序章 第3幕:旅立ち 第7話 中編
交わりの市の朝は、静かに始まった。風鈴の音が広場の空気を撫で、石畳に並ぶ荷車が皇国の色と匂いを運んでくる。五人は互いに言葉を交わすことなく、自然と別々の方向へと歩き出していた。
酒瓶がずらりと並ぶ露店の前にクララは足を止めた。木箱に刻まれた銘柄はどれも見慣れないものばかりだが、瓶の形やラベルの筆致から丁寧に醸されたものだとすぐにわかる。実家が酒蔵だった影響で、口にすることはなくとも、酒に関する知識は自然と身についた。
「新酒ですか?」
クララが声をかけると商人は嬉しそうに頷き、一本の瓶を持ち上げた。
「そうそう。フリューゲルの北にあるシュネートイフェル山の湧き水を使ってるんだ。空気が澄んでて、土も柔らかいから、香りがよく立つんだよ」
クララは瓶の底を覗き込みながら、静かに言った。
「水と土が、味になるんですね」
「まさにそれ。昼と夜の気温差もほどよくて、発酵がゆっくり進む。穏やかな土地だからこそ、酒も落ち着いた味になるんだ」
「寒暖差もお酒の味に影響がありますもんね」
「そういうこと。よかったら、一口飲んでみるかい?」
商人が瓶の栓に手をかけながら、軽く笑う。
クララは少し困ったように微笑み、申し訳なさそうに言葉を紡いだ。
「あの……18歳の誕生日は来月なので、まだ飲めないんです」
「あぁ、なるほど。こっちじゃ18歳からなんだね」
商人は栓から手を離し、瓶をそっと戻す。
「こっち……というと?」
クララが首を傾げると、商人は荷車の陰から別の瓶を取り出しながら答えた。
「ヴェルナーラだとね、16歳から麦酒や葡萄酒みたいな度数の低いものは飲めるんだ。18歳になると蒸留酒とか強いのも解禁になる」
「文化の違いなんですね」
クララは興味深そうに頷いた。商人は首肯する。
「そうそう。さらに言うと親が見てたら14歳からでも飲めるようになるんだよ」
クララは驚いたように声をあげると、商人は「まぁ、そんなことは滅多にないけどさ」って笑い飛ばした。
クララは一旦、話題を変えることにする。
「今度、フリューゲルに行くんですけど何か注意することはありますか?」
商人はしばらく悩んでから口を開く。
「今はホルンヤギが育児期間で人の荷物を荒らすんだよ……食べ物が入ってると特に狙われるんだよ……」
クララは思わず笑った。
「それは……旅人泣かせですね」
商人も笑いながら頷いた。
「でも、あのヤギたちが草原を駆ける姿は見ものだよ。穏やかな丘陵地を跳ねる姿はまるで風の精霊みたいでね。フリューゲルは、静かだけど生きてる土地なんだ」
クララはその言葉に、ふと胸の奥が温かくなるのを感じた。
穏やかな自然とそこに根付いた暮らし──それは、彼女がこれから歩む旅路に、静かな期待を添えてくれるようだった。
マリーは金銀細工の露店に足を止めた。繊細な模様が丁寧に彫られていて、モン・ルミエールの工芸品とは違った硬質でありながらどこか温かみのある美しさがあった。 光を受けてきらめく装飾に思わず指先が伸びる。
「これ、どこで作られたものなの?」
マリーが尋ねると、商人は手元の細工を整えながら答えた。
「エーデルシュタインです。鉱山と商業の街でしてね」
その言葉にマリーの目が輝く。
「鉱山って、何が取れるの?」
商人は少し口元を緩めて、淡々と続けた。
「鉄、金、銀、銅──それに、有名どころの宝石ならだいたい取れますよ」
「そんなに……」
マリーは驚いたように息を飲む。だが商人はその反応には構わず、話を続けた。
「山間の地域なので鉄鋼業や非鉄金属業、珠宝産業以外はあまり発展しませんでした。けれど、皇国の中心部に位置している土地柄を活かして交易が盛んになったんです。今では鉱物だけでなく、加工品や工芸品も広く流通しています」
マリーは細工をそっと持ち上げ、光に透かすように眺めた。その模様の奥に、鉱山の深さと街の賑わいが重なって見える気がした。
「……この彫り、硬いのに柔らかい。街の空気が、手に伝わってくるみたい」
商人は少しだけ目を細めて頷いた。
「それが、エーデルシュタインの職人の技です」
「きっと綺麗な街だろうね」
マリーがぽつりと呟くと、商人は少し笑って首を振った。
「綺麗ですよ。建物も装飾も、石畳も。でも、山間部ですからね。街路が複雑で初めて来た人は必ず迷います。地元の案内人を雇うのが一番です」
「迷路みたいってこと?」
「ええ。特にこの時期は観光客が多くて、道が混みますから。祭りの準備も始まってますしね」
「祭り?」
マリーが目を輝かせると、商人は笑みを浮かべた。
「 “辛味チャレンジ”の大会が近づいてるんです。激辛料理を食べきる企画で、屋台がずらっと並びます。辛いものが好きなら、挑戦する価値はありますよ」
その言葉に、マリーはふと記憶の底を探る。写影亭リデルで出会ったイザークがエーデルシュタインは激辛料理が有名だと笑いながら語っていた光景が今になって蘇る。
「イザークさんが言ってた。エーデルシュタインの激辛料理が写影亭リデル本店での記憶に結びついているって」
マリーの言葉に、商人は「あぁ、あの子ね」と頷いた。
「そういえば、リデルの店長が言ってましたよ。イザークくんがモン・ルミエールのお店に移ってから、写影を撮るわけでもないのに彼に会いに来ていた女の子たちがぱったり来なくなって、店の運営がすごく楽になったって」
マリーは思わず吹き出しそうになったが、口元を押さえて笑みをこぼした。
「……そんなに人気だったんですね」
「ええ、あの子は目立つから。顔も写影の技術もどっちも持ち合わせているからクビにしづらいってリデルの店長が嘆いてた」
マリーはその言葉に思わず苦笑した。
アンリは、広場の一角に並べられた大量の陶器製の小瓶に目を奪われ、ふと足を止めた。黒灰色、灰白色、赤褐色、青灰色、深緑色──どれも土の匂いを含んだような、重たく静かな色合いだった。瓶の表面には、王冠と太陽を模した紋様が刻まれている。意味は分からないがどこか力強く、神聖な印象を与えた。
「これ、何すか?」
アンリが思わず声をかけると、商人は待ってましたとばかりに手を伸ばし、アンリの腕を掴んだ。
「ちょっと試してみな!」
そう言うが早いか小瓶の栓を抜き、中身をアンリの腕に乗せる。灰白色のさらさらとした液体は泥とは思えないほど柔らかく、ひんやりと肌に馴染んだ。
「ヒッツシュライアー名物の泥パックだよ。美容にいいって評判でね。これはうちで最大の温泉街で採れる泥を使ってる。硫黄や鉱泉物質がたっぷりなんだ」
アンリは腕に広がる泥の感触を確かめながら、少し戸惑ったように言った。
「男が使ってもいいもんなんですか?」
商人は一瞬きょとんとした後、豪快に笑いながら答えた。
「まぁ、いいんじゃないか?地元の野郎どもも使ってるらしいし」
「温泉街って、どんな感じなんです?」
アンリが興味を示すと、商人は目を細めて語り始めた。
「ヒッツシュライアー最大の温泉街は火山のふもとにあるんだ。露天風呂ばっかりで空が広い。昼は蒸気が立ち込めて幻想的だし、夜は星が湯面に映る。……ただ、夏はやめとけ。暑すぎて溶けるぞ」
「火山のふもとってことは、噴火とか……」
「毎日、小規模なのが起きる。慣れてないとびっくりするけど、現地の人は誰も気にしない。むしろ“今日も元気だな”って笑ってるくらいさ」
アンリは思わず、「慣れって怖い……」と呟いた。
「自然の事だし、慣れる以外土地に適応する方法がないのさ」
商人はハキハキとそう言った。
「ヒッツシュライアーって皇都なんですよね?つまり、火神の化身が皇帝なんですか?」
アンリは前々から抱いていた疑問を、ふと口にした。商人はその言葉にゆっくりと頷いた。
「そうだよ。皇帝は火神の化身とされてる。神話によれば、昔、七神がそれぞれの地を独立して治めていた時代があってね」
商人は小瓶を並べ直しながら、語り口を少し重くした。
「その七神がそれぞれ治めていた地域を一つの国にまとめようとした時、誰を代表にするかで揉めたんだ。そこで水神さまの眷属である水龍が“公平に決めよう”ってくじ引きを提案した」
アンリは思わず「くじ引き?」と聞き返す。商人は笑みを浮かべて続けた。
「そう。神々が順番にくじを引いて、火神が当たりを引いた。だから、火神さまが代表になった──それが、皇帝の始まりだって言われてる」
アンリが目を見開いて「運で決まったんですか?」と驚くと、商人は肩をすくめて笑った。
「そうだよ。神々の話ってのは、案外そんなもんさ」
アンリは、商人が差し出した水で腕の泥を落としながら、火神の話に思いを馳せていた。その時、商人がふと声のトーンを変えた。
「そのくじ引きから、五百年も経たないうちに──火神さまはヒッツシュライアーの統治を人間に任せたんだ。姿を消す直前、『ヒッツシュライアーの民が安全に暮らせるように』って施しを残してくれてね」
そう言いながら商人は漆黒の鉱石をアンリに差し出した。石の表面には赤い亀裂が細く走っていて、まるで内側に炎が潜んでいるようだった。
「不思議な石だな。モン・ルミエールでは見たことがない」
アンリがそう言うと、商人は自慢げに胸を張った。
「これはヒッツシュライアーでしか採れない鉱石、 “フロギストン鉱”って呼ばれてる」
「フロギストン鉱……?」
アンリが聞き返すと、商人は声を潜めて語り始めた。
「フロギストンは火山や温泉の噴気孔から自然に湧き出す、目に見えない“火のエネルギー”さ。魔力が人間の内から湧くものなら、こいつは地そのものから生まれる。まるで火神の息吹みたいなもんだ」
「鉱石になることもあるんですか?」
「稀にな。自然界では液体に紛れてることの方が多い。ヒッツシュライアーで生まれ育った者なら、魔力がなくても扱えるんだ。だから、あの街じゃフロギストンは特別なものってより生活の一部なんだよ」
アンリは目を丸くした。
「生活の一部……?」
商人は頷きながら、露店の奥を指差した。
「暖房、調理、照明──全部フロギストンでまかなってる家もある。工房じゃ加工炉の熱源に使うし、軍では兵器の動力にも応用されてる。火神さまの施しは、今も街の隅々に息づいてるんだ」
アンリは鉱石をそっと手に取り、掌の上で転がした。その重みはただの石とは違っていた。まるで、火神の記憶がそこに宿っているかのようだった。
後編では残りの4地域についての情報が明かされます!お楽しみに!




