永代使用権
「黒ちゃん、この辺でお別れしようか?」
「えー……」
「えーって……」
里を護る霧を抜けて暫く歩き、丘陵地帯を抜けて地面がなだらかになってきても、黒ちゃんと頼華ちゃんは俺の腕を離そうとはしなかった。
「黒ちゃんは鎌倉、白ちゃんは江戸行きでしょ?」
「う、うー……もう少し御主人と、別れを惜しみたい」
「さっき抱きついたのは?」
別れを惜しむのに、良くわからない擬音を発しながら黒ちゃんが抱きついてきたのだと思っていたが、どうやらまだ足りなかったらしい。
「黒。主殿の命を蔑ろにする気か?」
「うぅー……そいじゃ行ってくる!」
白ちゃんに言われて、黒ちゃんもやっと諦めがついたのか、俺の腕を開放してくれた。
「黒ちゃん、頼永様達に宜しくね。白ちゃんも、家宗様達に宜しく」
「おう!」
「心得た」
言うが早いか、黒ちゃんと白ちゃんの姿が目の前で掻き消え、やがて気配も遠ざかっていった。
「では我々も参りますか」
「ええ」
「はいっ!」
頼華ちゃんは邪魔者がいなくなったと言わんばかりに、御機嫌な表情で俺の腕に絡める力を強めて、ぶら下がるようにして歩いている。
「どうやらここのようですな」
「造りは新しいですが、少々手狭ではありませんか?」
「そうだね」
ブルムさんが那古野を出る前に、商人の知り合いから紹介された物件がるとの事なので、北側から京の中心部に入った俺達は、九条大路と東洞院大路の交差する辺りに建っている空き店舗の前まで歩いてきた。
元々は呉服商だったという空き店舗は、周囲の店舗もそうなのだが少し狭く見える。
「間口は狭いですが、奥行きは広いという話ですよ」
「そうなんですか?」
(そういえば、昔の京都はそうなんだったっけ?)
元の世界の昔の京都では、間口の広さで税金の額が違ったので、俗に鰻の寝床と呼ばれるように、一見すると狭いが奥行きのある商店や町家が、今も多く残っている。
同じ税収の方式なのかは不明だが、この周辺の店舗に関しては奥行きのある構造の建物が多いようだ。
「失礼。ちょっと宜しいですか?」
「はい。いらっしゃいませぇ」
隣で営業している、どうやら草履や下駄などの履物を扱っているらしい店の、柔らかなイントネーションで喋る従業員らしい女性に、ブルムさんが声を掛けた。
「客では無いのですが、この辺りの顔役の方に連絡を取りたいのですが」
「もしかして、お隣のお店を借りようという方ですか?」
「ええ」
ブルムさんの商人仲間から連絡が来ていたのか、女性はこちらの事情を察したようだ。
「少々お待ち下さい……あんたぁ! お客様だよぉ!」
客用と普段用で態度を使い分けているのか、優雅にお辞儀をした女性は一転して怒鳴るような口調で、店の奥の方へ呼び掛けた。
「うるせえなぁ……お待たせしました。あっしがこの辺の顔役で、この店の主の利平と言います」
「どうも、ブルムと申します」
「……こちらはお子さんで?」
普通雨の日本人とは違う体型のブルムさんと、作務衣姿の俺と、同じく作務衣姿だが、気品のある顔立ちの頼華ちゃんの関係が気になったのか、利平という履物屋の店主は不躾な視線で見てくる。
「いえいえ。この方達は私のお客様なんですが、縁あって少しお手伝いを頂く事になりましてね」
「ほほぅ……」
「これは私の商人仲間からの紹介状と、これはそちらの鈴白さんの身元を証明する書状になります」
(そういえば、ブルムさんに預けてあったんだっけ)
伊勢の古市妓楼の椿屋さんから貰った、商売に役立つと言われた書状と、代官所の松永様から貰った身元確認の書状を、京で店を借りて商売をする時に役立てて欲しいと、ブルムさんに預けてあったのを今になって思い出した。
「ふ、古市の椿屋の御主人からの紹介状に、代官所のお役人様の身元保証!? こ、この御方は一体!?」
(さすがに凄い効果だな……)
日本三大遊郭の古市の中でも大店の椿屋の名は、京にも轟いていたという事だ。
そして伊勢を収める織田家配下の、代官所の役人である松永様の書状の信用度は非常に高い。
(本当はあんまり、こういうやり方は好きじゃないんだけど、仕方が無いよな……)
ブルムさんの紹介状だけでも問題は無いと思うのだが、今後は俺達も店に出入りする事になるので、素性が怪しいと思われたままでは何かと都合が悪い。
あまり権威を振りかざすような真似は好きでは無いのだが、俺達もブルムさんも京では新参者なので、手っ取り早く信用を得る為にこういう方法を使ったのだ。
「わかりました。では隣の店を御利用されるという事で。家賃は月に……」
「あ、もしもなんですけど、店を借りるのでは無く買う場合は、お幾らですか?」
賃貸契約の内容の説明を始めようとしていた店主の説明を遮り、俺は尋ねた。
「店を、お買いに?」
「ええ。参考までにお聞かせ下さい」
書状を見て信頼してくれたっぽい利平という店主の表情に、また疑わしい成分が現れた。
「京の土地は朝廷の物ですので購入は出来ません。ですからこの場合は、この場所の永代使用権と、敷地内の建物を建て替えられる権利という事になりますが」
「ああ、そういう風になっているんですね」
どうやら京の街は、商店にしても住宅にしても、土地は全て朝廷からの借地という形になっているらしい。
「永代使用権は、この場所ですと金貨二十五枚になります。賃貸契約の場合は一月で銀貨二十枚です」
(約十年分をまとめ払いすると、永代使用権を得られるという事か……)
借地ではあるが京の中心部で建て替え可能な場所の永代使用権が、現代の金額換算で二千五百万円というのはそれ程高くは感じないが、商売を始める際の初期投資としては高額かもしれない。
(始めた商売が上手く行くとは限らないし、内装を整えたり仕入れのお金とかも必要だしなぁ)
テレビの番組で、脱サラして飲食店を開店する人を追跡して、ドキュメントにした番組を観た時の記憶が蘇った。
その番組では食器類と食材の仕入れに拘り過ぎて、椅子やテーブルに掛ける予算が足りなくなり、更なる借金、という事態に陥っていた。
(でもまあ、毎月賃料を払うよりは……いいよね?)
こういう方式で借りる場所の賃料が値上がりするのかはわからないが、まとめて先払いすれば以後は建物の修繕以外は店舗に費用を掛けないで済むというのは大きい。
「それじゃその、永代使用権を……」
「ちょ、ちょっと鈴白さん!? 幾ら何でも、私の想定していた予算を超えていますよ!」
今までに見た事が無い程慌てた様子のブルムさんが、俺を止めようとする。
「その分は俺が出しますから。ではこれで、書類とかを作って頂けるんでしょうか?」
「は、はあ……」
俺が金貨二十五枚を差し出すと、顔役の利平という男性は呆気に取られた表情になった。
「お若いのに、随分とお金をお持ちなんですなぁ」
「別に、後ろ暗い手段で手に入れたお金ではありませんよ」
(でも確かに、普通は俺みたいな若造が持ってる額じゃ無いしなぁ)
立場が逆なら自分も疑うだろうなと思うので、心の中で苦笑した。
「それでは、少々お待ち下さい……」
書類の用意をする為だと思うが、利平という店主は自分の店の奥の方へ歩いていった。
「鈴白さん、店を出すのを決めたのは私の方で、出資して頂くつもりなんか無かったのですよ? その上、こんな金額を……」
「そうは仰いますけど、里の産物の窓口になって頂く訳ですから、こちらが全く出さないというのも。ただ内装とか当面の運転資金に関しては、御協力出来る程の余裕が無くなってしまいましたけど」
まだ懐がすっからかんという事は無いのだが、子供達の食費などのを賄う為のある程度の額は必要なので、あまり無駄遣いを出来なくなったくらいには手持ち金は減っている。
「内装や運転資金なんてとんでもない。賃料だって、私が自分で出すつもりだったのですから……」
「さすがにそれは申し訳ないですよ」
仮に賃貸でしか契約が出来なかった場合でも、現代のように敷金や礼金というシステムがあるのかはわからないが、その分と一年分の賃料くらいは出すつもりでいた。
「兄上。もしもお困りのようでしたら、余が父上から預かっている……」
ブルムさんに聞こえないようにという事なのか、俺に腕を絡めたままの頼華ちゃんが、顔を寄せてそっと囁いてきた。
「ありがとう。まだそこまで大変じゃ無いから大丈夫だよ。でも、本当に困ったらお願いしようかな」
俺についてくる時に頼華ちゃんの父親の頼永様が、おそらくはかなりの金額を持てせてくれているのだと思う。何せ伊勢神宮で、賽銭に金貨を入れてしまうくらいなのだから……。
(とは言ったものの、本当に頼る訳にもな……)
好意を無碍に退けたくなかったので、いざとなったら、みたいな返事をしておいたが、自分にもなけなしのプライドという物があるので、頼華ちゃんの懐に頼るくらいなら、何か仕事をして稼ぐ気でいる。
「お待たせ致しました。これが契約の書類になります」
戻ってきた店主が、手にした契約書類を差し出してきた。
「……確かに。それではお隣の誼で、今後共宜しくお願いします」
真面目な表情で書類の内容を確認していたブルムさんだったが、問題が無い事を確認すると緊張を解いて一礼した。
「こちらこそ……念の為に申しておきますが、使用権の額に関しましては決められておりますので、吹っ掛けたりしてはおりませんので」
「これはどうも……正直な事で」
永代使用権は結構な金額なので、新参者に対して吹っ掛けたと思われたくないのか、履物屋の店主は包み隠さずに説明してくれた。
ブルムさんも、もしや? と思っていたようだが、店主の率直な言葉と態度に苦笑しながらも、好ましいと感じているようだ。
(こっちの世界の商人は、基本的にみんな正直というか誠実なんだなぁ……)
江戸の鰻屋の大前の店主の嘉兵衛さんを始め、萬屋のドランさん、薬種問屋の長崎屋さん、ちょっと職種は違うが伊勢古市の妓楼の椿屋さんも、大きな儲けを考えずに、客や使用人の事を考えて商売を営んでいる。
「ところで、お隣で何を取り扱われるおつもりで?」
契約が決まったので、これから隣人になるブルムさんが何の商いをするのかが気になったらしい。
「織物と注文服をと考えております」
「ほう?」
「それと玩具……遊技盤ですな」
「遊技盤とは、それはまた、織物や衣類とは毛色の違う」
(そりゃそう思うよな……)
源平碁に関しては、ブルムさんが扱うというのに口出しをする気は無いのだが、現代のデパートなどのように全く種類の違う商品を扱う店というのは、やはり奇異に映るのだろう。
「あ、それとですね。この場にはいないのですが、店には子供達が何人か出入りしますので、御迷惑をお掛けするかもしれませんが、なるべく気をつけますので御容赦を」
「それは、あなたのお子さんで?」
「いえいえ。ですが子供達の事は私が責任を持ちますので、何か御迷惑などを掛ける事がございましたら、遠慮無く言って下さい」
(ブルムさん……)
まだ出会って数日しか経っていないし、こちらが店にお世話になるのに、子供たちの事に責任を持つとまで言ってくれた。
ブルムさんの言葉や態度に、温かな人柄が現れている。
「それでは俺達は行きますが、明日以降に手伝いに伺いますので」
契約を終え、表戸を開けて借りた店の中に入った俺達は、小上がりに腰掛けて話をしている。
「はいはい。ですが当面は掃除が主な仕事になりそうですから、子供達と一緒にのんびり来てくださればいいですよ」
前の利用者がいなくなってからそれ程経過していないのか、建物の中は軽く埃を払って拭き掃除をすればいい程度にしか汚れていない。
厨房用品などは無いが、商品を置く棚や収納庫はあるし、小上がりは帳場や接客をするのに不自由の無い造りになっている。
小さいが中庭と蔵もあり、前の住人が好きだったのか、それ程大きくは無いが風呂が備わっているのは嬉しい誤算だった。
(湯屋でも構わないと思っていたけど、子供を何人も連れての利用は難易度高そうだから、助かったな……)
基本的に子供達は俺の言う事を聞くのだが、あんまり口うるさくしたいとは思わないので、他の客に迷惑が掛からない程度なら黙認するつもりだった。
しかし、子供というのは注意をしないでおくと、段々と行動がエスカレートして行くので、匙加減が中々難しいのだ。
大きくはないが大人一人と子供数人が入れるくらいの、浴室と湯船の広さはあるので、偶然とは言えかなりありがたい。
「では鈴白さん、頼華殿。店探しへのお付き合い、本当にありがとうございました」
「早く決まって良かったですね」
「兄上の言う通りです! ブルム殿、お手伝いの方もしっかりとやらせて頂きますので!」
「ははは。期待しておりますよ」
気合が入り気味の頼華ちゃんの言葉に、ブルムさんが嬉しそうに応じた。
「鈴白さん。店の権利金に関しては、最低でも半額はお戻ししますので、暫しの御猶予を……」
笑顔から一転して、真面目な表情でブルムさんが俺に一礼してきた。
「わかりました。俺も出来るだけお手伝いしますので」
子供達の面倒を見て貰う時点で、店の権利金なんかどうでも良かったのだが、固辞するとブルムさんの商人としてもプライドを傷つけるかとも思ったので、ここは言う事に従っておいた。
「それじゃ頼華ちゃん。俺がいいって言うまでは、絶対に気の護りを解いちゃ駄目だからね?」
「はいっ!」
見送ってくれたブルムさんに別れを告げ、九条大路を東に向かって歩いて鴨川の方へ……と見せ掛けて、俺と頼華ちゃんは迷彩効果のある外套を身に纏って踵を返し、中庭を囲む塀を跳び超えて蔵に侵入した。
現在の九条通には跨線橋が掛かっているのだが、この時代の九条大路の東の果ては鴨川にぶつかるだけで、以前に紬と弦を連れて那古野へ行った時に使った橋の下のような、身を隠せる場所が無いのだ。
お世話になっているブルムさんには申し訳無いのだが、まだ界渡りという移動法の事を教える訳にはいかないし、使われていない蔵は人目を避けるのには恰好の場所だ。
「じゃあ始めるよ……」
軽く抱き寄せながら頼華ちゃんに呟き、気の防御壁を身体の周囲に張り巡らせ、意識を切り替えると界渡りの時に特有の、世界がワイヤーフレームで構築されているような視界に切り替わった。
「おおっ!? こ、これが界渡りとやらの空間なのですか!?」
蔵の形状はそのままに、見た目がガラッと切り替わったので、頼華ちゃんが驚きの声を上げた。
「驚いて気の防御を疎かにしないでね?」
「大丈夫です!」
表情は興奮気味だが、目を凝らすと頼華ちゃんの身体を包み込む気の防御壁は、決して厚くは無いが安定した強度を保っている。
「それじゃ行くよ」
「わわっ!?」
俺が頼華ちゃんを抱えたまま、地面をひと蹴りして蔵から東方向へジャンプすると、緩やかな落下の仕方が通常空間と違うにに気がついたのか、目を丸くしている。
「この空間の中では、地面を蹴っての跳躍から落下までが、普段の感覚とは違うから気をつけて」
「わかりました!」
「それじゃ、頼華ちゃんも試しにやって御覧」
「はいっ! たあっ!」
さすがに京八流で鍛えられた跳躍力というところか。重力や慣性の違う世界という点を別にしても、頼華ちゃんは俺を伴ったままで、ひと蹴りでかなりの高度を稼ぎ出した。
「あんまり調子に乗って跳躍すると、飛び過ぎちゃう事もあるから、そこは気をつけるようにしてね」
「はいっ!」
上昇曲線から下降に移る前に注意点を説明するが、新たな体験に興奮気味の頼華ちゃんの耳に、ちゃんと届いているのかが少し心配になった。
(……一度行った場所ならオーバーランはしないから、それ程気にしないでもいいか)
頼華ちゃんが江戸や鎌倉に界渡りで向かう際には、念の為に初回は俺か黒ちゃんか白ちゃんが同行するようにと考えているので、今の時点でそれ程神経質になる事も無いだろう。
「それじゃ今度は、翼で飛んで移動するよ」
「うわぁ……」
あまり地面が近づかない内に、俺は背中に部分变化で翼を展開して、高速で直線的な移動を開始した。
通常空間のように大気が壁のようになって邪魔をしたりはしないが、ワイヤーフレームの景色が凄い勢いで後方に飛び去るので、溜め息を漏らした頼華ちゃんには、高速で飛行しているというのは理解出来ているようだ。
「それじゃ頼華ちゃんも翼を展開して、気を噴出させて飛ぶイメージをして。でも、急に強めちゃ駄目だからね?」
「はいっ! おおぉっ!? 更に速くなりました!」
(成る程……慣性とかの身体への掛かり方が違うから、こうなるのか)
例えば同じだけの推力を持つジェットエンジンを二機並べて航空機を制作しても、空気抵抗などを考慮して形状を変更したりしなければ、二倍になった推進力を活かす事は出来ない。
しかし界渡りで通過する世界では、加速と共に増大する重力や慣性が通常と比べて極小なので、俺と一緒に気を頼華ちゃんが噴出し始めると、ググっと加速Gが掛かったりはしないのだが、はっきり認識出来るレベルで景色が流れる速度が上がった。
(ガス欠には気をつけないといけないけど、これは新発見だな)
京から伊勢程度なら近いので使う必要も無いのだが、江戸くらいの距離になると複数人の共同での気の推進を使えば、消耗は殆ど変わらないのに速度を上げる事が出来るので、現状の界渡り以上に時間の短縮が可能になる。




