ブリュンヒルド
「す、少し失礼します!」
「あ、はい……」
二柱の女神様の前で不敬だが、おりょうさんと頼華ちゃんが溺れないように抱え上げながらそう言うと、自分降臨にここまで劇的な効果があるとは思っていなかったのか、天照坐皇大御神様は少し申し訳なさそうに俺に返事をした。
力が抜けきってグニャグニャになっている、おりょうさんと頼華ちゃんを湯船から引き摺り出し、介抱する前にとりあえずその場に仰向けに寝かせた。
「……これでいいかな」
即席で作った厚手の蜘蛛の糸の布を敷いて、その上におりょうさんと頼華ちゃんを寝かせ直し、全裸放置はあんまりなので身体の上にも布を掛け、のぼせとはちょっと違うのだが念の為に、濡らして絞った手拭いを二人の頭に載せてから、やっと一息ついた。
怪我や病気とは違うので、気を送り込んでも回復したりはしないだろうから、二人の事は自然に回復するのを待つしか無いだろう。
「御降臨されたのに、不敬な行いをしまして……二人も悪気はありませんので、何卒御容赦を」
なるべく丁寧に天照坐皇大御神様に謝りを入れるが、入浴中という事もあって全裸なので、なんとも締まらない感じを自覚する。
「驚かせてしまった良太さんの許嫁のお二人には、悪い事をしてしまいましたね。私の方は気にしておりませんので、そう畏まらないで下さい」
「そう言って下さいますと……」
そんな事にはならないと信じたいが、機嫌を損ねてこの辺りの天候が不順にでもなったら困るので、天照坐皇大御神様に対して失礼な行いは厳禁だ。
「う……」
「む……余はいったい?」
「おりょうさん、頼華ちゃん、大丈夫ですか?」
小さく声を漏らしておりょうさんが身動ぎし、ほぼ同時に頼華ちゃんが上半身を起こした。
「ああ、まだそんなに身体を動かさないで……冷たい物でもどうぞ」
「あ、ありがとう」
「頂きます!」
まだおりょうさんの方はぼんやりしているが、頼華ちゃんは俺がドラウプニールから取り出した、冷たい麦湯の注がれた湯呑を元気良く受け取って、一気に煽った。
「ん……はぁ。ありがとう良太。頭がはっきりしてきたよ」
「御馳走様です、兄上!」
「どう致しまして。飲み物だけじゃ無くて、冷たい食べ物もどうぞ」
二人が飲み干した湯呑を受け取りながら、俺はドラウプニールから小皿を取り出し、そこへ残り少なくなっている、チョコレートとキャラメル味のアイスクリームを盛り付けて渡した。
どうせ里の全員分に行き渡る程の量は残っていないので、ここで二人に出してしまっても構わないだろう。
「すまないねぇ」
「頂きます!」
変に遠慮したりする事無く、おりょうさんも頼華ちゃんもアイスクリームの載った小皿と鉄の匙を受け取った。
「あの、良太さん」
「あ、すいません。何か?」
遠慮がちに掛けられた、天照坐皇大御神様からの声に振り返る。
「っ!? そ、そうだった……なんでこういう状況になっているのか、思い出したよ」
「そ、そうでしたっ!」
「……えっ!?」
「「大変失礼を致しました」」
小皿と匙を置いたおりょうさんと頼華ちゃんがその場で平伏すと、成り行きを見守っていた天照坐皇大御神様が驚きの声を上げた。
「御二人とも、私が驚かせてしまったのが悪いのです。どうぞお顔をお上げ下さい」
「で、ですが……」
直接見る事自体が不敬に当たるとでも思っているのか、おりょうさんも頼華ちゃんも頑なに顔を上げようとはしない。
「御二人がお顔を上げられないと、私、良太さんに怒られてしまいますわ」
「そんな訳無いですよ!?」
「わ、わかりましたっ!」
「恐れながら、顔を上げさせて頂きます!」
俺が怒るという点では無く、神様を困らせる訳に行かないという結論に達したのだと思うが、おりょうさんと頼華ちゃんは、そろそろと鈍い動作で顔を上げた。
「ささ。お身体が冷えてしまいますから、どうぞ一緒にお湯に浸かりましょう」
「ええ……」
「そんな……許されるのでしょうか」
今までは、ちょっとやそっとの事では物怖じしなかったおりょうさんと頼華ちゃんだが、天照坐皇大御神様からの入浴のお誘いには、明らかに怖気づいている様子だ。
「まあ、いいんじゃないんですか」
「良太……」
「兄上、そんなお気楽な……」
「って、言われてもなぁ……」
神様の立場じゃ無くても、自分達が湯に浸かって、相手の方は裸で外にいてというのは相当に心苦しいと思うので、ここは言う事に従うのが正しいと考える俺は、おりょうさんと頼華ちゃんからするとおかしな反応をしているみたいだ。
「いいですから御二人共、いらっしゃいませ。それと良太さん、良ければその冷たいお菓子を、私とフレイヤにも頂けないでしょうか?」
正に女神の微笑みで、天照坐皇大御神様が優しく語り掛けてくる。
「ほら、おりょうさんも頼華ちゃんも、これ以上は逆に失礼ですよ」
「う……わ、わかったよぉ」
「よもやこのような事が、余の身の上に……」
観念したらしいおりょうさんと、何やらぶつぶつと呟いている頼華ちゃんは、アイスクリームの小皿を持って湯船へと歩き出した。
「し、失礼します……」
「失礼します!」
二柱の女神様の見つめる中、おりょうさんは恥ずかしそうに、頼華ちゃんは意を決したかのように元気な声を出しながら、そっと湯船に入り直した。
「お待たせしました……って、あの、用意しましたけど、食べられるのですか?」
これまで伊勢や、この里の祠に食べ物も奉納した事はあるのだが、それは形式的であって実際に食べたりしたのを見た事は無い。
もしも食べられるのならば、逆にこれまで食べなかったのが不自然に思ってしまう。
「ええ。この身体なら大丈夫なのでございます」
「この身体って、これまでと何か……あれ? そういえば、いつもは後光があるのに、今日は無い?」
フレイヤ様も天照坐皇大御神様も全裸なので、出来るだけ直視しないようにしていたのだが、だからなのか、これまでは薄く後光を纏った姿で降臨していたその姿が、今日ははっきりと見えているのに、今更ながらに気がついたのだった。
「この身体は、フレイヤが配下のワルキューレを派遣する際に、一時的に肉体が必要な場合に用いる物なのです」
「ああ、そういえば聞いた事が……」
戦場で魂を連れ帰るには、実体の無い状態でも問題が無いのだろうが、ワルキューレは時折、神から人の営みの中に遣わされる事がある。
その時には肉体が与えられ、中には日本の羽衣伝説のように空を飛ぶアイテムを隠されてしまって、人間の男性に娶られたワルキューレもいると言われている。
「正確にはワルキューレのように魂を乗り移らせているのとは違いまして、自分の一部を仮初めの肉体に封じて操っているという状態なんですけどね」
「成る程。なんとなくわかりました」
同じ扱いをしては失礼だが、俺が分体の蜘蛛を通じてある程度の感覚を共有しているのと、同じ様な物なのだろう。
「お口に合うかわかりませんが、どうぞ」
「ありがとうございます! いつも見ているだけだったので、一度御相伴に預かりたかったのです!」
「私も。有り難く頂きますね」
嬉々として俺から小皿と匙を受け取った天照坐皇大御神様とフレイヤ様は、早速アイスクリームをひと掬いして口に運んだ。
「あんまあぁーいぃ♪ でもスッキリとしていて、この冷たさ。やはり人……いいえ、良太さんは侮れませんねぇ」
匙を咥えたまま目を閉じて、天照坐皇大御神様が幸せそうに身体を震わせている。
「んんーっ! 甘さの中にほろ苦さもあって……冷たいのにおいしい物ってあるんですねぇ」
「え、それはどういう?」
チョコレート味のアイスを味わいながら、なんか妙な事をフレイヤ様が言い出したので、訳を尋ねてみた。
「私の信仰されている地域は、短い夏以外は凍てついているのは御存知ですよね?」
「ええ」
行った事は勿論無いのだが知識としては、冬季の北欧が酷寒の地なのは知っている。
「現地の人間にとっては貴重な食料ではあるのですが……奉納されるのは主に、凍りついた肉や魚ですので、冷たいと言うよりはカチカチでして」
「そ、そうですか……」
自然が厳しい中での奉納品なので、フレイヤ様も文句は言いたくないのだとは思うが、確かにそういう状況ならば、冷たくて甘いお菓子というのは驚きの対象なのだろう。
「それで良太さん。この身体が、先程の協力するというお話に繋がるのですが」
「そのお身体が、ですか?」
(手が足りないって話に、女神様が降臨するのに使える身体の話が繋がる? それって……)
「あの、もしかしてなんですけど……」
「ええ。私の配下の戦乙女を、良太さんにお貸ししちゃいます!」
「や、やっぱり……」
目の毒なのでやらないで欲しいのだが、フレイヤ様はえっへんと、魅惑的過ぎる豊かな胸を張った。
フレイヤ様は死せる勇士、アインヘリヤルを、オーディンと半分ずつ分け与えられる権利を持っていると言われているが、そのアインヘリヤルを集める関係で、配下にワルキューレがいるのだろう。
「でも、神様は直接介入はしないんじゃ無かったんですか?」
自分やおりょうさんや頼華ちゃんが権能の一部や加護を与えられているので、全面的に不干渉では無いというのはわかっているのだが、神仏は人の世のバランスが崩れるような、直接的な力の行使はしないはずである。
「厄介な式神をなんとかするのに力をお貸ししても、神仏間の力関係に歪みは出ませんし、私が出向くのでは無くて配下を動かすだけですから、特に影響も問題もありません」
「そ、そうですか」
(ワルキューレだって、人間からすれば強大な存在だと思うんだけどなぁ……)
フレイヤ様はしれっと言うが、仮初めの肉体で本来のワルキューレの能力に制約が掛かるとしても、人間の目から見れば十分以上に強大だろう。
しかし様々な神話等で、ワルキューレのような神の使いや天使が降臨して、神の言葉を伝えたり直接協力したり、加護やアイテムなどを授けたりする例は数多い。
「戦場を駆け回って魂を集めるくらいしか能の無い娘達ですが、どうぞ良太さんのお好きなようにお使い下さい」
「私の方でも手勢を出せれば良かったのですけど、フレイヤのように適当な配下がおりませんので……」
「そのお気持ちだけで十分です。戦乙女の方々だけでも、戦力としては過剰過ぎるくらいですから」
ワルキューレの元々のモチーフは、ヴァイキングの戦士と並んで戦っていた、盾の乙女と呼ばれていた女戦士とされているので、そこから更に神格化したのだから戦力として疑う余地は無い。
その上で鎧兜に身を固め、剣や槍などを携えているという完全武装状態で描かれているので、攻防の両面に於いて非常に優れているだろう。
「今日明日で式神の元に赴こうとはお思いでは無いでしょうけど、今の内に顔合わせだけでもしておきましょうか」
「えっ!?」
「ブリュンヒルド、いらっしゃい!」
俺が驚いている間にフレイヤ様の声に応じて、宙に輝く異様な図形が浮かび上がった。
(あれは……五芒星だから召喚の魔法陣なのか?)
輝く模様は二重の同心円の内側に五芒星が描かれ、数箇所にルーンと思われる、文字にも記号にも見える物が配置されている。
俺達が見守る中、召喚の魔法陣と思しき図形から、白銀に輝く鎧兜を身に纏った女性が姿を現した。
(オープンヘルムに、一部に装甲のあるチェインメイルとバックラー、それと槍に剣か)
良く描かれている、羽の飾りが付いた兜から除く顔は、非常に整っているのだが硬質な印象で、どことなく白ちゃんに似ている。
胸や肩などのあまり動かない部分を金属板で補強してあるチェインメイルを身に纏い、左腕には小型の円形の盾、バックラーを装着し、右手には二メートル程の槍を携え、腰には長剣を帯びるという、厨ニ気味の自分にとっては非常にロマン溢れる姿だ。
「こりゃまた、随分と仰々しい格好だけど、美人さんだねぇ」
「なんとも見事な武具です!」
おりょうさんと頼華ちゃんでは気になるポイントが違っているようだが、魔法陣から現れた完全武装の美女は、険しい表情で俺を睨みつけている。
(金髪の美人だけど、フレイヤ様や天とは印象が全然違うな)
フレイヤ様と天は北国の女性特有の、痩せてはいても寒さに耐える為の身体の柔らかさを感じるのだが、現れた戦乙女は細面の顔や鎧の隙間から覗く肢体からは、無駄が徹底的に削ぎ落とされているように見える。
「フレイヤ様の命により、ブリュンヒルド参上致しました」
長いストレートのプラチナブロンドをなびかせながら俺をもうひと睨みすると、恐らくは世界で一番有名なワルキューレであるブリュンヒルドと名乗った女性は、フレイヤ様に向けて跪いた。
「ブリュンヒルド。良太さんへの失礼な態度は許しませんよ」
「っ……こればかりはフレイヤ様のお申し付けと言えども、従えません」
「……フレイヤ、これはどういう事ですか?」
「「……」」
ブリュンヒルドとフレイヤ様のやり取りを見て、天照坐皇大御神様があからさまな不快感を示している。
僅かな物ではあるが神様の怒りの感情を感じ取って、おりょうさんと頼華ちゃんが小さく身震いした。
「予め申し含めてはいたのですが……でもこの子、ブリュンヒルドは、自分よりも強い相手でなければ配下にはなれないって言って聞かなくて」
「あら、それなら簡単では無いですか。良太さんにはお手間をお掛けしてしまいますが」
「えー……」
失礼な態度だとは思いつつも、天照坐皇大御神様の言葉を聞いて、そんな声が漏れてしまった。
「な!? この国を司る神のお言葉ではありますが、私がこの男に劣ると仰るのですか!」
「あら。戦うしか能がないのかと思っていましたが、私の言っている事が理解出来るのなら、どうやら頭は悪くないようですね」
「……」
天照坐皇大御神様の挑発するような言葉に、神様が相手でも臆する事無く、ブリュンヒルドは明らかな怒気の込もった視線を送る。
「はぁ……これは実際にわからせるしか無いでしょうね。良太さん、申し訳ないのですが」
溜め息を付きながら、フレイヤ様が本当に申し訳なさそうに俺に頭を下げてくる。
「くっ。フレイヤ様に頭を下げさせるなど……」
「えーっと……」
俺自身は何もしていないのに、フレイヤ様が頭を下げた事によってブリュンヒルドの怒りのゲージが限界突破しているように思えるのは、気の所為では無さそうだ。
「はぁ……仕方が無いですね」
立ち上がって湯船から出た俺は、幾ら何でも裸のままで向かい合うのは失礼だと思ったので、身体が濡れているがドラウプニールを操作して作務衣を身に着け、ブリュンヒルドの近くまで歩み寄った。
「それで、立ち会うんですか? だったら出来れば武器は無しで……」
ちょっとした傷程度なら気で癒せるし、いざとなればドラウプニールがあるのだが、お互いにそこまでしてもなんの益も無いので、武器を使った戦闘は出来れば回避したい。
「ふん。貴様程度の相手に、直接戦闘をするまでも無い」
「え? ではどのように?」
俺に対する嫌悪感を隠そうともしないブリュンヒルドは、どうやら戦闘をする気は無さそうだ。
「なに、簡単な事だ。この……」
「!?」
ブリュンヒルドが手にしている槍を横薙ぎにすると、俺との間の床に炎が発生した。
炎の範囲は横に二メートル程度と狭いが、高さも同じくらいある。
「私との間を隔てる炎を越えてこられたならば、貴様の強さと勇気を認めてやろう」
「え……」
「ふっ。出来ないだろう? であれば、貴様の配下になるなど……って、なぁっ!?」
「これでいいですか?」
何やら得意気に語っている間に炎を突っ切ると、俺の姿を認めてブリュンヒルドが後退っている。
炎を突っ切った俺自身にも衣類にも、なんのダメージも受けてはいない。
「え? あの、こんなに簡単な事で良かったんですか?」
驚愕を顔に貼り付けたままブリュンヒルドが固まっているので、フレイヤ様の方を見て尋ねた。
「この子の言う課題を突破したのですから、構いませんよ」
「そうですか……」
(こんな熱くもなんともない炎を越えろって、俺は何を試されたんだろう?)
ブリュンヒルドが槍を振るって出した炎は、実体の無い幻影の炎であり、その正体は目を凝らせば簡単に看破出来る物だった。
観世音菩薩様から授かった権能に、明かりに使える熱くない炎があるが、あれとは似て非なる物だ。
カラン……
「勇者……」
「え?」
何かが床に落ちる音に、フレイヤ様からブリュンヒルドに視線を移すと、さっきまでの嫌悪感混じりの表情はどこかへ消え去り、脚元には音の源と思える槍が、手から離れて転がっている。
頬を染めたブリュンヒルドから送られてくる視線には、明らかにある種の熱さが込められているのを感じる。
「あなたが炎を超えて、私を救い出す勇者なのですね!」
「ちょ!? フレイヤ様!?」
「あー……こうなっちゃいますよねぇ」
(勇者って、俺をジークフリードと思ってる!?)
炎の結界を突破したジークフリードが、名剣グラムで鎧を断ち割ってシグルドリーヴァというワルキューレをを目覚めさせるエピソードがあったが、後に細かな脚色を加えられてニーベルンゲンの指輪という戯曲になる。
もしかしたらこの時のエピソードの炎も幻影だったというオチなのかもしれないなと、こんな状況にも関わらずに脳内で検証してしまった。
(幻影でも、信じ込めばダメージが与えられるって聞いた事はあるけど、この程度じゃ……こんな簡単な課題で勇者って言われても困る!)
より視線に熱を込め、じりじりと俺に近づいてくるブリュンヒルドを見ながら、俺はどういう風に出てきても対処出来るようにと、軽く手を挙げて少し膝を曲げた姿勢で身構える。




