素麺
「うう……お腹が空いた」
厨房から昼食を運んでいた俺の視線の先に、脚元をふらつかせながら歩いている頼華ちゃんがいた。
「頼華ちゃん、起きたんだね。大丈夫?」
武人である頼華ちゃんの足取りが怪しいのは、珍しいと言うか緊急事態なのだが、どうやら寝起きと空腹のダブルパンチでそういう状態になっているみたいだ。
「随分と寝過ごしてしまいましたが……おはようございます、兄上」
「おはよう。丁度いい具合に食事だよ」
「はい! 実にいい匂いがします!」
どうやら、つゆの香りに生存本能を刺激されたらしい頼華ちゃんは、顔に生気を蘇らせ、瞳に輝きを灯した。
「お客さんが来てるんで量も多めに用意したから、いっぱい食べてね」
「はいっ!」
食事と聞いて急に歩調まで軽くなった頼華ちゃんを伴って、俺達は居間に向かった。
「それでは、頂きます」
「「「頂きます」」」
器と箸が行き渡ったところで、ブルムさんの号令で昼食を開始した。
「確かにお素麺ですけど……これは随分と変わっていますねぇ」
薄切りの肉と、茄子が焼き浸しになっているつゆを見て、白面金毛九尾が呆れたような顔をしている。
素麺は氷水を入れた器などに浮かべて供される事が多いが、この場にあるのは俺が軽く一口分毎に纏めて、笊の上に並べてある状態なので、この辺も異質に映っているのだろう。
「普通のつゆも用意してあるので、口に合わないようなら切り替えて下さい。薬味も別に用意してありますから」
小皿に分けた、擦り下ろした生姜、刻んだ葱と茗荷などを示す。
「まあ鈴白さんの作った物だし、間違いは……ううむ!? こ、これはうまい!」
やはり外国人だからか、音を立てて啜る事は出来ないみたいだが、つゆにつけた素麺を口に運んだブルムさんは、意外そうに目を見開いた。
「素麺は嫌いでは無いのですが、なんとなく頼りない感じがしていたのに……これは濃厚で、なんとも力が出そうな味わいです!」
言うが早いか、ブルムさんは次の素麺を箸で摘んで、つゆにつけて口に運んだ。
「主人! おいしいです!」
「そう。良かった」
手伝ったので、早く味見をしたかったのだろう、ブルムさんの次にお朝ちゃんが手を伸ばし、チュルチュルと啜り込んで表情を綻ばせた。
「……あら、意外にお肉とお茄子が合うのですね。生姜のお陰か、後味がさっぱりしていて」
見た目は外国人だが、ブルムさんとは違って啜り込めるらしい白面金毛九尾が、一口食べて言葉通りに意外そうな表情をしている。
「で、ではぁ、あたしもぉ……ふぇぇぇ。お、おいしいぃー。甘めだけど生姜の辛味があってぇ、それにこのお肉ぅ……」
おっかなびっくりという感じで素麺をつゆに付けて啜り込み、具である甘辛く煮込まれた猪の肉と焼いた茄子も口に運んで、夕霧さんは目を丸くしている。
(なんとか気に入って貰えたみたいだな……)
普通のつゆと薬味を用意してはあったが、ちょっと変化球なつゆと食べ方を、夕霧さんに気に入って貰えたみたいでホッとした。
「……っぷはぁーっ! 兄上、つゆのお代わりを下さいっ! 肉も茄子もたっぷりで!」
(頼華ちゃんも気に入ってくれたみたいで、良かったな)
ここまで無言で、ひたすら忙しく箸と口を動かしていた頼華ちゃんが、つゆも具も薬味も空になった椀を差し出してきた。
瞬く間に二人前くらいの素麺を食べた頼華ちゃんは、消耗で蒼白気味だった頬にも、薄っすらと赤みが差してきている。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます! この甘辛の肉も、胡麻の香る茄子も、実に素麺に合いますね!」
俺からつゆと具を盛り付けた椀を受け取った頼華ちゃんは、待ちきれないと言わんばかりに箸を伸ばし、素麺を摘み取って口に運んで恵比寿顔だ。
「君達も、口に合った?」
「「……」」
白面金毛九尾の連れてきた女の子達に訊いてみると、こくこくと頷いた。
しかし、里の子供達程は箸が上手く使えないみたいで、白面金毛九尾と志乃という少女が、自分達の食べる合間に口に運んであげている。
「箸を使わない食事の方が良かったですね。失敗したな……」
パンプディングもどきや豆乳プリンを振る舞った時には食器がスプーンだったので、箸を使うのが苦手だというのに気が付かなかったのだ。
「いいえぇ、お気遣い無く。わたくし共は肉が好きですので、こういう献立は嬉しいですよ」
(そういえば油揚げは、本来は鼠の揚げ物の代用品だったっけ……)
どうやら動物の狐と妖でも、食べ物の好みは同じのようだ。
「本当に。まだこの子達は箸の使い方は拙いですが、食事自体には非常に満足しておりますよ。ね?」
「「……」」
どうやら小さな女の子達は、さっきは食事に専念していただけのようで、白面金毛九尾と志乃という少女に促されると、激しく頭を縦に上下させた。
「鈴白さん。私にもつゆのお代わりをお願いします」
「あ、わたくしも宜しいですか?」
「あたしもー!」
「俺もー!」
「「……」」
ブルムさんが椀を差し出してくると、白面金毛九尾や子供達も続いた。
「あ、あのぉ……良太さぁん」
俺が手早くつゆと具を盛り付けていると、夕霧さんが消え入りそうな小声で、俺に呼び掛けてきた。
「はい。お代わりですね?」
「う……お、お願いしますぅ……」
どうやら厨房で否定的な事を言っていたのを気にしているようで、物凄く言い難そうな表情をしながら椀を差し出してくる。
「肉と茄子は多めにしますか?」
「は、はぁいっ! お願いしますぅ!」
俺の問い掛けが背中を押したのか、夕霧さんは笑顔で具の増量を要求してきた。
「兄上っ! つゆのお代わりを! 肉を多めでっ!」
「はいはい」
(……素麺が足りないかな?)
お代わりが相次いでいるが、つゆは味が濃い目なので足りそうなのだが、頼華ちゃんと子供達の食欲が予想を上回っていて、かなり大量に茹でたはずの素麺の残りが心許無いように見える。
「素麺を追加で茹でて来ますけど、まだ食べられますね?」
「「「はいっ!」」」
大人からも子供からも元気のいい同意の返事が来たので、俺は苦笑しながら厨房へ向かった。
「ふぅ……やっとお腹が落ち着きました」
「ちょっと食べ過ぎじゃないの?」
食後に冷たい麦湯を飲みながら、満足そうに溜め息をついた頼華ちゃんは、少し心配になるくらいの量の素麺を食べていた。
「昨晩は色々と消耗しましたからね! 差し引きすれば大した事はありません!」
「それならいいけど……」
以前に咖喱を食べた時のように、苦しそうにお腹を膨らませたりはしていないようなので、多分だが大丈夫なのだろう。
(消耗させた原因の一つが、俺だしなぁ……)
どう考えても俺が無駄に負った身体中の傷を治してくれたのは頼華ちゃんで、その為に消耗したのだから、あまり強く注意する事も出来ない。
「さて! 兄上、余はそろそろ里に戻ります!」
グッと麦湯を飲み干した頼華ちゃんは、湯呑を座卓に置くと立ち上がった。
「ん? もう少し食休みをしていってもいいんじゃないの?」
「姉上が心配していると申し訳ありませんので、すぐに発ちます」
「それもそうか……」
先に帰った黒ちゃんと白ちゃんが説明をしているとは思うが、いつも元気印の頼華ちゃんが朝食の時に起きてこないというだけで、自分でも心配するだろう。
「わかった。でも、決して急ぎ過ぎないでね?」
「はい、心得ております! それでは皆、失礼する!」
ドラウプニールがあるので荷造りの必要も無い頼華ちゃんは、身軽に立ち上がった。
ブルムさんや子供達、白面金毛九尾達が声を掛ける間も無く、頼華ちゃんは手を振りながら居間から店の入口の方へと歩み去った。
「それでは鈴白さん。私もそろそろ店の方へ戻りますね」
「わかりました」
ブルムさんが立ち上がると、今日は大地くんが簿記の勉強の番なのか、後に続いて行った。
「夕霧おねーちゃん、あそぼ!」
「あそぼー!」
陽華ちゃんが立ち上がって夕霧さんの服の袖を引っ張ると、劫君も逆側の袖を引っ張った。
(むぅ……夕霧さんはお姉ちゃんって呼んで貰えるんだな)
当然といえば当然なのだが、お願いしてもお兄ちゃんとは呼んで貰えない自分の事を考えると、夕霧さんを羨望の視線で見てしまう。
「えっとぉ……良太さん?」
「午後はブルムさんに教わる子以外は自由なので、どうぞ」
勝手のわからない夕霧さんが困ったような表情で俺を見てきたので、問題が無い事を説明して送り出した。
「「……」」
「良かったら、一緒に遊んでくるといいよ」
「「!?」」
夕霧さんに群がるようにして出ていく子供達を、白面金毛九尾が連れてきた小さな女の子達が羨ましそうに見ていたのでそう言うと、何故か驚いた顔をされてしまった。
「あの、宜しいんですか?」
「宜しいも何も、あの子達の友達になってくれるんでしたら、大歓迎ですよ」
閉鎖されている空間で生活していた事もあって、里の子供達には見た目の年齢相応の友達と呼べる存在がいないので、寧ろ歓迎すべき状況だ。
(本音を言うなら妖じゃ無くて、人間の友達が出来ると良かったんだけど……)
見た目相応の生活や常識などを学ばせるには、里の子供達には妖では無い友達と過ごさせたいのだが、現時点でそこまで贅沢を言っても仕方が無いだろう。
「あの子達がやっているのも、簡単に覚えられる遊びばかりだから、楽しんでくるといいよ」
「「……」」
「……では、お言葉に甘えまして。御迷惑をお掛けするんじゃありませんよ?」
縋るような視線に負けたのか、白面金毛九尾が溜め息をつくように言うと女の子達は立ち上がり、何度も振り返りながら部屋を出ていった。
俺と白面金毛九尾と志乃という少女だけが残った居間は、それまでが人数も多く賑やかだったので、急に空虚な感じになった気がする。
「お茶を淹れ直しましょうね」
なんとなく間が持たない気がしたので、二人に告げながら腰を上げた。
「あ、恐れ入ります」
「別に恐れ入らなくてもいいですから……」
空になった湯呑をまとめて盆に載せて、俺は厨房に向かった。
「どうぞ。外国のお茶です」
緑茶、麦湯と出したので、趣を変えようとドランさんに貰った紅茶を淹れた。
「この国のお茶よりは渋く感じるかも知れませんから、砂糖と牛の乳を用意しました」
「まぁ。外国ではお茶にこのような物をお入れに?」
「大陸のかなり西の方の風習ですけどね」
(大きな目で見れば、インドもヨーロッパも西だよね?)
元の世界の現代では、お茶類を飲むのに砂糖などを入れないのはむしろ少数派らしいが、こっちの世界の紅茶が主流の国以外でも、砂糖などを入れているかまでは俺にはわからない。
(しかし、やっぱり風情が無いな……)
同じお茶だと思えばいいのだが、どうも紅茶を飲むのには取っ手付きのカップじゃないと気分が出ないように思える。
(うーん……陶土は手に入らない事も無いから、自分で焼くか?)
レンノール経由で生活雑器は発注してあるのだが、ティーカップやソーサーのような洋風の物は当然ながら出していない。
マグカップのような物はコーヒーなどに限らず、熱い飲み物を入れて持つ際には役に立つので、幾つか揃えておくのも良さそうだ。
(野焼きでもいいんだけど……この為だけに石で火力の強い窯を作るのは、無駄が多いかな?)
本格的な登り窯程では無いにしても、石造りで焚き口と排気口を考えて作れば、かなりの火力が得られる。
しかし、厨房以外に高火力が必要な施設が里に必要無いので、ちょっとした焼き物の為に設置すると無駄が多過ぎるように感じる。
「いい香り……たしかに少し渋いですけど、それ程でもありませんね」
「でも、せっかくですので、お砂糖と牛の乳も……まあ! 凄くまろやかで豊かなお味になりました!」
茶器に関して思いを馳せていた俺を、白面金毛九尾を志乃という少女の会話が現実に引き戻した。
京の水の所為か、二人共それ程は渋味を感じていないみたいだが、砂糖とミルクを入れた方が口には合ったみたいだ。
「あ、そうだ。お肉が好きという事ですけど、猪と鹿の肉がありますが、良ければ持っていきますか?」
二人が一度湯呑を置いたところで、食事中に思いついた話題を振ってみた。
「それは……願っても無い事ですけど、宜しいのですか?」
「実は、結構食べたんですけど、それでも大量に手持ちがありまして……」
大部分は里の貯蔵庫に放り込んであるが、まだドラウプニールの中には猪と鹿の肉が、加工した物も含めて大量にある。
「貴方様が宜しいのでしたら、是非に。雀や鶉は猟師が茶屋に定期的に持ち込んで下さるので、いつでも食べられるのですが、猪や鹿となりますと滅多には……」
「本当に。ですから先程のお料理にも、色んな意味で驚かせて頂きました」
「ああ、成る程」
猪や鹿は専門の猟師でも確実に入手出来る訳では無いし、殆どは料理屋に行ってしまう、気軽に食べられる食材では無いのだろう。
「運ぶのには腕輪があるから問題無いですね。じゃあ、とりあえずは猪と鹿の枝肉を一頭分ずつくらい」
後で俺が茶屋まで運んでも良いのだが、白面金毛九尾にはドラウプニールという重量も容積も問題にしない運搬方法がある。
俺は適当な大きさの猪の肉をドラウプニールから取り出して、右手でぶら下げた。
「ええっ!? お、お肉って、こんなになんですか!?」
「わ、私もてっきり、少しお裾分け頂ける程度だと思っていたんですけど!?」
巨大な肉塊を見て、白面金毛九尾と志乃という少女は目を丸くしている。
「事前に大量にって言ったはずですけど……多過ぎましたか?」
(確かに、一般的な家庭で消費するような量じゃ無いけど……)
どうした物かと、右手でぶら下げた猪の枝肉を見つめる。
「し、失礼致しました! その、そんな立派なお肉を頂いてしまって本当に宜しいのでしたら、是非とも頂戴したいと思います」
「……」
(肉が好きっていうのは、本当みたいだな……)
白面金毛九尾と会話をしている俺の持っている肉を、志乃という少女が食い入るように見つめながら、チロッと舌で唇を舐めた。
舌を舐めている志乃という少女の仕草には、今まで見せていたような少しだけ大人びているだけの印象では無く、外見には似合わない妖艶さが含まれている。
「……腕輪に収納しておけば肉が傷むことは無いので、遠慮無くどうぞ」
「それでは……」
俺が持っている肉を、白面金毛九尾がドラウプニールを差し出して受け取った。
好みなどはわからないので、各部位と内臓なんかも含めて猪も鹿も合計で三十キロずつくらいを進呈する。
「もしも足りないようでしたら、言ってくれれば追加でお渡ししますので」
脂が乗って肉の質が良くなるのは秋から冬なのだが、里の周辺の猪や鹿は安全を考えて定期的に狩る必要がある。
白ちゃんに米糠の調達を頼んだ農家からも、もしかしたら駆除を頼まれるかもしれないので、多分だが里では消費しきれないくらいの獲物が手に入るだろう。
「そんな……本当に宜しいのですか?」
「知り合ったのも、何かの縁ですしね。その代りと言ってはなんですが」
「は、はい」
やはり交換条件だった、とでも考えたのか、白面金毛九尾と志乃という少女の表情が少し引き締まった。
「いま京に来ている子供達はもうすぐ戻るんですけど、週明けには別の子達が来ますので、良ければ遊び相手になってあげて下さい」
「「……へ?」」
白面金毛九尾と志乃という少女の、呆けたような声が重なった。
「あ、あの、何か対価を求められるとは思ったのですが……そんな事で?」
そんなに拍子抜けだったのか、驚いた表情のままで白面金毛九尾が問い返してくる。
「んー……あの子達、俺や連れに懐いてはくれているんですけど、主人って呼ばれて一線を引かれちゃってるんですよね」
「それは……あの子達の気持も、わからなくは」
「……」
「そうですか……」
白面金毛九尾に同意するように、志乃という少女がうんうんと頷いたので、ちょっと脱力した。
「……まあ、それはいいとして。主従関係とは違う相手に遊んで貰うのも必要だなって思いましてね」
「はぁ……」
「特に、志乃さんみたいな、俺よりは年下の相手に」
「わ、私ですか!? そ、それに志乃、さん、だなんて……」
自分に矛先が向くとは思っていなかったのか、志乃という少女はあからさまに狼狽えている。
「あの、私の事は志乃と、呼び捨てにして下さって結構ですので。貴方のような方にさんなんてお呼ばれするのは、恐れ多い事です……」
「恐れ多いって……じゃあ、志乃ちゃんで、いいですか?」
普通に礼儀としてさん付けしていたのだが、どうやら志乃ちゃんと呼んでもいいらしい。
「まっ! ぜ、是非その呼び方でお願い致しますっ!」
「は、はぁ……」
志乃ちゃんという呼び方の何が彼女の琴線に触れたのかは不明だが、とりあえずは問題は無さそうだ。
「くっ……」
「あの、なんでそんなに悔しそうに?」
懐に備えてあったのか、いつのまにか取り出したハンカチならぬ手拭いを噛むという、絵に描いたような悔しがり方を白面金毛九尾がしている。




