優等生の手
私の手は汚い。爪はガタガタ、ささくれが剥けた指の端っこは赤く腫れている。おまけに爪の間は赤黒い。
疲れたりストレスが溜まると、私は爪をむしってしまう。むしると深爪のようになり、端っこが赤く腫れ、膿んでしまうこともある。それは足も同様だった。手に関しては頭皮をむしることをやめられず、爪の間には瘡蓋が挟まっている。
こんなこと、誰にも言えなかった。優等生の私。中学高校と学級委員を務め、大学でも成績優秀で学費免除。完璧な自分と、等身大の自分のギャップ。私は今日も爪をむしった。
好きな人ができた。同じゼミの先輩。優しくて、おおらかで、頼り甲斐のある先輩。だから隠した。汚い手がバレたら、きっと幻滅される。好きになってもらえなくてもいいから、嫌われたくない。
「石黒さんってさ、字が綺麗だね」
2人きりの放課後。喜びよりも、手元を見られたかもしれないことに焦り。乾いた笑いでてきとうに誤魔化し、私はその日、先輩の顔を見ることができなかった。
電車の中で、ささくれを剥く。1度剥くと、どこまでも剥けていく。血で赤く染まる指を、ウェットティッシュで拭いながら登校した。
「石黒さん。おはよう」
「せ、先輩……おはようございます」
「その手どうしたの?怪我?」
「あ、いや、えっと……大丈夫です。あぁ、ささくれが剥けちゃって」
「絆創膏あるよ」
ベンチに座るよう言われ、断れなかった私は渋々座った。しかし、指を出してと言われたけど、差し出すことができなかった。半ば強引に、先輩から絆創膏を受け取って自分で巻いた。
ゼミの発表は無事終了。その日の夜、同じグループの人たちと打ち上げに行った。なぜか先輩と隣の席だった。
「1年生なのに石黒さん、誰よりもハキハキしてたよね」
「多分いい成績つくよ、俺たち」
パワーポイントと資料を頭に叩き込み、私はグループの代表者として発表した。質疑応答もうまくできたと思う。私は認められたことが、嬉しかった。
お開きになり、私と先輩は同じ路線なので2人きりになった。先輩は私をひたすら褒めてくれた。それはそれは、恥ずかしくて顔が真っ赤になるほどに。
「石黒さんって彼氏いないんだよね?」
「はい、いませんよ。先輩は彼女いそうですけど、私と2人でいて大丈夫ですか?」
「は?え?いないよ!俺彼女いない」
死ぬほど褒めてくれた言葉よりも「彼女がいない」という事実の方が、私には嬉しかった。
「じゃあお疲れ様でした」
反対方向の先輩と、改札まで別れる。しかし私は慌てて振り返った。
「な、ど、どうしたんですか……?」
先輩が手を掴んだからだ。慌てて私は両手を組んで、胸を押さえた。
「あのさ……好きな人はいるの?」
「は、え?いや、まあ、その……」
「――好きです」
「……へ?」
「石黒さんのことが好きです。付き合ってくれませんか?」
信じられなかった。こんなに優しくて、かっこよくて、素敵な人が自分のことを好きだなんて。
でも……。
「ぁ、先輩。私、その、多分イメージと違うと思うんですけど……だから」
「ごめん、困らせるつもりはなくて。その好きじゃないならこれまで通り、先輩後輩で大丈夫だから」
「先輩」
汗で滑る両手を後ろに隠した。そして本音を、ちょびっと言ってみた。
「私も……好きです」
「え、ほんとに!?じゃあ……」
「私と付き合ってください」
私は先輩の彼女になった。
先輩はとてもマメな人だった。
連絡はたくさんしてくれるけど、重くない。たまにする電話には、ドキドキした。
しかし携帯を置くと、頭皮をむしりささくれを引っ張ってしまう。
こんな自分を隠したいと思えば思うほど、我慢できない行為。
付き合って3ヶ月が経った。
先輩はデートにも連れて行ってくれた。どこに行っても楽しいし、何を食べても美味しい。
でも、手を繋げなかった。
さりげなく繋がれそうになると、私は誤魔化すように話しかけた。
握られたらバレてしまう。ボコボコでガサガサの手が。
肌に疾患があるわけじゃない。自分のせいでこうなった手を、誰にも見られたくなかった。特に先輩には。
半年が経った。
私たちはまだ手を繋いでいない。
しかし今日、先輩の家に呼ばれた。お家デートというやつだ。私は断れなかった。本当は行きたかったから。
「あのさ……」
「なんですか?」
「これ、見て欲しいんだけど」
先輩の家に着くなり、可愛い箱が机の上に置かれた。中には綺麗なネイルが並んでいる。
「えっと……先輩?」
「ゆりちゃんはさ、違ったらごめん。その、手……気にしてるでしょ?」
「な!あ、その……」
先輩は私の手を取った。優しいのに、抜け出せない強さ。私は逃げられなかった。
お姫様のようなポーズの手の先は、ガタガタで汚い。
「俺さ、練習したんだ」
「……へ?」
「姉ちゃんがいるんだけど、実家に帰った時にネイル教わったんだ」
「えっと……」
「俺はゆりちゃんの手、小さくて柔らかくて、可愛いって思ってるよ」
「いや、こんな汚い手……」
なぜかわからなかった。先輩が優しいからか、みっともない自分のせいなのか、涙が止まらなかった。
「俺がもっと可愛くするからさ、そしたら手を繋いでくれませんか?」
先輩は私の好きなオレンジ色のネイルを選んでくれた。さらには、立派なUVライトと、ベースとコーティング。
丁寧に爪やすりで整え、1時間掛け私の手を綺麗にしてくれた。
正直、別れられてもおかしくないと思っていた。
キスもできない、手を繋ぐことも拒否する彼女なんて、ダメだと思っていた。
それでも先輩はゆっくり私のことを待ってくれた。
2週間に1回、私の指を綺麗に彩り、オフするのもお手のもの。
それでもささくれは剥いちゃうし、頭皮をむしることもやめられない。
綺麗と汚いを行ったり来たり。
先輩と付き合って、1年が経った。
今日の私の爪は、先輩の好きな水色。
「――先輩、手を繋いでくれません?」
私はずっと手を繋いで欲しかった。
先輩、大好きです。




