序章 第三幕:旅立ち 第8話 前編
アンリとリュカはマリーたちの姿を探して、歩き始めた。
「あいつら、どこに行ったんだろうな」
アンリがぼそっと呟くとリュカは周りの露店を見まわしながら答えた。
「探しながらちょっと買い物してもいいでしょ?どうせ、あの子たちも色々買ってるだろうし」
そう言ってリュカは香ばしい香りが漂う屋台の前で足を止めた。
「見て、アンリ!これ、おいしそうじゃない?」
炭火の上では肉汁が弾ける音とともにソーセージが焼かれている。その声に、店員がぱっと反応した。頬は赤く染まり、手には黒い瓶が握られている。
「おお、お兄さん、お目が高い!これはフリューゲルで有名な精肉店のソーセージですよ。今日は特別に炭火で豪快に焼いてます!」
リュカが目を輝かせて串を見つめていると、店員は手元の木箱から小さなガラスのコップを取り出した。
「ついでにこれも試してみてください。黒角です。スタウト系の黒ビールで、深い苦みと焙煎麦芽の香ばしさが特徴なんですよ」
瓶から注がれた黒角は泡が静かに立ち上がりながら、漆黒に近い赤褐色を湛えていた。リュカはコップを受け取り、香りを確かめてから一口飲んだ。
「……うわ、香ばしい。これ、ソーセージに合うね」
アンリも黙ってコップを受け取り、口をつけた。
「……強いけど、悪くない」
店員は自分のコップを掲げながら笑った。
「昼間からずっと飲んでるんですけどね、焼きながら飲むのが一番うまいんですよ。火加減も気分も、ちょうどよくなるんです」
リュカは笑いながら焼きたてのソーセージを一本受け取り、隣のアンリにももう一本を手渡した。炭火の香ばしい匂いが風に乗って漂い、串の先からはじりじりと肉汁が滴っている。アンリは無言でそれを受け取りつつ、店先に並んだ黒角の中瓶に目を留める。
「……これ、二本もらう」
そう言って代金を支払い、一本はリュカに渡す。リュカは瓶を受け取りながら少し首をかしげた。
「あれ、アンリってお酒飲んでも大丈夫なの?」
アンリはソーセージを一口かじりながら、淡々と答えた。
「ここは神殿じゃないし、別にいいでしょ」
リュカは笑って頷いた。
「それもそっか」
店員が炭火の煙を仰ぎながら、瓶を片手に指をさした。
「向こうに立ち飲みスペースあるよぉ。風通しもいいし、座らなくても気楽でいいよ」
リュカはソーセージをかじりながら頷いた。
「じゃあ、そっちで一杯やろうか」
アンリも瓶を鞄にしまいかけたそのとき、背後から澄んだ声が響いた。
「二人はここにいたんだね」
二人が振り返ると、マリーが微笑みながら立っていた。その隣にはクララとカミーユ。三人とも胸元にお揃いのペンダントを下げている。透明な樹脂に閉じ込められた押し花はフェアギストマインニヒトでしか見られないという珍しい花。淡い青と白が混ざり合い、月の光を受けてきらりと輝いていた。
「それ、買ったの?」
リュカが目を細めると、クララが嬉しそうに頷いた。
「はい!三人でお揃いにしたんです。お店の人が学問の守り花って呼んでました」
「へえ、似合ってるよ」
リュカが笑うと、カミーユが少し首をかしげながらアンリに目を向けた。
「アンリさん、お酒を飲んでも大丈夫なのですか?」
アンリは瓶を軽く持ち上げて、淡々と答えた。
「聖書に飲んではいけないって記述はないじゃん。適切な量だったら大丈夫でしょ」
その言葉にマリーとカミーユは顔を見合わせた。神殿で過ごした年月の中で酒は“触れてはいけないもの”として扱われてきた。けれど、禁忌ではなく、ただ“避けるべきもの”だったのかもしれない。
「では、お二方が持っているのを一口飲ませてください」
カミーユがそう言うとアンリとリュカが目を合わせてひそひそと話す。そして、しばらくしてからリュカが口を開いた。
「これ、結構度が強いから……お酒初心者には向いてないかも」
そう言って、ソーセージ屋の店員に声をかける。
「すみません、初心者向けでもうちょっと軽いやつってあります?」
店員はすぐに頷き、棚の奥から金色のラベルが貼られた小瓶を取り出した。
「ありますよ。これ、黄金の初風。軽めのラガーで泡も柔らかくて香りも爽やか。アルコール度数も控えめだから、初めての一杯にはちょうどいいです」
リュカは瓶を受け取り、アンリと一緒に試飲用の小さなコップに注いでもらう。泡がふわりと立ち上がり、麦の香りが風に乗って広がった。二人は顔を見合わせ、小瓶を二本分購入した。
「カミーユとマリーの耐性がどれくらいあるかわからないし、少なめにしておこう」
リュカがそう言うと、アンリは無言で頷いた。
立ち飲みスペースに移動した一行は風通しの良い木陰の下で小さな卓を囲んだ。リュカは立ったまま卓に手を添え、黄金の初風の小瓶を手に取ると、静かに栓を抜いた。瓶口から立ち上る麦芽の香りが風に乗ってふわりと広がる。彼はまずマリーの前にコップを置き、瓶を傾けてゆっくりと注いだ。透明感のある金色の液体が泡立ち、柔らかな音を立てる。続いてカミーユのコップにも同じように注ぎ、二人にそっと手渡した。マリーはその様子を見つめながら、少しだけ緊張したように笑った。
「……ほんの少しだけなら、試してみてもいいかもしれません」
カミーユは押し花のペンダントを指でなぞりながら、そっと呟いた。
「香りだけでも、ちょっと楽しみです」
そのやり取りを聞いていたクララは、腕を組んでふくれっ面で言った。
「私はまだ飲めないので見て楽しみます!」
その時、アンリは無言でクララに小さなカップを差し出した。クララは不思議そうにそれを見つめる。中には淡い琥珀色の液体が注がれていて、表面には細かな泡が立っていた。
「なんですか、これ?」
眉をひそめるクララに、アンリは肩をすくめて答えた。
「さっきのソーセージ屋の店員が渡してきた。『風神のそよぎ』っていうモクテルだ」
「モクテル……?」
クララが首をかしげると、アンリは少しだけ声を和らげて説明した。
「お酒の入ってないカクテルのこと。これは強炭酸水にビターオレンジ果汁、少しのレモン果汁を混ぜてる。ミントは飾りだな。作ってるところはちゃんと見てたから、安心していい」
クララはカップを持ち上げ、そっと香りを嗅いだ。
「……なんか、大人っぽい匂いがする」
そして、カップに口をつける。はじめに炭酸の刺激と柑橘の香りがふわっと広がり、しばらくするとビターオレンジの苦みがじんわりと効いてくる。最後に、レモンの酸味が余韻として口の中に残った。
「……苦いけど、爽やか。これ、ちょっと好きかも」
クララの言葉に、リュカが笑いながら反応する。
「じゃあ、お酒飲めるようになったら、いろんなビールに挑戦してみるのもいいかもね。フリューゲルって、ビールの一大産地だからさ。種類も豊富だし、味の幅も広いよ」
クララは目を輝かせながら、もう一口モクテルを飲んだ。
「……絶対、本物も試してみます!」
マリーはコップを両手で包みながら、そっと呟いた。
「外の世界って……思ったより自由なんですね」
その言葉に、アンリは瓶を傾けながら淡々と返す。
「神殿が厳しすぎただけでしょ」
あまりに即答だったのでマリーは思わず吹き出した。
「……それ、言っちゃいます?」
カミーユもくすっと笑い、コップの縁を指でなぞった。
「でも、確かに。外に出てからの方が、呼吸が楽になった気がします」
アンリはソーセージをかじりながら、ぼそっと言った。
「神殿の空気は、重いからな。静かすぎて、逆に疲れる」
リュカは笑いながら瓶を掲げた。
「じゃあ、外の空気に乾杯。自由と、ちょっとの風通しに」
五人のカップが軽く触れ合い、夕暮れの風が吹き抜けていった。




