序章 第3幕:旅立ち 10話
翌朝、宿の窓から差し込む光は柔らかく、山の空気はひんやりとしていた。クララが寝ぼけ眼で起き上がると、すでにマリーとカミーユは支度を整えていた。マリーは荷物の確認をしながら、カミーユは昨日の地図に印を加えている。
「行商人たち、まだこの村に残ってるかな?残ってたら、フリューゲルへの行き方とか聞こうよ」
クララが布団に顔を埋めながら言うと、マリーは窓の外をちらりと見て、首を横に振った。
「……もういないみたい。広場の荷馬車、跡形もないわ」
その言葉にクララは布団の上で小さく呻いた。
「えぇ〜、昨日あんなにいたのに!朝一で出発するなんて聞いてないよ〜」
「行商人たちは次の市へ向かうから、夜市が終わったらすぐ動くのよ。夜明け前には荷をまとめて出るって、宿の人が言ってたわ」
カミーユは地図に印をつけながら、落ち着いた口調で答えた。クララはようやく起き上がり、髪をぐしゃぐしゃにしながら言った。
「じゃあ、村の人に聞くしかないか……。山を下って丘陵地帯を越えるって言ってたけど、分岐が多いってリュカが言ってたし」
マリーは荷物を背負いながら微笑んだ。
「大丈夫。地元の人なら、行商人たちが通る道も知ってるはず。支度ができたら、広場に行ってみよう」
カミーユは手帳を閉じて立ち上がった。
「植物の分布も変わるはずだから、道中の地形も確認しておきたいわ。丘陵地帯は風が強いって話もあるし」
三人は荷を整え、部屋を出た。隣の部屋ではすでにアンリとリュカが支度を終えていて、ロビーで待っていた。リュカは昨日買った本を読んでいて、アンリは地図を手にしている。
「行商人たち、もう出たみたいだな」
アンリが言うと、リュカは頷いた。
「広場に行ってみたけど、馬の蹄の跡だけが残ってた。夜明け前に出たんだろう」
「じゃあ、村の人に聞こう。分岐が多いってことは、間違えると遠回りになる」
アンリは地図を広げながら言った。
五人は宿を出て、静かな広場へ向かった。昨夜の喧騒が嘘のように、朝の空気は澄んでいて、石畳には行商人たちの通った跡が残っている。荷馬車の轍、踏みしめられた土、香辛料の残り香。空は薄曇りで、山の稜線がぼんやりと浮かんでいた。広場の端で掃除をしていた年配の男性に、クララが声をかけた。
「すみません。フリューゲルに行きたいんですけど、どの道を通ればいいですか?」
男性はほうきを止めて、少し考えるように空を見上げた。
「フリューゲルか。なら、あそこにある大木の方に行って、山道を三つ目の分岐まで進みな。そこから西に折れて、丘陵地帯を越えると三日もあれば着く。霧が出る日は峠を越える前に休んだ方がいい」
「ありがとうございます!」
クララが元気よく頭を下げると、男性は「気をつけてな」と笑ってほうきを動かし始めた。
「じゃあ、出発だね!」
クララが声を上げると、マリーとカミーユも頷いた。
「道中でまた情報を拾いましょう。植物の分布も変わるはずです」
カミーユは手帳を抱えながら言った。
「丘陵地帯は風が強いって聞いた。装備の確認も忘れずにな」
リュカが言うと、アンリは最後に一度だけ町を振り返った。
「行商人たちには聞けなかったが、地元の声も悪くない。さて、行こうか」
五人は山道へと足を踏み出した。朝の光が、旅の始まりを静かに照らしていた。背後には夜市の余韻と、香辛料の香りがまだ微かに残っていたが、前方には霧の気配と、未知の丘陵が広がっていた。
クララは一歩踏み出しながら、ぽつりと呟いた。
「三日後にはフリューゲルか……なんか、ほんとに旅してるって感じだね」
マリーは微笑みながら言った。
「うん。昨日までの準備が、今日から現実になる。さあ、行こう」
カミーユは風の向きを確認しながら、静かに頷いた。
「記録の始まりね。最初の一歩は、いつも静か」
リュカとアンリは先頭に立ち、分岐の数を数えながら歩き始めた。山道は緩やかに下り始め、木々の間から差し込む光が、五人の影を長く伸ばしていた。
進む五人の一団の中でリュカだけが視線を足元ではなく、手元の分厚い本に落としていた。革装丁の『ヴェルナーラ皇国史叢書:創世記編』。鞄に入らないその本のページを器用にめくりながら歩いている。
「……危ないなぁ」
前を歩いていたアンリがちらりと振り返って言った。
「本を読みながら山道歩くやつなんて初めて見たぞ。段差に気づかず転ぶかも知れないぞ」
リュカは本から目を離さずに、淡々と答える。
「郷に入れば郷に従えって言うでしょ。ヴェルナーラの文化、モン・ルミエールと違いすぎるんだ。最低限、頭に入れておかないと」
「それはそうだが、準備は座ってやるもんだ」
アンリは肩をすくめながら、呆れたように笑った。
クララが後ろから顔を覗かせて言った。
「リュカって歩きながら読めるのすごいよね。あたしだったら三歩で酔う」
「訓練の成果だよ。あと、文字が大きいから助かってる」
リュカはようやく本を閉じ、周囲を見渡した。けれど、手はしっかりと本を抱えたままだ。
「でも、文化の違いって侮れないですよね」
カミーユが手帳を指でなぞりながら、柔らかく口を開いた。
「例えば、カレンベルク侯爵がおっしゃっていたんですけど、シュプリューレーゲンではペットに水神の化身と同じ名前を付けることが法律で禁じられているそうです」
クララが目を丸くして身を乗り出した。
「えっ、それって罰則とかあるの?」
「ええ。見つかると改名命令が出されて、罰金も課されるそうです」
カミーユは静かに頷いた。
「ただ、さすがに二百年以上前に亡くなられた化身の名前なら公式記録から外れているので使っても問題ないみたいです」
マリーが首を傾げながら言った。
「でも、化身って人でしょ?つまり、普通の人名が禁止されるってこと?」
リュカが本を軽く持ち上げて答えた。
「そう。ヴェルナーラでは神の化身って、神話的な存在じゃなくて神託によって選ばれた実在の人物なんだ。だから、記録に残ってる名前は全部人名。王国の感覚だと、ちょっと混乱するよね」
そのとき、クララがふと思い出したように言った。
「ねえ、昨日“ミルカ”って名前つけたぬいぐるみ、皇国で問題になったりしないよね?水っぽい響きってだけで選んじゃったんだけど……」
カミーユは微笑みながら、手帳を開いて確認するように言った。
「大丈夫だと思いますよ。現在、ペットに名前を付けることが禁止されているのは――ノエル、アルヴィン、イザベル、フリードリヒ、ヘレナ、セバスチャン、フリーデリカ、ヴィルヘルム、アマリア、ガブリエル――この十名です。いずれも、過去二百年以内に水神の化身として神託を受けた方々の名前です」
クララは驚いたように声を上げた。
「十人も!? しかも全部、普通にいそうな名前じゃん!」
「そうなんです。だからこそ、注意が必要なんですよ」
カミーユは落ち着いた口調で続けた。
「子どもに名付ける場合は、信仰的な敬意とみなされて問題になりません。でも、ペットに使うと“神聖な名を軽んじている”と見なされるんです。ぬいぐるみの場合は……微妙ですね。子どもの所有物としての“遊び”の範囲なら黙認されることが多いですが、公共の場で呼びかけたり、名札をつけたりすると注意される可能性もあるって、侯爵がおっしゃっていました」
アンリが前を見据えたまま、ぼそりと呟いた。
「よかったな。旅の始まりで法律違反にならずに済んで」
クララはぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて、ほっとしたように笑った。
「じゃあ“ミルカ”は旅の相棒ってことで、こっそり呼ぶね!」
幕間②に登場した水神さま、本文に登場した10名のうちのどれかと同じお名前です。
というわけで──勝手に開催!「水神さまのお名前、これだと思う!」選手権!
正解しても罰金はありませんので、どうぞご安心を。




