序章 第一幕:見捨てられた聖女 第3話 後編
マリーは空になった缶を、聖女の衣の端切れで丁寧に包んだ。その布は、かつて神前に立つために与えられた純白の象徴だったが、今では泥とほつれにまみれ、祈りの重みよりも旅の埃を吸っていた。彼女は缶を荷物の奥にしまいながら、口の中に残る食事の余韻に静かに目を閉じた。酸味と香辛料が混ざり合った風味は、王国の味とはまるで違っていた。けれど、不思議と彼女を優しく包み込むような気がした。それは、祈りではなく、確かな“生”の感覚だった。
風は、戦の最中に荒れ狂っていたのが嘘のように、今は穏やかだった。木々の葉を優しく揺らし、草の間を小動物が走り抜ける音が、かすかに耳に届く。遠くでは鳥が鳴き、空は淡い灰色から、少しずつ夜の色に染まり始めていた。夕暮れの光が地面を斜めに照らし、彼女の影は長く伸びていた。
足元には、新しい靴の重みがあった。革の感触が足を包み込み、歩くたびにかすかな音が鳴る。
それは、祈祷所の沈黙とは違う、生きている音だった。一歩ごとに、彼女は自分が生きていることを確かめているようだった。かつては、祈ることが生きることだった。今は、歩くことがそれに変わっていた。
道は緩やかに下り坂になり、丘の向こうに神殿の尖塔が見え始めた。その瞬間、彼女の足取りは徐々に重くなっていった。疲労が蓄積しているせいもある。けれど、それだけではなかった。胸の奥に、言葉にならないざわめきが広がっていく。
尖塔は、王国の信仰の象徴だった。祈りの場であり、彼女が聖女として生きている場所。その姿が視界に入るたび、過去の記憶が静かに蘇る。
神官たちの冷たい視線。
侍女たちの蔑み。
神が沈黙する祈り。
そして、誰にも届かない願い。
マリーは立ち止まり、深く息を吸った。空気は冷たく、土と草の匂いが混じっていた。その香りは、神殿の石壁の中では決して感じられないものだった。
彼女は、自分が“帰る”ことに怯えているのだと気づいた。聖女であるはずなのに、あの場所では居場所がない。誰も彼女を必要としていないような、そんな空気がある。それが、なんとなく、いやだった。けれど、彼女は歩き続けた。
靴の重みが、彼女を支えていた。口の中に残る皇国の味が、彼女を前へと押していた。それは、誰かに与えられたものではなく、自分で選び取った“生”の証だった。
風が吹いた。髪が揺れ、頬に触れる。その風は、どこか遠くから来たような気がした。マリーは目を閉じ、もう一度深く息を吸った。そして、尖塔の影が伸びる道を、静かに進んでいった。
3話はここまでです。




