ」
「……それじゃ、これがコマーシャルでやってた奴です」
諦めた俺は、初めての食券販売機に幻惑されておりょうさんが迷っているので、コマーシャルでタレントが旨そうに食べていたメニューを代わりに押した。
「兄上! 余はこの店の名前にあるあれを食べてみたいです」
「わかった。お腹は減ってる?」
「はい!」
自慢げに言う事でも無いのだが、元気に空腹宣言をした頼華ちゃんの為に、俺は大盛りの食券のボタンを押した。
自分用の食券も買って店内の奥を見ると、混雑する時間帯を外したからか、運良くカウンター席に三人並んで座れそうだ。
「お待ち遠様です。チキンのチリソース定食、牛めしの定食の大盛り、豚焼肉定食になります」
予め前に並んでいた味噌汁と生野菜の皿の後から、三人が頼んだメニューがほぼ同じタイミングで並べられた。
「兄上。これはどう食べるのがおいしいですか?」
「好みにもよるんだけど、俺の場合は生卵を溶いて少し醤油を入れて上から掛けちゃって、そこの紅生姜を添えて、軽く七味を振って、が定番だね」
御飯の上に煮込んだ牛肉と玉ねぎが盛り付けられただけという牛めしにも、人によって色々と流儀があるので、頼華ちゃんへの説明にも言葉を選ぶ必要がある。
「成る程! では……」
「ちょっと紅生姜が多めじゃないかな……」
「うむ! 牛の特有の獣臭さは感じないですが、醤油と生姜風味の肉と卵が溶け合うように調和して、これはおいしいですね!」
頼華ちゃんは俺の言った通りに溶き卵を掛けてから、容器に付属しているトングで大きくひと掴みした紅生姜を丼に盛り上げ、控えめに七味を振り掛けてから丼に直接口を付け、お姫様とは思えない豪快な食べっぷりを見せた。
カウンターを挟んで正面に立っているアルバイトらしい若い女性の店員も、幼いながらも和風美人の頼華ちゃんの食べっぷりを、呆然と見つめている。
「良太。この皿の野菜はどう食うのがいいんだい?」
千切りのキャベツと人参をメインにしたサラダを目の前にして、おりょうさんが少し戸惑っている。
(向こうじゃ生野菜を食べるっていうのは少ないみたいだから、仕方が無いか)
魚介類を生食する割には、向こうの世界では現代のように野菜を生でという食べ方は少なく、殆どが火を通すか漬け物などにしている。
「この、向こうでも作ったマヨネーズ主体のドレッシングっていうのを掛けるのが、一般的ですね」
「おお、まよねーずですか! では早速!」
マヨネーズや、そこから派生したタルタルソースを気に入っている頼華ちゃんは、牛めしの丼を一旦置くと、ドレッシングを掛けてサラダを食べ始めた。
「ふむ……細く切ってあるのに歯応えがあって、少し青臭いですが、まよねーずが掛けてあると、それもあまり気になりませんね」
「こういう風に千切りにしたキャベツは、向こうで食べた猪の肉を揚げた料理があったでしょ? ああいう、カリカリの衣をつけたフライっていう料理の添え物に、良く使われてるんだよ」
天ぷら方式の油で揚げる方式のカツレツを生み出した老舗の洋食屋では、時代背景もあって繁盛したので料理の添え物の温野菜などが客に提供するのが追いつかなくなり、苦肉の策としてそれまでロールキャベツなどにしか使われていなかったキャベツを、千切りにして添えたら受けたと言われている。
「おお! それは試してみたい物ですね!」
「家か店でかはどっちでもいいとして、近い内に食べてみようか」
「是非! でも兄上、向こうにもキャベツはありましたよね?」
どうして向こうでは出なかったのかという尤もな疑問を口にしながら、頼華ちゃんは味噌汁の椀を傾ける。
「実はフライとキャベツの千切りには、重要な調味料が欠かせないんだけど、向こうではそれが調達出来なかったんだよね……」
「なんと!? それは兄上でも再現出来なかったのですか?」
「そうなんだよねぇ……」
いま頼華ちゃんが食べているような、マヨネーズやドレッシングでも構わないのだが、個人的にとんかつなどにはウスター系のソースが欠かせないと感じている。
以前に観たテレビ番組で、ウスター系のソースの主成分は野菜とフルーツを摩り下ろした物を主体として、酢と香辛料などを加えて煮込み、熟成させた物だというのは知識としてわかっていた。
しかし、まず材料の配合が不明だし、向こうの世界ではこっちとは違って、通年でフルーツ、しかもウスター系のソースに合うような外国品種の入手などは、ほぼ不可能だった。
(多分トライしても、これじゃない何かしか出来なかっただろうなぁ……)
ウスター系のソースが完成したら、お好み焼きなど作りたいメニューは沢山あったのだが、おりょうさんや頼華ちゃんや里の子供達の健全な食生活を考えると、下手に冒険は出来なかった。
「まあこっちには完成品があるし、調べれば向こうでも作れるかもしれないね」
今時は、店のメニューやメーカー品を家庭で再現しようという強者がネットにいるので、もしかしたらウスター系のソースを、向こうで作る事が出来るかもしれない。
「それはそれで良い事だと思いますが、仮に再現出来なくても兄上は多くのおいしい料理を作って下さいますから、あまり思い悩まないで下さい」
「うん。ありがとう」
主に自分が食べたかったので再現しようと思っていたのだが、頼華ちゃんに言われて心が軽くなったような気がするという事は、結構思い詰めていたんだなと実感した。
「良太。まよねーず以外にも和風とかあるけど、これも野菜用かい?」
サラダ用和風ドレッシングと書かれたプラスチックの容器を指差して、おりょうさんが訊いてきた。
「醤油ベースに胡麻油の風味で、それもおいしいですよ。俺は軽く七味を振って、ポン酢を掛けて食べるのが好きですけど」
頼華ちゃんの食べ方を否定する訳では無いのだが、今日のような定食なら気にしないが、牛めしの合間に
食べるサラダにマヨネーズ味が合わないと思っているので、七味とポン酢で食べる事が多いのだった。
ただ、実は俺がサラダに掛けているポン酢は焼き肉用だったりするので、店側としてはあまり推奨しない食べ方かもしれない。
「そいじゃあたしも、そうしようかねぇ」
俺と同じ様にポン酢と七味でサラダに味付けをしてから、おりょうさんも定食のチキンに手を付けた。
「ん……肉がちと辛めだけど、旨いもんだねぇ。このポン酢で和えた野菜が、口直しに丁度いいよ」
「それは良かったです」
チリソースがやや濃い目の味付けという事もあって、ポン酢で食べるサラダは口をさっぱりさせてくれたようだ。
「む! 兄上、余にもそれを一口頂けますか?」
自分のサラダの味付け自体は口に合ったみたいだが、頼華ちゃんはポン酢味が気になっているらしい。
「いいよ。これも食べてみる?」
俺はサラダと、タレを掛けた豚の焼き肉も示した。
「宜しいのですか!? では、余の方の肉も……」
「いや、別にお返しはいいから」
貰う分のお返しにと、頼華ちゃんが牛めしの肉を箸で摘んで俺の皿に載せてきたのだが、なんとも律儀だ。
「頼華ちゃん、あたしのも食べるかい?」
「頂きます! では、姉上にもお返しを」
おりょうさんの皿からチキンを一切れ取り上げた頼華ちゃんは、やっぱり律儀に丼を差し出した。
「そうかい? そいじゃ遠慮無く」
おりょうさんも牛めしに興味があったのか、七味が掛けてある肉を控えめに箸で取り上げた。
「ん……牛の肉も旨いねぇ。早く出てくるし安いし、さっと飯を食うにはいい店じゃないか」
「そうなんですけどね」
江戸のファーストフードと言われていた、蕎麦屋を経営していたおりょうさんには違和感は無いようだが、この手の店はイメージ的に学生や独身男性の利用者が多く、実際に今も女性は、俺の同行者の二人だけだ。
「むぅ。豚の焼き肉というのもおいしいですね! 次に来た時に、何を食べようか迷います!」
「え。また来るの?」
「いけませんか?」
「そうは言わないけど……」
おりょうさんのリクエストではあるが、連れてきた人間としては気に入ってくれたのは嬉しいけど、向こうの世界に帰るまでにの間に利用する、回数が限られる食事の場所がこういう店でいいのかなとは思ってしまう。
「あ、でも、俺が学校に行ってる間の食事は、ここでもいいのか」
おりょうさんは勿論出来るが、手伝いをしてくれていた頼華ちゃんも大分料理の腕が上達してきたので、俺が学校に行っている間の昼食などは、当然自宅で食べるものだと考えていたが、外食をしたってなんの問題も無いという事に今更気がついた。
「旨いけど、ちと味が濃過ぎるんで、あたしはそんなにしょっちゅうは来たいと思わないけどねぇ」
客商売をしていただけあって、おりょうさんは店員に気を使って、俺の耳元で小声で囁く。
「でもまあ週に一回くらいなら、いいかもしれないねぇ」
「そうですね」
俺としても同じ金額を払うのなら、毎日利用する学食のような例外を除けば、前日に入った店以外をセレクトすると思うので、週一ペースくらいが飽きが来なくて良いと思う。
「それに、同じ様な形態の店が他にもあるんだよ」
「そうなのですか!?」
店員の目を憚って頼華ちゃんの耳元で囁くと、牛めしを掻き込む手を止めて驚いている。
「うん。ほら、あそこにも」
角度的に店内から見える位置だったのだが、俺が指差す先には、オレンジ色のテントの同業の店舗がある。
「あそこ以外にもう一つ、似たような営業形態の店があるんだけど、ネットで品書きとかも調べられるよ」
「楽しみが増えました!」
そう言うと、頼華ちゃんは食事を再開した。
「まだ服の方の買い物はしますか?」
牛めしの店を出て、ショッピングモール近くの複合ビルにある、アルファベットのMがトレードマークのファーストフード店に入って一休みしながら、これからの予定を話し合った。
「む。蜜柑とはまた違う、酸っぱ過ぎない爽やかな甘さ……そしてこちらは、おお!? あいすとは違う、ふわりとした口当たりと甘さに、この風味は!?」
定食の大盛りを食べているのに、頼華ちゃんは興味があるということで、オレンジジュースにソフトクリーム、アップルパイまで注文した。
「アイスとは違う風味……ああ、バニラの香りだね」
「バニラというのが、この不思議な甘い香りの正体ですか!?」
「うん。バニラって植物の実を発酵させた物なんだけど、多分向こうでは手に入らないなぁ」
ウスター系のソース以上に、向こうで再現したプリン、ホットケーキ、アイスクリームに使いたかったのがバニラだったのだが、無論の事、ビーンズもエッセンスも入手は困難だろう。
「この風味以外の、不思議な触感は再現可能なのですか?」
「う、うーん……調べてみるけど、難しいだろうなぁ」
「そうですか……では、こっちにいる間にいっぱい食べておきます!」
「ははは……」
少し落胆していた頼華ちゃんだったが気を取り直したのか、ソフトクリームを食べるのを再開した。
そんなデザートを楽しんでいる頼華ちゃんとは違って、俺はおりょうさんの飲んでみたいというリクエストに合わせて、ホットコーヒーにした。
「あたしは服の方は十分だねぇ。ふむ……苦いけど、奥の方に甘みを感じるねぇ」
「苦味が気になるようなら、紅茶と同じにこのミルクと砂糖をどうぞ」
俺自身はコーヒーはブラック派なので使わないが、念の為にコーヒーフレッシュもスティックシュガーも二つずつ貰っておいた。
「苦味も味わいみたいだから、砂糖だけ貰おうかねぇ。ん……ああ、飲み易くなったよ」
気になる苦味をポーカーフェイスで我慢していたのか、スティックシュガーを一本入れて掻き混ぜ、一口飲むとおりょうさんは笑顔になった。
「あたしは服はもういいけど、靴が欲しいかねぇ」
「ああ、買った服に合わせる分ですね」
「そうなんだよ」
「靴の専門店があるので、そっちを見に行ってみましょうか」
女性用の衣類の専門店では靴を扱っているところもあったはずなのだが、そこではおりょうさんが買った服に合うと思う物が無かったのだろう。
「そうしてくれると有り難いよ。頼華ちゃんもそれでいいかい?」
「パリパリの生地に、甘いりんごの風味が……ん? 姉上、なんですか?」
「いや。食うのを邪魔して悪かったねぇ」
「そんな事は無いですが?」
アップルパイを食べるのに熱中していたので、良くわからないと首を傾げる頼華ちゃんに、俺とおりょうさんは苦笑するしか無かった。
「……こんなに細くって、踵の高い靴ってのもあるんだねぇ」
二十センチくらいの高さのピンヒールを見て、おりょうさんが呆れている。
「まあ売ってるって事は買う人がいるんでしょうけど、俺はオススメはしませんよ」
男性用にもヒールの高い靴はあるが接地面は狭くないので、地面に刺さりそうなヒールで転ばずに歩ける女性は凄いと思う。
「そりゃあたしだって、こんなの履いてまともに歩ける気がしないさね」
ピンヒールを見るだけで手にも取らず、おりょうさんが苦笑する。
「でも……少しくらい踵が高い方が良太と歩く時に、肩を並べる感じでいいのかねぇ」
「その辺はお好きに」
俺とおりょうさんとでは十センチ以上の身長差があるのだが、個人的には気になっていない。
頼華ちゃんが相手だと、俺との身長差は三十センチくらいある。
「もう。少しくらい、意見をくれたっていいだろぉ?」
「そう言われても、どんな服を買ったのかも知らないので……」
服と靴を並べられれば、色やデザインから意見を述べる程度は出来るのだが、袋ごとスーツケースに入れて預けてしまったのだ。
「むー……じゃ、じゃあ、何足か選ぶから、どれがいいのかくらいは言っておくれよ」
「それくらいなら、お安い御用ですよ」
漠然と自分のイメージに合わせろとか言われると困るが、おりょうさんがセレクトしてからの最終決定くらいなら、なんとかセンスが追いつくだろう。
とはいえセンスが問われる事に違いは無いし、責任が重大なのは変わらないのだが……。
「兄上! こんなのはどうでしょうか?」
「ん? ああ、リボンっぽい飾りがアクセントになってて可愛らしいね。頼華ちゃんに良く似合いそうだよ」
「そうですか!? えへへ」
キッズのフォーマル系は少なめなのだが、その中から頼華ちゃんは、淡いピンクで全体を構成されていて、甲の部分にリボンの形の飾りがついている靴を持ってきた。
入学式のような記念の日に履くには良さそうで、どういう服を買ったのかはわからないが、頼華ちゃんに似合うのは間違い無さそうだ。




