序章:幕間② 水底の対話
シュプリューレーゲンは、ヴェルナーラ皇国の中でも異彩を放つ地だった。その産業力は他の地域はおろか、隣国すら凌ぐほど洗練されており、数多の法律と制度がその土台を支えていた。第一次産業は、肥沃な土壌と豊かな水源を活かした農業と水産業。第二次産業では、水力と水魔力を駆使した紡績、製鉄、ガラス工房が並び、技術と美術が融合していた。第三次産業は、風光明媚な景観を活かした観光業から、港湾物流、法務行政に至るまで、都市機能の隅々にまで秩序が行き渡っていた。
その秩序の中核を担うのがオットー・カレンベルク侯爵の管理する水底都市型牢獄——ヴァッサーボーデンである。海底に築かれたこの施設は、単なる収容所ではない。長年にわたり、地域の治安と経済を支える“要”として機能してきた、生きた都市だった。囚人たちは刑期中、水力や水魔力を活用した工房で作業に従事する。その技術は地域産業と密接に結びつき、刑期を終えた後もこの地に残る者は少なくない。生活空間は整備され、仕事場は合理的に配置されている。看守の中には元囚人も多く、彼らもまた秩序の中で守られ、役割を果たしていた。石と水と魔力で編まれたこの空間は、もはや“牢獄”という言葉では語りきれない。水底に生まれたもう一つの都市——それがヴァッサーボーデンだった。静謐と重厚さが共存するその空気は、外界の喧騒とは隔絶された、独自の呼吸を持っていた。
オットーは牢獄の中層部にある執務室で静かに座っていた。帳簿と書類が整然と並ぶ机の上には水魔力で動く照明が淡く揺れている。窓の外には海中の景色が広がっていた。厚い強化ガラス越しに見えるのはゆらゆらと泳ぐ魚たちと工房の水車が回す泡の軌跡。水圧に軋む音が石壁の奥から微かに響き、海水の香りが湿った空気に溶けていた。
その空気はオットーにとって庭のようなものだった。ダークシルバーの髪が肩にかかり、空色の瞳は静かに書類を見つめている。その容姿はまるで水底に差し込む光のように淡く、冷静な秩序の中に溶け込んでいた。彼の動きは無駄がなく、指先のひとつひとつにまで整然とした美しさが宿っている。秩序と静けさが支配する水底の都市——それが彼の居場所だった。だが、今日は胸の奥にわずかな緊張が張りついていた。
廊下では、囚人や看守たちがざわめき始めていた。
「水神さま……?」
その名が囁かれた瞬間、空気が変わった。作業を中断して息を潜める者、慌てて手元を抑える者、視線を床に落とす者。水力工房の規則的な音がまるで水槽の中に落ちた石のように静かに波紋を広げていく。やがて、上層部から階段を下りる足音が聞こえてきた。こつ、こつ、と石を打つ音は静かだが、確かな存在感を持っていた。その足音は、水圧に押された空間を切り裂くように、執務室へと近づいてくる。
ドアがノックされ、オットーは立ち上がる。扉を開けると、そこに立っていたのは水神さまだった。藍色の髪は水の流れのように整えられ、桜色と翡翠色の瞳が、呆れたようにオットーを見つめていた。
「……ご足労いただき、恐縮です」
オットーは静かに頭を下げ、水神さまを執務室へと招き入れる。水神さまは眉をひそめながら、水色の紙袋を軽く持ち上げた。
「本当にそうだよ、侯爵。僕を呼びつける人間なんて、君くらいだ。しかも面会予約は一週間前までって決まってるのに、君がそのルールを破るなんて……言語道断だよ」
「……申し訳ございません」
オットーは苦笑しながら、紅茶を淹れ始める。
湯気が立ちのぼり、海水の香りに紅茶の香りが混ざる。その香りは、まるで水槽の中に差し込む午後の光のように、静かに空間を満たしていく。
「ですが、貴殿にしか頼めない案件です。せめて、紅茶くらいは誠意を込めて」
「誠意ねぇ……」
水神さまは椅子に腰を下ろし、紙袋の口を開ける。中には、ふっくらと焼き上がったスコーンが三つ。その焼き色は、海底の光に照らされて、どこか柔らかく見えた。
「部下たちが紅茶に合うって言うから、試しに買ってみたんだ。君がいつも紅茶を用意してくれるから、何か添えた方が礼儀かなと思ってね」
「それはありがたい。では、皿を」
オットーはスコーンを丁寧に並べ、ジャムとクロテッドクリームを添えた小皿を出す。ふたりはそれぞれスコーンを手に取り、無言で割る。水神さまは、まずクリームを塗り始めた。
「……先にクリームですか?」
オットーが眉をひそめる。
「そうだよ。クリームがベースで、ジャムはアクセント。君は違うの?」
「ジャムが先です。クリームが溶けなくて済みますから。順番ってのは理にかなってるんですよ。」
水神さまは涼しい顔でスコーンを口に運ぶ。
「君、牢獄の管理人なのに、スコーンの構造まで語るの?」
「俺は合理主義者なんです。食べ方にも秩序がありますから」
水神さまはくすりと笑い、スコーンをもう一口。
「……君って、ほんとに面倒くさい。でも、そういうところがカミーユ嬢には刺さるんだろうね」
オットーはスコーンをかじりながら、少しだけ顔を赤らめた。
「……うるさいです」
水神さまは満足げに紅茶を一口飲み、ふと目を細めた。
「……この紅茶、珍しい味だね。どこの茶葉?」
オットーは少しだけ躊躇してから、答えた。
「モン・ルミエールの茶葉です。カミーユが……くれたもので」
水神さまは一瞬沈黙し、それから口元に笑みを浮かべた。
「へえ。大好きな子にプレゼントされたものを僕に分けるなんてね。ずいぶん気前がいいじゃないか」
その声はどこか楽しげで、しかし芯を突くような鋭さを含んでいた。オットーは一瞬、言葉に詰まる。だがすぐに、表情を整えて言い訳を口にする。
「……カミーユが、友人と一緒に飲んでほしいって言うので」
水神はグラスの縁に指を滑らせながら、くすりと笑った。
「ふうん。昔は他人のお願いなんて、めったに聞かなかったじゃないか。君がそんなふうに動くなんて、珍しいね」
その言葉にオットーの胸の奥で何かが軋んだ。かつての自分なら、確かにそうだった。誰かの願いに耳を傾けることなど、ほとんどなかった。だが今は——。
「……状況が違うから」
そう言うのが精一杯だった。水神はその言葉に、少しだけ目を細める。
「状況か。君の“状況”は、ずいぶん感情に左右されるようになったみたいだね」
モン・ルミエール王国はヴェルナーラ皇国の文化と宗教を「歪んだもの」と断じた。古くから続く神々の祭礼、土地に根ざした言葉、静かな祈りの形——それらすべてを否定し、正すべき対象として軍を進めた。信仰の名のもとに掲げられた旗は皇国の西部を焼き、民の暮らしを踏みにじった。
それでも、ヴェルナーラ皇国はモン・ルミエールの文化を否定しなかった。異なる価値観を受け入れる余地を持ち、争いよりも共存を選ぼうとしていた。だが、剣を抜かれてしまえば、盾を構えるしかない。侵攻だけは決して許されるものではなかった。
戦の終息を願う声が高まり、和平の象徴として5年前に持ち上がったのが神託による婚約だった。先代の水神さまが告げたという二人の名——カミーユ・ドゥ・ボンパドゥールとオットー・カレンベルク。それは、神意という名の都合の良い口実だった。王国も皇国も神託にすがり、二人を政治の駒として並べた。
だが、その婚約も和平も、結局は形だけだった。先日、モン・ルミエール王国はフリューゲルに、再び軍を差し向けた。婚約の意味は失われ、神意は踏みにじられた。それでも、誰も口にはしない。ただ、沈黙の中で誰かがその矛盾を抱え続けている。
今代の水神さまは、その婚約に何一つ関わっていない。ただ、先代の神意がもたらした波紋を静かに見つめている。神の化身でありながら、神託の外に立つ存在。そのまなざしは時に人間よりも人間らしく、時に神よりも冷ややかだった。
「君はただ、先代に利用されただけでしょ」
水神さまは紅茶のカップを指先で回しながら言った。その声には同情も怒りもない。ただ、事実をなぞるような静けさがあった。
「君の婚約が決まったころ、君は爵位をいただいたばっかりだった。先代は昔ながらの貴族たちが嫌がることを君に押し付けただけだよ。神託という名の盾を使ってね」
オットーは、少しだけ目を伏せた。その言葉が間違っていないことは、誰よりも自分が知っている。それでも、否定することはできなかった。
「……そうですけど、個人的にも情はありますし」
声は低く、しかし確かに響いた。それは言い訳ではなく、誰にも渡せない感情の輪郭だった。押し付けられた役割の中で芽生えたもの——それを、誰かに否定されることだけは許せなかった。
水神さまは、紅茶のカップを口元に運びかけたまま、ふと動きを止めた。驚いたように目を見開き、ぽつりと呟く。
「……あの噂って、本当だったんだ」
オットーの眉がぴくりと動いた。沈黙のまま視線を向けるが、その目には明らかな警戒が宿っていた。
「……あの噂って、何ですか?」
声には怒気が滲んでいた。問いかけというより、詰問に近い響きだった。水神さまは、肩をすくめて笑った。その仕草は軽やかだが、どこか懐かしさを帯びている。
「君がボンパドゥール伯爵令嬢に一目ぼれして、恋に落ちたって噂。彼女と出会ってから、一度も夜遊びしなくなったって——先生たちが面白がって言ってたよ」
オットーはわずかに目をそらした。その動きは無意識のようでいて、否定の言葉を探しているようでもあった。指先がグラスの縁をなぞる。何かを振り払うように。
「その頃の僕は、ただの子どもでね。あいつらのことなんて大嫌いだったけど——この噂だけは妙に面白くて、ずっと頭に残ってたんだ」
水神さまの声は遠くを見ているようだった。紅茶の香りが静かに漂う中、オットーは唇を引き結び、何も言わなかった。その沈黙が、何より雄弁だった。
「で、本題は?」
水神さまは紅茶のカップを静かに置き、オットーをまっすぐ見つめた。その瞳には、有無を言わせぬ静かな圧が宿っている。水底の揺らぎの中で、その視線だけが揺るがなかった。
「わざわざ前日に面会をねじ込んで呼びつけるなんて、それなりの理由があるんでしょう?」
オットーは一瞬だけ視線を逸らし、咳払いをしてから口を開く。
「……カミーユ関連のことで」
「君の惚気話に付き合うほど、僕は暇じゃない」
水神さまの声は、絶対零度のように冷たかった。オットーは慌てて手を振る。
「違います。そういう話ではなくて。先日、カミーユから手紙が届きました。ご友人と一緒にヴェルナーラ皇国全土を巡る旅に出るそうです。皇国に関する情報を教えてほしいと」
水神さまは少しだけ眉を上げ、紅茶に口をつけた。
「ヴェルナーラ全土を?……ずいぶんと大胆な旅だね。彼女、そんなに行動派だったっけ?」
「いえ、今回は事情がありまして。彼女が仕えていた聖女様が国外追放されて、その方に同行する形での旅です」
水神さまは紅茶のカップを傾けかけて、ふと手を止めた。
「……あぁ、あれか。ベアト兄さんの加護がどうこうって話、聞いたよ。聖女に加護がついた途端、王国側が騒ぎ出して……」
「ええ。風神さまが加護を与えたことが、追放の引き金になったようです」
水神さまは小さくため息をついた。
「冒険に行くなら、あそこに入っておいた方がいい。探検家組合。さすが、エーデルシュタイン発祥の組織って感じで、制度も装備も充実してる。情報網も広いし、旅の名目を“文化調査”にすれば、表向きも穏やかに見える」
「そうですね。僕もそう思って、加入を勧めました」
水神さまは紅茶に口をつけながら、ふと目を細めた。
「でも……ボンパドゥール伯爵令嬢って、モン・ルミエールの人でしょ? しかも、実家はモン・ルミエールのお偉いさん。めちゃくちゃ騒ぎそうな気がする」
「はい。だからこそ、探検家組合の名義で動く方が安全かと」
「なるほどね……で、どうせまた僕に文句を言いに来るんだろうね。風神の件なのに、なぜか水神のところに。シュプリューレーゲンに言えば何とかなると思ってる人、多いから」
「……すみません」
「いや、君のせいじゃない。書類くらいなら出すよ。六枚でいいんだね?」
「はい、同行者の分と予備込みで」
「了解。……でもまあ、面倒ごとになるな、これは」
水神さまはぼやきながらも、静かに了承した。その声は、海底の水流のように淡々としていたが、どこか遠くを見ているようでもあった。
「それと、カミーユにこちらを送りたいので中身の確認をお願いします」
水神さまは封筒を受け取り、怪訝そうに見つめる。
「……なんで僕が確認するのさ」
そう言いながらも、しぶしぶ封を開ける。中には、丁寧に折りたたまれた手紙、柑橘の爽やかな香りのサシェ、小ぶりなメモ帳、そして水神御用達の工房で作られたペンダントの入った箱が収められていた。
「なるほどねぇ……ペンダントには僕の印が必要だね。今、印籠が手元にないから、後で押しておくよ」
「ありがとうございます」
水神さまはペンダントの箱を指さし、少しだけ好奇心を滲ませた瞳で尋ねる。
「ちなみに、これ……いくらしたの?」
「青紙幣三枚分ですね」
「まあ、その工房のものを国外に出すなら、それくらいは妥当かもね」
──ヴェルナーラ皇国では、独自の通貨制度が導入されている。
世界一般の通貨体系では、銅貨十枚で銀貨一枚、銀貨十枚で金貨一枚というのが常識だが、この国では事情が少し異なる。庶民でも金貨十枚以上を日常的に持ち歩くため、携帯性と管理の効率を考慮して紙幣が普及しているのだ。
金貨十枚で緑紙幣一枚。
緑紙幣五枚で赤紙幣一枚。
そして赤紙幣二枚で青紙幣一枚──それがヴェルナーラの通貨体系である。
つまり、青紙幣三枚分のペンダントは金貨三百枚に相当する。
その価値は贈り物としては破格であり、想いの深さを静かに物語っていた。
水神さまはペンダントの箱をそっと閉じ、紅茶をもう一口飲んだ。
「……君って、ほんとに手間のかかる人だね。でも、まあ……嫌いじゃないよ」
オットーは少しだけ目を伏せ、紅茶の湯気を見つめた。
その胸の奥に、カミーユの旅路を静かに見守る決意が、確かに灯っていた。
水神さまはふと、窓の外に目をやる。魚たちがゆらりゆらりと海中を泳いでいる。水圧に揺れる光が、執務室の壁に淡く反射していた。
「そうだ、この封筒……フリーデに持たせておくよ」
水神さまは、何気ない口調で言った。
「ちょうど儀式も終わる頃だって言ってたし、これくらいのおつかいをさせてもいいでしょ」
オットーは、思わず眉をひそめる。
「……フリーデさまって、今ヴェルナーラ中の神殿を巡ってる最中じゃ……?」
その声には、明らかな困惑が滲んでいた。
フリーデ・ヴァレンハイン──今代の夏の神の化身。季節の顕現を司る存在が今まさに各地の神殿を巡って夏の儀式を完遂しようとしている。そんな神格に封筒ひとつ持たせるなんて。
水神さまは肩をすくめて笑った。その笑みは海中に差し込む光のように無邪気で、しかし底知れなかった。
「神様って案外器用なんだよ。人間が思ってるより、ずっとね。儀式の合間にちょっと寄り道するくらい、どうってことないさ」
その言葉に、オットーは言葉を飲み込む。神々の尺度は、人間の常識とはまるで違う。水底の都市に生きる者として、彼はそれを誰よりも理解していた。
「……では、よろしくお願いします。フリーデさまにも、くれぐれもご無理のないように」
「うん。伝えておくよ。あの子、意外とこういうの好きだから」
水神さまは紅茶の最後の一口を飲み干し、静かにカップを置いた。その仕草は、まるで季節の終わりを告げる風のように静かで、確かなものだった。
窓の外では、海流がゆるやかに揺れていた。魚たちがその流れに身を任せ、光の粒が石壁に反射する。水底の牢獄は、今日も静かに息づいている。だがその静けさの奥で、神々の気配が、確かに動き始めていた。
カレンベルク侯爵と水神さまこと水神の化身による手紙と贈り物、そしてビザ書類の裏話。カミーユとカレンベルク侯爵の婚姻に潜む“神託”と“情”の交錯にも、そっと触れました。
ちなみに銅貨1枚が現実世界で100円くらいで換算しています。




