序章 第二幕:作戦会議 第4話 後編
しばらくして、リビングの扉が、控えめに二度、トン……トン……と叩かれた。 音は小さかったが、確かに空気を揺らした。カミーユが読んでいた本から顔を上げ、静かに立ち上がる。他の四人はそれぞれの時間に沈んでいて、誰も動こうとしなかった。
「みなさま、ヴェルナーラ皇国から使者の方がいらっしゃいましたよ」
扉を開けると、別荘の使用人が部屋の前に立っていた。カミーユが「今、行くわ」
と言いながら部屋を出ていくと、使用人が彼女の後についていく。カミーユが門に近づくにつれて、別荘に着いた時には感じなかった夏の香りを感じた。
門を開けるとそこには小柄な少女が立っていた。右目がふわりと隠れるほど長い外巻きの胡桃色の髪。水色のミニハットには月下美人の花が一輪、静かに咲いていた。その姿は月光に照らされた水面に咲く幻の花のようだった。彼女の背後には同じく水色の衣をまとった人々が数人、控えていた。年齢も性別もばらばらで、誰もが静かに立ち、彼女を囲むようにしていた。神事の随行者というより、夏の気配を運ぶお付きたち。誰も言葉を発さず、ただ空気の一部のようにそこにいた。
「ヴェルナーラのなつのかみさまの…… フリーデ・ヴァレンハインです。かれんべるく……さまからのお……をカミーユさまにお届けに……ました。」
カミーユは一瞬、黙り込んだ。王国語と皇国語は語源が同じ。文法も語彙も、基本的には似通っている。だから、少し話すくらいなら問題ない──そう思っていた。けれど、フリーデの話し方は、予想していた“皇国語”とはまるで違っていた。語尾が跳ね、母音が伸びる。言葉のリズムは、まるで水面に落ちた小石の波紋のようだった。
「……えっと……ごめんなさい、ちょっと……」
カミーユは眉をひそめ、そっと控えていた使用人に声をかけた。
「アンリを呼んできて。……できれば、急ぎで」
使用人は一礼し、屋敷の方へと走っていった。その足音が石畳に吸い込まれていく。
フリーデは帽子のつばを指先で整えながら、少しだけ不安そうに目を伏せた。背後には、お付きの人々が静かに控えている。誰も言葉を発さず、ただ空気の一部のようにそこにいた。
数分後、屋敷の玄関からアンリが姿を現した。白いシャツの袖をまくりながら、ゆっくりと門へと歩いてくる。
「どうしたんだよ」
アンリは気だるそうにカミーユに聞く。カミーユは小さい声でアンリに事情を話す。
「モン・ルミエール語とヴェルナーラ語って似てるって聞いたからもしかしたら、聞き取れるって思ったんですけど、全然わからなくて。お願い、アンリ、彼女とやりとりしてくれる?」
アンリは肩をすくめ、小さく息を吐くとフリーデの方へ向き直った。
「わざわざ遠くからありがとうございます」
「いいえ、あの、神事のついでに水神さまにお使いを頼まれて」
アンリは彼女の話し方に耳を澄ませながら、自然と笑みを浮かべた。その笑みは誰かに見せるためのものではなく、音の記憶に身を委ねるような、ひとりだけの余韻だった。フリーデが一音、一音、発するたびにアンリの笑みは少しずつ深まっていく。
その様子を見ていたカミーユは、ふと首を傾げる。
「……アンリさんがこんなに笑ってるの、珍しいな」
彼女の声は小さく、誰にも聞こえないように呟かれた。アンリは何も答えず、ただフリーデの言葉に耳を傾け続けていた。まるで、彼女の声そのものが泉のさざめきであるかのように。
カミーユはその横顔を見つめながら、なんとなく納得できないまま、けれど問い詰めるほどでもないと感じていた。ただ、妙にニコニコしているアンリが、少しだけ気になる。
「では、また会えることを祈っています」
アンリがそういうとフリーデはお辞儀をして、門から離れていく。その姿はまるで静かな水面に跳ねた一滴のように、しばらくその場に余韻を残していた。お付きの人たちはそんな彼女の後ろについていく。
フリーデの姿が門の向こうに完全に消えると、アンリは小さな声でぽつりと呟いた。
「……カナールムントって、本当にあったんだな。しかも、あんなにかわいいなんて」
「カナールムント……?」
カミーユは思わず聞き返す。
さっき、皇国では地域ごとに訛りがあるという話をしていた。けれど、その名前は出てこなかったはずだ。
アンリは、まだ耳に残る声の余韻を追うように目を細めた。
「さっき、フリーデさまに聞いたんだ。『カナールムントだよ』って言ってた。水神さまには“かわいい”って言われるけど、本人はちょっと恥ずかしいらしいよ」
カミーユは「へえ……」と呟きながら、フリーデの話し方を思い返す。 言葉の意味は分からなかったが、彼女は若干恥じらいながらしゃべっていたような気がする。
アンリは、少し興奮気味に続けた。
「カナールムントっていうのは、シュプリューレーゲンの運河沿い──船頭とか水上商人の人たちがよく使う話し方。抑揚が豊かで、語尾がふわりと跳ねる。まるで歌うようなリズムで、地元では“かわいい訛り”として親しまれていた。でも、今じゃもうほとんど使われてなくて、この前、シュプリューレーゲンから来た使節の人たちも“絶滅寸前”って言ってた。 だから、こうして本物を聞けたのが、すごく嬉しい」
その声を聞けたことが、アンリにとっては宝物のようだった。それはまるで、忘れかけていた楽譜の一節が、風に乗って耳元に舞い戻ってきたような──そんな、静かな奇跡だった。




