序章 幕間①:風が告げる始まり
風は、すべてを見ていた。誰も気づかなかった瞬間に、誰も耳を傾けなかった声に、誰も触れようとしなかった魂に。
風は、ただ静かに、確かに、そこにいた。目を持たぬ風は、見る。耳を持たぬ風は、聴く。手を持たぬ風は、触れる。それは、誰よりも深く、誰よりも優しく、世界の隙間を漂いながら、真実を拾い集めていた。
マリー・スビルーがまだ「モン・ルミエール王国の聖女」と呼ばれていた頃。神殿の奥で、戦場で、祈りを捧げる彼女の声は、空に吸い込まれるばかりだった。誰もその声を聞こうとしなかった。誰もその瞳の奥に宿る決意を見ていなかった。彼女の祈りは、儀式ではなかった。 それは、誰かの痛みを知り、誰かの孤独に寄り添い、誰かの命を願う、切実な祈りだった。けれど、その祈りは、誰にも届かなかった。それでも、彼女は祈った。誰かのために。誰かに届いてほしいと。
風神の化身――クールベアト・フォン・ルフトクリンゲは、その祈りに触れた。 風は形を持たない。だが、意志を持つ者の心に、そっと入り込み、寄り添う。
マリーの魂には、静かな誇りがあった。 誰にも汚されぬ意志。誰にも屈しない優しさ。それは、風を呼ぶ者の資質だった。だから、クールベアトは加護を与えた。迷いはなかった。むしろ、遅すぎたとさえ思った。
だが、その加護が与えられたことが、すべての始まりだった。モン・ルミエールの神殿はざわめいた。
「他国の神が加護を与えた? それは問題だ」
「外交上、配慮が足りないのでは?」
「うちの聖女様に、余計なことをするとは」
風はそれを運びながら、冷たく笑った。崇めるべき聖女を、あんな扱いにしておいて。誰も手を差し伸べず、誰も彼女の声を聞こうとしなかったくせに。他人の加護が入った途端、慌てて騒ぎ出すとは、なんと浅ましい。
そして、彼女の追放が決まった。 理由は曖昧で、言葉は飾られていた。
「聖女としての資質に疑問がある」
「国際関係の均衡を乱す恐れがある」
「民の信仰を守るための措置だ」
風は知っていた。それは、加護への恐れと無理解の産物だった。
神々の化身たちは、それぞれのやり方で反応した。
土神の化身は沈黙のまま。その沈黙は、地の奥深くに根を張るような重さを持っていた。だが、その沈黙の中には、揺るがぬ肯定があった。
「君が選んだのなら、それは、俺も受け入れるべきものだ」
そう語らぬまま、ただ沈黙で示した。
雷神の化身は遠くで夏の雷鳴のように笑い、「面白くなってきたわ」とニヤリとしながら言った。その声は、嵐の予兆のように、世界の端を震わせた。
火神の化身は興味深げに目を細め、炎の揺らぎの中で、何かを見定めようとしていた。
「炎は揺らいでいるわ。あの子の祈りが、燃えるか、灰になるか――まだ定まっていないのよ」
その声は、焔の奥底に潜む意志のように、静かに世界を焦がしていた。
水神の化身は静かに眉をひそめ、息を吐いた。
「さて、何もしていない僕が責められるまで、あとどれくらいだろうね」
その言葉には、皮肉と、深い諦念が混じっていた。
花神の化身は無邪気に笑った。
「ねえねえ、あの子、すごく面白いね! 兄さまに選ばれるなんて、どんな気持ちなんだろう?次はどうするのかな?」
その笑顔の奥には、予測不能な好奇心が渦巻いていた。
氷神の化身は静かに目を伏せ、祈るようにそっと息を吐いた。
「どうか、彼女が孤独の中で凍えませんように」
その祈りは、誰にも聞かれず、しかし確かに、彼に届いた。
誰も、口を出さなかった。それが、神々の矜持だった。人間の世界に多く干渉することは、彼らの本分ではない。
だが、風は語る。この加護が、やがて何を揺るがすのか。それは、まだ誰にもわからない。ただ一つ確かなのは、マリーは、風に選ばれた者だということ。そして、風は静かに、確かに選ばれた者の背を押す。それは、世界が少しだけ傾いた瞬間だった。
風は、彼女の旅路を見守っている。誰にも見えない場所から、誰にも聞こえない声で。風が吹く先に、何が待っているのか、それを知る者は、まだいない。
けれど、風は止まらない。
風は変化を運ぶものだから。
風は革命の予兆だから。
風は誰かの祈りに応えるために今日も世界を巡る。




