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短編三

 元禄八年(一六九五年)六月。

 陽が照っている。湿気が多く、蒸し暑い。

 相州のとある海岸に、小さな漁村があった。

 その漁村に、喜介きすけという少年が住んでいる。

 父とふたりで、粗末な家に住んでいる。普段は小さな船で沖まで出、魚を釣っては周りの村に売ったり、加工してみんなで食べたりして、細々と暮らしていた。

 喜介は、父が好きだった。

 もう四十をいくつか過ぎた。老けている。が、そんな素振りは微塵も感じられない。挙措のひとつひとつに活力が満ちていて、筋骨も盛り上がっている。

 父は温和で、情け深く、よく泣き、よく笑う。父とともに船で漁に出ているときなど、話が弾み、最後には大笑いに笑いころげてしまうので、あっという間に刻が過ぎてしまう。

 また父は、学問も達者だった。書見だけでなく、唐の古書の読み聞かせをし、解説までしてくれた。そんな父を幼い喜介が敬慕するというのは、ごく自然な現象であった。

 そして、飯を食うときは、決まって一杯の酒を大事そうにちびちび飲みながら、獲りたての魚を捌いたものを片手に、母の話をするのであった。

 母は、喜介が二歳のときに死んだらしい。

 記憶にない。顔を見た憶えもない。まだ自我が芽生える前の話なのだ。

 もともと重篤な宿痾を抱えていたらしい。それが喜介を産んだことによりにわかに体調が悪化したのだ。

 母の話をしているときの父の表情は、なんとも言えない愁眉の翳を刷いていた。

 といって、女の情愛に縛られた憐れな男、という姿にはどうも見えない。むしろ、最愛の者を喪った悲しみを乗り越えた、毅然とした男の姿がそこにはある。

 そういった部分も含めて、父が好きだった。

 村も好きだ。二、三十人がこじんまりと軒を連ねている小さな村だが、みな家族のように接してくれる。父が所用だと言って出かけているときは、隣の老人の家に厄介になったり、あるいは村の子どもで集まって剣術ごっこなどをして興じている。

 母はいないが、自分はめぐまれている、と思った。

 喜介が十三のとき、不思議なことではあったが、父から真剣を譲り受けた。理由を訊くと、

「男に生まれたからには、心得がなくてはいけない」

 と険しい表情で、それだけ言った。

 それからは、父自ら剣術の稽古をつけてくれた。なぜ父にそのような心得があるのかはわからなかったが、あえてそれは訊ねなかった。疑問はあったが、それでも宗徒が天の所業を疑わないのと同じように、喜介にとっての父は光であり、真実であったので、すべての言動を受け容れていた。

 漁の船上でも刀を構えた。二尺余寸の、身に余る大きさである。それに加えて、波の上である。父はその姿をじっと見つめていた。

 漁に出ない日は、砂浜の上で櫂を削った木刀を遣い、稽古をした。

 十三からの日常は、そのように変化していった。

 そして、喜介十五歳のとき。

 珍しく父が沈痛な表情をしていた。

 喜介は訊ねることもできず、ただ訝った。

 恐かったのだ。父の表情に恐れたのではない。その表情の奥底に渦巻く、複雑な胸中を察し、得体の知れぬ空気感に恐れたのだ。

 その日からはしばらく、父は重苦しい雰囲気をたたえながら、眉間に皺寄せて日々を過ごしていた。

「話がある」

 父が真剣を把り出し、喜介をともなって海岸へ出たのは、雨の日だった。

 霧のような細い雨が、周囲を包み込むようにしずしずと散っている。

 海岸の端に着いたとき、父は歩を止めた。

 こちらを振り向き、真っ直ぐに喜介を見据えた。なんの濁りもない、清流のようなさわやかな眼光を放っている。

「おまえももう、十五になるか」

「はい」

「大きくなった」

 父は淡々と語る。いったいなにが起こるのだろうか、と喜介の心中はそれどころではない。

「話がある、とは申したが」

 父が海に眼をやりながら言う。

「話というほど、たいそうなものでもない。おまえにちょっと、訊ねたいことがあった」

「この場でないと、訊けないことですか」

「まあ、そうだ」

 すると父は、まるで魚のはらわたを引き出すかのような、恬淡とした口調で、

「喜介、おぬし、この父を斬ることができるか」

 と訊ねるのであった。

 突如、冷や水を浴びた気分に襲われた。心の臓腑を力任せに握りつぶされたかのように、息が詰まった。

 それから瞬時に冷静さを取り戻し、必死にいまの言葉を反芻した。何度も繰り返し、その言葉の真意を読み取ろうとしたが。しかし、

「深い意味などない。そのままの意味だ。おまえの太刀で、わしを斬れるか」

 父を、斬る。考えたこともない。なぜそのようなことが必要なのか。

「特に、意味はない。いや、あるとすれば、わしらの家系に刻まれた、呪われた因循のようなものだ。おまえには黙ってはいたが」

 それがほんとうの家族の姿なのか。

 突然の出来事に、困惑が頂点を極めた。いままで黙っていたと父は言った。どういうことなのか、あるで理解が追い付かない。

「おまえが混乱するのも無理はない。また、理解できない、という気持ちもわかる。しかし、定めなのだ。定めでしかないのだ。こうすることで、われわれ一族は歴々と子孫を残してきたし、これからもそうなる。喜介、おまえもわしも、複雑に絡み合った縄の、ほんの一部でしかない」

「無理です。できません」

 喜介はどうしようもなくなって、にわかに眼に溜まりだした涙を流しながら言った。

「できるかできないではない。やらねばらなん」

「無理です」

「できなければ、おまえが死ぬのだぞ」

「なぜです。父子で斬り合いをするなど、間違っています。父上の読んでくださった唐の書物にもありました。孝とは、人の生きる上でもっとも大切で、もっとも基本になるものだと。それは間違いではありますまい」

「おまえは優秀だが、欠点がひとつ。心が優しすぎることだ。他人への同情や愛慕など、わしらには一切必要がない。どころか、邪魔でさえある。おまえのためと思い学問を教えたが、それはどうやらよからぬ方向へ導いてしまったらしい」

「そんなものは、どうでもいい。貧乏でも不遇でも、どんな世でもわたしは父上とともに生きていたいのです。父上」

「くどい」

 吐くように父が言った。が、その眸は動揺の色を湛えている。かすかに降る細雨のなすせいなのか、眼に溢れんばかりの涙を溜め、それの落ちるのを懸命に耐えているように、喜介には見える。

 冷たくあしらうのも、さきほど自分で言った因循を重視する心と、息子への愛情との間にあって懊悩する葛藤を、自ら断ち切ろうとあえてそうしているだけに過ぎないのではないか。

 なにか。父の心を翻意させるべきあらゆるなにかを、探そうとした。

 すべては、父を斬るという愚行を回避せんがためである。

 が、そんな努力も空しく、

「喜介、おまえはわたしのはじめての息子ではない」

さきほど見えた葛藤の翳は幻のように消え去り、再び毅然とした父の表情が戻っていた。

「いままでの生涯で、三度、子をなした。いずれもおまえと同じように、十五でこの話をし、わしを斬ることを断行させ、そして二度は返り討ちにした。喜介、おまえは三度目になってくれるな」

 うう、と喜介は小さく呻った。嗚咽が喉を通り過ぎる。

 もう、なにを言っても無駄なのか。

 ここで父と暮した十五年間が、ふと頭をよぎった。父とともに笑ったこと。父とともに喜んだこと。父とともに悲しんだこと。すべての情景が鮮明に、まさに眼の前でおこっているかのごとく浮かび上がる。

 定めとは、なんなのか。人生における瑣末な仕合せを破棄し、回避でき得た深い悲しみと罪悪感をわざわざ背負いながら、これからの人生を歩んでいくことがそれというのなら、定めなど藁束を両断するがごとく断ち切ってしまいたい。

 そして、その害悪でしかない定めを強要する家系とやらも、喜介にはただ憎々しかった。

「さあ、抜け」

 父は、すでに鞘を払っている。もう戻れない。喜介も弱よわしく、白刃を抜いた。

雨が、水滴となって刀身へ落ちる。そのせいか、いやに鈍く光っているように感じた。

「おまえはいままでの子の中で、もっとも武術の筋がよかった。技倆がある。おまえなら、一族の泰安を任ずるにふさわしい。わしの命ももう長くはない。迷うことなく、父を斬れ」

 父の剣尖が揺れる。揺れたのではなく、視界が滲んだのだ。満幅の涙なのか、それとも雨が眼に入ったのか、視界を滲ませるものの正体はわからない。

 必要なのは、決意。父を斬るのではなく、その奥にある醜悪な定めを斬る。それによって、父は解放される。

 視界の滲みが、消えた。

 踏み出した。正眼に構えた真剣を、大きく振りかぶり、気合とともに一閃、斬り下ろした。

 父は、防御けなかった。喜介の振るった得物は、父の左の肩口に深く食い込み、肋骨を断ち割って臓腑を潰した。おびただしい量の血が飛び散り、雨粒に溶けて砂に吸い込まれた。

 父は、正眼に構えたまま絶息していた。

 かすかに、顔には笑みが満ちている。その父の前で喜介は膝を折り、とうとう大声で喚くように泣き出した。

 時間の立つのを忘れて泣いた。岸辺を噛む波濤の音が、喜介の声を掻き消していた。


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