きんし丼
「失礼します。お話はお済みでしょうか?」
話が終了したとは言い難いが、丁度会話が途切れたタイミングで、障子の向こうから貞吉さんから声を掛けられた。
「……」
「構わないよ。支度が出来たのなら運んでおくれ」
「はい。畏まりました」
視線を感じて俺が頷くと、椿屋さんは貞吉さんに指示を出した。
「お父さん。食事が運ばれるまでの間に、着替えてきてもいいですか?」
「あ、それでしたら私も……」
早速着てくれるのか、お藍さんが申し出るとおせんさんも便乗してきた。
「ふむ。それなら私もと言いたいところだが、お客様を放っておくのは……」
言葉とは裏腹に、椿屋さんが俺と頼華ちゃんの様子を窺うようにちらっと見てくる。
「俺達の事でしたら、お構いなく」
客扱いしてくれるのはありがたいが、椿屋さんがいつもの落ち着いた様子とは違い、ほんの少しだがそわそわしている感じが伝わってくる。
「そ、そうでございますか? それでは遠慮無く……」
「「失礼致します」」
一礼して立ち上がる椿屋さんに続き、お藍さんとおせんさんも礼をしてから立ち上がり、三人共包みを抱えながら座敷から退出した。
「失礼します……あれ? 親方、旦那や姐さん方は?」
「いま、着替えに行ってます」
「着替えって……親方と頼華様を放ってですか!?」
「「……」」
貞吉さんが呆れた顔をするのも無理はないのだが、実際に状況を説明するのは椿屋さん達に任せて、俺と頼華ちゃんは顔を見合わせながら笑いを噛み殺した。
「ふむ……鱧は何度か京でも食べて、余り旨いとは思わなかったが、これは旨いな!」
「頼華様、ありがとうございます」
元の世界でも関西圏ではポピュラーな、骨切りした鱧をタレの付け焼きにした物を口に運んで、頼華ちゃんが微笑むと貞吉さんの表情に安堵が浮かんだ。
「京の鱧は、そんなに美味しくなかったの?」
俺自身は数度京に脚を運んでいるのに、買い出し以外は殆ど通過しているだけなので、食べ物屋に入る機会が無かった。
(京の料理も、大分好みが別れてるな……)
おりょうさんは出汁の効いたうどんが美味しかったと言っていたが、黒ちゃんは薄い色の煮物などが、味がハッキリしなくて口に合わないと言っていた。
「この鮎の天ぷらは、香りが良いですね」
「おわかりになりますか? このくらいの大きさの鮎が、香りも良くて頭から食べられる、今の時期ならではです」
もっと成長した鮎も、香りが強くなって肉厚になるのだと思うが、その場合は違う食べ方の方が適していて、天ぷらで食べるには今の時期の成長途上の鮎が最適なのだろう。
「揚げ物が続いて口が重くなるかもしれませんが……これをお試し下さい」
貞吉さんが皿に載せて出してきたのは、説明どおりに揚げ物なのだが、何やら少し変形気味の俵型で、串が刺してある。
「ん? これは、中に卵と……鶏の挽き肉ですね」
下味をつけた鶏挽き肉で、卵の周囲を包んで揚げてあるこれは、牛や豚の肉を使っていないという違いはあるが、スコッチエッグの一種だろう。
「これは例の、お座敷串揚げの新作という事ですか?」
客と妓女が仲を深める為の演出の一種として、座敷で串に刺した具材を共同で揚げながら食べるという、俺が提案したやり方の、これは新作のようだ。
「さすがは親方。おわかりになったようで。これは賄いで出して頂いた、親子丼と言いましたか? あれを揚げ物に応用してみました。親子揚げとでも言いましょうか」
「成る程……」
賄いで鶏肉と卵と、玉ねぎは入手が難しいので長ねぎを使った親子丼を作った事があるが、全く形態は違う料理だが、ネーミングの由来自体は同じと言っていいだろう。
「貞吉さん。欲を言うならこの料理には、卵の茹で時間を調節して、黄身が固まらない程度にしておいた方がおいしいと思います」
「おお! さすがは兄上! 確かに、話を聞いているだけで、そちらの方がおいしそうです!」
「揚げる事も考えると、加減が難しいけどね」
中に卵が入っているので、外側の鶏肉にだけ火が通れば大丈夫なのだが、少し油断すると半熟に茹であげてあった黄身にも火が通って固まってしまうのだ。
「むむ……親方の指摘は的確でありがたいですが、こいつは難しそうですな」
「まずは卵の茹で加減からですね。こればっかりは時間を測って、何度も試すしか……」
現代とは違って時計も無いし、火加減の調整も難しいとは思うが、この辺はどうにもならない。
「それと、これはこれでいいと思うんですが、串揚げ用にはちょっと大きい気もするので、親子じゃ無くなっちゃいますけど卵をうずらの物にした、少し小ぶりな物もどうせしょうか?」
他の串揚げの具材の殆どが一口サイズなので、合わせるのなら鶏卵よりはうずらの卵の方が、見た目的に良さそうな気がする。
「ははぁ……肉もうずらにして、うずらの親子揚げってのも良さそうですね」
「あ、それは考えなかったな。でも良さそうじゃないですか」
うずらの卵を半熟にというのは難しだだろうと思うが、そこまで半熟に拘るかどうかは別の話だ。
「あと、親子にはなりませんけど、挽き肉では無くて、すり身にした魚や海老なんかで卵を包んで揚げた物も良いんじゃないかと。そのまま食べる以外に出汁で煮たり、煮込み田楽の具なんかに出来ますよ」
魚のすり身で卵を包んで揚げた料理とは要するに、おでんの具材の一つのバクダンだ。
(貞吉さんのアイディアも大した物だな……子供達にもおでんはまだ出した事が無いし、今度作ってあげよう)
うずらの卵のサイズなら串に刺して焼く事も出来るし、咖喱の具にも良さそうで、色々と応用が効きそうだ。
食事の締めには、小さな蓋付きの器が各自の前に並べられた。
「貞吉さん、これは?」
「ま、蓋を開けてみて下さい」
「これは……酢の香りですか?」
貞吉さんに言われるままに蓋を開けると、湯気と共に酢の香りが立ち昇った。
「御存知ありませんでしたか? 京や大坂やこの辺りでは良く食べられている、蒸し寿司です」
「ああ、これが……聞いた事はありますが、食べるのは初めてです」
柿の葉寿司や押し寿司くらいは食べた事があるが、それは両親の貰い物の御相伴に預かっただけだ。
元の世界の自宅の近くに食べられる店があるのかもしれないが、蒸し寿司は個人的には、あまり積極的に食べようかという類の料理では無いし、多分だが安くないので経済的にも手が出なかったかもしれない。
「錦糸卵に甘辛く煮た椎茸に……ん!? これはもしかして!?」
「おわかりになりましたか? 具には穴子を良く使うんですが、こいつには親方から教わった鰻にしてあります」
まさに貞吉さんの言う通り、口の中には酢の風味と共に、馴染みのあるタレの良く絡んだ鰻の味が広がった。
「ふむ……貞吉よ。旨い事は旨いが、この料理は酢の風味が鰻の邪魔をしていないか?」
(頼華ちゃんも、俺と同じような感想か)
湯気と一緒に香る酢が気になって、俺には他の具材の風味が感じられなかった程なので、口に入れてからも酢が先に立ってしまうようになっている。
「うっ……や、やはり気になりますか?」
ちょっと自信あり気だった貞吉さんだったが、頼華ちゃんの指摘で顔色が変わった。
「やはりという事は、貞吉さんも?」
「ええ。気がついちゃいたんですが……」
(オリジナルを食べた事は無いけど、鰻じゃなくて穴子なら合うのかな?)
鰻と穴子はどちらも独特の味と脂があるが、その違いが蒸し寿司に合うか合わないかの差になっているのかもしれない。
「んー。蒸すというのは悪くないと思うので、酢飯を使わなければいいんじゃないかと」
椿屋の厨房では、江戸前のように調理に蒸すという工程が入っていない。
だからこそ逆に、仕上げに蒸すという手順が入っても、身が柔らかくなり過ぎたり、脂が抜け過ぎたりする事も無いだろう。
「貞吉さん。本焼きまで終わった鰻は、残ってますか?」
「そりゃあ、長焼きですから残ってますが……もしかして、親方?」
「ちょっと厨房をお借り出来ますか?」
本当に、我ながら余計なお世話だと思うのだが、少しだけ貞吉さんの手助けをしたくなった。
そして口で説明するよりは、実際に作って食べて貰った方が、料理人の貞吉さんにとってはわかり易いだろう。
「親方。勉強させて頂きます」
「そんな大袈裟な。勘弁して下さいよ……」
貞吉さんが手を付いて頭を下げるので、苦笑しながらやめるようにお願いした。
「さあ、行きましょう。皆さんは少しお待ちを」
「兄上! お待ちしております!」
「鈴白様、お手間をお掛けします。貞吉、しっかり教わっておいで」
「「はい」」
椿屋さんに同時に返事をした俺と貞吉さんは、厨房へ向かった。
「すいやせん。これくらいしか残っていないんですが……」
厨房で貞吉さんに確認したところ、本焼きまでされている鰻は半尾分くらいが残っていた。
「それなりに食事が進んでますから、各自の分という程は必要ないでしょう。大丈夫ですよ」
一人前ずつという事なら、軽目でもあと一尾くらい焼かなければならないが、既にそれなりに食べているし、試食という事ならこれで十分だ。
「じゃあ先ずは、蒸す方からやりますね」
「はい!」
食器の並んでいる棚に漆塗りの、おそらくは弁当箱ではないかと思われる四角い器があったので、それを取り上げた。
「御飯にタレを掛けて、その上に蒲焼。錦糸卵を載せて……貞吉さん、これを器ごと蒸籠にお願いします」
「わかりました!」
貞吉さんは既に鍋の上に置かれて湯気が出ている蒸籠の蓋を開け、器を置いて蓋をした。
「じゃあ蒸すのはお任せして……」
蒸し加減は貞吉さんに任せて、俺はもう一品の料理に取り掛かった。
「ん? 親方、錦糸卵ならまだありますが」
「ちょっと変わった物を作ります。ただ面倒なんですよね……っ!」
俺は苦笑しながら卵の黄身と白身を分けて、白身が入った鉢を冷却するようにイメージしながら気を込めて、猛烈な勢いで泡立て始めた。
卵の白身を泡立ててメレンゲを作るのだが、冷やしながらだと作り易くなるのだ。
「お、親方!?」
「……ふぅ。こんなもんかな?」
突然の俺の行動に、貞吉さんが驚くのを横目に見ながらメレンゲを作り終えると、別の鉢で黄身に塩と砂糖と出汁を少量加えて掻き混ぜてからメレンゲの方に加える。
メレンゲの泡を壊さないように、掻き混ぜ過ぎないように気をつけながら、鉄鍋に流し込んで弱火でじっくり焼く。
「こりゃまた変わってますな。出汁巻きとも、炒り卵とも違う……」
鍋の上でふわふわのままで焼かれ、膨らんでいく卵を見ながら、貞吉さんが呟いた。
「こっちは丼に御飯、タレ、鰻を載せて、その上にこの卵焼きで完成です」
「こっちも、丁度いい蒸し加減になりやした」
言いながら貞吉さんが、蒸籠から器を取り出した。
「それじゃ運びましょうか」
俺と貞吉さんで、それぞれ一品ずつ載せた盆を持って、食事をしていた応接間へ向かった。
「これは、なんという……」
「時間が経つと卵がしぼんでしまうので、こっちから食べて下さい」
表面に焼き色が付いた、スポンジのような卵が載った丼を見て、椿屋さんが溜め息とも呆れともつかない声を出す前で、各自の器に取り分けた。
「頂きます! むぅ!? こ、これはなんとも、まるで雲を食べているような食感が!」
「確かに卵を焼いてあるのに、ふわふわと鰻に纏わり付いて、なんとも言えない一体感が……」
(きんし丼をヒントにして作ったけど、頼華ちゃんと椿屋さんは気に入ってくれたみたいだな)
蒸し寿司の上に載っている錦糸卵を見て、元の世界の京都には、巻いていない卵焼きを鰻の上に載せたきんし丼という物があるのを思い出した。
しかし滋賀の大津の辺りの店では、同じきんし丼という名前なのに、分厚い出汁巻きを載せた物を出す店があったの思い出した。
そのまま同じ物を出しても良かったのだが、もう一捻りして巻かずにスフレオムレツの要領で、出汁の入った卵をふわふわに焼いてみたのだ。
「お父さんの仰る通り、卵とじや溶き卵を掛けたのと近い感じに、卵と鰻に一体感があるように思えます」
「本当においしい……でも鈴白様。これはお作りになるのは大変なのでは?」
「実は、そうなんですよね……」
お藍さんとおせんさんにも好評なようだが、電動泡立て器とかの無いこっちの世界では、メレンゲを作るのは一苦労だろう。
「貞吉、そうなのかい?」
「出来なくはありやせん。ですが、あっしや他の料理人じゃ、親方のように手早く作るのは……」
椿屋さんに問い掛けられて、貞吉さんは険しい表情で首を振った。
「何人ものお客様に出すのは難しいですが、例えば常連のお客様に試食して頂いて、気に入って貰えたら予約の時だけお出しするとかってのはどうでしょう?」
しかし貞吉さんは、椿屋さんに妥協案を提示した。
メレンゲは作るのに根気が必要ではあるが、時間を掛ければ出来なくはないので、予約でコースの最後に出すとかにしておけば、数も限られるし慌てないで済むだろう。
「成る程。予約限定で、一日に出る数はせいぜい五食程度になりましょうか。貞吉、それなら出来そうかい?」
「大丈夫です」
(……思いつきで作ったけど、正式メニューになっちゃったか)
自分でも、中々面白い料理になったとは思うのだが、まさか即決というのは考えてもみなかった。
「それでは次に、御飯にタレをまぶして蒲焼と錦糸卵を載せて蒸しただけの物です」
話が一段落したところで、蒸篭蒸しにした鰻を取り分けた。
試食から会話が続いたが、蓋を開けるとまだ湯気が立つ程度には冷めていなかった。
「うむ! 鰻丼と比べて特筆すべき点は無いが、改めて酢の風味が邪魔だったというのがわかるな!」
「ふむ……頼華様の仰る通り、食べ比べてみますと、よりはっきりとわかりますな」
「く……」
頼華ちゃんの指摘から椿屋さんの追い打ちまで受けて、下を向いた貞吉さんが唇を噛んでいる。
「まあそうは言っても、貞吉さんが作ってくれた物があったから、俺も改良点を思いついた訳だし」
先に出された親子揚げは見事だったし、鰻を蒸籠で蒸すという発想に至った貞吉さんの発想は素晴らしいので、間違い無く称賛に値するだろう。
「それもそうですね! 貞吉、良くやった!」
「は、はあ……」
頼華ちゃんから、褒めてるのか貶してるのか判断がつきかねない言葉を掛けられ、貞吉さんが反応に困っている。
「という訳で貞吉さん。これは俺からの気持ちです」
俺は脇に用意して置いていた布の包みを、貞吉さんの方に押し出した。
「これは……着物ですか?」
「いまの仕事着を、素材を変えて仕立てた物です」
布の包みを開き、中身を確認して貞吉さんが首を捻る。
(俺からのプレゼントが衣類っていうのは、意外だったのかな?)
本職では勿論無いのだが、貞吉さんから親方と言われるくらいなので、俺の事を料理人だと思っているだろうから、包みの中が調理器具や食材とかでは無かった事を、不思議に思っているのだろう。
「ははは! 喜べ貞吉よ! その着物は兄上が貴様を認めてくれた証だぞ!」
「えっ!? そ、そうなんですか、親方!?」
「認めているのは前からなんですけどね……」
椿屋で最初に出会った時から、料理の腕前自体は凄いと思っていたのは事実だ。
「しかし兄上、余や姉上と同じ素材で作った物を与えている相手は、限られているではないですか?」
「それはそうだけど……」
(単に俺に親しくしてくれていたり、名前と顔をしっかり認識してる相手にってだけなんだけどな……)
そもそも、こっちの世界に来てから数ヶ月足らずであり、様々な交流はあったのだが、そういう相手ですらまだまだ限られているのだ。
「そ、そんな物を頂いてしまって、宜しいので?」
「宜しいも何も、貞吉さんのも勿論ですけど、その人の為に作った物ですから」
「親方……」
(……なんでこうなった?)
何やら貞吉さんが涙ぐんで、感動のシーンみたいになってしまっている。
「えーっと……その着物は頑丈なので、火や水を扱う厨房にはぴったりだと思いますから、是非お使い下さい」
「わかりやした! 親方から頂いたこの着物に恥じないように、働いてみせやす!」
「いや、だからそんなに大袈裟に……」
今日のところはどうやっても、話をそういう方向に持っていかれてしまうらしい。




