第40章:ミライ(瑞穂)の再収容と別れ
【第40章:ミライ(瑞穂)の再収容と別れ】
春。桜が舞う並木道。
静香と瑞穂は、都内の片隅にある、小さなアパートで、慎ましく暮らしていた。
洗濯物の匂い。夕方のスーパーの袋。温かい味噌汁の湯気。
それは、瑞穂にとって初めて手に入れた、「当たり前の生活」だった。
「ママ、見て!」瑞穂が嬉しそうに折り紙を差し出す。
静香は微笑んで、そっとその手を包み込んだ。
「上手だね、瑞穂……すごく上手」
暖かい光の中で、二人は家族として、ゆっくりと、確かに絆を育んでいった。
だが――その幸福は、あまりにも脆かった。
政府の監視網、オハラ重工の執拗な追跡。
瑞穂の存在は、彼らにとって「手放すわけにはいかない宝」だった。
顔認証システム、金融データ、携帯端末の通信履歴。どこで暮らしても、どれほど慎ましく暮らしても、追跡は逃れられなかった。
ある晩。アパートの外に、不自然な黒い車が止まった。
静香はすぐに直感した。
(来た――)
瑞穂は、知らずに宿題をしていた。
静香は、机に向かう瑞穂に、震える手で毛布をかけた。
「瑞穂、もし、ママがいなくなったら…… それでも、どうか、前を向いて生きてね」
瑞穂は首を傾げ、笑った。
「うん、ママはずっと一緒だよ」
静香は、涙が溢れるのを堪えきれなかった。
深夜、ドアが破られた。
無機質な制服を着た男たちが、静かに部屋に押し入ってきた。
叫ぶ暇も、逃げる暇もなかった。
瑞穂は麻酔銃を打たれ、小さな体が、音もなく静香の腕の中に沈んだ。
「お願い、連れて行かないで!!」
静香は泣き叫んだ。
だが、男たちは無言で瑞穂を奪い去った。
一瞬だけ、瑞穂のまぶたが震え、静香を見たような気がした。
微笑んで、口を動かした。
「ママ、大好きだよ」
そして――闇の中へ、運び去られていった。
静香は、取り残された。がらんどうの部屋。割れた食器。散らばった折り紙。
胸の奥で、何かが静かに、音を立てて崩れた。
それでも。それでも静香は、生き続けた。
瑞穂が、どこかで生きていると信じて。
再び抱きしめられるその日を、ただ祈りながら。
瑞穂が連れ去られた夜から、数時間が過ぎていた。
アパートの玄関前、住友平八は、自転車のペダルを止め、息を切らせて立っていた。
照明の落ちた二階の部屋の窓に、かすかな灯りが見える。
カツ、カツ……階段を上がる足音が、夜の静けさに染みていく。
「静香――!!」
玄関の扉が、ゆっくり開いた。
そこには、目を真っ赤に腫らした静香が、立っていた。
白いブラウスに、血のような涙の跡。
彼女はただ、首を横に振った。
「遅かった……遅かったの……」
平八は、ぐっと拳を握りしめる。
「誰だ?連れて行ったのは。どういう連中だった?」
「黒服のエージェント……オハラ重工と関係があるわ」
「オハラ――! やっぱり、あの会社か……!」
平八の目が、怒りに燃える。
「助けに行く。今からでも遅くはない!」
「やめて……!」
静香の声が、ぴしゃりと空気を裂いた。
「あなたが行っても、殺されるだけよ!」
「……俺は、逃げるために生きてるんじゃないんだ」
「じゃあ、私が言う。私のことは――もう、忘れて。真面目に生きて」
平八は一瞬、言葉を失った。
彼女の瞳は、泣き腫らしていたが、その奥に宿る光は、覚悟そのものだった。
「お前、それでいいのかよ……?」
「母親だから……私だけでも、生き残って、瑞穂を待たなきゃいけない。それが、私の役目だから」
沈黙。
やがて、平八はポケットから古びた銀の指輪を取り出し、そっと机の上に置いた。
「形見だ。いつか、瑞穂が戻ったら渡してやってくれ。俺じゃ渡せねぇかもしれねぇからな」
静香は震える唇で、微笑んだ。
「ありがとう……平八さん」
彼は、何も言わず、扉を開けた。
「平八さん……!」
呼びかけたその声に、彼はほんの一瞬だけ、振り返った。
月明かりが、彼の影を細く伸ばしていた。
「……瑞穂は、絶対に取り戻す。たとえ何年かかっても、あいつらに好きにはさせねぇ」
そう言い残し、階段を静かに降りていった。




