序章 第一幕: 見捨てられた聖女 第2話 前編
第2話は前編、中編、後編の3部に分かれています。
マリーが焚火のある方向へ向かって丘を上っていくと、天籟騎士団の目印である青緑色の旗が風に揺れているのが見えた。
その色は森の中に溶け込むように馴染んでいたが、確かに敵の存在を告げていた。飢えで霞んだ視界の中でも、マリーは事の重大さに気づいた。
――やられる。
反射的に足が止まり、次の瞬間には来た道を引き返そうとしていた。死にかけているとはいえ、敵地に自ら飛び込むほど理性は失っていない。それだけは、まだ残っていた。
「……逃げるほどのことでもないさ」
背後から静かな声が届いた。マリーは反射的に振り返る。焚火のそばに、一人の女騎士が立っていた。天籟騎士団の青緑の旗が、彼女の背後で風に揺れている。剣は抜かれていない。鎧の隙間から覗く手が、何かを差し出していた。よく見ると、それは水筒だった。
「あんた、モン・ルビエールの聖女様だろ? 髪も泥にまみれてるし、頬もこけてるけど……新聞で見た顔と同じだ」
女騎士は一歩も動かず、焚火の光の中でマリーを見つめていた。
「こんなところでどうした? 聖女様なら、護衛の一人くらいはいるもんだと思ってたけど」
マリーは言葉を返せなかった。喉が張りついている。それは飢えのせいか、恐怖のせいか、それとも――自分でもわからなかった。
女騎士はそっとマリーに近づき、水筒を彼女の手に置いた。
「とりあえず、水を飲もう」
その声には、命令でも侮辱でもない、ただの人間の声が宿っていた。
マリーは一歩、足を前に出した。それは信仰でも使命でもない。ただ、喉の渇きに従っただけだった。
力の入らない腕で水筒を受け取り、蓋を開けようとしたが、指先が震えてうまくいかない。それを見た女騎士が、無言で蓋を開けてくれた。
マリーはありがたく水筒を受け取り、喉の渇きを癒した。ただの水が、まるで神様からの慈悲のように感じられた。




