序章 第一幕:見捨てられた聖女 第4話 中編
湯殿に着くと、奇跡的に一部屋だけ空いていた。三人は顔を見合わせ、ほっと息をつくと、急いで中へと入った。
湯気がほんのりと立ちこめる室内は、石造りの壁に囲まれ、外のざわめきとは別世界のように静かだった。カミーユは慣れた手つきでマリーの衣服を脱がせていく。その動作には、侍女としての礼儀と、親友としての気遣いが自然に混ざっていた。
マリーの靴に手をかけたとき、カミーユはふと目を留め、安堵したように微笑んだ。
「マリー様、ようやく神殿から新しい靴をいただけたのですね。わたくし、本当に安心しました。さすがに、あんなボロボロな靴で聖女様を歩かせることはないと思っておりました」
その言葉に、マリーは思わず息をのんだ。靴は神殿から支給されたものではない。それは、天籟騎士団の女騎士が、飢えと疲労で倒れかけていた彼女に、黙って差し出してくれたものだった。
言いかけて、マリーは口を閉じた。あの靴に込められたものを、軽々しく語ることはできなかった。
しかし、クララがマリーの足元にふと目を留めた。
「……見慣れない靴ね。神殿のものじゃないよね?」
マリーは一瞬、言葉を飲み込んだが、湯の温もりに気が緩んだのか、思わず口にしてしまった。
「天籟騎士団の方が……譲ってくださったの」
クララは目を丸くした。
「えっ、皇国の人って、そんなに優しいの?」
その言葉に、カミーユが湯桶を整えながら、少し得意げに微笑んだ。
「だから、わたくしが前々から言っていたでしょう?ヴェルナーラの方々は、礼節と慈愛を重んじるのです」
クララはカミーユを見つめて、ふと思い出したように呟いた。
「そういえば、カミーユって、皇国に嫁ぐんだったんだよね?確か、名前はカ……なんだっけ?」
「オットー・カレンベルク侯爵様ね。カミーユ、これで名前はあってる?」
マリーは不安になってカミーユを見つめると、カミーユは静かに頷いた。その仕草は肯定というよりも、遠い記憶に触れるようなものだった。
「ええ、オットー・カレンベルク侯爵様。わたくしと婚約を結ぶ少し前に、ヴェルナーラの西部にあるシュプリューレーゲンにある牢獄の管理人に任命されて、爵位を授かった方です。先代の水神様のご意向で、和平の象徴として、わたくしとの婚約が決まりました」
クララは湯に肩まで浸かりながら、眉をひそめた。
「でも、二回しか会ってないって言ってなかった?」
カミーユは湯桶に手を伸ばしながら、少しだけ微笑んだ。
「ええ、五年前と一年前の二度だけ。でも、文通は続けていますの。毎週、律儀にお手紙をくださるのよ。季節の移ろいや、牢獄で読まれた詩、囚人たちの小さな変化まで、丁寧に綴られていて……不思議と、会ったことのない日々の彼の姿が、手紙の向こうに浮かぶのです」
マリーはその言葉に、胸の奥が少しざわめいた。戦場の果てで靴と食料を差し出してくれた女騎士たちの姿と、牢獄で詩を読む侯爵の姿が、どこか重なって見えた。
「……それって、カミーユの婚約者だけの話だと思ってた」
ぽつりと漏れたマリーの言葉に、湯殿の空気が少しだけ揺れた。
カミーユはマリーの方を見て、静かに微笑んだ。
「そうかもしれません。でも、皇国にも、優しさを持つ人は確かにいるのです。
それが、戦の向こう側にいる人であっても」
クララは湯の中で膝を抱えながら、ぽつりと呟いた。
「水神さまって、そういう人を選ぶんだね……」
マリーは黙って頷いた。湯気の向こうに、あの夜の焚火と、女騎士のまなざしが浮かんでいた。
前後編だけの予定だったが、意外と長かった。




