女神降臨
大泣きするフレイヤ様を、そのままでは俺達も含めてのぼせてしまうので湯船の淵に座らせて、三人掛かりで慰め続けた。
「でも、でもぉ……」
(なんか泣いたら、すっかり幼くなっちゃったな……)
北欧神話に登場する女神の中で最も美しいと言われているだけに、輝くばかりの美しさと生気にあふれる姿は、男性だけでは無く女性も魅了する。
しかし腕の中で泣き続けているフレイヤ様は、言葉や仕草まで幼児退行してしまったようになり、生来の魅力以外に保護欲まで駆り立てるという困った状態になってしまっている。
ひたすら自分を責め続けるフレイヤ様が、落ち着きを取り戻して泣き止むまでには、長いような短いような時間を要した。
「落ち着きましたか?」
「はい……重ね重ね申し訳ございません」
(こういうところは、人間とおんなじなんだなぁ)
やっと泣き止んだが、まだ鼻を啜っているフレイヤ様を見ながらそんな事を考えてしまう。
「えっと、これは大前提なんですが、死んじゃった事には確かに驚いたんですけど、その後の俺への扱いは、決して悪くは無かったんですよ」
また思い出したように喧嘩腰になられてしまっても困るので、おりょうさんと頼華ちゃんにそう前置きをしてから話を再開しようとした。
「っと、その前に。さっきから何度か呼び掛けているのを聞いているでしょうけど、改めまして。こちらはフレイヤ様。ここからずっと西の方の地域で信仰されている、女神様です」
「「えっ?!」」
子供達用のテキストに名前が登場するので、もしかしたら気がついているかと思っていたが、おりょうさんも頼華ちゃんも、外国人どころか女神様だとは考えてもいなかったようだ。
「めめめ、女神様だって!?」
「あ、兄上! 余と姉上には神罰が下るのでしょうか!?」
(あー……こっちの世界で神様と対面したりしたら、こういう反応が正常なのかなぁ)
さっきまでは、神に逢っては神を殺せ、的な感じに振る舞っていた二人だが、フレイヤ様の事を紹介すると、途端に顔色を変えてしまっている。
(それにしても、あっさり女神様と信じたな……でもまあ、当然といえば当然か)
泣き止んで目を伏せているフレイヤ様は、改めて見ればその圧倒的に美しい容姿が人間離れしているのだ。
さっきまではおりょうさんも頼華ちゃんも、激情に駆られて外見どころじゃ無かったのだろうけど、今はその文字通りに神々しい姿を認め、女神だと言われればあっさりと信じてしまえるのだろう。
「まあ二人共落ち着いて。フレイヤ様は愛を司る女神様で、そんなに狭量な方じゃ無いから」
こう言っておけばフレイヤ様も滅多な事はしないのではないかという、ちょっとしたずるい計算も込みで言葉を口にした。
「そ、そうかい?」
「ならば良いのですが……」
一応は落ち着きを取り戻したようだが、まだおりょうさんも頼華ちゃんも、少し不安を顔に浮かべている。
「大丈夫でございますよ。神は基本的に直接的な介入は致しませんし、仮に私が何かをしようにも、りょう様も頼華様も、この国の神仏の強い加護を得ておりますから」
少し泣き腫らしてはいるが、それでも損なわれない美しい顔で、フレイヤ様は微笑みかけてきた。
「あの、それって話しちゃってもいい事なんですか?」
俺はおりょうさんが観世音菩薩様から、頼華ちゃんが八幡神様から加護を受けているのを知っているが、こういう情報を知ってしまうというのが、いいのか事なのかどうかは不明だ。
「別に知ってしまったところで、りょう様と頼華様の信仰が揺らいだり、付け上がったりはされないですよね?」
「まあ、そうですね」
おりょうさんも頼華ちゃんも、熱心に参詣をしたりしているが、物事を神頼みで済まそうとか考えたりはしない。
「あ、そうだ。この腕輪を授けて下さったのも、フレイヤ様なんですよ」
「そうなのかい!?」
「そ、そうでしたか!」
ドラウプニールが神器であるという説明はしてあったし、気を無限に供給してくれるという凄まじい機能に関しては二人共実感しているので、それを授けてくれたのがフレイヤ様だと聞いて、大分見る目が変わってきているようだ。
「それじゃ、さっきの話の続きをしましょうか」
「そうですね」
フレイヤ様が泣き止み、湯船の縁に腰掛けていたので少し冷えてきた事もあって、全員で湯に浸かり直しながら話を再開した。
改めて、俺が元の世界で死んだ状態になってこっちの世界に来た事、その際に身体を再構築された事、お詫びにとフレイヤ様からドラウプニールを始めとする様々な道具類と金銭を与えられた事、そしていつでも元の世界に帰れる事などを、おりょうさんと頼華ちゃんに説明した。
「……あの、ね、良太」
「なんですか?」
何か思いつめたような表情で、おりょうさんが上目遣いに俺に呼び掛けてきた。
「良太は……いつか元の世界に帰っちまうのかい?」
「あー……その事なんですが、実のところ悩んでます」
「そうなんですか?」
訊いてきたおりょうさんでは無く、フレイヤ様が不思議そうに言ってきた。
「なんと言うか……元の世界のこれまでの生活よりも、こっちの世界での日々の方が、色々と濃密ですから」
「それは……そうでしょうね」
元の世界に比べて色々と不便を感じる事も多いのだが、経験や修練がダイレクトに成果となって実感出来るこっちの世界は、少し中二病を拗らせ気味だった自分にとっては、非常に毎日が充実しているのだ。
そういう部分までフレイヤ様がわかっているのかは不明だが、俺の言葉に納得してくれている。
「でも、元の世界には両親がいるので……」
特に両親と仲が良いという訳では無いのだが、逆に疎遠という事も無いので、唐突にこっちの世界に来たというタイミングでの今生の別れになってしまうというのは、ちょっと受け入れ難い。
「あ、そうだよねぇ……」
「余も、兄上の御両親にはお会いしたいです!」
両親の話を出して、おりょうさんは少し顔を伏せたが、頼華ちゃんは元気にそう言った。
「良太が御両親に再会するのなら、こっちの世界からはいなくなっちまうんだよねぇ……」
「そうなのですか!?」
表情を翳らせるおりょうさんを見て、頼華ちゃんが湯の飛沫を跳ね上げながら立ち上がった。
そんな場合では無いと承知しているのだが、頼華ちゃんの若鮎のような肢体に、つい魅入られてしまう。
「頼華ちゃん、ちょっと落ち着いて。その事なんですけど、ちょっとフレイヤ様に確認したいんですが」
努めて平静を装いながら、頼華ちゃんを湯の中に座らせると、やや強引に話の方向を変えた。
「な、なんでしょうか?」
俺の言葉に警戒感を顕にしながら、フレイヤ様が言葉の続きを待っている。
「あの、黒ちゃんと白ちゃんが俺に教えてくれた『界渡り』ですけど」
「はい……」
「あれを使えばもしかして、元の世界に帰れるんじゃないかと思うんですけど、違いますか?」
「「えっ!?」」
フレイヤ様では無くおりょうさんと頼華ちゃんが、俺の言う事に驚きの声を上げた。
「はぁ……気がついてしまわれましたか。良太さんなら、当然かもしれませんけど」
盛大に溜め息を付きながら、フレイヤ様が呆れたように言い放った。
「『界渡り』を知った当初は、そんな考えには至りませんでしたけど、京の結界が異相にまで影響を及ぼしていて、そこから妖が来ているって話を聞いたので、もしかしたらって思ったんですよ」
平安京が内裏を守護するのに、風水に基づく四神配置だけでは無く、道路を整備して九字の呪法を用いて結界を形成していたのだが、その呪法は実は異界、異相への門を開く物だった。
そしてその異相、異界というのは、黒ちゃん達が棲んでいた気生命体の領域の事でもある。
実体の無い気生命体というのは、すなわち人間の魂の事でもあるので、もしかしたら死んで閻魔様の審判を受ける時に通過する空間なのではないかという仮定を立てた。
そしてその空間は人間が生活を営む空間、この世と隣接しているので、『界渡り』で通過する空間を経由すれば、元の世界にも帰れるのでは無いかと考えたのだ。
「ですが良太さん。『界渡り』で使われる空間は、この世界には隣接しているのですが、良太さんが暮らされていた世界には隣接していないのです」
「ん? それはどういう事ですか?」
「実は、良太さんの世界に行くには、もう一つ上の階層を経由しなければならないのです」
「上の階層、ですか?」
「ええ。簡単に説明しますと……」
フレイヤ様が言うには、俺達がいまいるこの世界は地の領域らしい。
黒ちゃん達が元いた、『界渡り』に使う世界は水の領域であり、その上には更に火、風、そして空の領域が存在しているという事だ。
「空は我々、神の棲まう領域でして、風の領域は下の火の領域とを隔てる、凄まじい気の奔流が荒れ狂っています」
「成る程。神様でも無ければ、存在出来ない領域という事ですね?」
「ええ。そして火の領域には、神ほどの力は無いですが、それでも人には計り知れない精霊達が棲んでいます」
(黒ちゃん達みたいな気生命体の、上位種って感じなのかな?)
黒ちゃんと白ちゃんだってかなり強大なので、それ以上の存在というのを想像するのが中々難しい。
「それで、具体的には俺の考えは不可能って事なんですか?」
「いえ……不可能じゃないので困っていると申しますか」
「ん? それはどういう?」
フレイヤ様が渋い表情をしているのだが、その理由が俺にはわからない。
「『界渡り』でも、条件を満たさなければ使えないのは御存知ですね?」
「ええ。気で身体を保護して、それを維持出来なければならないんですよね」
『界渡り』で通過する、フレイヤ様が言うところの水の領域では、気で身体を包み込んで維持しなければならない。
これまで詳しい理由は考えなかったが、どうやら水の領域も人間が生活する地の領域と比べると、気が荒れ狂っている世界なのだと推測出来る。
気の防護を解除して、自分の身体を水の領域に晒して実験なんかする気は無いが、恐らくはこの推測は間違っていないだろう。
「地の領域から水の領域に移動するのには、気を膜のように纏って身体を護る。これはわかりますね?」
「ええ」
これまでそういう話をしてきたので、なんでフレイヤ様がこの点の念を押すのかがわからない。
「水の領域から火の領域に移動して身体を護るには、気では無く、なんと言いますか……根源的な部分を消費してしまうのです」
「根源的な部分……あ、もしかして、気では無く本当の意味での精神が削れてしまう、みたいな感じですか?」
「さすがは良太さん。お話が早いです」
両手をポンと打って、フレイヤ様が笑顔になった。
「良太、どういう事なんだい?」
「兄上、余もわかりません」
「えーっと……どう説明したもんかな」
(RPGの能力値と、そこから導き出される数値の関係なんか話しても、わからないだろうしなぁ……)
おりょうさんと頼華ちゃんが、頭の周囲にはてなマークを浮かべるような表情で訊いてきたが、俺の思い浮かべた考え方は些かゲーム的な物なので、そのまま説明しても理解出来ないだろう。
「えっと……蝋燭を燃やすとして、その燃えている火が気だと思って下さい」
「うん?」
「はい?」
おりょうさんと頼華ちゃんに例え話を始めたが、返事をしてくれたが表情からして疑問系だ。
「その蝋燭が太ければ、長く燃えている状態を維持出来ますよね?」
「そりゃあ、そうだねぇ」
「そうですね」
(よし。どうやら上手く行ってるみたいだな)
二人がしきりに頷いているところを見ると、どうやらここまでは上手く行っているようなので、先を続ける。
「さっきフレイヤ様が言っていた火の領域では、その蝋燭の芯が削れるような状況になるって事なんですよ」
「えっ!? そ、それは大変じゃないか!」
「では兄上の御両親にはお会い出来ないのですか!?」
やっと説明が通じたのだが、それはおりょうさんと頼華ちゃんを絶望の淵に落とす事と等しかった。
(MPじゃ無くて、POWが削れちゃうって事だからなぁ……)
システムにもよるのだが、テーブルトークRPGに於いて、呪文などを詠唱する際に消費するMPの算出にも用いられるのが、キャラクターの能力値の一つ、精神値(POW)である。
テーブルトークRPGのプレイ中の重大局面に於いて、MPでは無くこのPOWを永久消費して能力を行使する事があるのだが、消費した分を回復させるのは容易な事では無く、それどころか発狂したり廃人になったり、悪くすれば即死する事すらあり得るのだ。
この考え方が丸っきり当て嵌まるのかはわからないが、フレイヤ様の説明によれば、火の領域を通過する際にはこのPOWに該当する部分が削られるという話なので、普通に考えれば不可能だという事になる。
「でも、さっきフレイヤ様は、不可能では無いと仰ってましたよね?」
気による防護膜では、火の領域を通過出来ないというのは既に言及しているので、フレイヤ様は何か他の方法を知っているという事なのだろう、と思う。
「ええ。ところで良太さん、差し上げた腕輪ですが、その機能をどういう風に認識されていますか?」
唐突にフレイヤ様が、そんな質問を俺にしてきた。
「どうって……周囲の気を集めて、装着者に無限に供給してくれる、ですよね?」
なんで今更そんな事を訊いてきたのかは謎だが、俺はおりょうさんや頼華ちゃんに渡す際に説明したドラウプニールの機能を、フレイヤ様に語った。
「私の説明が不十分だったのかもしれませんが……間違ってはいないのですが、それは正確ではございません」
「あれ、そうなんですか?」
そもそも、この腕輪を与えてくれて機能の説明をしてくれたのも、当時はヴァナと名乗っていたフレイヤ様だ。
「その点に関しては申し訳無いと思っておりますが、今まではそれで不便はございませんでしたよね?」
「それはそうですね」
別にフレイヤ様が腕輪の機能を隠していて、今その真の力が! とかいう展開では無さそうだ。
「私の方でも、そこまで説明する必要が無いと思っていましたので……ですが、今回はきちんとお話致しますね」
「お願いします」
腕輪の機能を正確に把握しておく事は重要だし、何よりも元の世界への道が開けるのだ。
「神宝ドラウプニールの真の能力とは、周囲の気を集めて、装着者の根源的な気を癒やし続けるという物です」
「あ……あー……そういう事でしたか」
(MPを無限に供給してくれるんじゃ無くて、POWを無限に癒やし続けてくれるのか! こりゃ確かに神宝だなぁ)
火の領域を通過する際に削れてしまうはずの精神の根源であるPOWを、周囲の気を取り込んで癒やしてくれるドラウプニールは、正に神宝と呼ぶに相応しいだろう。
「実は長年修練を積んだ人間や、妖の中でも強大な力を持つに至った中には、炎の領域を越えた存在もいるのです」
「そうなんですか!?」
妖の中には黒ちゃん達のように『界渡り』が使える存在もいるだろうから、力があれば元々棲んでいる水の領域から火の領域に到達出来るのかもしれないが、人間にも能力なのか術なのかは不明だが、そういうレベルに到達した猛者がいるらしい。
「ですが、妖でも人でも、根源的な部分を消耗してしまいますので途中で力尽きるか、上の領域に到達しても気の奔流に流されてしまいます。何とか良太さんの元いた世界に辿り着いたとしましても、殆どの力を失っている状態でしょう」
「まあ、そうでしょうね……」
例えるなら、別の領域に至るというのは巨大な精米機の間を通るような物なので、無事に通過出来たとしても吹き飛ばされる程に消耗してしまうか、粒も残さず磨り潰されてしまうのだろう。
フレイヤ様の言う通り、俺の世界に到達した存在がいたとしても、悪ければそのまま死ぬか廃人、良くても元の世界で得ていた能力は殆ど喪失してるだろう。
そして俺の住んでいた世界では、こっちの世界程は修練が能力に反映しないのだ。
「ならば、これがあれば兄上の御両親にお会いしに行けるのですね!」
「ちょ、ちょいと緊張するねぇ……」
既にその気になっている頼華ちゃんは、グッと拳を握り締め、おりょうさんは何故か頬を赤らめている。
「そ、そうですねぇ……」
「さすがにそれは見逃す訳には行きませんので、実行するのは少しお待ち下さい」
「……あ、あなたはっ!?」
いつの間にか、正面で湯に浸かっていた輝くばかりの美貌のフレイヤ様の隣に、勝るとも劣らない和風美女が姿を現した。
当然と言えば当然のその和風美女は、フレイヤ様とは質が違うが色白の肌を薄っすらと桜色に染めて、おりょうさんや頼華ちゃんと似た風情を持っている。
「良太っ! また新しい女を連れ込んだのかいっ!?」
「一瞬前までいませんでしたよね!?」
テレビに出演するイリュージョニストでも無ければ出来ないような芸当を、おりょうさんは俺が身に付けているとでも思っているらしい。
「あら。良太さんの女とは光栄です」
「あの、混乱しますので、そういうのはちょっと……」
勿論、冗談のつもりで言っているのは、その笑顔でわかるのだが、俺はともかくおりょうさんと頼華ちゃんに通じるかはわからないので、ちょっと勘弁して欲しい。
「うふふ。わかっておりますよ。ではりょう様、頼華様、初めまして……では無いのですけど、御挨拶させて頂きますね。私、天照坐皇大御神と申します」
「「……」」
「おりょうさんっ!? 頼華ちゃんっ!?」
ふらーっと、おりょうさんと頼華ちゃんの上体が揺れたかと思ったら、そのまま二人は湯船の中に突っ伏してしまった。
フレイヤ様の時にも驚いてはいたが、馴染みの少ない外国の女神様だったのでなんとか耐えられたのが、今度は自分達が暮らす国の重要な位置づけの神様の登場だったので、さすがに精神が耐えきれ無かったみたいだ。




