序章 第一幕: 見捨てられた聖女 第1話 後編
戦場に吹き荒れた風は、祈祷所の扉を軋ませ、片方の蝶番が外れていた。木片が床に散らばり、聖歌の余韻も、兵の叫びも、今はもうどこにもなかった。空気は冷たく、灰と血の匂いが混じり合って鼻を刺す。祈祷所の中は薄暗く、壁に掛けられた聖像の金箔が、夕暮れの光に鈍く光っていた。
マリーは祈りの姿勢のまま、石床に膝をついていた。指先は冷え、唇は祈りの言葉を忘れたように閉ざされている。そして、ふと気づいた。
ーー誰もいない。
祈祷所の外も、戦場も、焚火の跡も、すべてが静まり返っていた。風が吹き抜ける音だけが、遠くで草を揺らしていた。
彼女はゆっくりと立ち上がった。その動作だけで、膝が震え、背筋が軋んだ。祈祷を始める前は、さらさらと風に舞い、美しく輝く金糸のようだった髪は、今や泥と汗にまみれ、額に張りついていた。白い法衣は裾が裂け、血と土に染まっている。肌は青ざめ、頬はこけ、唇は乾いてひび割れていた。視界は霞み、空腹が鋭い痛みとなって腹を刺す。
最後に口にしたのはいつだったか。断食を命じられ、戦の混乱で水も与えられなかった。祈りのために捧げた身体は、今や生きるために悲鳴を上げていた。
「……食べ物」
思わず漏れた言葉は、あまりにも俗っぽく、祈祷所の空気には似つかわしくなかった。けれど今の彼女は、神にも仲間にも見捨てられた、ただの十九歳の少女だった。
マリーは祈祷所を出た。外の空は、戦の煙に覆われて鈍い赤に染まっていた。地面には焼け焦げた草が広がり、ところどころに兵士の亡骸が転がっている。風が吹くたび、鎧の金属がかすかに鳴り、死者の手が揺れた。
彼女は腐臭に耐えながら、兵士の服を漁った。指先は震え、目は乾いて痛む。だが、いくら探しても食べ物は見つからず、飢えを凌ぐことはできなかった。
乾ききった唇を噛みながら、彼女は歩き続けた。足は棒のように重く、歩くたびに膝が悲鳴を上げる。それでも、彼女の頭にあるのはただ一つ――食べ物。それは祈りでも使命でもなく、生きるための本能だった。
やがて、頬に一筋の涙が伝った。それは屈辱ではない。生きることへの、祈りだった。
そのとき、再び風が吹いた。どこからともなく、パンを焼くような香ばしい匂いが漂ってくる。マリーは顔を上げ、匂いのする方角を見つめた。虚ろな青い瞳に、遠くの焚火の明かりがちらちらと揺れていた。
彼女は、そこへ向かって歩き始める。足はすでに限界を超えていたが、空腹に突き動かされるように、ただ前へ。そのときの彼女はまだ知らなかった。その焚火の向こうが、敵の野営地であることを――。
1話はここまで。2話をお楽しみに。




