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刀工 進藤正恒

 藤沢宿を出て、嘉兵衛さんの描いた簡単な地図に従って、山へ入る道まで来たところで、俺はおりょうさんを背負った。


 道と言っても獣道よりはマシという程度で、所々に剥き出しの石があったり、水溜りが出来ていたりするから、おりょうさんに歩かせるという選択肢は最初から無かったようだ。


 足の踏み場を選び、自分とおりょうさんに当たらないように木の枝などを避けながらなので、走るのは論外だが、一定のペースは落とさずに山道を登っていく。


「そろそろのはずだけど……ん?」


 前方からの妙な気配を感じて、俺は立ち止まった。


「着いたのかい?」

「いえ、もう少しなんですが。それよりも、前から何か……」


 動きを止めた俺達の前方から、大きな猪が猛スピードで突っ込んできた。


「っ!」


 止める間も無く、おりょうさんが俺の背中からふわりと跳び上がると、地面に降りた途端に前方へ駆け出した。


「おりょうさんっ!!」


 下がって! そう言いかけたところで、おりょうさんが立ち止まり、右足を踏み出し、右手を軽く上げた構えを取った。


「そぉい!」


 おりょうさんが掛け声と共に猪を、見事な手と足の捌きで宙に浮かせた。突進の勢いのままに、前方回転しながら俺の方に飛んできているはずなんだが、脳がこの光景をスローモーションのように認識させている。


「ふん!」


 まったく意識していない自然な反応で、回転する猪が俺に正対し、目が合ったと思った瞬間に、足を一歩踏み出すと同時に右手を眉間へ伸ばした。地面から土煙と轟音が上がる。


 身体の中から光のような物が、右腕を通して手のひらから放たれ、猪の眉間に吸い込まれていくのが見えた気がする。


「ひぃっ!?」


 音に驚いたのか、おりょうさんが小さく悲鳴を上げると、俺の手で空中に静止した猪が地面へ落下した。口や鼻、目や耳から血が吹き出している。


「おーい、そっちに手負いの猪が……って、あんたが倒しちまったのか?」


 片肌脱ぎで、あちこちに切り傷や、やけどの痕が見える逞しい身体を晒した、二十代前半くらいの男性が走ってきた。


「もしかして、進藤正恒さんですか?」


 俺は、地面にめり込んでしまった足を抜きながら、目の前の男性に尋ねた。


「あ、ああ。そうだが……あんた達は?」

「俺は江戸から、嘉兵衛さんにあなたの事を聞いてやって来ました、良太と言います。で、こちらが……」


 俺は呆然と座り込んでいたおりょうさんに手を貸し、立つのを手伝うと着物に付いた汚れを払った。


「あ、あたしはおりょう。この良太の……つ、連れだよ」

「なんか訳ありのようだが……まあいいや。とりあえず、俺の家まで来て休んでくれ。こいつは……」


 猪を見て、正恒さんが難しい顔をする。見た目で百キロは軽く越えていそうな大物だ。


「ここでワタ抜きだけしちまうか。兄さん、やった事はあるかい?」


 正恒さんは、懐から小型の刃物を取り出した。柄の部分は滑らないようにか、布を巻いてあるだけだ。


「いえ。無いですけど、手伝います」


 伏せた姿勢になっている猪の足先を持って道の端の方へ引きずり、腹が見えるように転がした。今更ながらだが、勢いと身を守る為とは言え、猪を殺してしまった事に罪悪感が湧き上がる。


「……兄さん、すげぇ力持ちなんだな」

「そうですか?」


 正恒さんの力持ちの基準がわからないが、おそらく今の自分の筋力は常人を越えているのだろう。


「ワタは大丈夫みたいだが、こりゃ頭はダメそうだな」


 首に刃物を差し込んで放血させ、手早く腹を裂いて内蔵を取り出した正恒さんは、口や耳からも出血している猪を見て、溜め息をついた。


「脳みそもうまいんだが……兄さん、力がありそうだから、こいつを近くの川まで運んでくれるかい?」


 正恒さんは放血させていた部分に更に刃物を差し込み、ぐるりと首の周りに切れ込みを入れると、頭を捻って外した。前後の足を縄で縛る。


「いいですよ」

「じゃあ、俺は頭とかを運ぶから」


 正恒さんが取り出した内臓と頭を持ち、俺は結ばれた縄を握って猪の身体を持ち上げた。片手ではきついが、両手ならなんとかなりそうだ。


「兄さん、あんた……ま、いいか。付いてきてくれ」

「わかりました。おりょうさん、すいませんけど、ここからは歩いて下さい」

「あ、ああ……」


 まだ呆然としているおりょうさんは、正恒さんと俺の後について歩き始めた。


(おりょうさんが猪を投げ飛ばしたのにも、俺はかなり驚いたんだけどな……)


 そんな事を考えながら、俺は手に持った猪を見た。非常に血なまぐさい状況なんだが、不思議と忌避感は怒らなかった。



「ここが俺の家なんだが、兄さん、死んだ猪の肉は、すぐに冷やさないとダメになっちまうから、もう少し頼まぁ」


 山道から進行方向の左側に入ったところにある正恒さんの家は、思ってたよりも大きな建物で、すぐ目の前に、それ程の広さはないが畑が広がっている。


「大丈夫です。おりょうさんは、ここで待ってますか?」

「ううん。あたしも付き合うよ」

「そうか。すぐそこだからよ」


 頭と内蔵を、家に入ってすぐの土間に置いた正恒さんの先導で、おれとおりょうさんは家の裏手に分け入った。



「その辺の川の中に、適当に沈めてくれ」


 正恒さんの家の裏手を少し歩くと、石がゴロゴロ転がっている河原の先に小川が流れていた。俺は流れが急じゃない水の中へ、猪を沈める。


「ん?」


 血で汚れた手を川で洗っていると、すぐ近くの河原から、湯気が上がっているのに気がついた。


「正恒さん、あれは?」

「ああ、温泉が湧いてたんで、入れるようにしたんだよ」


 この辺は河原を少し掘れば温泉が湧き出すらしい。正恒さんは利用しやすいように大きな石を取り除いて周囲に積み上げ、地面を掘り下げて細かく砕いた石を敷き詰めて、入浴しやすいようにしたという。


 元々、正恒さんの今の住まいは、山で猟をする人の休憩用を改築した建物で、今でも猟師が立ち寄ったりする事があるそうだ。そんな時、獲物のお裾分けがあったりするので、屋根を貸して風呂も使ってもらっているという。


「なんか、山の中に籠もっていると聞いたので、もっと不便な生活をしているのかと思ってましたけど」

「結構、立派なもんだろ?」


 ちょっと自慢気に、正恒さんが胸を張った。


「さあ、家に戻って一休みしよう。そしたら、用向きを聞かせて貰おうじゃないか」

「わかりました。行きますよ、おりょうさん」

「……ああ」


 おりょうさんは湯気の上がる浴場を見ながら、気の無い返事をするが、正恒さんと俺の後について歩き始めた。



「っと、あんた達の話を聞く前に、こいつもなんとかしなきゃならないんだった」


 正恒さんの家の扉を開け、土間に入ると、さっき置いた猪の頭と内蔵以外に、かなり大きな角の生えた鹿が転がっていた。


「こいつはワタ抜きして冷やしてあるんで、後は解体するだけなんだが……兄さん、手伝ってもらえるかな?」

「構いませんよ。ところで正恒さん、俺の事は、出来れば良太って呼んで下さい」

「ま、そりゃ構わないが……嘉兵衛もそう呼んでるのかい?」

「いいえ。嘉兵衛さんは、良さんって」

「じゃあ、俺も良さんって呼ぶよ。早速だが良さん、俺がやるように、反対側を受け持ってくれ」


 正恒さんは土間に置かれていた木箱の中から、さっき猪に使っていたのと同じような刃物を取って、俺に渡した。


「まずはこう」


 正恒さんが、鹿の左半身の前脚の足首の辺りに、ぐるりと刃物を入れ、そこから身体の方に向かって、真っ直ぐ切れ目を入れた。見様見真似で、俺も右半身側で同じようにする。


「うまいじゃないか。後ろ脚の方も同じように……」


 後ろ脚の方も、足首をぐるりと回すようにし、身体側に向けて切れ目を入れる。


「上出来だ」


 正恒さんは胴体側の、内臓を抜くのに裂いたところから、首に向かって刃物を入れ、顎の下まで切れ目を入れる。


「そしたらこう!」


 後ろ脚の足首の切れ目から勢い良く引っ張ると、シャツを脱がすような感じで皮が剥がれた。


「後は、首を落とせば良し」


 正恒さんが頚椎の辺りに刃物を入れ、首を捻ると簡単に頭が外れた。皮を剥ぐ前は生々しい感じだったが、目の前のピンク色の鹿肉は、うまそうだなと思った。


「しかし、こいつは俺だけじゃ持て余すな……良さん、良かったら持っていくかい?」

「いいんですか!?」


 正恒さんの申し出に、俺は思わず手を握りそうになった。こっちの世界に来てたったの二日だが、現代っ子の身体は、既に肉が恋しくなっていたのだ。


「あ、ああ。幾らかはすぐに食ったり、燻製にでもしようかと思ってたが、どの道、俺一人じゃ食いきれなくて腐らしちまう」

「じゃあ、要らない分は俺が引き取ります!」

「お、おう……俺は背肉を少しと、腿が一本あればいいから」


 正恒さんが、俺の勢いに少し怯んでいるようだが、細かい事は気にしていられない。肉だ肉だ!


「ん? そういえば正恒さん、あの猪はどうするんですか?」

「どうするって、あいつを退治したのは良さんだから、好きにすりゃあいいじゃないか。少し分けてもらえれば、俺はありがたいが」


 な、なんと! 望外に、鹿肉と猪肉ゲットだ! これは少しも無駄に出来ないな……。


「さっき、燻製って言ってましたけど、そういう設備があるんですか?」

「ああ。冬を越すのに保存食がいるから、燻製作るのに小屋を作ってあるんだよ」


 燻製小屋! という事は、現代日本で最近流行りの熱燻や温燻じゃなくて、本格的な冷燻か?


「あー、良さん……肉の話はちょっと置いといて、茶でも飲みながら用向きを聞かせちゃくれないか?」

「はっ!? そ、そうでしたね」


 すっかり肉に意識を持って行かれていた俺は、本来の目的を思い出した。



「成る程なぁ。鰻専用の包丁か。でも、鰻ってのはそんなにうまくて、商売になりそうなのかい?」

「持ってきたので、食べて確かめてみて下さい。俺も嘉兵衛さんも、勝算はあると思ってますよ」


 少なくとも、俺が元いた世界では専門店もあったのだから、日本人の味覚なら受け入れられるとは思う。


「そういう事なら、楽しみにしてるよ。ところでお二人さん、藤沢で宿を取るなら、そろそろ山を下った方がいいと思うけど、今夜はどうする? ここに泊まるってのなら、それは構わなが」

「お世話になって良ければ、俺はお願いしたいです。おりょうさんはどうします?」

「あたしも、お世話になるよ。寝床はあるんだろう?」

「大したもんじゃ無いが、野宿するよりはマシなくらいにはな」


 正恒さんの住まいは、木戸から中に入ると大きな土間が広がっている。左の隅の方にかまどがあり、その近くに井戸がある。右側の半分ほどは作業場で、奥の方にふいごが見える。


 左側の土間以外の部分が、畳ではなく板敷きの生活空間で仕切り等は無い。手前に囲炉裏があり、奥に押し入れが見える。


 今は三人で囲炉裏端に座って、正恒さんお手製の熊笹茶を飲みながら話をしている。


「布団敷いて寝るだけなら、六人程度は余裕だし、いざとなりゃあ土間も使えるしな。間仕切りが無いんで、姐さんが寝にくいってぇなら、それは申し訳ないが」


 確かに、俺は全く構わないが、女性のおりょうさんには厳しいかもしれない。


「お気遣いどうもだけど、あたしゃ別に気にしないよ。そんならお世話になるし、晩の支度はやらせてもらおうかね。正恒さん、あるもんは適当に使っていいかい?」

「ああ。構わねえよ」


 おりょうさんが特に気にしないというなら、これ以上俺が口を挟む必要は無いな。


 会ったばかりの正恒さんを全面的に信用するのが正しいのかはわからないが、いざという時には俺がおりょうさんを守ろう。


「あ、手伝いますよ」


 かまどの脇の戸棚を空けると、醤油や味噌、米があるのが確認できた。昆布なんかもあるみたいだ。


 戸棚の別の戸を開けると、ひんやりとした空気が中から流れてきた。


「こ、これはもしや?」

「ん? どうかしたかい?」


 隣で食材や食器を物色していたおりょうさんが、俺の声に気が付いて、戸棚を覗き込む。


「ああ、冷やして保存するための戸棚かい。中身は……内臓に頭とは」


 見てしまった事を後悔するように、心底嫌そうな顔をしたおりょうさんは、戸棚から離れて他の場所を物色し始めた。


「正恒さん、こういう戸棚で肉とかを保存するというのは、一般的なんですか?」

「さて、どうだろうな? 俺の場合は鍛冶の作業で火を使うが、厳密に言えば火じゃなくて温度の管理が必要なんだ。その為に授けられた加護で鉄を熱するんだが、熱の管理は高温だけじゃなく低温にも使えるって事だ」

「ああ、成る程……」

「勿論、体力も精神力もいるから、加護だけじゃなくて、ふいごや炭と併用だけどな」


 刀などを打つ時には「気」を込めたりもするから、火床の管理を加護の力と「気」の力だけで行う訳にはいかないという事か。


「で、その戸棚は木の板と板の間に薄い鉄板を挟んで断熱をして、加護の力で氷を作って冷やしてあるんだ」


 電気があまり普及してなかった頃の冷蔵庫は、そういう構造だったというのを聞いた事があるが、こっちの世界でお目にかかるとは思わなかった。


「この、中に入ってる内臓はもらっていいですか?」


 分量からすると、猪以外に鹿の物もありそうだ。


「ああ。構わないが、鹿の肝は好きなんで、少し残しといてくれりゃあいいよ」

「鹿の腸も?」

「……なんに使うのかわからんが、好きにしてくれ。無駄なく食ってやるのも供養だ」

「猪も鹿も、食べるために獲ったんじゃないんですか?」

「畑を荒らされちまったからな。ばったり出くわした鹿を仕留めて処理して、戻ったら今度は猪がいたって訳さ」

「それはまた……」

「無益な殺生はしたくないが、畑を荒らされちゃ俺も困るんで仕方なくな。それを良さんが無駄にしないんだったら、これも神仏の思し召しじゃねえか?」

「そう、ですね」


 元の世界でも魚釣りくらいはやってたし、こっちに来てからも活きた鰻を捌いたりもしたから、猪にだけ罪悪感を感じるというのも、考えてみればおかしな話だろう。でもまあ、人を相手にしたくはないなぁ。


「だから、好きに持っていっても、使ってくれてもいいぜ」


 やった! 罪悪感を感じたばかりなのに不謹慎かもしれないが、心のなかでガッツポーズをしながら、俺は冷蔵庫(で、いいだろう)から鹿の腸を取り出すと、外に出て川に向かった。



「♪」


 無意識に鼻歌を歌いながら、俺は川から引き上げてきた猪を手早く解体する。正恒さんの手製の刃物の切れ味は抜群で、脂肪層と毛皮の間に吸い込まれるように刃が入り、簡単に剥いでいける。


「……まあ、でかい猪を素手で倒した時点で只者じゃないとは思っていたが、こんな、桃の皮を剥くように、猪の皮を剥ぐ奴が世の中にいるとはな」

「えー。正恒さんの打ったこれの、切れ味がいいからですよ」

「まあ、褒め言葉と受け取っておくよ」


 皮を剥ぎ終わったところで、正恒さんも手伝ってくれて、猪を枝肉にしていく。脂肪層の厚過ぎる部分は切り分けておく。


「今日のところは……猪の鍋に、正恒さんに鰻でいいかな?」

「鍋にするんなら、芹があったよ」


 米を炊く準備をしながら、おりょうさんが俺の呟きに気が付いてくれた。


「なら、丁度いいですね」

「後は、アクを抜いたタケノコがあったから、あたしがそれでなんか作るよ」

「うわぁ、それは楽しみです」

「っ! ま、任しときな!」


 おりょうさんから、えらく気合の入った返事をもらった、俺も負けていられない。鍋用に猪のロースを食べやすい大きさに切り、芹を洗っておく。他には保存用に干してあった大根。


 鍋の用意ができたところで、開いてあった鰻とタレの入った丼を「福袋」から取り出し、先ずは鰻を一口サイズの串焼き用と、蒲焼き用に切り分け、串を打っておく。


 次に、細かく刻んでからすり鉢で荒く潰した鹿の背肉に、猪の脂身をみじん切りにした物を混ぜて、洗った鹿の腸に詰め込み、一定の長さ毎に捻る。元の世界でも食べた事が無い、鹿肉のソーセージだ。赤身の鹿肉だけでは旨味とコクが足りないと思ったので、猪の脂身を足してみた。


 ソーセージは、すぐに食べる分は沸騰しないように気をつけながら、鍋で長めに茹でる。残りの分は鹿と猪の腿と一緒に、正恒さんに燻製にしてもらおうと思う。


 最後に料理ではないが、切り分けた猪の脂身と腸を、鍋で熱しながら油を取る。猪肉のラードだ。調理には勿論、火を点ける時のスターターや、芯を差し込めばロウソク代わりにもなるし。


「おう、良さん。その油、俺にも少し分けちゃもらえねぇか? 作業に使うんでよ」

「どうぞどうぞ。思ったよりも大量に取れましたし。ついでにこれも」

「なんだい、こいつは?」


 おれは溶けた油の中に残った、からりと揚がって縮んだ猪の腸をすくい取り、少し冷ましてから正恒さんに渡した。猪の油かすだ。


「こいつは……カリカリしてて、脂っこいけどうまいもんだな」

「保存も利きますし、汁物に入れても、食感が変わってうまいですよ。半分置いていきますから。さっきの腸詰めも」


 油かすを取り除いた完全に溶けた猪の油を、火に掛けていない鍋に流し込んで冷やし固める。猪のラードの完成だ。


「ありがとよ。いつも代わり映えしないもんばっかり食ってるから、助かるわ」

「でも今日は、鰻の方を味わって下さい」

「あんまし鰻には期待はしてねぇんだが……良さんが言うならうまいんだろうな」

「好みですけどね」


 変な物を出す気はないが、あんまり期待をさせても裏切る可能性があるので、実際に食べてもらうまでは煽るのはやめておこう。気を取り直して、鰻の焼きに入る。



「こりゃあ、うまい。鰻の脂ってのは、こんなにうまかったのか……タレの味と相まって、たまんねぇなこりゃ」

「そうだろう? ささ、一杯いこうじゃないか」

「お、姐さんの酌とは嬉しいね」


 先ずは鰻の串焼きを正恒さんに食べてもらったが、どうやら口に合ったようだ。


「蓋付きの丼があるので、正恒さんは、ご飯はこれをどうぞ」

「こいつは……蓋を開けたら立ち昇る、タレの匂いがたまんねえな」


 正恒さんの分のご飯は鰻丼にして、蓋を被せて用意した。でも、それだけじゃない。


「鰻ってのは飯にも合うんだな! おお!? こ、こいつは、飯の中からも鰻が出てきやがった!?」

「中入れって言います。嬉しい趣向でしょ?」

「おお! こいつはびっくりで、しかも嬉しいぜ!」

「良太ぁ。あたしにはこれ、食べさせてくれなかったぁ……」


 串を咥えながら、おりょうさんが恨みがましい視線を俺に送ってくる。しまった。丼をもう一つ用意してくるんだったか。


「おりょうさんには今度、もっとタレの味がこなれた鰻で作りますよ。他の鰻の料理と一緒に」


 卵で巻いたうまきは、おりょうさんは気に入ってくれるんじゃないかと思う。卵焼きと、巻く練習しないと。


「絶対だよ?」

「はい」

「あー、なんか急に、鰻の味が甘くなった気がするぜ……」


 言葉通りに、正恒さんが砂糖でも噛んだような顔をしながら、丼を掻き込んでいく。


「お、おりょうさん、鍋は如何です?」

「い、いただこうかね……」


 俺はぎくしゃくとした動作でおりょうさんに、囲炉裏の火に掛かった鍋から、猪と芹を木の椀に取って渡した。おりょうさんもぎくしゃくとした動作で、両手で捧げ持つように椀を受け取った。


「くー……っ! うまい、うま過ぎる!」


 一口煮汁を啜り、どれだけ煮ても固くならないし、口をやけどもしないと言われる天然の猪は、処理が良かったもあるのだろうが、今までに食べた肉の中で最高の味わいだった。肉は勿論だが、甘みのある脂身が特にうまい。


「良太がそんなに肉が好きなら、どじょうじゃなくて、うさぎか猪を出す店にでも連れていけば良かったかねぇ……あ、でもこの鍋、味噌もおいしいね」

「おう。味噌は自家製……」

「うさぎは食べた事がないから、今度是非お願いします!」


 うさぎとアヒルは海外では比較的ポピュラーな素材だが、日本では定着しなかった。江戸時代には料理屋で出していたと聞いた事があるので、一度食べてみたいと思っていたから、おりょうさんの言葉は渡りに船だった。


「江戸じゃ、うさぎも猪も仕入れが安定しないから、あんまり期待をするんじゃないよ?」

「わかりました。あ、おりょうさん、正恒さん、これも試してみて下さい」

「こりゃあ、挽いた肉が詰め込んであるのか?」

「良太は変な物を食べさせようとはしないだろうけど……なんか妙な形だねぇ」


 おりょうさんと正恒さんは、箸でつまみ上げたソーセージを不審げな顔で観察してから、意を決したように同時に囓った。


「あっつ!? りょ、良太ぁ、こ、これ、あっついのが出てきたぁ……」


 包んである腸を噛み切って、一気に飛び出した肉汁がおりょうさんを襲った。着物は無事のようだが、口の周りが凄い事になっちゃってる。


「わぁ……大丈夫ですか、おりょうさん?」


 俺は慌てて手拭いを取り、おりょうさんの口の周りと、床にこぼれ落ちた肉汁を拭き取った。


「うん、大丈夫。ちょっとびっくりしたけど、これはおいしいね」


 熱さと突然の出来事に驚いていたが、おりょうさんはソーセージを気に入ってくれたみたいだ。


「ああ。これなら、硬い部分の肉でも活用できそうだ」


 正恒さんも、感心したように頷きながらソーセージを頬張っている。


「すぐに食べる分は茹でましたけど、腸に詰めただけの物は燻製にしてほしいんですけど。そうしたら、軽く焼いて食べてもおいしいですよ」

「燻製にするのは任しときな。俺の方でも食卓に変化がつくのはありがてえからな」


 香辛料などが無かったので心配だったが、おりょうさんと正恒さんに試食してもらったソーセージも好評だった。


 おりょうさん作ったタケノコの煮付けもおいしくて、この日の夕食は大満足だった。



「まあ、好きずきはあるだろうが、鰻で商売しようって嘉兵衛が考えたのはわかるぜ。それで、鰻裂きだったな?」


 残った鰻の串焼きをツマミにして、正恒さんと鰻裂きの形状や寸法を確認する。


「まあ、こんくらいならすぐに出来るよ。こいつ以外に、なんか良さんが必要な物はあるかい?」


 正恒さんから、思いがけない申し出が来た。護身用に何か必要かとは思っていたが、名工に作ってもらえるのか。ワクワクしてきたな。


「そうですね。包丁と、護身用に何か。ちょっと急には思いつかないんですけど」

「包丁は出刃? それとも柳刃かい? 使い勝手が良いのはその辺だが」

「じゃあ柳刃を」


 実は嘉兵衛さんに見せてもらって、ちょっといいなと思っていた。


「見たとこ、良さんはお武家さんでは無いとは思うが、刀なんかは使わないかい?」

「ちょっと憧れますけど……」


 正直、欲しい気持ちはある。ただ、使うのかという事だ。特に人に対して……自分には難しそうに思える。


「使うかどうかは別として、一度手伝っちゃくれないか?」

「それは構いませんけど、どうして?」

「良さんに手伝ってもらったら、面白いものが作れそうな気がしてな」


 にやりと笑いながら、正恒さんは酒を飲み干した。


「あ、そうだ。話は変わるんですが、ちょっと訊きたいことがあるんですけど。勿論、言い難い事は、言わないでいいですから」

「ん? 時に秘密にしなきゃならん事は無いが、なんだい?」

「正恒さんが、鎌倉を出てここで作刀をしている理由です」

「あー……まあ気になるだろうが、ずばり言うねぇ」

「す、すいません」


 くっくっくと、噛み殺したような笑い方をしながら、正恒さんは話し始めた。


「源の俺の扱いが悪かったとかでは無いんだよ。評価もしてくれたし、素材も良いのを使わせてくれたしな」


 正恒さんは、空になった杯に酒を注いだ。


「でもな、俺が打った刀だけじゃないんだが、召し上げられた後は、誰が使うのかわからないんだ。出来が良いってんで、報奨なんかに使われるんでな。まあ、名誉な事ではあるんだが」


 鰻の串焼きの一片を口にし、酒も一口呑むと、正恒さんは軽く溜息をつく。


「刀ってのも、使う人間によって好みとかがあるんだよ。反りの具合とか、その反りも刀身のどの辺からとかな」


 この辺が量産品の刃物とは違うところなんだろう。漠然とだが、俺にも正恒さんの言いたい事は理解できる。


「だからここでな、俺の作った物が欲しいって人間だけ相手にする事にしたのさ。まあこんなとこまで来る物好きなんざあんまりいないし、包丁とか、生活用の刃物の依頼が殆どだけどな」

「そういう事でしたか。ところで、材料の調達はどうしてるんですか? 鎌倉にいた時とは違って、難しいでしょう?」


 これは純粋に興味があったので訊いてみた。特に刀に使う玉鋼は、入手が難しいのではないかと思ったからだ。


「良さん、山に暮らす人間には、それなりに繋がりってのがあってな、物を融通し合うんだよ。獲物のお裾分けを貰う代わりに、屋根と風呂を貸すって言ったろ? その延長さ」


 正恒さんが言うには、山の中で猟をする猟師、修業をする修験者や山伏、拠点を設けて暮らしている忍の一族などと、直接だったり間接的にだったり交流があるのだそうだ。


 そういった山で暮らす人々の中に、玉鋼を生産するたたら製鉄を生業とする一族がいて、正恒さんが年間で使う、生産量からすれば大した事のない量の素材を分けてもらっているという。


 ちなみに、この世界の忍は特定の武家の配下という訳では無く、完全に契約で雇用されているらしい。戦闘力はそれ程高くないので暗殺などは請け負わないが、斥候、諜報、撹乱を行うエキスパートの集団という事だ。


「鍛冶には数種類の木炭も使うんだが、それも炭焼きに融通してもらってるんだ。その代わり、ここを中継地点にして、俺が問屋と取引したりしてるんだがな」


 要するにこの家は、山と人里との境目にある場所で、双方にとって都合良く利用されている訳だ。そして家の持ち主の正恒さんも、恩恵を受けていると。


「すいません。たたら製鉄は、かなりの薪と木炭を使うって聞いてるんですけど、それを専門にしてる人達がいるんじゃ、木が無くなったりしちゃわないんですか?」


 確か製鉄をやり始めた頃は国策レベルだったから、そう安易に行えなかったんだろうとは思うが、専門職がいるんだったら、規模が大きくなって回数が増えている可能性は高い。


「そんなの、また生やせばいいんじぇねえか?」

「……へ?」


 正恒さんが言うには、たたら製鉄の一族、木こり、炭焼、そういった職業の人は、使った分の森林資源が枯渇しないように植林と、山や大地に関連する神仏への感謝と祈りを欠かさない。そういうものを蔑ろにせず、利益だけを追求しない限りは、神仏は応えてくれるというのだ。


「たたら製鉄では河川への汚染もあるから、そういうのの対策もしつつ、お祈りは欠かさないのさ。俺みたいな鍛冶に携わる人間も、信仰で授かった力を利用してるしな。これでも人里に買い出しに行く時には、お参りは欠かさないんだぜ?」


 正恒さんのような職業の人が、感謝や祈りを怠ったりすると、ナマクラな刀しか出来なかったりするんだろうか? それは恐怖だろうな……。


「色々と勉強になりました。ところで、河原の風呂を借りていいですか?」

「好きに使ってくれ。行けばわかると思うが、木桶が置いてあるから、湯が熱過ぎたら川の水を汲んで冷ますんだ。今の時期は丁度良いと思うがな」

「わかりました。ありがとうございます。あ、おりょうさん、先に風呂を使いますか?」


 食事の後片付けと洗い物をしてくれていたおりょうさんが、濡れた手を拭きながら戻ってきたので訊いてみた。


「あたしは……あんたの後でいいよ」

「そうですか。それじゃお先に」


 俺は手拭いと糠袋を持って、家の外へ出て行った。

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