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勇魚

「それでは、いただきます」

『いただきます』


 頼永さんの言葉に続いて、皆が手を合わせてから食事が始まった。


豆腐と野菜のけんちん汁に、釜揚げのしらす、椎茸と人参の煮物という献立だった。少し野菜が不足気味に感じていたので、こういう食事はありがたかった。


「お口に合いますか?」

「ええ。とっても」


 頼華ちゃんのお母さんが訊いてきた。思っていたような豪華さでは無いが、丁寧な調理で味も良かった。


「むー。おいしいのだが、正恒の家で食べた、兄上の料理の方がいいな」

「ほう。鈴白殿の作る料理はそんなにおいしいのかい?」

「こう、肉が揚がったのとか、腸に詰めた棒みたいなのとか、とにかくおいしかった!」

「ほうほう」

「でも、一番おいしかったのは茶碗蒸しみたいなお菓子だな!」


 この頼華ちゃんの説明で通じているのかが定かではないが、頼永さんは話を聞きながら、感心したように頷いている。


 特に大きな波乱もなく、比較的和やかな空気のままに昼食は終わった。まあ食事くらいで波乱は起きて欲しくないんだが。



「これが、頼華ちゃんの言ってた『力餅』か……」


 昼食後、下げられた膳と入れ替わりに、お茶の湯呑みと茶請けの載った小皿が各自の前に置かれた。茶請けは餅を餡でくるんだ、正式には権五郎力餅という和菓子だ。


「今の時期は、このようにヨモギを練り込んだ物も出されております」

「いただきます」


 力餅は見たまんまの味で、素朴だがおいしかった。お茶に良く合う。


「それでは遅くなりましたが、鈴白殿、りょう殿。頼華が御迷惑をお掛けした事を、深くお詫び致します」


 御両親と、同席していた頼親さん、そして頼華ちゃんが、座っていた座布団から一歩退いたところに跪き、深々と頭を下げた。


「お気持ちは確かに受け取りました。ですが、本当にもう気にしていませんので」

「あた……私も同じです」


 いつも通りの伝法な口調って言うんだっけ? で、切り返そうとしたおりょうさんだが、途中で丁寧な物言いに直した。さすがに空気を読んだみたいだ。


「御二人の、寛大な御心に感謝します」

「いえ。どうかお顔を上げて下さい」

「それでは、失礼して……」


 頼永さんが顔を上げて座り直すと、他の人達も同じように座り直した。


「それで、八幡神様からお聞きかと思いますが、此度のお詫びとしまして、鈴白殿の打たれた刀の柄と鞘の面倒を、こちらで見させて頂こうかと思います」

「刀の柄と鞘に、ですか?」

「ええ。八幡神様のお告げで、この若宮の神木である大銀杏の枝を、柄と鞘の素材に使うように仰せつかってます」

「そんな……素人、それも信者でも何でも無い人間が打った刀に、貴重な神木の枝を使っていいんですか?」

「これも御縁でしょう。ところで、その刀を拝見したいのですが」

「あ、はい」

「失礼致します」


 部屋の外の控えていたのか、案内してくれた使用人の女性が、俺の福袋を持って来てくれた。


「これですが」


 俺が取り出した、サラシが巻かれた刀を頼親さんが受け取りに来て、静かに歩いて頼永さんの元まで運び、捧げるように手渡した。


「では拝見します……これは、成る程」

「?」


 白と黒に染まった異様な刀身を見て、頼永さんが何に感心したように呟いたのが、俺には理由はわからなかった。


「この『巴』というのは号ですね? それと太極図は鈴白殿が?」

「ええ。そういう性質を持たせようとの意図で彫りました」

「そうですか。それで八幡神様が神木をと、お告げになった理由がわかりました」

「どういう事でしょう?」


 なにがどう繋がって、こういう状況になったのか、俺にはさっぱりだった。


「かつて、源家には巴という、女性でありながら大力無双で、弓の名手の武者がおりました。そしてこの太極図ですが、陰陽勾玉巴紋と呼ぶのはご存知ですか?」

「ええ……」

「祭り太鼓等に描かれる事の多い三つ巴という紋様がありますが、巴紋というのは八幡神様の御神紋です」

「ええっ!?」


 正直なところ、完全に機能的な面で考えたネーミングでしか無いので、そこまで深い意味なんか持たせようとは思っていなかった。


「号の『巴』、陰陽勾玉巴紋。八幡神様はこの奇縁から、刀の柄と鞘には、御自身の分身とも言える神木を使うのが相応しいと考えられたのでしょう」


 なんとなく、なし崩しに源家との縁が出来てしまっていいのかとは思うが、もうどうやっても逃げ隠れするのは無理だろう。


「わかりました。お言葉に甘えます。ですが、柄に巻く滑り止めの皮には少し心当たりがあるので、仕上げまでは行わないで下さい」

「わかりました。鈴白殿の御随意に」

「あの……出来ればなんですが、その鈴白殿はやめて頂けませんか?」

「客人に対しての礼を損なわないようにと思っていたのですが、そう仰るなら。他の目が無い場所では、少し砕けた呼び方で宜しいかな?」

「ええ。呼び捨てで構いませんから」

「それはさすがに……では親しみを込めて、姓ではなく、名の良太殿とお呼びしても?」

「殿も要らないんですが……その方が呼びやすいのでしたら、今後はそのように」


 時代的な物や、身分もあるんだろうけど、元の世界の「○○君」みたいな呼び方は無いみたいだな。


「ああ、遅いにも程があるが、まだ名乗っていませんでしたね。私が源家の現頭領、頼永です」


 頼永さんは武人の頭領とは思えないくらい、線の細い美男子だ。ただ、落ち着いて隙の無い物腰をしている。


「頭領の妻で頼華の母、(しずく)と申します」


 楚々とした風情の中に凛とした気品のある雫さんは、頼華ちゃんが成長すれば、こんな感じの女性になるのではないかというくらい良く似ている。そして今更気がついたが、風呂で背中を流してくれた女性だ……。


「それで、話を戻しますが、柄と鞘が出来るまでにどれくらい掛かりますか?」

「職人に手配をして、大体二週間程度を考えて下さい」

「意外と早いんですね」

「八幡神様から、保管していたどの枝を使うのかも御指示がありました。十分に乾燥して、刀の反りの形状にも合っているようなので、熟練の職人なら形作って仕上げるのも容易でしょう」


 鞘の素材には通常は朴の木を使うらしいが、大銀杏が素材として向いているのかも加工しやすいのかどうかもは俺にはわからない。そもそも神木が普通の樹木のカテゴリーに入るのかが不明なので、あまり深く考えても仕方がないだろう。


「それじゃ良太、刀は預けて、あたし達は品川に帰ろうかね」

 

 おりょうさんの言う通り、後日送ってもらうにしても取りに来るにしても、二週間は長い。


「そうですね……」

「お待ちを。今からですと、品川に着く前に日が暮れてしまいます。お詫びの意味でも、一泊なさっては?」

「……無理に引き止めないって、約束なんだけどねぇ」


 俺の言葉を遮った頼永さんへ、おりょうさんが冷たい視線を送る。


「生憎と、この良太は特別でね。あたしを抱えても品川までなんて、あっと言う間に着いちまうのさ」

「いや、それは……」


 すっかり、いつもの口調に戻ったおりょうさんは、ふふんと鼻息も荒く、我が事のように胸を張った。


「まあまあ。りょう殿は、武家が面子を重んじるのは御存知でしょう? ここはどうか、詫びを受け入れてくれませんか?」

「……」


 悪気の無さそうな頼永さんの言葉に、何か気になる事があったのか、おりょうさんの目がスッと細められた。


 おそらくだが、頼華ちゃんより一足先に戻った頼親さんからの報告で、俺達の事を調べたのだろう。源の頭領としては当然の対応とも言える。もっとも、俺の事は調べたってわかる訳は無いんだが。なにせこっちの世界に来て、まだ数日だし。


「……余計な事を言うつもりかい?」

「いやいや。あくまでも客人として歓待したいだけですが、いけませんか?」


 おりょうさんも頼永さんも静かな口調ではあるが、両者一歩も引かない感じが伝わってくる。


「あー……おりょうさん、どうしても今日中に帰りたいですか?」

「良太?」


 おりょうさんが、驚いたような顔で俺を見てくる。


「おりょうさんがお世話になるのが嫌で、品川に帰りたいなら、その通りにしましょう」

「そりゃあ、どうしてもって訳じゃないけど……」


 おりょうさんが俺の脚に指を当てて、のの字を描く。ちょっと痺れてるから止めて欲しいんだが、今はそんな場合じゃない。


「頼永様がおりょうさんの何を知っているのか、俺にはわかりません。ですが、少なくとも俺への交渉材料にはなり得ません。それと、そういうやり方を続けるようなら刀の件も断りますし、今後源家と関わり合いにはなりません。今すぐ、『巴』を返して下さい」

「良太……」


 おりょうさんが、濡れたような瞳で俺を見ながら、手を握ってくる。最悪の場合は八幡神様の厚意を無碍にする事になるが、ここは譲れない。


「む。これは失礼した。そういうつもりは無かったのだが……この通り謝罪しよう。良太殿、りょう殿、済まなかった」


 表情を引き締めた頼永さんは、先程したように座布団から一歩退いた位置に跪くと、深く頭を下げた。


 体面で言えば、俺達にこうやって頭を下げるのは色々と問題があるはずだが、頼永さんの行動に躊躇は感じられなかった。俺ってどういう立場なの? って、訊きたくなる。


「そうだ! 謝るのだ父上! りょうた兄上を怒らせると、ぷりんが食べられなくなるではないか!」


 そもそもの元凶とも言える頼華ちゃんが、頼永さんに追い打ちを掛けた。無邪気って怖い。


「私からも、謝罪させて頂きます。この子も、その場では謝ったようですが、反省の色が無いようで……」


 ゴツッ! という鈍い音が聞こえたと思ったら、いつの間にか頭を下げている雫さんの手で、頼華ちゃんが頭を床に押さえつけられていた。


「んーっ!? んんーっっ!!」


必死に手から逃れようと足掻いているが、細い腕のどこにそんな力があるのか、どうやっても抜け出せないみたいだ。


「はぁ……もういいよ。あたしの気分で良太に負担は掛けたくないから、今夜はお世話になろうか」


 頼華ちゃんに毒気を抜かれたのか、おりょうさんが溜め息混じりに苦笑する。


「おりょうさんが、それでいいなら」

「良太……」


 俺を見てくるおりょうさんの視線に、熱を感じる。俺としては世話になっている分を返しているだけのつもりなんだが、これはフラグを立てまくってるのかなぁ……。


「という訳で、今夜はお世話になります。ですが、今後は変な駆け引きは無しでお願いします」

「わかりました。では部屋を用意しますので、夕食まではそちらでお寛ぎ下さい。外出されたいのでしたら御自由に」

「ありがとうございます」


 頼華ちゃんの話だと漁港も近いみたいだから、少し食材を仕入れに行くのもいいかもしれない。いい加減に下着を縫わなくてはならないが……。



 女性使用人に先導され、おりょうさんと隣り合わせの部屋に案内された。畳敷きで、一人で使うにはかなり広い。


「それでは、御用の際にはそちらにある鈴をお鳴らし下さい」


 部屋に用意されていた茶器でお茶を淹れた女性は、茶器と一緒に置かれている金属製の呼び鈴の使い方を説明すると、頭を下げて退出していった。


「わかりました。ありがとうございます」


 部屋を見回すと、入浴前に脱いだ服が綺麗に畳んで置いてあった。多分、洗ってあるんだと思うが、付与の防汚効果があるので実際はわからない。


「あれ、そういえば……」


 頼華ちゃんに胸元を斬り付けられたが、その後は鍛冶作業だの何だのがあって、気にも留めていなかった。今になって確かめてみると、どうやら自動修復の付与のおかげで、見た目には損傷は確認できなかった。


 入浴の際に用意されていた着物を、苦労しながらなんとか脱ぐと、微かに残っている折り目をガイドにして、勘を頼りに折り畳んで部屋の隅に置いた。下着は褌のままだが、ノーパンよりはマシだろう。


「ん?」


 既に着慣れてきた作務衣を身に着けると、ほんの一瞬だが、腕輪の一部が光ったような気がしたので見てみると、表面に小さく太極図と三つ巴の紋が浮かび上がっていた。


「いつの間に……」


 良く見ると、太極図の方は浮き彫りになっている紋様が白い線で描かれ、三つ巴の方は腕輪の地の鈍い金色のままだ。


「なんだろう、これ……うわっ!?」


 指で三つ巴紋様の方を突っついてみると、着ていた作務衣が発光して、さっきまで着ていた着物と袴に変化した。


「えっ!? なんで!?」


 見れば借り物の服は畳んだ状態で置かれたままなので、間違い無く作務衣だった服が変化したのだ。


「もしかして……」


 腕輪の太極図の方に触れると、またも服が発光し、元の作務衣になった。これはゲームなんかの、セット装備の一括チェンジみたいな物だろうか?


「これがヴァナさんの言ってた、服の成長って奴なのか? っと、いやいや、呼んでませんよ?」


(ぶー……)


 幻聴が聞こえたようだが気にしないでおこう。


「これは便利だな。作務衣も着心地は良いけど、着物の方が悪目立ちしないかもしれないとは思ってたからな」


 作務衣もそれ程目立ちはしないだろうが、歩いている男性の服装は圧倒的に着物姿が多い。袴まで履いている人は少なかったが。



「さてと……」


 腕輪の検証が済んだので、俺は呼び鈴を手に取ると軽く振った。高く澄んだ音が響き渡る。


「お呼びでしょうか?」


 すぐに、ここに案内してくれた女性がやってきた。見張られているんじゃないのか? と、少し疑ってしまうくらいの早いタイミングだった。実際、見張ってるんだろうけど。


「ちょっと外出したいんですが」

「そうですか。では、私が御案内致します」


 監視かなとも思ったが、鎌倉は不案内なので素直に申し出を受け入れた。


「では宜しくお願いします。あ、失礼ですが、お名前は?」

「御挨拶が遅れまして、大変失礼致しました。胡蝶と申します」

「胡蝶さんですか。雅というか、綺麗なお名前ですね」


 名前だけではなく、シャープな顔立ちで凄くきれいな女性だ。人は見かけでは無いとは言え、一見して使用人という職業には思えない。


「そ、そんな……お上手ですね」

「いえ、そんなんじゃ……」


 怜悧な美貌とは裏腹に、相当に純情な人なのか、俺の軽い一言で顔を真っ赤にした。


「良太、出掛けるのかい?」


 呼び鈴の音に気が付いたのか、隣の部屋からおりょうさんが顔を出した。服装はここで用意された袴付きの着物のままだ。


 袴は緋色とかでは無くて薄い藍色だが、なんとなく巫女さんっぽい。とか思うのは、現代人の感覚だろう。


「ええ。少し鎌倉の町を見てこようかと。ついでに買い物です」

「それじゃ、あたしも付き合うよ。いいだろう?」

「勿論です」

「それでは、玄関まで参りましょうか」


 冷静さを取り戻したのか、出来る女性の仕事モードといった雰囲気になった胡蝶さんの案内で、屋敷の玄関に向かった。



「肉は十分にあるから、魚介系と、思ったよりも消耗が早い気がするから、調味料関係も買い足すか……あ、調味料としての酒も要るな」

 

 頭の中で、数日間の食材その他の消耗品の流れをシミュレートする。でも、醤油や味噌、酒なんかは品川まで戻ってから調達の方がいいかな、とか考える。


「調理する時間が無い事も考えられるから、例えばおにぎりなんかを大量に作っておいたり……」


 福袋と腕輪の収納のお陰で食材の劣化は考えないでいいから、完成品を用意しておくのもありだな。少し無駄が多くなるけど、竹林庵の蕎麦を器ごと買い取るというのも手だ。


「なんか、色々と買い込むねぇ」


 胡蝶さんの案内で店を回り、明らかに足りないと思った房楊枝や、刃物を包むのに使ってしまったサラシの布、筆記具も必要だと思い、筆に墨壺に、高いけど紙も購入した。


 食材は魚の干物などの鎌倉の名産品っぽい物を中心に、銀貨一枚で買えるだけ、みたいな雑な買い方をしていく。おりょうさんが呆れ顔になるのも無理もない。


「港はあっちですよね?」

「ええ。ですが水揚げは朝の内ですので、大した物は残っていないと思いますが」


 胡蝶さんが不思議そうな顔をしている。


「特に何かをって訳じゃないんです。港が見てみたいのと、何か余り物でもあったら、安く買えないかなって」

「そうでございますか」


 微妙に納得していないようだが、それでも胡蝶さんは静々と前を歩いて、俺達を港へ案内してくれた。


「海だなぁ……」


 この世界でも、当たり前だが潮の香りは変わらなかった。埋め立てがされていないので、品川宿から海は程近いはずなんだが、人や街の密度の差なのか、潮の香りは感じなかった気がする。


「平和だなぁ……」


 潮騒と、漁師のおこぼれらしい魚を食べる猫なんかを見ていると、猪や熊や美少女剣士と戦ったり、なんか政治的な思惑に巻き込まれそうになって、ささくれだった心が洗われるような気がする。


「大変だーっ!」

「ああ、もう……」


 案の定というか、フラグを立ててしまったみたいで、船着き場が騒然としている場面に遭遇してしまった。


「行ってみましょう」

「しかし……」


 多分、案内以外に監視と、安全の確保も言い遣っているのだろう。胡蝶さんが騒動へ首を突っ込もうとする俺に、苦い表情をする。


「放ってもおけないでしょう」

「文句があるなら、あんたは来ないでいいよ」


 無視して走り出そうとした俺に、胡蝶さんへ、そう言い放ったおりょうさんが続いた。


「いえ。お供します」


 やはり、ただの使用人ではなく何かの心得があるようで、勿論、全力では無いが、走る俺とおりょうさんに、胡蝶さんは遅れずに付いてきている。


「何があったんですか?」


 船着き場にでは、疲労困憊といった感じの日焼けした漁師らしい男性が、ずぶ濡れであちこちに怪我を負っている、仲間の漁師らしい人達を船から担ぎ降ろしているところだったので、その作業を手伝った。


勇魚(いさな)だ! でっけえのが現れて、仲間の船が沈められちまった!」


 勇魚というと鯨か。大きくない手漕ぎの船には、どう見ても定員よりも多い五人の漁師が、折り重なるようにして乗せられていた。かなり無理をしてなんとか船着き場まで辿り着いたようだった。


「あれか……」


 沖の方に目を凝らすと、船着き場から五百メートルくらいの海面下に黒い影のよう物が揺らめいている。暫く見ていると、潮吹きと思われる水柱が立った。


「っと、怪我人が先だな」


 まだ鯨の周囲に数艘の船が見えるが、とりあえずは目の前の怪我人をなんとかしないと。


「おい! しっかりして!」


 船から降ろされた中に、意識が無い人がいた。急いで駆け寄った俺は、水を飲んでいる疑いのあるその人をうつ伏せにすると、背中に両手を当てて(エーテル)を送り込む。


「っ! ゴホッ! ゴホッ!」


 意識のなかった漁師の男性は、咳き込みながら水を吐き出した。とりあえず危険な状態では無くなっただろう。他に目立った外傷や骨が折れている人などを、同じように(エーテル)を送り込んで治療する。


「あ、ありがとうございます……」

「お礼を言われる前に、あの鯨をなんとかしないと。被害が納まりませんよね」

「そりゃそうなんですが、沖に出てる以外では、もうこの船くらいしか残っていないんです……」


 となると、見えている範囲で沖の五艘の船と、ここにある一艘だけなのか。


「この辺では、鯨みたいな大物の漁はやってないので……」

「うーん……この船で、俺を沖まで連れて行ってもらえませんか?」


 厄介事の中心に自分から首を突っ込む事になるが、被害が広がるのを放置するのも寝覚めが悪い。


「良太、あたしが船を漕ぐよ」

「おりょうさんが?」

「こう見えて、故郷の川や湖では、その辺の船頭よりも上手いって言われてたんだよ」

「わかりました。お願いします」


 船はオールじゃなくて櫓で漕ぐタイプだったので、正直、どうしようかと思っていたのだ。


「し、しかし。旦那、お嬢さん……」

「もしも船に何かがあったら、若宮の頭領様が保証してくれるよ」

「ほ、本当ですか?」

「勿論さ」


 実際にはおりょうさんが言うような保証は無いんだが、これも方便だ。いざとなったら、痛い出費になるが、俺がなんとかすればいい。まだ手持ちのお金でなんとかなるだろう。


「それじゃ良太、行くよ!」

「はい。胡蝶さんは、ここで起きている事を頼永様に」

「し、しかし……」


 お目付け役が対象から離れる事に躊躇があるのだろうが、今はそれどころではない。


「早くっ! 領民の人達に関わる事ですよ!」

「は、はいっ!」


 あまり大きな声など出したくは無かったが、時間を無駄にしたくないので胡蝶さんを一喝した。


「まったく、任務に忠実なのも考えものだねぇ」

「おりょうさんも、胡蝶さんは俺達の見張りだと思ってました?」

「当たり前だろ? さ、船を出すよ」

「はい」


 まあそうだろうなと思いながら、おりょうさんの漕ぐ船で、俺達は沖合を目指した。


「とは言うものの……」


 勢い込んで出てきたが、今更ながら武器らしい武器が無いのに気がついた。


「こいつでやるしか無いか」


 俺が取り出したのは、まだ柄の無い柳刃包丁だ。まだ柄無しだが、刀の「巴」を預けてきたのが悔やまれる。


「手から離れないように……」


 サラシの布を適当な長さに切り裂き、柳刃の持ち手の部分に少し巻いて滑り止めにすると、右の逆手で握り、その上から左手で更に布を巻いて、最後は歯を使って縛り、固定する。


「うわーっ!」


 俺達の船の行く手で、水面下にいた鯨が浮かび上がり、二艘の船をひっくり返した。乗っていた漁師が海に投げ出される。


 でかい。全ての姿を現してはいないが、浮かび上がった鯨の全長は、目に見えるだけでも十五メートルくらいはありそうだ。


「くっ……おりょうさん、飛びます!」

「と、飛ぶって、良太っ!?」


 海に投げ出された人たちの事を考えると、船が近づくまでの時間が惜しいと思った俺は、舳先から海に向けて跳躍した。


「良太ーっ!」


 おりょうさんには、無謀にも海に飛び込んだと思われたんだろうけど、俺は鯨にひっくり返された船をめがけて跳躍し、なんとか届いた。


「ほっ!」


 間の抜けた感じの声を上げて船を蹴ると、俺は勢いそのままにもう一艘のひっくり返った船を足場に跳躍し、浮かび上がった鯨の体の上へ飛び乗った。


(よ、良かった。なんとか上手く行った……)


 別にカナヅチではないが、服を着たままだし右手も変な感じになっているので、海に落ちるのは避けたかったのだ。


「あれ?」


 ふと気がつくと、鯨の濡れたツルツルの体表で滑りそうなものだが、鵺の靴が元々そういう性質なのか、俺の滑って転びたくないというイメージでそうなっているのかはわからないが、靴底が吸い付いたような感じになり、立っているのに不安がない。それでいて、足を上げるのに苦労するという事も無い。


「さて、お前に恨みは無いんだけど、頼華ちゃんの地元に、これ以上被害は出せないからな……」


 俺は鯨の上で跪くと、逆手に固定された柳刃に、(エーテル)を纏わせるイメージをしながら突き立てた。不動明王の炎の権能は、水棲生物に水上では効果が薄いと思ったので使わない。


「!!!」


 尾鰭で水面を叩きながらもがく鯨は海中に逃れようとするが、俺は(エーテル)を送り込みながら、突き立てた柳刃を思いっきり引き、鯨の体を切り裂いた。切り口から血液と脂が漏れ出してくる。


 (エーテル)を送り込みながら一メートルくらい体を切り裂くと、盛んに尾鰭で水面を叩いていた動作が少しずつ小さく緩慢になった。


「終わった、かな?」


 小刻みな震えが少しの間続いてから鎮まると、鯨は潜ろうとしていた体の大半を海面に浮かべた。どうやら息絶えたようだ。


「ふぅー……」


 なんとか上手く行ったが、飛ぶところからトドメまで、出来る確証なんか無かったからドキドキだった。(エーテル)で柳刃が壊れてしまわないかも心配だったが、名工の正恒さん作だけあって、切っ先が欠けたりする事も無く、刃こぼれ一つ無い。


「良太っ! 無事かい!?」

「大丈夫です。ちょっと気が抜けちゃいましたけど」

「まったく……今、船を寄せるよ」


 呆れたようなおりょうさんの笑顔が、今は何よりの御褒美だ。


 ひっくり返ったが壊れなかった二艘の船を元に戻し、海に投げ出された漁師の人達を船に引き揚げて手当をした。



「良太殿!」

「兄上、御無事か!?」


 無事だった漁師の人達と、死んだ鯨を綱で結んでなんとか曳航して戻った船着き場には、頼永さんと頼華ちゃんが待ち受けていた。報告に行ってくれた胡蝶さんの姿もある。


「すいません。入ったばかりですが、また風呂をお願いします」

「あたしも頼むよ」

「それは構いませんが……」

「何か?」


 俺とおりょうさんの申し出に、頼永さんが怪訝な表情をする。


「勝手に船の保証をするとか言ったのが、もしかしてまずかったですか?」

「いえ、そうでは無くて……とにかく、御無事で何よりでした」

「凄いな兄上は! こいつは大物だ!」


 呆れ顔の頼永さんとは対象的に、頼華ちゃんは数十人掛かりで港に引っ張り上げられている鯨を見て、目を輝かせている。


「遅れましたが、我が民達を救って頂き、元凶である勇魚の退治まで。この頼永、皆を代表してお礼を申し上げます」

「あ、いえ。勝手な行動をしまして……」


 緊急だとは思ったが、本当なら指示を仰ぐべきだっただろう。そこを咎められなくて良かった。


「それにしても見事だ。マッコウ鯨ですな」

「夢中で気が付きませんでした」


 言われてみれば、角ばったフォルムはマッコウ鯨なのか。それほど水棲生物に詳しい訳ではないので、良くわからない。


「良太殿が御一人で仕留めたので、あの鯨は御自由にして頂いて構いませんが、どうされますか?」

「うーん……」


 確か記憶では、マッコウ鯨は鯨油を採る目的で捕鯨されてたけど、身にも脂を多く含んでいるので、食用、特に刺し身なんかには向かなかったはず。脂抜きをした皮を、関西ではおでん種にしてるくらいだったか?


 ファンタジーRPGなんかだったら、皮とか骨なんかを素材に色々作ったり出来そうだけど、実用を考えると油脂類しか使い途は無さそうだ。


「俺には必要無さそうなので、処理を含めてお任せします」

「そうですか。油は貴重なので、私としては助かりますが」

「頭領様、これを」

「む。これは……」


 俺と話していた頼永さんへ、漁師の人が持ってきた、何だか良くわからない琥珀色や灰色が入り交じった、パウンドケーキくらいの歪な塊が、胡蝶さん経由で渡された。


「良太殿、鯨本体は要らないと言われるが、これはお持ち下さい。竜涎香(りゅうぜんこう)です」

「竜涎香?」

「御存知ありませんか? その名の通り、香料であり、薬でもあります」


 竜涎香の名前は聞いたことぐらいはあったが、詳しくは知らないので説明をお願いした。


「竜涎香はマッコウ鯨の体内で作られる結石と考えられていますが、詳しい事はわかっていません」

「はぁ……」


 香料や漢方なんか無縁だったので、どうもピンとこない。あれ、もしかして料理は勝負な漫画に出て来た、不老長寿の薬の「竜の涙」って奴か?


「独特の香りと、薬としては心の臓の病や、咳などに効能があると言われています。その価値は、同じ重さの金よりも高いです」

「ええっ!?」


 熊の胆嚢の熊の胆も金と同じくらいの価値だと正恒さんが言っていたけど、竜涎香はそれ以上なのか。この妙な色の塊が……俄には信じられない。


「そんな貴重な物をもらう訳には。頼永様の領内で採れたんですし」

「領民の命をお救い頂き、その前には頼華の件もあります。本来なら相当の金銭をお支払しなければならないくらいです。どうぞお納めを」


 これはもしかして、礼金は払えないけど当然の権利なので受け取れって意味なのかな? だったら、受け取っておくか。


「わかりました。ではこれは頂いておきます」


 手渡された竜涎香の匂いを嗅いでみたが、なんというか、とてもじゃないが香料には思えない。でも、麝香なんかも薄めないとひどい匂いだと聞いた事があるので、これはあくまでも原料なんだろう。


「言い忘れましたが、竜涎香は天日干しをしないと本来の香りを発しませんの。でも、このままでも価値は変わりません」

「そ、そうですか……」


 そういう事は早く言って欲しかった。


「それでは、屋敷に戻って湯浴みをして下さい」

「ありがとうございます」 

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