二
三ツ森が《パトリオット》に編入される時の話です。
教室に戻った三ツ森は、午後一の日本史の授業を受けながら、自分が寝落ちしないことに首を傾げていた。
午前中に「夢限世界」で走り回った。肉体的には何の変化も無いが、怪我まで負わされた。精神的には疲れ果てていて当然だった。それなのに。
眠気が襲ってこない。
昼休みに、《パトリオット》の部室で仮眠をとったが、時間にして十分か十五分程度。とても、充分な休養をとった、とは言い難かった。
日本史の講師を務めているのは、ありがちな歴史ヲタク気味の大人しい地味な教師だった。教科書こそ開くものの、板書はせず、淡々と歴史の流れを説明していく極めて単調な授業スタイルをとる教師だ。
午後の静かな授業は、間違いなく生徒たちの眠気を誘う。今も例外なく、教室のあちらこちらで船を漕ぐ生徒の姿が見受けられた。中には堂々と突っ伏して寝ている男子生徒すらいた。教師も、自分の授業が蔑ろにさることに慣れ、諦めているのか、生徒の注目を呼び覚まそうともしない。
三ツ森もいつもなら、眠気に負けて意識が「夢限世界」に落ち、そこから授業を受けるはめになっていたところだ。
眠ってしまっても、意識がすぐ隣の「夢限世界」で覚醒する事は、便利な反面、混在する数多の「夢限世界」に影響を受け易くて、面倒な事が多かった。特に、今のように周りで同時に何人もが眠りに落ちていると、「夢限世界」は境界の向こうで大量に増殖し重なり合い非常に渾然とした状況になっていることが多いから、余計に面倒だった。
精神は肉体に宿っているからこそ、強く在ることが出来る。肉体という基準にはまっているからこそ、自らの形を保ち、自らを纏め、自らを律することが容易かった。精神が肉体という殻から引き離され、むき出しの状態で放り出される「夢限世界」では、常に自分を保つためにもエネルギーが要る。だから、あまりにも長い時間「夢限世界」に居すぎると、精神はその形を保てなくなり、崩壊し、「夢限世界」に溶け込んでしまって、二度と肉体に戻れなくなってしまう事もあった。
もちろん、三ツ森は小さな頃から「夢限世界」に慣れていたので、他人よりは「夢幻世界」に耐性が付いていたし、自分の滞在限界時間も本能的に分かっていた。だからこそ、授業中に寝落ちしなくて済むなら、それに越したことは無かった。
思えば、この学園に入学が決まって、最初の入寮説明会の時が、最悪だった。
入学式に先駆けて、入寮説明会は二月に行われた。希望者は中等部から寮生活を送ることも可能だが、高等部からは強制になるので、準備期間を設けて早めの説明会が行われるのだ。
来年度から入寮する生徒はもちろん、既に入寮していて来年度も引き続き在寮する生徒も、男女の別無く、講堂に集められた。親の付き添いは無い。中等部一年から入寮を希望する生徒は、当時小学校の六年生だが、もちろん一人で参加する。
会場は少し暑いぐらいに暖房が利き、静かなクラシック音楽が流れていた。最初に壇上に登場したのは、教頭だと自己紹介した男で、低いバリトンで静かに歌うように話す恰幅のいい教師だった。お決まりの進級祝いだか入学祝いだかの辞令のあと、何故か校歌の解説や学則の一つ一つの説明など、退屈で単調な演説を始めた。この学園に入学を決意した生徒なら、誰もが既に知っていることを繰り返す。真剣に聞かなくてもいい、聞き流しても平気そうな内容が延々と続きそうだと、誰もが気付く話し方をした。
心地よいバリトンが、リズミカルに延々と続く。効果はてきめんだった。十分としないうちに会場のあちこちで船を漕ぐ生徒が出てきた。見れば、舞台上に列席している学園長や理事長、講堂の各所に控えていた他の教師までもが眠りに落ちている。
三ツ森はこの時点で、何かがおかしいと身構えた。
三ツ森は居眠りしたときに見る夢の世界と、そこで起きる特異な事に、子供のころから自分なりに警戒し対策を立てるようにしていた。誰に相談しても、理解すらしてもらえなかったのだから、仕方がない。「夢限世界」という呼び名すら知らなかった。
まずは、「夢」の世界に入り込まないように努力した。その、方策の一つとして、他人が寝ている傍で自分も眠ってしまわないようにしていた。
三ツ森は小さい頃からの経験で、他人が(親・兄弟でも)自分の傍で寝ていると、その人の夢の中に入り込んでしまうらしいことに気付いていた。夢から覚めた相手が、必ずしも三ツ森が夢の中に居たことに気付いてはいなかったし、夢自体を覚えていないことも多かった。それでも、会話の端々から、三ツ森は自分の意志に関わらず、自分が他人の夢に入り込んでしまうことを知った。そして、それが必ずしも良い事ばかりでもない事に、やがて気付いた。
小学生の頃、この能力の所為で気味悪がられ、敬遠された。
三ツ森は、家庭の事情でものすごく家族兄弟が多い。寝るときはほぼ雑魚寝だ。それが三ツ森を苦しめていた。だから、寮生活が基本の私立公庄学園に来た。パンフレットには、個室も有り、条件を満たせば希望者に提供される、となっていた。パンフレットに、その条件が何なのかは書かれていなかった。その条件を確かめるつもりで、三ツ森はこの入寮説明会に参加していた。
三ツ森の周囲で、次々と人々が居眠りをし始めた。もちろん、眠りに落ちない人々もちらほら見受けられたが、ごく少数派だった。こんな時に、自分まで眠ってしまうと、一体何人分の夢の中に入り込んでしまうのだろうか、と僅かながら恐怖すら抱いたその時だった。
スピーカーから流れていたクラシック音楽の音が、突然強い催眠音波を出したような気がした。
三ツ森は、世界がズルリとずれるのを感じた。強烈な圧力がかかり、視界がブレ、二重になり、やがて分離し始めた。現実世界が、半透明の影のようになって、頭上に去って行く。
───── 嘘だろ。
見回せば、近隣で居眠りを始めていた人間の輪郭は既に溶けだし、万華鏡のように色をめまぐるしく変えながら、不定形の「夢」を形作りはじめていた。
講堂の座席に空きが有る箇所は、眠らなかった人が座っていた所だ。頭上にずれた所に現実が見えている。そこと見比べて気付いた。
───── マジかよ。
三ツ森は、自分が夢の世界に来てしまっている事に愕然とした。強制的に送り込まれた。こんな事は初めてだった。眠ってしまわないように、隠し持ったシャーペンで、時々手や脚を刺していたにもかかわらず、どうやら自分は眠ってしまったらしかった。
座席や通路、演壇や舞台、放送室や照明室といった講堂の形が未だしっかりと残っている。誰の夢かは分からないが、今までに経験したことの無い規模だと思った。他人の夢を取り込んだまま、夢の世界を確立している。
───── 誰だよ、人のこと巻き込みやがって。
三ツ森は少し興味が湧いた。座席を立ち、輪郭を失って既に夢を形作り始めている隣人を避けて、三ツ森は講堂の通路を演壇の方へ移動した。講堂の形状が安定している、ということは講堂の形状を熟知している、つまり学園に在籍している人物の夢だと思ったからだ。
演壇に、人は居ない。今現在話している最中のはずだから、眠っていないならこちらの世界に居なくても当然だった。だが、夢を見ているはずの人間からの投影も無いのが不思議だった。
───── 普通、どんなやつでも、背景ってのは人物ありきで構築するんじゃねぇの?
建物構造はしっかりと写し取られているのに、中に居た人物に関しては、まったく無頓着だった。
舞台上に居たはずの理事長や学園長はもう既に輪郭を溶かし、淡い色のついた霧のような「夢」を拡散しはじめていた。
───── 人はどうでもよくて、建物構造にうるさいって、どんなヤツだよ。
演壇から座席の方を振り返る。
生徒で埋め尽くされていた座席は、今や色とりどりの「夢」があふれ、混ざり合い、混沌としていた。人の形をしているものなど、一つも無い。いや、あったのかもしれないが、あそこに座っていた限り、隣人の「夢」に喰われただろう。
三ツ森はふと視線を感じた。「夢」の中ではあまり無いことだ。「夢」とは自分の世界認識が滲み出て、その世界をもう一度自分で再認識する過程にある時空間だ。他者が介入することは滅多に無い。そのはずだが、三ツ森は確かに他者の意思を感じた。
───── 俺に気付いてる?
演壇から二階席を見遣る。
そこに、少年が立っていた。いや、少年だと思った。見つけた、と思った瞬間、人影は踵を返して二階席通路を後方の扉に向けて移動し、講堂から出て行ってしまった。
この世界で地理を把握し、自在に動けるようなら、それは、この「夢」の作者だろうと、三ツ森はアテをつけていた。だから、今の人影を追うことにした。
───── とはいえ、一階通路はもう通れねぇし。一か八かやってみるか。
三ツ森は腰を落とし、膝を曲げ、足裏でしっかり床を捉えて、思いっきりジャンプした。演壇から直接二階席の手すりを目指した。
───── 好き好んで人の「夢」見たいなんて思わねぇ、っての。
足の下で、「夢」がまるで生き物のように蠢き、触手を伸ばしている。あれに捕まれば、捕まった「夢」の中に引き摺り込まれる。既に、「夢」どうしの喰い合いもおきているようだった。より強い「夢」に弱い「夢」が飲み込まれていく。
───── うわぁ、あいつに捕まったら、超面倒くさそう。
三ツ森の思いっきり伸ばした手が、二階席の手すりに届いた。この「夢」の作者は、重力を無視した有り得ない跳躍を許してくれるらしい。それなら、それで、動きやすくて助かる。
二階席は一階席よりだいぶ閑散としていた。元々、座っていた生徒の数が少なかったのか、上級生達の座席で寝落ちした生徒自体が少なかったのか、そのあたりの判断は付かなかった。もう、頭上を見上げても現実世界は見えなくなっていたので、確かめようが無かった。この「夢」自体が、現実世界からだいぶ離れてしまったようだった。
───── 何だよ。熟睡モードにでも入っちまったのかよ。説明会中に余裕だな。おい。
二階席の「夢」たちは、輪郭こそ溶けて不定形になってはいたが、一つの座席に一つの「夢」が挟まっているところを見ると、多少は自我のしっかりした「夢」のようだった。
───── さすが、上級生。大人だねぇ。
三ツ森は、手すりを乗り越えて二階席に脚を踏み入れた。
その途端に、講堂の天井が崩れた。崩れたという表現は正しくないかもしれない。天井が溶けて細かい黒い粒子に変化して、下に降り注ぎ始めた。まるで、砂絵が崩れるような光景だった。
───── やっべ。これ以上巻き込まれんのはゴメンだぞ。
三ツ森は慌てて二階席の手すりから離れる。階下を振り返れば、舞台の奥は既に暗闇に溶けかけている。急いで踵を返すと、二階席後方の扉へ向かって移動を開始した。
だが、気持ちが焦っていたせいか、進行方向の確認を怠った三ツ森は、通路に立ちふさがるように張り出していた「夢」の一つに突っ込んでしまった。薄暗い講堂の背景に紛れてしまうような、薄暗い灰色の「夢」だった。
三ツ森はあっという間に「夢」に飲み込まれた。
だだっ広い空間だった。上下も左右もすべて同じどす黒い空間で、他には何も無かった。
───── やっちまった。面倒くせぇな。
三ツ森がまず確認したのは、自分の足元だった。足の下に地面があるかどうか。脚を踏み鳴らした感触で、見えないが足場が有る事を確認した三ツ森は、今度は足場の端を確認し始めた。ひたすら摺り足で真横に進む。四歩進んだところで、五歩目に踏み出した足下に足場の感触が無くなった。そのまま、つま先で足場の縁を確認する。そうすることで、足場の向きを確かめる。
───── このタイプの「夢」は、確か……
しばらくその場にぼうっと突っ立っていた三ツ森だったが、やがて確かな足取りで脇目も振らず歩き始めた。
三ツ森には確信が有った。この方角に出口がある、と。
小さいころから、それこそ物心ついた頃から他人の「夢」の中を散々歩き回ってきた経験からなのか、本能的に身に付いていたものなのか、今更分からないが、三ツ森には不思議とどんな「夢」でも、その出口の場所が分かった。だから、他人の「夢」に入ってしまったと分かった時は、すぐに出口に向かって移動することにしていた。
出口の場所が分かるからといって、すぐそこに飛べる訳では無かった。地道にその「夢」の道を辿り、出口へ向かわなければならなかった。時には、目の前に見えているにも関わらず、そこへ至る道が紆余曲折していてなかなか辿り着けず、イライラさせられる事もあった。
出口に辿り着くまでに、時間が掛かり過ぎると、自分の形を保っておくのが大変になる。だからこそ、出口までの所要時間が分からない他人の「夢」からは、なるべく早く脱出を試みる必要があった。
たぶん、五分も歩かなかっただろう。三ツ森は何も無い虚空に溶けるように消えた。「夢」から脱出したのだ。
が、脱出したからといって安心はできなかった。脱出先も他人の「夢」の中だったからだ。
───── よし、取りあえず「講堂」には戻った。
講堂の構造はだいぶ溶解していた。そんな中にあって、先刻人影が出て行った二階席の奥の扉だけは、形も損なわれずにしっかりとそこに在った。
三ツ森は躊躇わずにその扉を押し開け、講堂の外へ出た。そこが、「講堂の夢」の出口だったからだ。
三ツ森は、再び、別の人間の「夢」に入ってしまった事に気付いた。
───── 未だかよ。
「講堂の夢」の出口が、他の人物の「夢」と繋がっていたのだ。そんなことも、稀に有る。「夢」どうしがシンクロしたり、強い「夢」が弱い「夢」を食ってしまった場合など、こんな状態になる事が有る。
今度は廊下だった。
学校の廊下を模しているようで、微妙にどこか違うという「夢」。
───── 端から端まで雑巾がけしなきゃフラグ立たない、とかだったらシャレにならねぇな。
廊下に面した扉に開いた窓からは、扉の向こうの様々な景色が見えた。
三ツ森は、扉の向こう側を流し見ながら、速すぎも遅すぎもしない一定の速度で歩いていく。出口は廊下の先だと感じていた。
ところが、歩けども歩けども廊下の突き当たりが出現しない。もう十五分近く、廊下を歩いている。
三ツ森は、廊下の扉の向こうに見える理科実験室の景色が、さっきも有った事に気付いた。廊下がループしていた。
───── んだよ、タチの悪りぃ迷宮だな。
今度は、慎重に扉の窓一つ一つを確かめながら進んだ。
ある賑やかな教室の扉の前に立つと、勢いよく扉を開け、三ツ森はその教室に踏み込んで行った。
教室は席替えの最中だった。
生徒たちは、窓際の席を取り合ってくじを引き、あたりを引き当てた生徒が出る度に、羨望とヤジのうめき声を上げていた。〝窓際〟など無いのに。
三ツ森はその喧騒の中を横切り、教室の反対側の扉を開けた。教室内の誰も、三ツ森の存在を気に留めなかった。
扉の外は又、廊下だった。
だが、今度は廊下の先に非常階段用の出口が見えていた。
見えてはいたが、非常階段用の出口は見る間に遠ざかっていく。廊下が目の前で伸びていた。
───── 逃がさねぇってか!?
三ツ森はダッシュをかけた。
非常階段用出口に肩から突っ込む。
───── 捕まってたまるか、ってんだよ。
扉は何の抵抗も無く開き、三ツ森の身体は廊下から建物の外へ飛び出した。
危うく非常階段の外へ落ちてしまいそうになった。かろうじて手すりに摑まり、空に泳ぐ身体を引き止めた。
非常階段に身体が落ち着いたのを確かめて、振り返る。
三ツ森が今出てきた建物が無かった。
───── 諦め早っ。てか又別の「夢」か?
頭上と足下に、金属製の非常階段が細々と続いていた。周囲は羊雲の浮かぶ空だった。
「夢」とは大概理不尽で無頓着な展開を示すものだが、いま三ツ森が迷い込んでいる「夢」も破天荒な展開を見せている。
三ツ森は頭上と足下の非常階段の先を眺めた。どちらも出口には向かっていない気がした。
のほほんと広がる、空を見渡した。三ツ森の感覚は、この「夢」の出口が、何の足場も見えない水平方向の空に在る、と訴えていた。
───── 残念ながら羽は生えてねぇんだよ。
三ツ森は試し、にその場で軽く飛んでみた。想像より軽く高く飛べる。しかも落下スピードも遅い。まるでテレビで見た月面を歩いている映像のようだ。いや、それよりも滞空時間は長いようだ。
───── そういうことかよ!
三ツ森は、呟きとも悪態ともとれる掛け声をかけて、非常階段の手すりから空へ飛び出した。
三ツ森の身体が放物線を描き、落下に入った。
突如、三ツ森の足元に隣の建物の屋上が現れた。非常階段からは五mほど離れているだろうか。
不意を突かれ、着地体勢に無かったので、三ツ森は現れた屋上に膝も手もしこたまぶつけて着地した。
屋上に激突した部分の痛みが伝わってくる。
───── いてっ。
三ツ森は思わず目を閉じた。
三ツ森は自分が眠りから覚めると思った。普通〝痛み〟は身体から伝わってくる。眠って無防備になった身体の危機を、脳の未だ活動している部分に伝えて、脳全体を覚醒させ、身体のコントロールを再び脳に掌握させるためのシステムだ。おそらく、現実世界で自分は寝こけて椅子から落ちるかどうかしたのだろう、と思った。
だが、目を開けても景色は変わらなかった。
───── 嘘だろ。
のほほんとした青空と、階下の無い屋上だけ。
三ツ森は呆然と立ち上がった。
おかしい。「夢」から覚めない。恐怖心が沸き起こった。
この「夢」は何だ? わざと、眠りに落とされ、閉じ込められた? 脱出しても脱出しても、次の夢に入り込まされる。いつまでも目覚められない。だとしたら、現実世界で眠っている本当の身体はこれ以上ないほど無防備だ。
しかも、三ツ森を更に混乱させる事態が起きた。今、自分が居る「夢」の出口が複数出現するのを感知した。
出現した、という表現も正しくは無いかもしれない。今まで気付かなかっただけ、かも知れなかった。
ともかく、この「夢」の出口が複数あると三ツ森の感覚は訴える。
───── 何だよこれ。
だが、三ツ森は未だかつて出口が複数ある「夢」など見たことが無かった。普通一つの「夢」に対して、出口も一つだ。なぜならば、「出口」とはすなわちその「夢」を見ている人間が、現実に戻る道筋にほかならないからだ。もし、この「夢」に出口が複数あるならば、この「夢」は複数の人物によって作り出されていることになる。どうやったのかは知らないが、複数の人物が、同時に同じ「夢」を見ている、ということだ。
「夢」から脱出できないかもしれない、と怯えに似た考えが三ツ森を硬直させる。
───── 迷うな。出口は必ず外につながってるんだ。
三ツ森は食いしばった歯の間から、絞り出すように自分に言い聞かせると、非常階段から飛び出した時に目指した出口に向かって、再び移動し始めた。
後は、時間と、自分の気力が勝負だった。
「今年はあんま目ぼしいヤツいねぇな。」
当時、高等部二年だった二子川は、講堂の機械室から階下を見下ろしながらぼやいた。手にはストップウォッチを持ち、その数字と階下を忙しなく見比べながら、手元の座席表にシルシを書き付けていた。
「まぁ、そう言うなよ。元々僕たちみたいなのは、少ないんだからさ。」
二子川の隣で、半分寝ているような半眼で階下を見下ろしているのは、氷取沢瑞希三月でこの学園を卒業し、四月からは都内の大学へ進学が決まっている高等部三年の《パトリオット》だった。彼は意識をこちらに置いたまま、「夢限世界」を覗ける稀有な才能の持ち主だった。将来はこの能力を生かしてカウンセラー若しくはセラピストの仕事に就くつもりだ、と公言してはばからなかった。そこそこのイケメンなので、仕事が繁盛するだろうとは誰もが認めていたが、彼自身は「夢限世界」に対して直接的な能力を持つわけでは無いので、だれか他の能力者と組まなければ、己の能力だけでカウンセリングやセラピーを成功させるのは難しいだろうとも言われていた。氷取沢とて、そんなことは百も承知だったから、彼が選んだ進学先は医学部だった。
「あ、すごいな。自力で戻って来る子が居るよ。」
氷取沢が感嘆の声を上げた。
「また、安藤タイプか? にしちゃ、時間かかりすぎだろ。」
手元のストップウォッチを見た二子川が、不満そうに意見する。
今回の多人数同時睡眠は、学園側と《パトリオット》が共同で画策した、次期《パトリオット》候補生探しの場だった。同時に睡眠に落とし、一斉に「夢限世界」に落とすことで、能力者を洗い出す狙いが有った。二子川にしても、幹本、東雲、安藤、御厨、辻堂にしても、皆そうして見いだされた。
「いやいや、彼が通ってきた夢限世界、一つも壊れてないよ。すごいね、ちゃんと道通って来てるよ。」
氷取沢の目が完全に開いた。「夢限世界」から引き揚げてきたのだ。
「どいつ?」
「あの、前から二番目の右ブロックの後ろから二列目左から三番目の子。」
二子川が、三ツ森の姿を見つけたまさにその時、三ツ森は目を覚ました。
目を覚ましたが、周囲の様子を窺うと、また寝たふりを始めた。
「何あいつ。面白ぇ。」
そう言った矢先、二子川の手元でストップウォッチがアラームを鳴らした。
「時間だね。」
会場に流れていた音楽が途切れ、代わりにラップ音が流れ、会場に流れる音楽が別のものに切り替わった。
わざと眠りに落とした関係者たちを、今度は強制的に起こす措置だ。無防備な精神を「夢限世界」に長く置いておくのは、危険だからこその措置だが、勝手に眠らされ、勝手に叩き起こされる生徒たちはいい迷惑だろう。ただ、ほとんどの人間は居眠りをしてしまった、としか感じないために、気付く者が居ないだけの話だった。
「そっち、どうだった?」
氷取沢が機械室にもう一人居た女子に声をかけた。夏江莉璃香氷取沢と同じ高等部三年生。三月からは岡山の実家に帰って、そこから京都大学に通うことが決まっている才女だ。二年連続で《パトリオット》の女子代表を務めてもいる。
「去年は藤宮さんしか見つけられなくてどうしようかと思ってたけど、今年は四人、目ぼしい子が居たわ。ただ一人、現在二年生なのが気になるけど。」
「へぇ? 去年見落とした?」
「そんなはずは無いんだけどね。」
「先輩、放送。」
二子川が、話し込む先輩二人にマイクを突き出した。
「あ、ああ、ありがとう。」
階下の演壇を見れば、教頭が話し終わり、軽く頭を下げて退場するところだった。
「『長らくのご静聴ありがとうございました。ここで、少し休憩をとりたいと思います。休憩時間は十分です。お手洗いは講堂後方の階段より出て右手にございます。また、気分が悪くなられた方がいらっしゃいましたら、お近くの教員に気軽に声をおかけください。』っと。」
夏江がアナウンス嬢をやった。
今、機械室に居る氷取沢瑞希、夏江莉璃香、二子川智哉の三人以外の《パトリオット》メンバーはどうしていたか、というと。他の一般生徒に混じって、会場で寝こけていた。 いや、表現が悪かった。会場で、他の生徒に混じって「夢限世界」へ行き、それぞれの役割をはたしていた。以前から解決を求められていた案件の処理や、問題が起きていないかのパトロール、他の《パトリオット》隊員の補助など、それこそ神経を削って務めていた。務めてはいたが、場所が「夢限世界」だ。眠らないと行けない場所だから、結局、傍から見れば他の生徒に混じって同じように会場で眠っていたようにしか見えない。なんとも恰好のつかない功労者たちだった。
休憩時間に講堂の控室に集まった《パトリオット》のメンバーは、二子川を除き、一様に疲労の色が濃かった。なぜ、二子川を除くかというと、二子川は「夢限世界」に行っていないからだ。
高等部三年生の氷取沢、金山、高等部二年生の二子川、東雲、幹本、高等部一年生の御厨、安藤、辻堂、中等部二年生の高橋、という男子九人。
高等部三年生の夏江、井上、高等部二年生の藤宮、高等部一年生の堀江、中等部一年生の林部、という女子五人が、現行の《パトリオット》メンバーの全てだった。
入寮説明会の会場には七百人を超す生徒や教師が詰め込まれている。その九割がたが「夢限世界」へ一斉に落とされた。問題が起きない訳が無い。しかし、対処できるのは僅か十四人。当然一人あたりへの負担は膨大だ。
ペットボトルの水とエネルギー補給用の簡易固形食を採りながら、メンバー達は情報交換に余念が無かった。
「氷取沢。こないだ二子川が言ってた件な、見てきたけどありゃ酷いわ。早晩、案件として上がってくるぞ。」金山が固形食を口に放り込みながら面倒くさそうに言う。
「そうか、ありがとう金山。東雲は問題無く熟せたか?」代表を務めている氷取沢は、報告を心のメモに書き留め、ちょっと大きめの案件を任せた後輩を心配する。
「はい。大丈夫でした。」代表よりも一回りガタイのいい、東雲が小さくなってかしこまる。
「ニコ先輩。新人いた?」御厨が遠慮なく机の上の菓子の山に手を伸ばしながら、二子川に期待の目を向ける。
「いたいた。面白れぇヤツ。」二子川も次々と新しい菓子の箱を開けながら、楽しげに答える。
「やったぁ。」御厨は後輩が出来ることを素直に喜んだ。
「夏江さん。ウチは?」その様子を見ていた藤宮が《パトリオット》の女子代表を務め、スカウトも一手に務める夏江に尋ねる。
「居たわよ。四人。」
「けっこう見つけられましたね。」
「でしょ? ただね、一人藤宮さんと同じ学年の子が居るのよ。」
「え?高二ってことですか?」
「そうなの。」
「誰だろ。」
「後で、召集かけるから、その時に分かると思うわ。」
「じゃ、楽しみにしてよ。」
ガチャリ。
控室の扉がノックも無しに突然開いた。 だが、誰一人驚きもしなければ、気にすらしない。 余裕で飲み食いを続けている。
「おーいい。せめて、注目ぐらいしてくれよぉ。」
情けない声を上げたのは、名倉満高等部二年生の数学を担当している若い男性教師だ。大学を卒業したてで赴任して二年。元卒業生という事もあり、子供たちには舐められきっていた。
「ああーっ。ミッチーようやく来たぁ。遅いよ。」
身長172㎝・バスト99㎝・ウエスト63㎝・ヒップ93㎝。の高校生とは思えないような豊満な体つきをした、井上が、机の上でこれ見よがしに入り口に向かって足を組み替えて見せながら、手招きをする。
「いや、だから、井上さん。目の毒だから、それ止めてね。」 名倉は顔を赤らめながら、目の前に自分の手をかざし、井上のスカートのあたりを視界から隠しながら、子供たちが座っている机の方へ歩いて行った。
「どう? 今年はいいの見つかった?」
名倉は在学中《パトリオット》に在籍していたので、事情の分かる教師として、現在は《パトリオット》の顧問を押し付けられていた。 名倉が赴任してくる前は、学園長自らが《パトリオット》の管理顧問をしていたらしいが、それでは色々と誤解を招くということで、今は名倉が引き受けさせられていた。
名倉もかつては《パトリオット》のメンバーとして才能が有ったが、今では「夢限世界」を認識することはできるものの、自由に動くことは出来なくなってしまっていた。才能が枯渇したのだ。
「夢限世界」での才能が、ずっと有り続けるわけでは無いのも、能力者を見つけにくくしている一因と言えるだろう。
徐々に減退していって、ある日とうとう無くなってしまう者。ある日突然使えなくなってしまう者。その一方で、学園長のように、もう壮年という年齢にもかかわらず、高校生の二子川たちと変わらないバイタリティと能力を「夢限世界」で発揮し続ける者もいる。
実を言えば、今回の集団睡眠の大外枠の「夢限世界」を構築していたのは学園長だった。
「はい。一応、座席に印をつけておきました。」
夏江が、二子川が記録を付けていた座席表を、名倉に渡す。
「いち、にい、さん、しぃ、ご。」
記された印を指でさしながら確認する。
「あ、けっこう見つけられたほうかな。」
「ですね。でも、今年は「夢限世界」が濁ってるヤツが、多いですよ。」
氷取沢が顔を歪ませながら言う。
「まぁ、年々増加傾向にあるみたいだけどな。」 名倉はもう一度座席表に目を落とす。そこには二子川が別の印も書き入れていた。
「昔みたいに、でかい澱みじゃない分、細かくて面倒くせぇよ。」 二子川も思いっきり眉間にしわを寄せて愚痴る。
名倉が苦笑いで、その愚痴を躱した。
いずれこの澱みに対処しなければならないことが分かっている分、迂闊なことは言わないほうがいい。
二子川の「夢限世界」での能力は絶大だった。その上彼は頭がいい。氷取沢が卒業したら、《パトリオット》の代表は間違いなく彼になるだろう。東雲と幹本が二子川の両輪になるのなら、間違いなく歴代屈指の強力な《パトリオット》が誕生することも分かっていた。だが、強力な武器が必ずしも正義なわけでなく、それを使うものの良識がその力の性質を決めるのと同様、《パトリオット》の存在をを正義にするのか、邪悪にするのかを決めるのも、構成員と顧問の考え方次第だ。
名倉はできればそんなことに関わり合いたくは無かった。
大人になり、子供の時には見えなかったものが見えるようになり、教師になり、大人の事情に嫌でも巻き込まれるようになり、それでも名倉は氷取沢たちの側に立っていたかった。だから、顧問を引き受けもした。
だが、最近それにも限界を感じ始めていた。学園の重役の中に、《パトリオット》の存在に微妙な関心を寄せ始めている輩が独りならず居ることが分かってきた。上からの複数の圧力を跳ね除けられる力は名倉には無い。学園長がのらりくらりと上手く立ちまわって、《パトリオット》の存在を煙に巻いているが、それもいつまで保つか保証は無かった。
名倉の予感は、近いうちに「夢限世界」で荒事が起こるだろうと叫んでいた。正直そんな時に、《パトリオット》に関わっているべきでは無いのだ。自分はもう能力は無い。足手まといもいいところだろう。多少の事情が分かるというだけで、氷取沢たちの足枷になりたくは無い。
「とりあえず、この子たちを呼び出しておけばいいんだね。」
名倉は座席リストに目を落としながら、氷取沢に念を押す。
「はい。よろしくお願いします。」
「一人ずつ? 集団?」
「五人しかいないんだから、一斉でいいんじゃねぇか?」