序章 第三幕:旅立ち 第2話 前編
石造りの屋敷を後にした一行は緩やかな街道を歩き始めていた。砂利道は平坦で両脇には野バラやモーヴが咲き、風が草を撫でていく。遠くには丘陵が連なり、ところどころに白い羊の群れが点在していた。クララが足元の小石を避けながら、ふと声を上げる。
「ねえ、なんだか旅って感じがするね。昨日までの準備が夢みたい」
マリーが微笑みながら頷く。
「うん。空気が違う。香りも、音も、全部が新しい」
アンリは肩にかけたポーチを軽く揺らしながら、少し得意げに言う。
「この道、案外歩きやすいな。靴も馴染んできたし、道の選び方、正解だったかも」
リュカは地図を見ながら、静かに歩調を合わせていた。
「この辺りは標高も低いし、道も整備されてる。ぶどう畑までは特に問題ないはず」
カミーユは皆の様子を見渡しながら、メモ帳に歩行距離と時間を記録していた。
「今のところ、順調ですね。風も穏やかで、天気も安定しています」
道の途中、木陰に差し掛かると、鳥のさえずりが一層鮮やかに響いた。小川が流れる音が遠くから聞こえ、草の間を蝶が舞っていた。クララが立ち止まり、そっと指を伸ばす。
「見て、あの蝶……羽が透けてる」
マリーが隣に立ち、目を細める。
「きれい……。この旅で、どれだけの景色に出会えるんだろうね」
アンリが少し先を歩きながら振り返る。
「景色もいいけど、俺は食べ物が気になるな。ぶどう畑って、どんな匂いがするんだろ」
リュカが笑いながら答える。
「甘い香りがするはずだよ。品種によっては、花の香りに近いものもある」
やがて、道の先にぶどう畑が広がり始めた。緑の葉が風に揺れ、陽光を受けてきらめいている。房のひとつひとつが重たげに実り、甘い香りが空気に満ちていた。
「着いたな」アンリが声を上げる。「ぶどう畑って、こんなに広いんだな」
畑の脇には、小さな石造りの小屋があり、数人の地元の人々が作業をしていた。 一行が挨拶をすると、年配の男性が帽子を外して笑顔を見せた。
「お前さんたちは旅人かい? この時期にセレリス山脈を越えるのは、なかなかの覚悟だね」
アンリが少し胸を張って答える。
「まあ、標高はそんなに高くないって聞いたし、初心者向けって話も……」
その言葉に、地元の人々が顔を見合わせて、苦笑した。
「標高だけ見て安心しちゃいけないよ。シルフィード山は、傾斜が急でね。道も岩が多くて、足元が滑りやすい。苔の石段なんて、雨が降ったら罠みたいなもんさ」
リュカが地図を見直しながら、眉をひそめる。
「噂は本当だったんですね」
別の女性が、ぶどうの籠を抱えながら言った。
「それにホルンヤギが出るよ。あの子たち、人懐っこいけど食べ物の匂いに敏感でね。パンでも干し肉でも、見つけたらすぐ持ってっちゃう。角で突かれることもあるから気をつけて」
クララが目を丸くする。
「ヤギって、そんなに凶暴なの……?」
「凶暴ってほどじゃないけど、食べ物には容赦ないね。あと、魔物も地味に多いよ。派手じゃないけど、夜になると岩陰から出てくるやつがいる。音を立てずに近づいてくるから、焚き火は絶対に消しちゃだめだよ」
カミーユが眉をひそめる。
「そんなに出るんですか?」
地元の男性がぶどうの籠を置きながら、ぽつりと答えた。
「あそこはゼフィロスの領域だからね」
その名を聞いた瞬間、5人は一斉に首を傾げた。
「ゼフィロス……?」
地元の人々が驚いたように顔を上げる。
「知らないのか? ゼフィロスは白い獅子の姿をした大魔獣で、セレリス山脈を拠点にしてるんだ。風を司る聖獣の一体で、フリューゲルの西側を守ってるって言われてる」
マリーが思わず声を上げる。
「大魔獣って……危険じゃないんですか?」
大魔獣――千年以上生きる魔獣で、強大な魔力を持ち、人間では討伐困難な存在。その言葉に、地元の人々は首を振った。
「ゼフィロスは人間の言葉が通じるし、よほどのことがない限り人間に危害は加えないよ。むしろ、セレリス山脈の守り神みたいなもんさ」
リュカが地図を見ながら頷く。
「大魔獣なのに軍に報告がないのは不自然だと思ってたけど……人間に害がないなら、報告されていなくても納得ですね」
「でも、魔力の密度が高くなるのは事実だ。ゼフィロスがいるから、周囲に魔物が集まりやすくなる。理屈としては筋が通ってる」
アンリが小さく頷いた。地元の老人がさらに付け加える。
「ゼフィロスはヴェルナーラの風神と契約を結んでるって言われてる。フリューゲルの西側に暮らす民を守るようにってね。だから、フリューゲルでは『四風聖獣』の一角として、『西風のゼフィロス』って呼ばれてるんだ」
カミーユが静かに尋ねる。
「『四風聖獣』ということは、他にも三体いるんですよね?」
地元の女性が少し考えるように言った。
「フリューゲルから来た旅人が話してたわ。『北風のボレアス』が黒い馬で……あとは……」
「『東風のエウロス』が青い蛇で、『南風のノトス』が赤い鳥だったはず」
別の人が思い出すように言った。クララが不思議そうに首を傾げる。
「ゼフィロスは有名なのに、他の三匹はそんなに知られてないんですね」
地元の男性が肩をすくめる。
「こっちの生活圏で影響があるのはゼフィロスだけだからな。神話に興味がある人は別だけど、普通はそんなもんさ」
マリーがぶどうの葉を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「風の聖獣か……どんな存在なんだろう」
アンリは地元の人からぶどうを受け取りながら、少しだけ顔を引き締める。
「つまり、俺たちは聖獣の領域に足を踏み入れるってことか。魔物だけじゃなく、風にも気を配らないとな」
風がぶどうの葉を揺らし、陽光がその隙間から差し込んだ。その光は、どこか神聖なもののように、静かに彼らの肩を照らしていた。
いよいよ、5人はヴェルナーラ皇国へ向かいます。ヴェルナーラ皇国、特にフリューゲルの情報を散らしていくのでお楽しみに。




