序章第3幕:旅立ち 第13話前編
ディアナに連れられ、一行はセレリス山脈を下っていった。先ほどまで濃い霧に包まれていた山道とは違い、ディアナは迷うことなく歩いていく。時々、立ち止まって周囲の地形を確認する。その姿は山と長く向き合ってきた者だけが分かる何かを感じ取っているようだった 。
「すごいですね……」
マリーは思わず呟いた。自分たちが歩いていた時は何も見えないせいか、どこへ進んでも同じ景色に見えた。足元は不安定で霧の向こうには何があるのか分からない。ただ、迷わないように必死で歩き続けるしかなかった。けれど、今は違う。ブナやナナカマドの木々が風に揺れ、葉の隙間から柔らかな光が差し込んでいる。小川は静かに流れ、水面はきらきらと輝いていた。遠くでは小鳥の声が響き、森全体が穏やかな時間を過ごしているようだった。 クララは思わず、「……綺麗」と小さく声を漏らした。マリーは周囲を見渡した。しかし、今まで聞かされてきたヴェルナーラ皇国の姿とどうしても結びつかなかった。
「さっきまで結構怖かったの。霧が濃くて前が見えなかったから」
クララの言葉にマリーも頷いた。同じことを思っている人がいたことに少し安心する。
「まぁ、初夏のセレリス山脈は霧が一番濃い時期だからしかたないよ」
ディアナは呑気に笑いながら言った。アンリが「安牌って言ったの誰だっけ?」と呟くとリュカとカミーユがジトっとした目で「君でしょ」と言いたげな視線を向け、アンリは小さく目を逸らした。
「ちなみに他にはどうやって行こうとしてたの?」
ディアナが興味深そうに尋ねる。
「セレリス山脈を超えるルートとポール・ダルエット港から、フェアギストマインニヒトのローゼンフルト港へ向かう航路、後はドーヴ山を超えてラック・ド・ブリュム湖を渡るルート 」
アンリが淡々と答える。
「一番安全って言われたのがセレリス山脈を超えるルートだったんです」
リュカが補足するとディアナは少し考えるように首を傾げた。
「うーん……その中だったら私もセレリス山脈を選ぶかも」
その答えにカミーユは少し驚いたように目を丸くする。
「地形に詳しいディアナさんもそう思うのですね」
「現地の人だからこそわかることだと思うよ。地図ってちゃんと読まないと地形がわかりづらいから」
ディアナはそう言って再び歩き始めた。しばらく歩くと山の麓にたどり着いた。気が付けば、あれほど濃かった霧はすっかりと晴れ、木々の間から差し込む光は次第に強くなっていた。遠くを見ると、青々とした草原が視界いっぱいに広がっている。
「この先を1時間くらい歩くとアトモスフェーレ村に着くけど、休憩する?」
ディアナはくるんと後ろを振り返り、首をこてんと傾げて尋ねた。
「……少しだけお願いしてもいいかしら」
マリーは遠慮がちに答える。
「もちろん!これから旅の本番ってタイミングなのに疲れ果てたら大変だもの」
ディアナは近くの大きな岩を指さして「あそこなら座れそう」と呟くと一行はその岩の近くに腰かけた。
「あぁ、やっと山を抜けられた」
アンリが呟くとリュカが「本当にね」と笑う。
「1週間かかるって思ってたけどまさか、9日かかるとは思ってなかった……」
リュカの言葉に一同は驚いて目を丸くした。予定より二日遅れている。カミーユは焦ったように手帳を開いた。しかし、ディアナはそんな一同の様子を見て、楽しそうに笑った。
「初夏の時期に七日でセレリス山脈を越えるなんて、毎週みたいに山を歩いている人じゃないと難しいよ」
「え?」
「霧が濃い日は、フリューゲルの人でも道を間違えることがあるくらいだから」
ディアナは何でもないことのように言った直後、遠くからかすかな音が聞こえてきた。カツン、カツンと規則正しい蹄の音が聞こえる。
「……馬車?」
リュカが顔をあげて遠くを見る。やがて木々の向こうから一台の荷馬車が姿を現した。二頭の輓馬がゆっくりと坂道を下ってくる。荷台には木箱や麻袋がいくつか積まれており、長い距離を移動してきたことがわかる。馬車を操っていた中年の男は道の脇で休んでる一行に気がつくと手綱を引いた。
「旅人さんたち、こんなところでどうしたんだい?」
突然声をかけられ、五人は少し驚く。 しばらくしてアンリが口を開いた。
「今、ヴェルナーラを旅していて。ついさっき、セレリス山脈を超えたところだ」
「セレリス山脈を?」
男性は驚いたように目を見開いた。
「この時期にかい?」
その反応に五人は思わず顔を見合わせる。
「……やっぱり、大変な道だったんですね」
クララが苦笑する。
「大変なんてもんじゃないさ。初夏のセレリス山脈は霧が深いからね。慣れている人間でも慎重になる」
男性はそう言って、五人の疲れた様子を見る。 泥のついた靴。長い山道を歩いた跡の残る服。そして、少し疲れの見える表情。
「……もしかして、君たちはモン・ルミエールの方から来たのかい?」
男性の言葉に、五人は少し驚いた。
「どうして分かったんですか?」
カミーユが尋ねると男性は山の方へ視線を向けた。
「ヴェルナーラの中からフリューゲルへ来るなら、わざわざセレリス山脈を越える必要はないんだ。国内からフリューゲルへ向かうなら、エーデルシュタインからアイゼンベルク峠を越えるか、アイスツォプフェンからシュネートイフェル山を越えるか、シュプリューレーゲンからゾンネンメール海を渡るかだしね」
「……なるほど」
アンリは納得したように呟いた。
「俺たちが選んだ道はヴェルナーラ国内の移動としては少し特殊だったんだな」
「そうだね」
男性は頷く。
「もちろん、モン・ルミエールから来るならセレリス山脈が一番近い道ではあるよ。でも、初夏の時期に越える人は多くない」
カミーユは手帳を開き、以前書き留めた地図を確認する。
「確かに……距離だけを見れば、この道が一番短かったんです」
「地図だけだと分かりづらいからね」
ディアナが横から口を挟む。
「山って数字だけじゃ分からないことが多いんだよ。標高とか、霧とか、道の状態とか」
「……身に染みました」
クララが苦笑する。男性はそんな五人の様子を見て笑った。
「まあ、無事に越えられたなら結果的には良かったじゃないか」
そして、五人の足元へ視線を落とす。
「それより、村まで歩くつもりかい?」
「はい、その予定ですが……」
マリーが答える。男性は荷馬車の荷台を振り返った。
「なら、荷物くらい載せていきな」
「え?」
五人は一斉に顔を上げて、首を横に振ったので男性とディアナは大いに笑った。
「そんな勢いで首を振らなくてもいいじゃないか。こっちも村に帰るだけだし、荷箱も全部、空だし、お前さんたちの荷物を運ぶくらい造作でもないさ」
「何日もそんな大荷物を持っていたんだし、少しくらいは休んで行っていいんじゃない?」
五人は顔を見合わせた。断るべきなのか、それとも厚意に甘えるべきなのか。迷っているとカミーユが小さく息を吐いた。
「……マリー様」
「?」
「ここは、お言葉に甘えましょう」
「でも……」
マリーが戸惑ったように言うと、カミーユは優しく微笑んだ。
「助けてくださろうとしている方の気持ちを無下にする方が失礼になることもあります」
その言葉にマリーは少し考え込む。確かに目の前の男性は何かを要求しているわけではない。ただ、疲れた旅人を気遣ってくれているだけだった。
「……ありがとうございます」
マリーは深く頭を下げた。
「お言葉に甘えさせていただきます」
「そうこなくちゃ」
男性は嬉しそうに笑った。
「ほら、荷物を載せてしまおう」
五人が荷物を降ろしている間、ディアナは楽しそうにその様子を眺めていた。
「やっぱり、みんな真面目だね」
「何がですか?」
クララが首を傾げる。
「普通なら疲れていたらすぐお願いすると思うよ。でも君たちは迷惑じゃないかって最初に考えてたから」
ディアナの言葉に五人は少し黙った。
「……敵国なのにこんなに親切にしてもらえるとは思っていませんでした」
クララがぽつりと言う。男性は荷物を受け取りながら、不思議そうな顔をした。
「敵国?」
「……」
クララがしまったという顔をする。すると男性は少しだけ笑った。
「国同士が争っていたとしても、旅人が困っているなら助けるさ」
「……」
マリーはその言葉を静かに聞いていた。モン・ルミエールで聞いていたヴェルナーラ皇国の人々とは少し違って見えた。もちろん、この国の全てを知ったわけではない。けれど、少なくとも今目の前にいる人は、自分たちを恐ろしい敵として見てはいなかった。
「よし、準備できたね」
男性が声をかける。
「アトモスフェーレ村まではもう少しだ。荷物くらいのせていきな」
五人は荷馬車へ荷物をのせに行った。少し前まで霧の中で道すら分からなかった山。その先にあったのは想像していたような冷たい国ではなく、穏やかな人々の暮らす土地だった。




