序章 第3幕:旅立ち 第3話 後編
右の道は想像以上に険しかった。岩がごろつき、木の根が道を横切り、苔の石段は滑りやすく、何度も足を取られそうになった。それでも一行は、互いに声をかけ合いながら、慎重に歩を進めた。
風は冷たく、木々のざわめきが耳に残る。時折、遠くで何かが動く気配がしたが、誰も口にはしなかった。集中して歩き続けるうちに、空は少しずつ赤みを帯びていった。
そして、日が暮れる直前、木々の間から開けた場所が現れた。岩場の向こうに、セレリス山脈の麓が広がっていた。平坦な地面と、風を遮る岩陰。野営には十分な場所だった。
「ここだな」アンリが荷物を下ろしながら言った。
「風も弱いし、焚き火もできそうだ」
リュカが周囲を見渡しながら頷く。
「魔物の気配は今のところない。夜のうちに動かれると厄介だから、交代で見張りを立てよう」
カミーユは静かにメモ帳をしまい、寝床の準備に取りかかった。クララは落ち葉を集めて、地面に敷き詰める。マリーは火打石を取り出し、焚き火の準備を始めた。やがて、火が灯り、ぱちぱちと小さな音を立てて燃え始める。その光が、皆の顔を柔らかく照らした。
アンリが荷物の中から缶詰を取り出し、手慣れた動作で缶切りを回す。
「さて、今日の晩飯は……鶏肉のトマト煮。ちょっと贅沢だぞ」
カチッ。缶詰が開く音が、静かな空気に響いた瞬間だった。
「……今、何か動いた?」
クララが焚き火の向こうを見つめる。
草むらが揺れ、影が二つ、ゆっくりと現れた。小さな蹄の音。丸く巻いた角。ふわふわとした毛並み。
「ホルンヤギ……?」リュカが目を細める。
現れたのは、ホルンヤギの親子だった。 親ヤギは人間の腰ほどの高さがあり、頭にはホルンのようにくるくると巻いた立派な角が生えていた。白い毛並みはところどころ土で汚れていて、旅の獣らしい風格がある。その瞳は黒く艶やかで、じっとアンリの手元を見つめていた。子ヤギは親よりもひと回り小さく、まだ角は柔らかく短い。好奇心たっぷりに鼻をひくつかせ、ぴょんと跳ねながら焚き火の近くまで寄ってくる。
「……缶詰の匂いに釣られたか」アンリが苦笑する。
マリーがそっと立ち上がり、焚き火のそばに置いておいた干し草を手に取る。
「食べ物は渡せないけど、これなら……」
親ヤギは一瞬警戒したが、マリーの手から草を受け取ると満足げに咀嚼を始めた。 子ヤギも後に続き、草に顔を埋めて小さく鳴いた。
クララが目を輝かせる。
「かわいい……! こんなに近くで見られるなんて」
カミーユは静かにメモを取りながら、微笑む。
「先ほど、ホルンヤギは食べ物の匂いに敏感だと聞いていましたが……本当に来るとは」
焚き火の光が揺れ、ホルンヤギの毛並みを金色に染めていた。ホルンヤギの親子は干し草を食べ終えると、満足げに鼻を鳴らし、草むらの奥へと静かに姿を消していった。その後ろ姿を見送った一行はしばらく焚き火の音に耳を傾けていた。
風が少しだけ冷たくなり、夜の気配が濃くなる。誰からともなく、視線が空へと向けられた。
「……すごい」クララがぽつりと呟いた。
頭上には、雲ひとつない夜空が広がっていた。山の麓で、街の灯りも届かない場所。空気は澄み、星々はまるで手が届きそうなほど鮮明だった。大小さまざまな星が瞬き、天の川のような光の帯が空を横切っている。
アンリが仰向けに寝転がり、腕を枕にして空を見上げる。
「こうやってちゃんと星を見るの、何年ぶりだろうな……」
リュカは静かに星図を取り出し、目を細めながら星の配置を確認していた。
「北の空に見えるのは“天使の翼座”。旅人の道しるべとしてよく使われる。その右下にあるのが“眠れる獅子座”。」
カミーユが焚き火のそばでメモを取りながら、目を細める。
「星座って国によって呼び方も意味も違うんですよね。モン・ルミエールでは“聖女の冠”って呼ばれてる星も、ヴェルナーラでは“聖獣の牙”だったりする」
マリーは焚き火の向こうで静かに座り、空を見上げていた。その瞳は星の輝きを映して、どこか懐かしげだった。
「神殿にいた頃は、夜空を見上げることなんてなかった。祈りの時間はいつも屋内だったから……」
彼女の声は、風に溶けるように静かだった。
クララがそっと隣に座る。
「今はこうしてみんなで見られるね。マリーがいてくれてよかった」
マリーは微笑みながら頷いた。
「うん。ほんとによかった」
焚き火の火は、静かに揺れ続けていた。星々は、誰にも語りかけることなく、ただそこに在り続けていた。その夜空の下で、一行は言葉少なに、けれど確かに、同じ空を見上げていた。




